2015年12月14日 熊本県
熊本城 2015②天守閣と宇土櫓と飯田丸五階櫓
熊本県熊本市中央区
▼天守閣
茶臼山の最高所、標高50mの天守台に築かれ、大小2つの天守からなります。大天守は外観3層内部6階地下1階で、石垣の上に大根太を張り出して建物がその上に乗り、どっしりした印象を与えます。四面に優雅に反った千鳥破風(ちどりはふ)を配し、最上階の南北には唐破風(からはふ)を据えています。内部は戦闘に備えた部屋割りとなっており、・・・・・・・・・・・・・・・・小天守は大天守成立後に増築されたもの。外観2層内部4階地下1階で、内部は居住を意識した造りになっており、地下には井戸も掘られ最悪の場合天守のみでの籠城(ろうじょう)も可能な構造になっています。大小天守とも最上階の望楼は建物の中に設けられており、これは慶長時代の特色であると言われています。現在の天守閣は昭和35年(1960年)に、外観復元されたものです。
▼宇土櫓 重要文化財
丸の西北隅、20mの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19mの櫓で、天守並みの構造と大きさを誇ります。熊本城には天守とは別に、この規模の五階櫓(ごかいやぐら)が明治初年まで5棟(築城当時は6棟)存在しました。宇土櫓の名前の由来は宇土(うと)の小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱えて宇土小路(うとこうじ)として現在に名前を残します京町(きょうまち)に住まわせ、櫓をこの一団に管理させたことから、こう呼ばれたのではないかと言われています。かつては宇土城天守閣を移築したとの説がありましたが、平成元年の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、本現在は否定されています。宇土櫓の屋根には鯱が乗り、大小天守閣と並んで三の天守と呼ばれることもありますが、この鯱(しゃち)は旧来からあったものではなく、昭和2年(1927年)に陸軍が解体修理した際に城内に保管してあった鯱を取り付けたものです。この鯱は青銅製で高96cm、重さ約60kgあります。ちなみに、鯱(しゃち)は阿(あ)と吽(うん)の2体で1対です。<阿(あ)は雄のこと、吽(うん)は雌のこと。国指定の重要文化財ですが、現在は内部を一般公開しています。熊本城公式ホームページより
▲右:宇土櫓 左:宇土櫓続き櫓と呼ぶことにします。ここから宇土櫓に入ります
▲宇土櫓続き櫓
宇土櫓内部へ
▼宇土櫓からの眺望
▲天守閣
▲大天守閣
▲小天守閣
▲宇土櫓続き櫓
▲西大門・南大門
▲左:宇土櫓 右:宇土櫓続き櫓
▲宇土櫓と宇土櫓続き櫓の間に天守閣(大小)が顔をのぞかせている。いいアングルだ!(自画自賛)
▲宇土櫓と天守閣
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▼飯田丸五階櫓
熊本城の本丸は「天守台」「平左衛門丸(へいざえもんまる)」「数寄屋丸(すきやまる)」「飯田丸(いいだまる)」「東竹の丸(ひがしたけのまる)」「竹の丸(たけのまる)」「西出丸(にしでまる)」に分けることができます。飯田丸の南西隅に建つ五階建ての櫓が「飯田丸五階櫓」です。飯田丸の名称は加藤清正(かとうきよまさ)の重臣、飯田覚兵衛(いいだかくべえ)が管理していたことから、こう呼ばれるようになりました。熊本城南面防衛の要であり、櫓と塀で囲い込まれ、内部には井戸や台所、鉄砲蔵までも設けられています。西面には西櫓門を備え、出撃することも可能です。つまり飯田丸だけでも小さな城の機能を持っているのです。その小さなお城の天守閣の役目を果たすのが飯田丸五階櫓だったのです。明治になり熊本城に鎮台が置かれると、「不要建物」として取り壊されてしまいましたが、その優美な姿は古写真に残され、多くの市民が復元を望み、平成17年に復元が完成しました。 熊本城公式ホームページより
▲飯田丸五階櫓より
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