コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

碓氷峠上り(群馬県から)

2012-05-22 20:57:25 | 自然

2012年5月13日 群馬県・長野県

碓氷峠上り(群馬県から)

碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は約 960 m。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。Wikipedia

※この日は山を登るレースがあり、選手達への応援をしながらの峠越えとなりました。

 

▼ 堂峰番所跡

堂峰の見晴らしのよい場所(坂本宿に向かって左側)の石垣上に番所を構え、 中山道をはさんで西側に定附同心の住宅が2軒あった。 関門は両方の谷が迫っている場所をさらに掘り切って道幅だけとした。現在も門の土台石や石垣が残されている。

 柱状節理

略 板碑のような地蔵があって,旅人の安全を見つめている・・・略 

▼ 覗(のぞき)

坂本宿を見下ろせる場所

▼ 風穴

▼碓氷坂の関所跡 

▼ 堀り切り

 一里塚と思われる場所

 ▼ 栗が原

明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所で明治八年群馬県で最初の「見回り方屯所」があった。これが交番の始まりである。

 ▼ 入道くぼ

山中茶屋の入り口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。 

 ▼ 中山茶屋

山中茶屋は峠の真中にある茶屋で、寛文2年(1662年)には13軒の立場茶屋ができた。明治のころには小学校もあったという。付近には石垣なども残っている。

▼ 山中学校跡

明治11年の明治天皇北陸巡幸の際、児童が25人いたので、25円の奨学金の下附があった。奉公官から十円の寄付があった。

▼ 山中坂

山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂で、この坂は「飯喰い坂」とも呼ばれて、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので手前の山中茶屋で飯を喰って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。 

▼ 陣馬が原

太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、 戦国時代,武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている。 

▼ いづみや

このお店の前が分水嶺となっているとのこと

▼ 熊野神社

神社の縁起によれば、景行天皇40年(西暦110年)大和朝廷の命を受けた日本武尊は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て碓氷坂に差し掛かった。折りしも濃霧により道に迷われてしまったが、その時紀国熊野山の神使霊鳥である一羽の大きな「八咫烏」が現れ、梛(なぎ)の葉を咥え来て尊の御前に落としながら道案内をした。そして尊は無事頂上に達することができた。尊はこれはまさに熊野の神のご加護とここに熊野の神を勧請したのが始まり。

▼ 見晴台からの眺望

▲眼下に坂本宿

▲浅間山 

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熊野神社(群馬県・長野県) ~旧中山道を歩く(6回目)

2012-05-22 20:56:16 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>松井田宿(横川)~沓掛宿(しなの電鉄・御代田駅)
2012年5月13日 6回目 

 熊野神社 (群馬県・長野県)

神社の縁起によれば、景行天皇40年(西暦110年)大和朝廷の命を受けた日本武尊は東国を平定し、武蔵国、上野国を経て碓氷坂に差し掛かった。折りしも濃霧により道に迷われてしまったが、その時紀国熊野山の神使霊鳥である一羽の大きな「八咫烏」が現れ、梛(なぎ)の葉を咥え来て尊の御前に落としながら道案内をした。そして尊は無事頂上に達することができた。尊はこれはまさに熊野の神のご加護とここに熊野の神を勧請したのが始まり。

  

 熊野神社は群馬県と長野県との県境にある

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陣馬が原(碓氷峠) ~旧中山道を歩く(6回目)

2012-05-22 16:56:40 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>松井田宿(横川)~沓掛宿(しなの電鉄・御代田駅)
2012年5月13日 6回目 

 陣馬が原 (碓氷峠)

  

 太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、 戦国時代,武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている。 

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山中坂(碓氷峠) ~旧中山道を歩く(6回目)

2012-05-22 16:56:14 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>松井田宿(横川)~沓掛宿(しなの電鉄・御代田駅)
2012年5月13日 6回目 

 山中坂 (碓氷峠)

  

山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂で、この坂は「飯喰い坂」とも呼ばれて、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので手前の山中茶屋で飯を喰って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。 

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山中学校跡(碓氷峠) ~旧中山道を歩く(6回目)

2012-05-22 16:55:56 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>松井田宿(横川)~沓掛宿(しなの電鉄・御代田駅)
2012年5月13日 6回目 

 山中学校跡(碓氷峠)

 

 

明治11年の明治天皇北陸巡幸の際、児童が25人いたので、25円の奨学金の下附があった。奉公官から十円の寄付があった。

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中山茶屋(碓氷峠) ~旧中山道を歩く(6回目)

2012-05-22 16:55:21 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>松井田宿(横川)~沓掛宿(しなの電鉄・御代田駅)
2012年5月13日 6回目 

 中山茶屋 (碓氷峠)

 

 

山中茶屋は峠の真中にある茶屋で、寛文2年(1662年)には13軒の立場茶屋ができた。明治のころには小学校もあったという。付近には石垣なども残っている。

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入道くぼ(碓氷峠) ~旧中山道を歩く(6回目)

2012-05-22 16:55:03 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>松井田宿(横川)~沓掛宿(しなの電鉄・御代田駅)
2012年5月13日 6回目 

 入道くぼ (碓氷峠)

 

 

山中茶屋の入り口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。 

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栗が原(碓氷峠) ~旧中山道を歩く(6回目)

2012-05-22 16:54:47 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>松井田宿(横川)~沓掛宿(しなの電鉄・御代田駅)
2012年5月13日 6回目

 栗が原 (碓氷峠)

   

明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所で明治八年群馬県で最初の「見回り方屯所」があった。これが交番の始まりである。

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