コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

気賀関所(静岡県浜松市)

2012-03-29 12:01:10 | 建築物(洋館以外)

 平成24年3月16日 静岡県

気賀関所

静岡県浜松市北区細江町気賀

気賀の関所は、本坂道を監視するために慶長6年(1601)に徳川幕府によって設けられ、箱根、今切(新居)の関所とともに江戸に対する重要拠点となりました。慶長10年(1605)には気賀の町が大火に見舞われ、町並みはほとんど消失しましたが、関所は被災を免れました。このような状況から、関所では何度も茅葺の屋根を瓦葺に改装する願いを出しましたが、「権現様(家康)のとき茅葺であった」という理由で却下され続けました。その後実に100年以上経ってから瓦葺となり、幾つかの大災害をくぐり抜けて、規模と構造はほぼそのままに明治時代まで残りました。明治2年(1869)の関所廃止令により、気賀の関所もその長い歴史の幕を閉じました。

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浜松城2012(100名城)~静岡県浜松市中区

2012-03-27 17:08:57 | 100名城

平成24年3月16日 静岡県

浜松城 100名城

静岡県浜松市中区 

永禄11年(1568)、三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康。家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目しました。天下を盗るためには、まず信玄を倒さなければならないと判断した家康は、元亀元年(1570)、岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城、駿遠経営の拠点としました。
三方ヶ原の合戦は、元亀3年(1572)、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦と言われています。武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らず。これでは勝負にならないと兜を脱いだ家康は、家臣に化けて命からがら浜松城に逃げ帰ったのでした。

 

 

 浜松城の石垣:野面積み(のづらづみ)

自然石をそのまま積み上げる方法である。加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていない。そのため隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点があったが排水性に優れており頑丈である。技術的に初期の石積法で、鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは16世紀の戦国時代のことである。野面積みの一種として穴太積み(あのうづみ)があげられるが、穴太積みは穴太衆が手掛けた石垣であって、特に野面積みの一種をいうものではないという。

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航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)

2012-03-27 09:23:20 | 博物館・資料館等

平成24年3月16日

航空自衛隊浜松広報館

静岡県浜松市西区西山町

航空自衛隊浜松基地内の一角にある、航空自衛隊を国民により多く理解させる為に、1999年4月にオープンした戦闘機、練習機、ヘリコプターや装備品等の展示をはじめ、操縦体験シミュレーターや、全天周シアター等を設置するなど、見て・触れて・楽しむ事の出来る航空自衛隊初の博物館形式の施設である。愛称はエアーパーク。 (Wikipedia)

 

▲ F-86F ブルーインパルス使用メンテナンス中でした。 

▲ 地対空誘導弾ナイキJ 

      

  ▲T2超音速高等練習機 

▲ F-104J戦闘機 

▲零式艦上戦闘機 

 

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掛川城(100名城)~静岡県掛川市

2012-03-26 18:55:11 | 100名城

平成24年3月15日 静岡県

掛川城 100名城

静岡県掛川市掛川

室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが掛川城のはじまりです。戦国時代には、山内一豊が城主として10年間在城。働き盛りの一豊は大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設すると共に、城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注ぎました。掛川は、一豊の人生にとって大きな意味をもつ土地であり、高知城は掛川城を模して作られたとも伝えられています。現在の掛川城は、平成6年4月に「東海の名城」と呼ばれた美しさそのままに、日本初の本格木造天守閣として復元されたものです。(掛川観光協会HPより)

  

 

▼ 掛川城御殿 重要文化財

掛川城御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の 政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせ持った施設です。掛川城御殿 は二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿しては、京都 二条城など全国で4箇所しかない貴重な建築物です。   書院造りと呼ばれる建築様式で、畳を敷き詰めた多くの部屋が連なり、各部屋 は襖で仕切られています。当初は本丸にも御殿が作られましたが、老朽化した り災害にあって、二の丸に移りました。   その後、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建物として、昭和 四十七年から五十年まで保存修理が実施され、昭和五十五年一月二十六日、国 の重要文化財に指定されました。

  

 

 ▼ 大手門

大手門は天守閣に続いて平成7年(1995年)に復元されたもので、大きさは間口7間(約12.7メートル)、奥行3間(約5.4メートル)の二階建です。掛川城の表玄関にふさわしい桜門造りの本格的な櫓門は、木造日本瓦葺き入母屋づくりになっています。白壁で板ひさしが配され、棟上にはシャチ瓦が飾られた勇壮な構えです。 実際は現在地より50メートルほど南にありました。

大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所です。嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再建されたのが現在の建物です。明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和53年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和55年(1980)市の文化財に指定されました。発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(1644~1647)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成7年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置から約50メートル北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。掛川市教育委員会

▲ 掛川城蕗の門(円満寺)

円満寺に移築されている蕗の門は、かつて掛川城内にあり、城外、侍町より、本丸・二の丸・三の丸の要所を結んでいました。

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上諏訪駅(長野県諏訪市諏訪)~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 08:52:08 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

上諏訪駅

長野県諏訪市諏訪

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高島城(長野県諏訪市高島)~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 08:49:45 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

高島城 

長野県諏訪市高島

高島城は別名「浮城」とも呼ばれ、400年ほど前の慶長3年、豊臣秀吉の家臣「日根野織部高吉」により築城され、諏訪氏の居城としてその威容と要害堅固を誇ってきました。 昭和45年5月に天守閣が復興され、その美しい姿を再び堀の水に映すようになりました。(諏訪市ホームページより)

 

冠木橋を渡ったところに冠木門があった。冠木門とは、左右の柱の上部に一本の貫(ぬき)を通しただけの簡単な門のことをいうが、高島城を描いた絵図からは、楼門(ろうもん)あるいは高麗門(こうらいもん)と呼ばれる屋根付きの門であったことがわかる。
おそらく、当初は冠木門であったものが、後に楼門に建て替えられ、名称のみ残されたものであろう。

▲ キハダ:高島城内にあるキハダの大木。キハダは諏訪市の市木である。ミヤマキハダ、ミカン科、樹齢推定約120年。

▲ フジ:高島城跡が公園となった明治9年(1876)ごろ、植栽されたと思われる。諏訪市内では最古のフジで、春には紫色の蝶形花をたくさんつける。マメ科、樹齢推定約130年。

      

 

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下諏訪駅(長野県諏訪郡下諏訪町広瀬町)~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 08:41:39 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

下諏訪駅

長野県諏訪郡下諏訪町広瀬町

▲御柱

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すずめ踊り~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 08:38:07 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目 

すずめ踊り 

長野県茅野から下諏訪で見かけたものです。「すずめおどし」等と呼ばれる場合もあるらしい。棟飾りの一種

長野県茅野・上諏訪・下諏訪

     

  

   

 

 

     2012年3月4日撮影

 

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新鶴( 長野県諏訪郡下諏訪町横町)~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 07:17:42 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

新鶴

 長野県諏訪郡下諏訪町横町

塩羊羹で知られる和菓子店 -創業明治6年-

お土産

 

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甲州道中・中山道合流之地石碑~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 07:17:22 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

甲州道中・中山道合流之地石碑

▲旧中山道ウォークでは写真奥から歩いてくることになる。

▲甲州道中・中山道合流之地石碑で旧中山道は右に向きを変え京に向かいます。

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下諏訪本陣(岩波家)長野県諏訪郡下諏訪町横町~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 07:17:08 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

下諏訪本陣(岩波家)

長野県諏訪郡下諏訪町横町

街道が盛えた頃には下諏訪宿本陣を務めた岩波家。現在も建物の主な部分と庭園が保存され、公開されている。数寄屋造りの建物は素晴らしく、築山庭式石庭園は中山道随一の名園といわれる。

▲温度計 当時のものとのこと
 

 ▲蔵
 

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綿の湯(群馬県吾妻郡草津町草津)~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 07:13:18 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

綿の湯

群馬県吾妻郡草津町草津

神話と伝説 綿の湯

その昔、上社の地にお住まいの諏訪明神建御名方神のお妃八坂刀売神が、日頃お使いになっておられたお化粧用の湯を綿に湿し「湯玉」にして下社の地へお持ちになりました。その湯玉を置かれた所から湧いたのがこの温泉で、綿の湯と名付けられました。 神の湯ですから神聖で、やましい者が入ると神の怒りに触れて、湯口が濁ったといい、「湯口の清濁」は下社七不思議の一つに数えられています。下諏訪宿は中山道と甲州道中が交わるところ、全国一万余の諏訪神社総本社の門前町で、湯の湧く宿場として親しまれ街道一賑わいました。 下諏訪宿の中心が綿の湯界隈です。

▲ここには宿場問屋場もあった。

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諏訪大社下社秋宮~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 07:12:22 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

諏訪大社下社秋宮

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承知川橋の記(一枚石)~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-09 07:11:04 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

承知川橋の記(一枚石)

この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。輝石安山岩 重量約拾参屯 伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したという。爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。 昭和五十二年 久保海道町

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富部一里塚(甲州街道最後の一里塚)53里~旧甲州街道を歩く(8回目)

2012-03-08 05:46:40 | 旧甲州街道ウォーク

街道ウォーク<甲州街道<茅野駅~下諏訪宿
2012年3月4日 8回目

富部一里塚 (甲州街道最後の一里塚)

起点の日本橋から道の中央を計って一里毎(4Km)に、道の両側に大きく土を盛り榎等を植え一里塚として、旅人の便とした。この塚は江戸(現、東京)より53番目。甲州街道中最終のもの。 あと十一町(1100m)で賑やかな下諏訪宿に着き。中仙道につながる。

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