コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

熊本城2015②天守閣と宇土櫓と飯田丸五階櫓~熊本県熊本市中央区

2016-01-31 05:24:52 | 100名城

2015年12月14日 熊本県

熊本城 2015②天守閣と宇土櫓と飯田丸五階櫓

熊本県熊本市中央区

▼天守閣 

茶臼山の最高所、標高50mの天守台に築かれ、大小2つの天守からなります。大天守は外観3層内部6階地下1階で、石垣の上に大根太を張り出して建物がその上に乗り、どっしりした印象を与えます。四面に優雅に反った千鳥破風(ちどりはふ)を配し、最上階の南北には唐破風(からはふ)を据えています。内部は戦闘に備えた部屋割りとなっており、・・・・・・・・・・・・・・・・小天守は大天守成立後に増築されたもの。外観2層内部4階地下1階で、内部は居住を意識した造りになっており、地下には井戸も掘られ最悪の場合天守のみでの籠城(ろうじょう)も可能な構造になっています。大小天守とも最上階の望楼は建物の中に設けられており、これは慶長時代の特色であると言われています。現在の天守閣は昭和35年(1960年)に、外観復元されたものです。  

▼宇土櫓 重要文化財

丸の西北隅、20mの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19mの櫓で、天守並みの構造と大きさを誇ります。熊本城には天守とは別に、この規模の五階櫓(ごかいやぐら)が明治初年まで5棟(築城当時は6棟)存在しました。宇土櫓の名前の由来は宇土(うと)の小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱えて宇土小路(うとこうじ)として現在に名前を残します京町(きょうまち)に住まわせ、櫓をこの一団に管理させたことから、こう呼ばれたのではないかと言われています。かつては宇土城天守閣を移築したとの説がありましたが、平成元年の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、本現在は否定されています。宇土櫓の屋根には鯱が乗り、大小天守閣と並んで三の天守と呼ばれることもありますが、この鯱(しゃち)は旧来からあったものではなく、昭和2年(1927年)に陸軍が解体修理した際に城内に保管してあった鯱を取り付けたものです。この鯱は青銅製で高96cm、重さ約60kgあります。ちなみに、鯱(しゃち)は阿(あ)と吽(うん)の2体で1対です。<阿(あ)は雄のこと、吽(うん)は雌のこと。国指定の重要文化財ですが、現在は内部を一般公開しています。熊本城公式ホームページより

▲右:宇土櫓 左:宇土櫓続き櫓と呼ぶことにします。ここから宇土櫓に入ります

▲宇土櫓続き櫓

 宇土櫓内部へ

▼宇土櫓からの眺望
 

▲天守閣
 

▲大天守閣

▲小天守閣

▲宇土櫓続き櫓

▲西大門・南大門

▲左:宇土櫓 右:宇土櫓続き櫓

▲宇土櫓と宇土櫓続き櫓の間に天守閣(大小)が顔をのぞかせている。いいアングルだ!(自画自賛)

▲宇土櫓と天守閣

・・・・・・・・・・・・・

 ▼飯田丸五階櫓

熊本城の本丸は「天守台」「平左衛門丸(へいざえもんまる)」「数寄屋丸(すきやまる)」「飯田丸(いいだまる)」「東竹の丸(ひがしたけのまる)」「竹の丸(たけのまる)」「西出丸(にしでまる)」に分けることができます。飯田丸の南西隅に建つ五階建ての櫓が「飯田丸五階櫓」です。飯田丸の名称は加藤清正(かとうきよまさ)の重臣、飯田覚兵衛(いいだかくべえ)が管理していたことから、こう呼ばれるようになりました。熊本城南面防衛の要であり、櫓と塀で囲い込まれ、内部には井戸や台所、鉄砲蔵までも設けられています。西面には西櫓門を備え、出撃することも可能です。つまり飯田丸だけでも小さな城の機能を持っているのです。その小さなお城の天守閣の役目を果たすのが飯田丸五階櫓だったのです。明治になり熊本城に鎮台が置かれると、「不要建物」として取り壊されてしまいましたが、その優美な姿は古写真に残され、多くの市民が復元を望み、平成17年に復元が完成しました。 熊本城公式ホームページより

▲飯田丸五階櫓より

関連記事:熊本城(熊本市) 2015 ①   熊本城2014 

2016-01-31 05:24:52

☆cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊本城2015① ~熊本県熊本市中央区

2016-01-30 06:17:03 | 100名城

2015年12月14日 熊本県

熊本城2015①(熊本市)100名城

熊本県熊本市中央区

熊本県熊本市にあった平山城(ひらやまじろ)。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。京町台地の尖端にあたる、茶臼山丘陵全体にわたり築かれた。安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて、加藤清正が中世の千葉城、隈本城の城域をも取り込み、現在のような姿に築城した。細川氏の居城となった後も増改築が行われ、明治時代の初めまでは大半の建物が現存したが、1877年(明治10)の西南戦争に際し、天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓(うどやぐら)をはじめとする11棟の櫓、長塀、不開門が国の重要文化財に、城跡は特別史跡に指定されている。また、「武者返し」の手法を駆使した石垣の遺構も多い。外観復元された大・小天守のほか、本丸御殿大広間なども復元され公開されている。

※ 前回2014年8月5日に登城。今回は前回、回れなかった所(櫓など)を巡りました。二の丸駐車場から西大手門を抜け天守閣へ  熊本城2014 熊本城2015その2

▼ 二の丸駐車場付近から

 ▲ 戌亥櫓?

▲ 左から宇土櫓 小天守閣 天守閣 ?

▼未申櫓?

・・・・・・・・・・・・・

▲▼西大手門
 

▲戌亥櫓?

▲宇土櫓、天守閣が見える

西大手門(右)と南大手門(左)

▲西大手門と遠くに見える未申櫓?
 

▲宇土櫓
 

▲天守閣が見えてきた

▲▼宇土櫓

▲▼宇土櫓

・・・・・・・・・・・・・

▼天守閣

  

 ・・・・・・・・・・・・・

▼ 不開門(あかずのもん) 重要文化財

古くから丑寅(東北)の方角は鬼門と呼ばれ、不浄の気の出入りするところと考えられてきた。 築城にあたっても、この方角は塞いでも開け放ってもいけないとされ、門は造るが通常は閉鎖されていた。そこから不開門と呼ばれ、死人や不浄物の搬出時にだけ用いられたという。この門の形式は、両側の石垣の上に櫓を渡し架けて、その下が門となった櫓門で、要衝に配置されていた。復元された「西大手門」「南大手門」も同じ形式である。往時の熊本城では十八箇所に櫓門が造られていたが、江戸時代そのままに現存するのは、この「不開門」のみとなっている。昭和8年(1933年)に国宝となり、戦後は文化財保護法の施行により重要文化財に指定されている。 説明板より

・・・・・・・・・・・・・
 

▲東十八間櫓? 重要文化財

▲櫓群・石垣コースへ:天守閣を中心に右まりとなるコースへ

  ・・・・・・・・・・・・・

櫓群(源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、田子櫓、七間櫓) 重要文化財
  

・・・・・・・・・・・・・
  

▲飯田丸五階櫓

二様の石垣:熊本城の見事な石垣の中、ここでは加藤と細川時代の異なった様式の石垣が見られます。右側の石垣の方が古い石積みの方法で、隅に同じ大きさの石を積み上げる「穴太積(あのうづみ)」と呼ばれているもの。左側の石垣は「算木積(さんぎづみ)」と呼ばれるもので、長方形の角石を左右交互に積んでおり、勾配が急なことが特徴です。 満遊くまもと

▼飯田丸五階櫓

▲数奇屋丸?

   

▲数奇屋丸

主に接客用として茶会、歌会、能などを楽しんだ建物です。しかし、南面には狭間(さま:鉄砲や矢を放つ小型の窓)や石落としを備え、また西隅には宇土櫓(うとやぐら)と同規模の数寄屋丸五階櫓(すきやまるごかいやぐら)が建ち、実戦に十分耐えうる構造を持っていました。明治になると城内に鎮台(ちんだい:陸軍司令部)が置かれ、次々に建物が撤去されましたが、古写真などの資料により、数寄屋丸一帯は城内でも早い時期に建物が撤去されたことが分かります。現在の建物は平成元年(1989年)に市制100周年を記念して復元されたものです。

 

関連記事: 熊本城 2015②天守閣と宇土櫓と飯田丸五階櫓  熊本城2014

 

2016-01-30 06:17:03

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

口之津イルカウォッチング(長崎県南島原市口之津町~熊本県天草市五和町)

2016-01-29 05:44:30 | 自然

2015年12月14日 長崎県

口之津イルカウォッチング

長崎県南島原市口之津町~熊本県天草市五和町

島原半島の最南端、有明海の入口に面した港町「口之津」は、対岸の熊本県天草市五和町との距離はわずか5km。この早崎瀬戸に野生のバンドウイルカが生息しており、約300頭ぐらいの群れをなし、エサを求めて回遊しています。このイルカの群れが海面を泳ぐ様子やジャンプ等を観ることができます。所要時間は1時間前後で、年間を通して観賞できます。 ながさき旅ネット

 

※イルカウォッチングの時間は1時間。開始してから30分探しようやくイルカ君と遭遇
    

  

  

 

 cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雲仙温泉2015~長崎県雲仙市小浜町雲仙

2016-01-28 06:19:02 | 温泉街

2015年12月14日 長崎県

雲仙温泉2015

長崎県雲仙市小浜町雲仙

 

▲だんきゅう風呂

雲仙温泉商店街裏通りに位置し、雲仙温泉で最も古い歴史を持つ共同浴場施設で、地元では当初らっきょう漬の樽を風呂桶に使っていたことから「だんきゅう風呂」の名称で親しまれています。雲仙観光協会

 

 

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平成新山と普賢岳(長崎県島原市)

2016-01-27 06:00:41 | 自然

2015年12月13日 長崎県

平成新山と普賢岳

長崎県島原市

1991年普賢岳の噴火により発生した火砕流により大きな被害が出てしまった。その記憶は薄れたものの、テレビ放映された凄まじい火砕流の様子は鮮明に覚えている。この火砕流によりおおよそ50名の方々が亡くなりました。・・・・
さて、そんな場所を物見遊山で訪れていいのもだろうかと考えてみたりしたが・・・・・  写真は仁田峠から

▲写真中央の木々が見当たらない茶色の斜面を火砕流が流れ落ちた。

▲左の山が普賢岳、その右側(普賢岳を標高は高い)が平成新山(普賢岳の噴火によりできた山)

 

 

 ▲雲仙ロープウェイ(車窓より)

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎市べっ甲工芸館(重要文化財)・~旧長崎税関下り松派出所

2016-01-26 05:52:43 | 洋館

2015年12月13日 長崎県

長崎市べっ甲工芸館(旧長崎税関下り松派出所) 重要文化財

長崎県長崎市松が枝町

「長崎市べっ甲工芸館」は、国指定重要文化財「旧長崎税関下り松派出所」の約4年間の保存修理工事を経て、べっ甲工芸品及び税関資料を市民の観覧に供し文化的向上に資することを目的に、平成14年4月10日にオープンしました。
「旧長崎税関下り松派出所」は、明治31年に建設され、平成2年3月に国の重要文化財に指定されおり、建物自体は小規模ではありますが、明治時代の税関施設の状況をよく伝えており、歴史的な価値だけでなく、海岸通りの景観形成にも重要な役割を担っています。 ながさき旅ネット

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧リンガー住宅2015(重要文化財)・~長崎県長崎市南山手町

2016-01-25 06:16:22 | 洋館

2015年12月13日 長崎県

旧リンガー住宅 重要文化財

長崎県長崎市南山手町

明治初期の建築で,ウラジオストックの花崗岩を土台に使った外壁石造の木造住宅。ベランダの天井が格天井となっていて珍しい。イギリス人,フレデリック・リンガーは,1864(元治元)年に,グラバー商会の使用人として来日した。のちにグラバーの事業を継承し,グラバー商会番頭格ライル・ホームとホーム・リンガー商会を設立した。

 

  

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧グラバー住宅(邸)2015(重要文化財)・~長崎県長崎市南山手町

2016-01-24 05:38:16 | 洋館

2015年12月13日 長崎県

旧グラバー住宅(邸)2015 重要文化財

長崎県長崎市南山手町

グラバーは、南山手3番地の広大な敷地(1619坪)に庭園と木造洋風の住宅を建てました。この南山手の高台からは、長崎の港と対岸に現在の三菱重工業(株) 長崎造船所が一望できます。建設年代は主屋より発見された墨書により1863(文久3)年であることが確認され、木造洋風建築としては現存する日本最古の遺構になります。棟梁は大浦天主堂等を請負った天草の小山秀之進のちに改名、小山秀であったと思われます。旧グラバー住宅の主屋は、建築当初の平面は逆L字型をしており、その後の増築で、逆L字型からT字型へと変化し、さらに四つ葉のクローバーのように広がりました。旧グラバー住宅は、英国コロニアル様式と日本の伝統的な建築技術の融合を示しています。日本瓦や漆喰を用い、半円形を描く寄棟式屋根、石畳の床面に木製の独立円柱があり、柱間には吊束を持つアーチ型欄間、化粧軒、木造菱格子の天井を持つ広いベランダが特徴です。

 

 

 

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館・~長崎県長崎市松が枝町

2016-01-23 06:52:00 | 洋館

2015年12月13日 長崎県

長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館

長崎県長崎市松が枝町

香港上海銀行は、開港して間もない幕末の長崎に代理店を置いて活動を始め、明治25年(1892)長崎に支店を開設しました。香港上海銀行長崎支店の新社屋として明治から昭和初期の建築界の異才下田菊太郎が設計した現存する唯一の遺構であり、明治37年(1904)に竣工しました。長崎市内の石造り洋館としても最大級の物です。この支店は当時神戸以西唯一の外国銀行で、在留外国人なかでも貿易商を主な取引先として外国為替やロンドン・上海・香港における外貨の売買を主要業務とした特殊為替銀行でした。昭和6年(1931)、長崎支店が閉鎖された後は、梅香崎警察署、大浦警察署、長崎市歴史民俗資料館として利用され、親しまれてきました。平成3年(1991)、市民の声を受けて建物の調査・保存修理に着手、老朽化した建物を半解体修理するとともに長い年月の中で失われた装飾部などの復原を行いました。ながさき旅ネット

 

cosmophantom

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大浦天主堂2015(国宝)・~長崎県長崎市南山手町

2016-01-22 06:02:44 | 神社・仏閣・教会

2015年12月13日 長崎県

大浦天主堂2015 国宝

長崎県長崎市南山手町

幕末の開国にともなって造成された長崎居留地の中に、在留外国人のために建設した中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の国内現存最古の教会堂です。聖堂内を飾るステンドグラスには、約100年前のものもあります。直前に列聖されたばかりの「日本二十六聖殉教者」に捧げられました。西坂の丘で殉教した二十六聖人へ祈りを捧げるために建てられたため、正面は西坂の丘に向けられています。設計指導者はフランス人宣教師のフューレ、プティジャンの両神父で、施工は天草の小山秀之進(のちに、「秀(ひいで)と改名」)です。元治元年(1864)末に竣工し、翌年2月に祝別されました。この直後の3月に、浦上の潜伏キリシタンが訪れ、信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない劇的な「信徒発見」の舞台となりました。明治8年(1875)と同12年(1879)の増改築により、平面形式と外観デザインも変容し、外壁も木造から煉瓦造に変更されましたが、内部空間の主要部には創建当初の姿が温存されています。また1933(昭和8)年に国宝となるが原爆で被害を受け、1953(昭和28)年、日本最古の教会堂として国宝に再度指定されました。 ながさき旅ネット

 

▲ 旧羅典神学校 重要文化財

明治6年(1873)明治政府のキリスト教禁教令廃止を契機に、大浦天主堂のプティジャン神父はラテン神学校設立を計画し、明治8年(1875)に完成した。大正15年(1926)浦上神学校ができるまでは、神学校の校舎兼宿舎として使用された。その後司祭館や集会所にも使用され、昭和になって1階の間仕切(まじきり)を撤去して広い部屋をつくり、更に3階を改造して学生の寝室とした。設計はド・ロ神父。構造は木骨煉瓦(れんが)造で、骨組を木造にし壁に煉瓦を積む特殊なものであるが、ド・ロ神父は建築技術に造詣が深く、その設計監督した建物は極めて堅牢であるのが特徴である。大浦天主堂内司祭館・出津教会等、数多くの建物を遺している。 長崎市ホームページ

 

 

▼内部の様子:内部は撮影禁止!「大浦天主堂物語」より転写
 

 

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信徒発見のレリーフ2015~長崎市南山手町

2016-01-21 06:17:11 | その他

2015年12月13日 長崎県

信徒発見のレリーフ2015

長崎市南山手町

信徒発見

この話はとても感動するものです。少々長くなりますが全てを転写いたします。

この大浦天主堂から北に約6 km ほど離れた所に浦上があった。実はそこの農民たちが16世紀のキリシタン時代から7世代250年、信仰を伝えてきたキリシタンの子孫たちであった。厳しい弾圧の時代を通して信仰伝承をなしえた理由の一つは、地下組織を持ったことである。組織をつくったのは中野郷に住む孫右衛門で、17世紀の半ばであった。浦上山里村には馬込、里、中野、本原、家野の五郷があったが、馬込を除く四つの郷が皆キリシタンであったので、組織はこの四つの郷を一つに結んで出来ていた。先ず、浦上村全体の最高指導者を置いて帳方(惣頭ともいう)と呼び、四つの郷に各々一人ずつ水方(触役)を置き、郷は7~9余りの字に分かれていたので字ごとに聞役を置いたのである。帳方は教会の暦(日繰りと呼んだ)を所持し、教理とオラショ(祈り)を伝承する。毎年、毎週の祝日を教会の暦によって決め、その意義と祈るべきオラショを水方に伝えると、水方はそれを聞役に伝え、聞役が一軒一軒の信徒に知らせるというしくみがあった。水方は洗礼を授ける役目を合わせ持っていたところから生まれた名称である。250年という長い禁教と迫害の時代に、一人の司祭もいなく信仰を守り続けたことは、世界教会史の驚異とされるが、その秘密はこのような指導系統を持つ組織をつくり、洗礼が行われてキリシタンが現実に存在し、教理とオラショと教会暦が伝承されて、信仰生活が実践され続けてきたことにある。このように信仰を伝承して来た人々を「潜伏キリシタン」と呼ぶが、彼らの最大の願いは神父の再渡来であった。いつの頃からか「7代たてばローマのパーパから送られたパードレ(神父)がやってくる」という伝承が生まれ、彼らの大きな希望になっていた。しかも、真のパードレであるかを見分ける条件として(1)ローマのパーパから派遣されていること。(2)サンタ・マリアを敬うこと。(3)独身であること。が伝えられていた。この浦上村の農民たちがフランス寺の見物にやって来た。そして見たのである。サンタ・マリアのご像を!「サンタ・マリアがいらっしゃれば、フランス寺の異人さんはパードレさまに違いない」という確信がキリシタンたちの間に生まれた。1865年3月17日の「信徒発見」と呼ばれる出来事がこうして起こったのである。当日のことは、現在パリ外国宣教会本部に保存されているプチジャン神父の手紙に詳しく報告されているが、その一部を引用してみよう。「——- 昨日、12時半ごろ15名ほどの男女うち混ざった一団が、教会の門前に立っていました。ただの好奇心で来た者とは、何やら様子が違っています。私は急いで門をあけ、聖所の方に進んで行きますと見物人も後からついて参りました。私が躓いてほんの一瞬祈ったと思うころ、40歳か50歳位の年ごろの婦人が一人、私の傍らに近づき、胸に手をあてて申しました。 

 『ここにおります私たちは皆、あなた様と同じ心でございます』
〔本当ですか? どこの方です、あなた方は?〕
『私たちは、浦上の者です。浦上の者は皆、私たちと同じ心を持っています』
こう答えてその同じ人がすぐに私に、
『サンタ・マリアのご像はどこ?』と尋ねました。

サンタ・マリア! このめでたい御名を耳にして私は少しも疑いません。今私の前にいる人は、日本の昔のキリシタンの子孫に違いない」 この神父と日本のキリシタンの子孫との出会いを 『信徒発見』 と呼んでいる。 カトリック長崎大司教区より転写

☆☆cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎市南山手町2015(重要伝統的構造物群保存地区)~長崎県

2016-01-20 06:02:55 | 重要伝統的建造物群保存地区

2015年12月13日 長崎県

長崎市南山手町2015 重要伝統的構造物群保存地区

長崎市南山手地区は、 東山手と同じ居留地であって、主として住宅地として使われていた区域であり、 長崎湾を見下ろす眺望の良い丘の上に位置している。保存地区の範囲は、丘陵の南山手町の大部分と、海岸寄りの小曽根、松が枝町を一部含む区域である。南山手の北寄りには、大浦天主堂、旧羅典(らてん)神学校があり、その南には、幕末から明治にかけての洋風住宅として、 旧グラバー住宅をはじめ、旧リンガー(弟)住宅、旧オルト住宅が現存しており、 松が枝町では、旧香港上海銀行長崎支店や旧長崎税関下り松派出所などが港に面して建ち、いずれも国宝や重要文化財に指定されている。地区の中心から南側は、現在でも静かな住宅地で、 明治時代初期から中期にかけての洋風住宅建築が比較的良好に残っている。長崎市南山手の町並みは、 居留地の地割を示す歴史的風致とともに、初期の洋風住宅群などをよく残しており、価値が高い。 長崎市ホームページより

信徒発見のレリーフ :大浦天主堂そばに設置されている

 

▲大浦天主堂

▼ 自由亭

 「自由亭」は、江戸時代の終わり頃、日本人シェフによる初めての西洋レストランとして、伊良林(いらばやし)の神社前にオープンしました。主人の草野丈吉は出島のオランダ人のもとで修行し、オランダ公使デヴィットにかわいがられ、大いに料理の腕を上げたと言われています。 当時の自由亭のメニューには、ビフテキやカレーライス、コーヒー、スポンジケーキなどがあったようで、「料金は一人前三朱、6人以上お断り、前日に予約すること」という記録が残っています。三朱は今の1万3千円くらい。電話もない時代に前日に予約するのは大変なことだったと思います。 自由亭は大いに繁盛し、1879年には市内の馬町(うままち)に進出すると同時に、建物も現在のものに新築。長崎一のレストランとして、元アメリカ大統領、グランド将軍をはじめとした各国の賓客が次々と訪れるようになりました。当時のメニューには「カーァヒイ(コーヒー)、カアレイ(カレー)、ゼリターツ(ゼリータルト)などと記されています。この建物は検事正官舎として使われていましたが、昭和49年グラバー園に移築復元されました。 グラバー園ホームページより

 

 

▲ 蝶々夫人を演じる三浦環の像
 

 旧グラバー住宅
 

▼グラバー邸より
 

▼ 旧リンガー邸
  

長崎伝統芸能館

 

▲長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館

 ▲ 長崎市べっ甲工芸館(旧長崎税関下り松派出所) 重要文化財

cosmophantom 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九十九島クルーズ2015(長崎県・佐賀県)

2016-01-19 06:06:34 | 自然

2015年12月13日 長崎県・佐賀県

九十九島クルーズ2015

佐世保港外から北へ25キロ、平戸瀬戸まで連なる大小およそ208の島々を九十九島といい、島の密度は日本一と言われています。佐世保近海の島々は特に「南九十九島」と呼ばれ、一つ一つの島が独特の表情を持ち、とりわけ美しい海域です。
九十九島へは「九十九島パールシーリゾート」から遊覧船が運航しております。また、市内の4つの展望台からの眺めも格別です。 ながさき旅ネット

 

      

▲ 牡蠣の養殖だそうです
   

 

  

 

 

 cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平戸(長崎県平戸市)の町並み2015

2016-01-18 05:57:23 | 町並み

2015年12月13日 長崎県

平戸(長崎県平戸市)の町並み2015

長崎県の北西に位置する平戸市は、日本の陸路(離島除く)の最西端に位置する歴史とロマンがあふれる城下町です。400年ほど前、日本で最初の西洋貿易港としてイギリスやオランダとの交流が始まりました。西洋文化の橋渡しとなった平戸。オランダ商館や平戸城を始め、歴史を物語る建物や史跡を見て、平戸の歴史とロマンに少しだけ触れてみて下さい。海に浮かぶ美しい島々に残された先人たちが積み重ねた本物の歴史に酔いながら、平戸はまた新たなロマンを求め続けます。  達人ナビ平戸

 

▲田平天主堂

▲生月大観音

▲生月島塩俵の断崖

▲幸橋

▲寺院と教会の見える風景

▲ 平戸オランダ商会

▲平戸大橋

平戸城

 

 宿泊先より

2016-01-18 05:57:23

cosmophantom 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平戸城(100名城)~長崎県平戸市岩の上町

2016-01-17 07:01:44 | 100名城

2015年12月13日 長崎県

平戸城 100名城

長崎県平戸市岩の上町

平戸城(別名:亀岡城)平戸藩主松浦30代雄香公棟により宝永4年(1707年)の築城によるもので、 山鹿流の縄張り設計による日本唯一の平山城である。明治4年の廃城まで藩主の居城であったが、その後は荒廃し、わずかに北虎口門と狸櫓が残っていた。 それを昭和35年から天守閣を始め、各櫓の復元に着手し昭和37年に完成したのが現在の城である。 よかとこby九州

※ 平戸城に着いたのは夕暮れ時で公開時間はとうに過ぎており、あちこちの門などは閉ざされていましたが、可能な限り城を巡りましたが、全貌を捉えるとこはできませんでした。たぶんここを訪れるチャンスはないでしょうけど、今一度ゆっくりと巡りたいな~

▲天守閣の左に見えるのは見奏櫓???

▲ 北虎口門

▲ 地蔵坂櫓?(たぶん・・・・)

▲ 狸櫓

▲ 見奏櫓

懐柔櫓

 

cosmopantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする