広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

期間限定 通町の“背景”

2020-08-31 20:47:41 | 秋田の季節・風景
江戸時代から城下のメインストリートとして栄えてきた、秋田市の「通町(とおりまち)」。
住居表示実施により、現在は保戸野通町と大町一丁目の境の道路になっているが、通称としての通町は、道路沿い両側。
「通町」の定義としては、狭義では通町橋を東端に、「せきや」近くの菊谷小路と交わる交差点まで300メートル。ちょうど県道233号と重なる(県道は北へ曲がる)。
広義では、そこから市道に変わって200メートル西、「大工町」だった部分も含めて、みその通りとの交差点(六道の辻)まで。これだと、保戸野通町・大町一丁目のエリアと一致する。
「通町通り」と呼ぶこともなくはないが、語呂がいまいち…

通町は、20年強前に道路拡幅が行われ(↑広義の区間)、風景が様変わりした。それに比べれば近年の変化は少ない。
ところが、気が付いたら、通町の“背景”が様変わりしていた。変わることは予測していたが、このように変わるとは予想外。
※変化前はあまりいい写真がありません。予測していたのならば撮っておけばよかったのに…
佐野薬局付近から東方向で比べる。
2013年3月

現在
通町橋の対岸は、変形十字路(四差路)なので突き当り。その向こうの“背景”が違っている。
以前は見えなかった、お寺の屋根に丸窓が開いたような独特の建物が見えるようになった。
丸窓越しに向こう側の丸窓も、上に駅前のアルスも見えている
千秋公園の下にある、前の秋田県立美術館・平野政吉美術館の建物である。
メイン展示である「秋田の行事」を展示するために設計された、1967年から使われた建物。耐震性能や老朽化の対応をどうするかでモメて、美術館は2013年に広小路向かいの、日赤病院などの跡地「エリアなかいち」内に移転した。
その後、空いた旧美術館の建物をどうするかで、またモメた。移転前では、補修するのは現実的でないから、なかいちへ移転するという話だった。つまり解体されるはずだった。それがいつの間にか、旧美術館を補修して他用途に使うという話が強くなった。
結局、県から秋田市へ移管の上、2021年3月に「秋田市文化創造交流館(仮称)」としてオープンすることになり、現在、建物周辺(外構など)や内部の改装が施工中。
かなり特徴的な建物であり、価値がありそうなのは否定しない(そのわりには、県外から来た人などは安藤忠雄の現・美術館の建物のほうに惹かれるようだが)。文化創造交流館とやらが、市街地の活性化にはなるかもしれない。
ただ、歴史ある建物を次々と壊す秋田において、どうしてこれだけがこんなに大事に残されるのか、大金をかけてまで残す価値があったのか、そもそも美術館を移転する必要があったのか、いろいろと考えてしまう。


なぜ、旧美術館が見えるようになったか。
2013年の写真を拡大
秋田県民会館(上の写真で緑っぽい高い建物)と秋田和洋女子高等学校(手前のピンクがかった横長の建物)がなくなったから。
以前の繰り返しになるが、新しい文化施設(あきた芸術劇場)建設とその駐車場とするため、県民会館と隣接する高校が解体された。
県民会館は昨年までに解体済みで、今春、秋田令和高校となり近隣へ移転した和洋高校校舎の解体がされた今年夏(たぶん8月から)、県民会館向かいにある旧美術館が姿を現した。旧美術館敷地のメタセコイアの木も伐られてしまい、それも見通しを良くしたはず。
8月中旬。左側の校舎がまだ残っていた。屋根には芸術劇場工事のクレーンの影

たしかに、旧美術館と通町は道路・通町橋越しにほぼ一直線。佐野薬局付近までだと500メートルほど。
Googleマップ航空写真に加筆。左の黄色い★が佐野薬局付近
地面に高低差があり、建物もけっこう高かった県民会館、さらについたてのように横(南北)に長かった和洋が、見通しをさえぎっていたのだった。

航空写真の通り、旧美術館の屋根と通町の通りは、完全に直角な位置関係ではないから、通町でも場所によって見え方が変わる。
また、通町橋寄りでは近すぎて手前の建物に隠れるし、全体に南側・大町一丁目側では、南側の建物に隠れて見えない。
西に進んで、
せきや向かい・通町二区バス停付近

右が隠れる
ここから西・大工町側では、北側であってもほぼ見えなくなる。

今まで、旧美術館をこれほど「真横」からきれいに眺めることは、通町以外の場所でもできなかったと思う。
それに、芸術劇場ができると、再びさえぎられると思われる。あと何か月だろうか、限定の貴重な光景。
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よみがえるポンドール

2020-08-29 22:39:01 | 各地お土産・食べ物
8月29日付秋田魁新報 経済面に「カオルサブレ、しと豆がき、秋田諸越 3商品、1か所で販売/秋田市 かおる堂本社に新店舗」という記事。
秋田市にある「かおる堂」、「杉山壽山堂」と、かおる堂のブランドである「一乃穂」の同系列3ブランドの商品を取り扱う直営(直売)店が、9月4日オープンする話。
見出しの「3商品、1か所で販売」は誤解を招きそうで、記事本文には「3ブランドの約50種類」を扱い「月300万円の売り上げを見込む」。
秋田運河近く、川尻の工業団地にあるかおる堂本社工場なので、誰でも気軽にという場所ではないけれど。
かおる堂のことは、春に記事にしていた。扇屋開運堂、秋田いなふく米菓も系列のはずだが、その2ブランドは扱わないということか。
杉山壽山堂公式ホームページの告知によれば、現在、同じ工業団地近くに別に壽山堂単独の直営店があるが、それは閉店するとのこと。

直営店の名前は「工場直営店 ポンドール」。
※「ポンパドール」ではなく、パが抜けた「ポンドール」です。

ポンドールについては、新聞記事本文で丁寧に説明されている。以下に抜粋。
「かおる堂が店名に「ポンドール」を使うのは41年ぶり。」
「1985年に閉鎖された大町のアーケード街「秋田名店街」に同名の菓子店を出していた。」

「フランス語で「金の架け橋」を意味する。」
「県内で初めて洋菓子専門店として商標登録をした店名」
創業者と親交があった「画家の東郷青児が名付けた」

つまり、「ポンドール」はかつてあった店名を復活させるもの。
「秋田名店街」は、「ファッションアベニューAD」(後に改称して「イーホテルショッピングモール」→単なる通り抜け通路→今はコロナのためホテル休業につき通路も閉鎖)の場所にあり、昭和後期の秋田市中心市街地のにぎわいの中核の1つであった。

記事でちょっと分かりづらいのが、初代ポンドールがいつまで存在したか。「41年ぶり」と「1985年」が出てきて一致しない。
名店街がなくなったのは1985年(これは確実)。仮にこの時までポンドールが営業を続けたのならば「35年ぶり」としないといけないと思う。仮にそれが正しければ、1979年はポンドール開店ということかもしれなくなる。
命名者だという東郷青児を調べると、1978年4月に亡くなっていた。つまり、1979年に開店だとすれば、その命名をしたとは考えにくい。
したがって、1979年にポンドールがなくなったということになろう。名店街から撤退したか、もしくは通常のかおる堂ブランドの店に変更したのだと思う。

「二〇世紀ひみつ基地」「朝刊の「Xmas ぬりえ」にワクワクした昭和30年代の師走(http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-846.html)」によれば、1964年時点でポンドールが存在し、「「ポンドール」は「かおる堂」の洋菓子ブランドだった。」とのこと。名店街自体は1961年オープン。
昭和40年代まるまると、その前後それぞれ約5年、計20年くらい、初代ポンドールが存在したことになりそう。


かおる堂のブランドとしてポンドールがよみがえることになるが、その報道を見た瞬間、僕の記憶の中に埋もれていた「ポンドール」という言葉がよみがえった!(新聞の説明が丁寧なので、あまり悩まずによりはっきり記憶が呼び起こされた。)
僕がポンドールに覚えがあったのは、身内(ばあさん?)が話していたから。
(今回の新聞を読む前までは)どこかのお菓子屋を指して、そう呼んでいたという認識だった。名前だけで店の場所・風景、商品などは記憶になかった。
でも、ポンドールがなくなった1979年は、まだ2歳前後。さすがにリアルタイムでの話ではないだろう。

おそらく、うちの者は、ポンドールがなくなった後もしばらく、かおる堂(の洋菓子?)を指して、そう呼んでいたのではないだろうか。
名称が変わっても、ダイエー、ヨーカドー(秋田店)、ジャスコ、サティ、交通公社、ナショナル等々、以前の名前を使い続ける人がいるように。ただ、「かおる堂」だって知っていたはずだから、和/洋で呼び分けていたのか。

以前とは場所も扱い商品も変わる(かおる堂の洋菓子のロングセラーは、新旧ポンドールで販売される可能性はある)が、名前が復活したのは、ちょっとうれしい。「ポン“パ”ドール」と間違われないといいけれど。


7月に、かおる堂のお菓子をいただいて、懐かしくておいしそうだったので、写真を撮っていた。
フルーツカップ プリン・ア・ラ・モード(? とカップに書いてある)
ペラペラしたプラスチックカップに入った、プリン・ア・ラ・モード。

写真の通り、なんか生クリームが溶けて、プリンが埋もれて(沈下して?)いるように見え、見覚えがない形だった。買った後~もらう前の管理が悪かったのかも。冷やして食べたら、味に支障なく、記憶通りおいしかった。
【30日追記】イオン秋田中央店内のかおる堂の店をのぞいたら、大きさ形状は同じながら、柄が違う(オレンジ色系)フルーツカップが売られていた。上に載っているものはさほど違わなそうでクリームも口金で絞った模様など付いていなかったが、プリンは沈んでおらず突出していた。

喫茶店のとも、コンビニデザートとも違う。また、最近のおしゃれで高級なケーキ専門店では、こういう商品はなさそう。
スフレチーズケーキと同じく、昔からの、和洋兼業お菓子屋さんならではの商品。同じような容器に入った、あんみつ・みつまめも、(他店でも)わりとあるかも。
名店街のポンドールでも売られていたかもしれない。新しいポンドールでは、こういうケーキ類は売るのかな?

【30日追記】ポンドールの名付け親である東郷青児は、かおる堂の包装紙もデザインしたらしい。ピンクと水色が並んだ曲線で囲まれた中に、頭に果物籠(?)を載せた、青い服の女性をささっとかいたようなもの。昔のかおる堂の包装といえばそれだった。
現在は、秋田名物などを描いた別の包装紙もあるが、並行して東郷青児のものも使い続けていて、店舗や商品で使い分けているらしい。

【2021年5月1日画像追加・追記】
2021年3月のフルーツカップ。容器は春仕様、やはりちょっと沈下ぎみ?
2021年5月1日の新聞広告には「母の日バージョン」が掲載。カップの柄と、プリンにピックがささる程度の違いのようで、税込み367円。
「おかげ様でフルーツカップは愛されて49年になりました。ロングセラー商品です。」「誕生49年」とあるので、1972年頃の発売開始なのだった。
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書道展の課題と書体

2020-08-28 00:13:11 | 文字・書体
3年ほど前に気付き、以降毎年今頃に気になる新聞広告がある。
秋田魁新報より
秋田魁新報社主催の「秋田書道展覧会」というイベントの作品募集。2020年で第83回だそうで、歴史があるようだ。
秋田県在住または出身者の、小学生から大人までが出品(有料)できる。毛筆の作品展だが、小学校1・2年には硬筆部門もある。
課題(書く文字)や書体は、「小学生の部」は指定が多いが、中、高、一般と上がるにつれ自由度が上がる。

書を習ったこともなければ、応募するつもりもないけれど、その応募規定(要項)を見ていたら、いくつかの点が気になってしまった。書道をやっていて出品する方々には常識なんだろうけど。
なお、応募規定は、新聞掲載とホームページ掲載のPDFファイルでは、書式が大きく異なり、やや戸惑う。
新聞より抜粋
「課題」は、小学生の部では、小学校「書写」教科の各学年の教科書からお題を指定。
ただし、小学校低学年の書写は硬筆のみで毛筆を扱わないので、その半紙部門に限り、1年「うた」、2年「こうま」を指定。

書写の教科書は、教科書出版社2社分を示している。「光村図書」と「教育出版」。
書写の出版社はほかにもある(例えば東京書籍)のに、なぜこの2社だけ?
光村は全国的にシェアが高く、秋田市も長らく光村を採択。昔は秋田大学教育文化学部附属小学校は東京書籍だったかな。
ということは、県内どこかの地域では教育出版を採択しているのかと思って調べた。

ところが、少なくとも今年度は、秋大附小を含む秋田県内すべての地域が光村図書を採択していた。
どうして、採択されていない出版社、しかも1社だけを課題とするのだろう。

【2021年8月6日追記】初回アップ時に何を見たのか忘れたが、追記日時点で秋田県のサイトに掲載されている、「令和2年度使用小学校教科用図書及び中学校教科用図書(「特別の教科 道徳」を除く)県内採択地区等採択結果(コンテンツ番号44384)」を見たところ、「湯沢・雄勝」1地域だけで教育出版を採択していました。以下は変更前のままの文章です。
なお、湯沢・雄勝以外の各地域(秋大附小を含む)は光村。また、書写でない国語の教科書は、湯沢・雄勝を含めて全地域が光村。国語と書写が違う出版社だと、硬筆の例文などで若干、統一感がないことになりそうだけど、いいのか。(以上追記)


規定には、自分が通う学校の教科書会社を課題にしろとは書いていない。
また、PDF版要項には「※書写教科書の入手方法は秋田協同書籍(電話番号)へお問い合わせ下さい。」との案内も。
つまり、「あえて教育出版の教科書を買って、課題に使ってもいい」ようだ。
【28日追記】教科書販売は、各県1つ程度の「特約供給所」と、複数ある書店や文具店である「取次供給所」が行う。
秋田市内の取次供給所は、秋田協同書籍と加賀屋書店。昨年度までは店を閉めた「のてや」も。
秋田県の特約供給所は「秋田県教育図書株式会社」とする情報もあるが、現在は秋田協同書籍が行っているらしい。教育図書と協同書籍は、所在地が1番地違いだったようで、関係がありそう。
採択されている教科書であれば、紛失や転入に備えて供給所に在庫があるはずだが、採択されていない教育出版の書写は、取り寄せになりそう。そんなこともあって、特約供給所である秋田協同書籍を掲載しているのだろう。各取次供給所でも取り寄せてもらえそうだけど。(以上追記)

2社で共通のお題なのは、4年の「左右」だけ。6年は同じかと思いきや、光村「旅立ちの朝」、教育出版「旅立ちの時」で1文字違い。
5年は光村「近づく春」、教育出版「考える子」。例えばしんにょうが書きづらいから、教育出版で…とかいう人がいるのかな。
あえて教育出版の課題で出品する人は、どのくらいいるだろうか。


低学年の硬筆は、40文字前後の課題。
ホームページ掲載の様式(マス目)を、各自A4に印刷したものに書いて提出。「紙質は指定しません。」。

筆記具が指定されていないのが気になった。。
小学校の硬筆では鉛筆を多用するが、低学年でもフェルトペンも使ったかと思う。硬筆=鉛筆ではない。
出品はボールペンや万年筆でもいいのだろうか。


いちばん気になるのは、小学生の部で指定されている「書体」。
新聞より
中学生の部では「楷書」や「行書」の指定で、毛筆でいう書体とはそういうことだから、何の疑問もない。
一方、小学生は、新聞広告では硬筆は「教科書より」、毛筆は「教科書体」とされている。
PDFでは、硬筆は言及がなく、毛筆は「書体は教科書体によります(書写による許容字体は認めます)。」。
PDFより

前提として、小学校で書くのは硬筆毛筆とも楷書だけだから、それで書けということなのは分かる。小学校では「楷書」という言葉も概念も習わないと思うから、その表現方法が難しいのだろう。(条幅部門だけは小学生でも自由書体だから、行書などでもいいのか)
なお、「書写による許容字体は認めます」とは、木偏の縦棒の下が左上にはねるとか、「保」の「木」が「ホ」になるといったものか。

だからといって、毛筆を「教科書体」で書けというのが、引っかかる。
教科書体というのは、楷書の手書き文字がベースで、手書き文字によく似ているが、あくまでも活字の書体。
教科書体と同じくくりに含まれるのは、行書や楷書ではなく、明朝体やゴシック体のほうだ。書道で、あるいは筆で明朝体やゴシック体を書くことはありえない。
「活字体の文字を手書きする」というのは、「書道」ではなくレタリングとか(西洋の)カリグラフィーになってしまうのでは?
また、昔の教科書体は毛筆っぽかったが、近年は硬筆寄りのデザインの教科書体が一般的で、それを毛筆で書くのは、特に無理があるだろう。

さらに最近は、弱視などの体質やデジタル教科書対応として、線の太さの変化を均一にして、サインペンで書いたような、ユニバーサルデザインの教科書体もできて、Windows10には標準搭載されるようになった。
「UD デジタル 教科書体」シリーズ。モリサワ製だそう
これで出品してもいいのだろうか。筆でやろうと思ったら、けっこう難しいかも。


硬筆のほうは、新聞では「教科書より」と微妙な言い回し。
書写の教科書の硬筆のお手本は、教科書体にかなり似ているが、比べると違う文字(光村図書では我々の昭和末期も現在も、変わっていないようだ)。実際に手書きしているのだろうか。それにならえと言いたいのだろう。
「教科書体」よりは理屈が通りそうで、毛筆部門もこの表記でいいような気もするけれど、伝わりづらいかな。

なお、この点は、光村図書ホームページ「書写の疑問,すべて解決!」>「書き文字と活字は,なぜ違うのか(https://www.mitsumura-tosho.co.jp/kyokasho/s_shosha/gimon/gimon_02.html)」に説明があった。
「教科書体活字は,小学校学習指導要領の別表で標準とされている文字をもとに作られた書体」「明朝体やゴシック体と違って,より書き文字に近い形」。
一方、「書写教科書での書き文字は,(注・教科書体活字のように)正方形の枠の中に文字を収めるということよりも,筆使いや点画・部分の組み立て方,文字の中心や外形を整えることに重点を置いています。」。
とあった。やはり、活字の教科書体は手書き文字と同一ではない。


教科書体のお手本をそっくりまねるのでなく、小学校で習う文字の形を踏まえながら、自分の文字として書きなさい、ということなのかもしれない。よりふさわしい言い回しがないものか。
書を専門とする人たちから見れば、どんなもんなんでしょう。


ちなみに、出展作品は別として、活字の教科書体をお手本に文字を書くのは、悪いことではないと思う。
僕は、光村教科書体(=イワタ教科書体?)やモリサワの(従来の)教科書体を意識するようにしたら、ちょっとだけ上手く・きれいに文字を書けるようになった【28日追記・上手いきれいよりも、読み(読まれ)やすく、正しい文字、か。それは指導要領通りの、おもしろみがない字かもしれないが】と思っている。小学生の頃は、手本のどこを見て字を書いていたのかと、今さらながら恥ずかしい。
ユニバーサルデザインの教科書体を手本にしても大丈夫でしょう。

【翌2021年の第84回】7月23日付紙面で、初確認。新聞告知では、書体指定や手本の変更はほぼなし。半紙の課題のうち、手本が示される小学校低学年と中学生だけが、別の文字に差し替わっている。順に「うし」「げんき」「未来都市」「平和活動」「将来展望」。
【2022年も、変化はなさそう。課題は確認忘れ。】
【2023年の第86回】目立った変更なし。課題は「しろ」「まつり」、「美術文化」「自然科学」「千峰紅葉村」。
【2024年の第87回】目立った変更なし。課題は「つち」「しずく」、「気象衛星」「湖水清風」「大願成就」。



【2021年12月15日追記・正月の書き初めについて】この書道展と別に、正月に書き初め大会も行われている。2022年正月に「第13回 秋田県新春書初め大会」が開催されることが、魁紙面に広告扱いで出ていた。
新型コロナウイルス対策として、各自書いたものを提出する展覧会方式で行われるが、本来(2019年以前)は、県立武道館に集まって一斉に書いていた(雑煮かお汁粉が出たそうだ)。
たしか昭和から、冬休みの最後のほうに、子どもたちがそのようにするイベントがあったはずだが、回数が一致しないし、当時は武道館もなく、別物だったのだろうか。→そういう催しを「席書会/席書大会」と呼ぶのだった

13回 書初め大会は、秋田魁新報社・秋田県書道連盟・秋田県総合公社が主催。総合公社は武道館の指定管理者。問い合わせ先は秋田魁新報社事業部。
「幼児および小学生」から「大学生・一般」まで、世代で4部門に分かれており、いずれも課題は自由(と言いながら、幼児および小学生と中学生では学年ごとに2つずつ例示している)。
高校生以上は書体も自由。中学生は「書体:漢字は楷書または行書、仮名はそれに調和する平仮名」、幼児および小学生は「字体等:字体は書写教科書の字体による」。
「書体」「字体」の違いは不明だが、こちらは、おかしさを感じない言い回し。ただ、幼児(未就学ということでしょう)は教科書がないだろうから、そこはあいまい。
どちらも魁が関わるのだし、秋田書道展覧会のほうもそろえればいいのに。
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手形押ボタン通り

2020-08-27 00:01:38 | 秋田の季節・風景
手形陸橋東側、秋田市手形地区を抜ける県道28号線の続き。前回最後に、この通りに「多い」ものがあるとした。
地理院地図に加筆
↑左右の黄色い道が県道28号、その南側(かつ「十七流」表記付近より西側)が区画整理エリアなので、広めに掲載します。「NYNY」はパチンコ屋、「いとく」はスーパー。
上の地形図に、赤で西側から1から6までの番号を振ったのがその存在。
いとく前のカーブから西方向。奥の手形陸橋下の山崎町交差点まで800メートル
上の写真には、1~5が写っている。
信号機がずらりと並ぶのにお気づきだろうか。それだけなら、竿燈大通りとその裏通りなど各地にある。
ここがすごいのは、連続する6つの信号すべてが、押しボタン式(警察用語では送りがななしの「押ボタン式」が正式らしい)ということ。
「押しボタン式信号が6連続」なんて、全国的にほかにあるだろうか(誰か調べてほしい!)。【2022年8月27日追記・広島県呉市の国道31号に、850メートルほどに押ボタン信号が6つ連続する区間があるとのコメントをいただいた。】

さらにその6つ+両端2交差点の間隔の狭さ。
両端の押しボタン式でない「手形山崎町」と「広面小南(ひろおもてしょうみなみ。広面小学校の南側という意味らしい)」両交差点の間は1170メートル。その間に6つあるから、平均167メートル間隔。地図上で計測すると、
[手形山崎町]150m[1]110m[2]100m[3]120m[4]190m[5]380m[6]120m[広面小南]
1~5は特に密接していて520メートルに5つなので、平均130メートル。
「1キロに6つの押しボタン信号」とは、日本記録だったりして?!(誰か調べてほしい!!)

なお、6か所とも、脇道用の車両用感応式信号などがない、歩行者用信号と押しボタンが1組ずつ設置される、オーソドックスな押しボタン式信号。また、この区間に、信号機なしの横断歩道はない。
ちなみに、この区間のバス停は、手形東町・若葉町・野崎・赤沼入口・三吉神社入口と5つ(それでもやや多めで、最近の幹線道路に比べて間隔が短い)。
ラーメン屋は(当然間隔はまちまちだが)6つよりは多いよう(9店?)で、さすが激戦区。


横断歩道の設置間隔について。
法令では決まっておらず、要はケースバイケースなのだが、警察庁「交通規制基準」には示されている。
「横断歩道の間隔は、市街地においては、おおむね100メートル以上、非市街地においては、おおむね200メートル以上とする。ただし、通学・通園児、高齢者、身体障害者等の横断する場所や商店街等で歩行者の横断が特に多い場所においては、設置間隔を短縮することができる。」
ここは100メートル以上が適用できるであろうから、基準範囲内でしょう。
信号機の設置間隔については、特に基準はなさそう。



ところで、千秋トンネル通りの元秋田銀行保戸野出張所前(鷹匠橋西側)、あるいは外旭川アンパス通りの野村交差点東側の押しボタン式信号を横断したことがあるだろうか。
ボタンを押してもなかなか青にならず、とても待たされる場合がある。

なぜなら、すぐ隣にある通常の交差点の信号機のサイクルと連動しているから。
ボタンが押されると、隣の交差点(菊谷小路北端、野村)の同方向と同じタイミングまで待って、信号が変わる。交差点間で車両が詰まってしまわないためだと思われる。

手形の6連続押しボタンでは連動などせず、めいめいにボタンに応じてすぐ変わるようだ。
車両がつかえることはない、もしくはラッシュ時などは元から渋滞気味でつかえても差し支えないという判断なのだろう。連動させると費用がかかるだろうし、待ち時間が長いと信号無視で渡られるおそれもあるだろうし。
※ただし、この区間に限らず、誰かが渡り終えて歩行者用信号が赤になった直後にボタンを押した場合は、ただちに反応せず、一定の間隔(数十秒)を置いてから青に変わる「遅延タイマー」は設定されているのが一般的。


手形のこの通りに、押しボタン信号が連続する理由は?
・交わる道から流入する車はさほど多くないので、押しボタンでない通常の信号機を設置するほどではない。
・一方、県道の交通量が多く、横断歩行者も一定数いる場所なので、信号機なしの横断歩道では無理・危険。
・以前は西側(3・4間のパチンコ店付近以西)が3車線で、時間で進行方向が変わるリバーシブルレーンであったので、特に危険。
・一直線の道路に、あえて信号機を多く設けることで、運転者に緊張感を持たせ、スピードの出しすぎを抑止する。
といったところか。
3番の押しボタン信号を西側から
上の写真の少し東(奥)側から手前方向がリバーシブルレーンだったはず。手持ちぶさたなゲート状の物体には、車線数や走行可否を示す標識類が設置されていたはず。

密接している西側は、地図を見ると分かるように、北方向の小道はどれも秋田大学方面につながっているので、特に大学生の横断が多いと感じる。
ここで押しボタン信号の数を減らしてしまうと、横断歩道以外で横断したり、常にボタンが押されっ放しになったりしてしまうのかもしれない。数を増やして、うまく分散させているのかも。
2013年3月撮影。西から6番、その奥が広面小南。北都銀行広面支店は今はない
間隔が広い東側は、スーパーのいとく(5と6の間)があり、その来店者などの横断者も多そう。しかし、いとくの真ん前には信号がない。道路がカーブしているので、信号や横断歩道を設置しづらいのだろう。その結果、信号でないところを横断する人がいる。カーブだし、駐車場に出入りする車もあるし、危ない。

とりあえずは、6連続押しボタン式信号でも、問題はないのではないだろうか。
市街地に横断歩行者がいて当然。歩行者は面倒がったり遠慮したりせずボタンを押して渡り、運転者はゆとりを持った運転をお願いしたい。


さて、この通りは、子どもの頃から車でたまに通る程度。どこに何があったなど細部は記憶になく、昔はちょっと違う雰囲気で、気がついたら現状になっていた。
今は電線が地中化され、歩道はブロック敷きで融雪装置があり、街路灯や信号柱は茶色で統一されている。いつ、そうなったのか?

ここは、三吉神社前の旧道のバイパス的位置付けではあるが、道路そのものはそこそこ古い(今の広面小南交差点まで)。1971年の地形図では、現在と変わらなそうな線形。
その後、1991年に手形陸橋の第1段階の拡幅・リバーシブルレーン開始があり、その前後だろうか広面小南交差点以東(横金線交差、谷内佐渡方向)がバイパス化された。
1990年代中頃辺りは、もっとごちゃごちゃした街で、横型の普通の信号機だったような気がする。

そんな時、参考になるのが、設置された信号機の製造年月。
この区間では、制御器や押しボタン箱も含めて、近年交換されてしまったものもあるが、電球式の信号も残っており、それは道路改良時に新規設置されたままの可能性が高い。
※事故や故障による早期交換、あるいは在庫品や転用品の可能性(後述)もあり、断定はできない。

電球式が多く、位置的に銘板が確認しやすい、歩行者信号機を調査。
ここの歩行者用は、上や下から見た断面が三角形=背面が2面の、小糸工業(現・コイト電工)製のものが多いので、一括で設置されたかと思いきや…
太い数字が製造年。細いのは製造番号の一部
現存する電球式だけで2001年12月、2002年12月、2003年8月製と、近接ながら3回に分けて製造されていた(図中「S63」は別。後述)。2002年製と2003年製が向き合うものもあった。
製造年月が同じでも、製造番号が飛び飛びになっているのは気になるが、西・手形山崎町寄りのほうが新しい。
東側はLED式に交換済み(昨年交換されたばかりのものも)だが、さらに東の広面小南交差点には、同じ形状で「平成6年4月」製=1994年とだいぶ古いのが残っている。【2024年9月21日追記・横金線を越えてさらに東の「秋田大学付属病院」交差点は1987年11月製だった。】
したがって、東から西へ進んだ融雪設置など工事の進捗に合わせて、段階的に信号機が発注・設置されたと考えられる。

LED化は、6番5番は歩行者用・車両用とも完了。4番は車両用だけがLED化(おそらく中古転用品)。
※LED化と同時に、背中合わせ両面設置だった車両用は、警察庁の指針に従って、1方向に付き1台の片面設置になった。
冒頭と同じく5番から1番方向。手前2つがLEDの片面設置
5番は新品の低コストLED片面で「押ボタン式」表示板も新品。4番が転用LED片面、以降は電球式両面。

西側が未更新なわけで、これは、単純に少し新しい信号機だから後回しというだけかもしれない。でも、それよりも、区画整理に連動して、県道の歩道も改良されるようなので、その時まで待って取り換えるつもりではないだろうか。
あるいは、区画整理の結果、流入する道路の位置や幅が変わり、信号機・横断歩道の位置そのものが変わるということも、なくはないかもしれない。
※広面小南に古いのが残っているのは、忘れているのかも【27日補足・あるいは気まぐれで未交換】。秋田県警では珍しくない。まあ、機能としては問題ないでしょう。


この区間の歩行者用信号機12台。
LED化前をストリートビューで確認したものも含めて、上記のように小糸工業製が多く、9台あり、いずれも吊り下げ式。
小糸の吊り下げ
残り3つ、4番の北、5番の南、6番の北は別タイプだった。5、6は交換済みなので4だけ現存。
4番を東から。右側がそれ

交換済み2つも含めて、以下のような状況だった。

吊り下げでない、上下からアームで取り付ける一般的な設置方法(抱えこみ設置)。信号機自体も小糸製ではない形状。信号柱は、背が低くて飾りがない。
1番と2番でも、同じような信号柱だが、柱自体が少し違い、信号機も小糸の吊り下げ。
したがって、東寄りの初期施工区間の、低い柱だけ、違っていることになる。

この低い柱は、歩行者用信号機と押しボタン箱のためだけの柱なので、細い柱の頂部に歩行者用信号機を串刺しする「自立式歩灯」にしても良さそうな環境だが、秋田県警はそれを好まない。40年近く前、今の竿燈大通りが電線地中化された当初はあったのだが、いつの間にか通常設置に変えられ、秋田市街地には皆無。

4番北の信号機は、昭和63年1月、京三製作所製。交換済みの2台は形状は同じだったが、製造時期やOEMなどでメーカーは異なる可能性がある。
道路整備時期と比べて古いし、京三製新品は秋田市内には多くない。どこかの中古品で、元は普通のグレーだったボディを茶色に塗り直していると思われる。

やはり2000年代前半に整備された南大通りでも、中通総合病院入口の押しボタン信号の片方が類似した環境で、同様の手法(平成7年日本信号製で緑塗装)が取られている。
ボディの色落ちは進んでいるものの、機能は問題がなさそうだから構わないけど、新品を発注すれば良さそうなのに、何かの制約があったのか、節約したのか?
【31日追記】今年春(昨年度末)、交換された旧国道の歩行者用信号機でも、他は新品なのにアームが違う1か所だけ転用品(ここは京三だった)だった。今でもなお、違うアームの少量注文はしづらいのかな。


“手形通り”は“押しボタン信号通り”で、今後は南側の区画整理に伴う、歩道再整備(+信号機交換)に注目。
2021年始の強風によるここの信号機への影響
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手形通り? の南側

2020-08-24 17:12:18 | 秋田の季節・風景
秋田駅の北東すぐが、秋田大学の本部などがある手形(てがた)地区。おおむね奥羽本線の東側、旭川の南側、広面(ひろおもて)地区との間。秋田市の区分としては「東部」エリアになる。

今、“手形のメインストリート”と言えば、県道28号と認識する市民が多いと思う。秋田駅西口側・広小路から手形陸橋で線路を越えると、ほぼ真東かつほぼ一直線に手形を横切る。
陸橋の下、「手形山崎町」交差点から一直線に800メートル、いとく秋田東店前で北東に角度を変えて500メートル強で横山金足線(県道41号)と交わる。
今回は扱わないが、さらに東で太平川に突き当たって北へ向きを変え、幅が狭くなって太平山~河辺の岩見三内へ向かう。
手形陸橋から東方向、手前の交差点が手形山崎町
交通量は多く、大学病院方面(手形山団地経由を除く)の路線バスが通る。かつては途中までリバーシブルレーン(中央線変移)が行われていた。

太平山三吉神社(里宮。過去の記事)や秋田大学医学部と附属病院も近いが、いずれも県道28号には面しておらず、所在地も手形ではない。
神社前の狭い道は「赤沼街道(神社の所在地が広面字赤沼)」と言われるそうだが、あまり一般的ではないと思う。そのバイパスに相当するのが、陸橋から続く県道28号なのだろう。
沿道にはスーパーやパチンコ店もあるが、多いのは個人経営の店。飲食店が多く、“商店街”と呼べるものではない。秋田大学に近いので、学生目当ての店も多いものの、21世紀始めには居酒屋が多かったのが今は激減し、代わりにラーメン店が増えたと、数年前の魁が伝えていた。コンビニはできても、長続きしない感じ。


ここに関して悩むのが、会話でこの道路を指す時、どう呼べばいいのか。
メインの道路なら「○○通り」など名称・愛称が与えられてもいい。秋田市都市整備部では、国道・県道も対象にした「市民に親しまれる道路愛称」を公募しているが、ここは今のところ対象外。同様に新国道も対象外だが、新国道という暗黙の了解が形成されている。

ネット上では、自然発生的な呼称だと思われる「手形通り」や「手形の通り」が散見され、ある程度は浸透していそう。
僕は使う気になれない。秋田大学前の道路などと誤解される可能性が捨てきれないから。
「三吉神社の通り」でも通じそうだが、厳密にはそれだと旧道のほうだから、個人的には気に入らない。
「手形陸橋の通り」と呼ぶのが無難と考え、それで足りている。
※「手形陸橋の通り」では、反対の線路西側も含まれてしまう可能性はある。しかし、そちらには市民に親しまれる~で1983年に「大手門通り」が命名されている(ほとんど浸透しておらず、親しまれていはいないけど)し、「脳研(秋田県立循環器・脳脊髄センター)の通り」と呼ぶのはわりとある。道路の線形からしても、陸橋とはつながっているが区分してとられることが多いと思う。不安なら「手形陸橋の手形側の通り」と呼べば確実。

命名するとしたら、「手形大通り」だとやや大きすぎて、やはり「手形通り」で決まりかな? 「三吉神社通り」もあるか…


2013年3月撮影。いとくの向かい側の西寄りから西方向
さて、現在、この通りの南側、手形山崎町交差点からいとくの少し西・「野崎」バス停付近まで(道路沿いで500メートル強)の一帯で、「秋田駅東第三地区土地区画整理事業」が行われている。
上の7年前の写真では、向かい側(左)奥方向ずっと。
2018年12月。野崎バス停付近。右はパチンコ屋
じっくり歩いたことは少ないが、昔は農村であったことを連想させる、カーブした道路や広い敷地の家も残る中に、アパートや住宅街が形成された(道路沿いには店が少々)一帯と認識していた。
2019年5月。奥の建物が並ぶ左右が県道・野崎付近、左奥の煙突が秋大
区画整理とはそういうものだけど、そこをほとんど更地にして、道路(県道の250メートル南を並行するのが大きめ【24日追記・その道路が新たに建設中のアンダーパスを経て、駅北西・旧脳研裏下の区画整理エリアとつながる。】)と家屋を新たに配置し直すようだ。
数十年前、田んぼだった頃に計画的にやっていれば、もっと安く上がっただろうに。人口減少を見越せば、今さら必要なのかという気がしてしまう。よそ者としては。
現在。2013年の写真よりさらに西で撮影(信号やパチンコ屋は変わらず)。
見事な更地だった野崎バス停付近では、たいぶ家が建ってきた。パチンコ屋はどうなる?
以前を知る人が久しぶりに来たら、驚き、以前何があったか思い出すのに苦労するに違いない。
Googleマップ航空写真に加筆
上の航空写真で、黄色い線の下・左が、大まかな区画整理エリア(さらに下まで続く)。
撮影時点では、県道沿いは未着工だが、内側は着工済みのようで空き地がある。
この時点で写っている民家らしき建物は、今は多くがなくなっているのだろうか。


県道沿いの手形山崎町寄りには、古くからあったであろうお店がいくつか営業を続けていたが、それも今年2020年に入った頃から閉店・解体する店が出てきた。「総合文具百科いせまつ」「おしゃれと暮らしのファッション島田屋」などがなくなった。【25日追記】いただいたコメントの通り、両店とも近くの仮店舗で営業を続けているとのことで、廃業ではなく区画整理に伴う改築になる。
2020年1月。閉店直後のいせまつ

2軒隣の島田屋は初売り中

現在。右の寿司屋の先が、いせまつや島田屋だった
この県道自体は、区画整理と直接の関係はなさそうだが、秋田市発注で区画整理に伴う歩道改良工事が施工中(上写真左側の工事看板)。多少変化しそう。

地元の人、秋大の卒業生の人などには、道路の片側だけほぼ全部という変則的な形で、思い出となじみのある風景が変わってしまうことになる。
ところで、この区間の道路に異様に多いものがある(ラーメン屋とか店じゃないです)。もしかしたら、全国的に見ても珍しいかもしれない。続きの記事にて
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休み明け報道 と小梅の思い出

2020-08-22 23:04:56 | 昔のこと
今年3月の新型コロナウイルス感染症流行の“第1波”により、全国の小中高校が休校とされてしまった。その後も地域によっては休校が長引き、分散登校が続いたところもあり、夏休みが短縮される地域が多い。
大都市圏に比べれば休校が短かった秋田県内の小中学校でも、感染者が散発的に続いた秋田市は、休校が少し長かった。その結果、県内で秋田市立学校がいちばん短い夏休みになり、本来は7月20日~8月24日なのが8月1~19日となった。
ただし、短縮日数が秋田市より少ない市町村でも、日程はそれぞれ違うので、美郷町も20日、大仙市は17日から始まっている。

8月20日が、秋田市の夏休み明け最初の登校日。
地方のローカルニュースでは、長期休みの入りと明けの風景が報道されるのは、コロナ流行に関わらず昔から定番のネタ。テレビでは登校風景→集会(式)→どこか1学級の教室のやり取り、といった流れで映像を作るのが定番。
20日も、秋田の4放送局とも、取り上げた。
NHK秋田は「秋田市の小中学校で授業再開」、秋田テレビ(AKT)は「短い夏休みが終わり… 校舎に子どもたちの元気な姿」、秋田朝日放送(AAB)は「夏休みが明けて 秋田市の小中学校に元気な声」。ABSはサイトに掲載されず、テレビは見たけど忘れた。

我々古い人間は、20日が「(2学期)始業式」と言ってしまいそうになる。
しかし、現在の秋田市立学校は2学期制なので、夏休みは「前学期の途中の長い休み」に過ぎず、各局ともそのように報道している。
終業式/始業式ではなくても、全校集会やホームルームは、それらがあった時に準じた形で行われるので、それを取材していることになる。

一方、2学期制では重要になるはずの、秋の前学期終業式と後学期始業式(=秋休みの入り/明け)は報道されたことがないのではないだろうか。
秋田市以外では3学期制の学校もまだ多いそうで、全県的ではないこともあるだろうけれど、マスコミもまた、古い人間が昔の感覚で報道してしまっている、と言っては言い過ぎ?

各マスコミは、毎回、どこかの学校(ほとんど小学校)を訪れて取材する。気になるのは、その「どこかの学校」をどのようにして選ぶか。
昔は、秋田市立の学校が原則だったと思う。マスコミの拠点が秋田市である以上、仕方ないのか。
最近は、大館市や横手市など、秋田市外の小学校を取り上げる局もある。AKTが多いような気がする。秋田市以外にある支局の取材活動を活性化させる意図があるのかもしれない。あとは、秋田市以外の3学期制の地域を取材すれば、夏休み前や冬休み前ならば、「終業式」と「通信簿を渡す」という、典型的で理想的な場面を伝えられるという狙いもあるかも。

今回は、(まだ休み中の自治体も多いわけで)各局とも秋田市立小学校。
NHKとABSは東小学校、AKTは中通小学校、AABは河辺の戸島小学校、秋田魁新報は雄和小学校と御所野学院中学校(さらに美郷町立仙南小学校も軽く触れた)。
小学校に限れば、2局が東小に重複、2社は本社から遠い郊外。
閉校を控えているとか、同時に別の催しも行われるとか、特に理由があればまだ分かるが、別段なさそう。41校ある市立小学校のうち、なぜこのような選択になったのだろうか? NHKは局からいちばん近い学校でラクしたのかもしれない。

憶測だけど、秋田市教育委員会とか秋田市政記者クラブが調整役になって、取材先を割り振っているのではないか。
全国的にも同じようで、2019年4月の始業式を取材された大阪市立矢田北小学校ホームページでは、春休み前にはよみうりテレビ、朝日放送、テレビ大阪の3局が取材に来ることを予告していて、実際にはよみうりと朝日の2局が来たように紹介している。大阪市立小学校は300校弱あるそうで、それでも1校に複数社が来ているのだから、何らかの力(ってほどでもない)が働いているのでは?
その学校の中でどのクラスで取材・撮影させるかは、学校長の裁量で決められそう。


報道された4校のうち、東小以外の各校は、体育館で全校集会を行っていた。東小は、校内のテレビ放送で、校長や児童代表の話を放送していた。(御所野学院中は体育館、仙南小は校内放送)【24日補足・集会の代わりに校内放送(テレビまたは音声のみ)を使うことは秋田市内の学校では、コロナ対策以前にも、暑さ寒さ対策などで学校や状況によっては散発的に行われていた。僕が小学生だった昭和末でも、試験的に1回だけテレビで行ったことがあった(が本格実施はされず)。】
東小は児童数が多い(500人弱)のに対し、他各校は少なくて体育館に集まっても充分に間隔が取れるためだと思われる。

NHKでもABSでも、校長が話しているのが教室のテレビに映っている映像が放送された。
NHKでは校長の話だけが校内放送されたかのような映像と言い回しだが、ABSでは児童が話す場面も放送された。
3年生の教室のテレビ受像機は物持ち良く、4対3比率のブラウン管。25インチくらい?
ABSでは、リフレッシュレートの関係で、画面に太い黒い帯が映ってしまい、見づらかった。
NHK NEWS WEBより
そのテレビ画面では、右上に字幕がずっと出ていた。字幕というか画面表示。
いろいろ出ていて「0:03:50」という数字が1秒ごとに進んでいる。手ブレ補正みたいなマーク、テープ残量55分みたいなものも。
校長先生が持つ「コロナよぼう」の紙の「コ」の部分で、赤いマークが点滅しているのは何?

表示内容からして、校長を撮影しているのは、録画機能付きビデオカメラ(カムコーダ)で、その画面表示が全校に放送されている。
ビデオカメラは詳しくないけれど、テレビやデッキと違って、表示を消すことはできないのかな。この画面表示も今どきではなさそうで、カメラも物持ちが良さそう。

数字(=テープカウンター)が進んでいるということは、同時に録画しているのか。
それが放送されることで、話が長い校長先生かどうか分かっちゃうね。

【2021年1月5日追記】2020年末の冬休み前最終登校日も、NHKは東小学校を取材。やはり校内テレビで校長の話が放送されていたが、前回の反省を踏まえたのか、今回は画面表示はなかった。ただ、取材された教室では、画面サイズの変換(比率)の設定のせいか縦横比が不自然なように見えた気がする。



前から繰り返しているが、気象データでなく感覚としては、秋田ではお盆過ぎに少し涼しくなるが、夏休みが明けた8月下旬~末頃に、暑さがぶり返すことが多い気がする。
今年もそのような週間予報が出ていて、来週は連日33度以上らしい。
秋田市立学校の教室には、冷房は設置されていない。昨年度は設置に国の補助が受けられたのだが、それでも財政負担が多い、学校再編を進めている、トイレや外壁など優先して補修すべき物がある、といった理由で、見送っていた。
そこへこの夏休み短縮。急遽、冷房を設置することにしたが、来年度以降になる。冷房を点けたとしても、換気しないといけないし、登下校は暑いし、大変だ。



関連した昔の話。
学校の休み入り/明けは、昭和末の我々が小学生の時も、報道されていた。
秋田市中央地区の我が母校には、6年間で記憶する限り1度だけテレビ取材が来た(ほかにも来たけど、意識にないだけかも)。
しかも、その時のクラスのシーンは、自分たちの教室が取材された!

2年生に進級した1学期始業式の日。クラス替えなしで担任は1年から持ち上がりのベテランの先生。だから、そのクラスが選ばれたのかも。
来たのはNHK。照明とハンディカメラがあったが、わりと控えめに撮影していたような気がする。緊張したかどうかは忘れたが、こうしろああしろと指示するようなこともなかったはず。
1学期始業日の教室といえば、新しい教科書の配布。そこをカメラが熱心に撮影し、それが放送されていた記憶がある。
今は、教室で児童へのインタビューも定番(みんな上手に受け答えするもんだ)だけど、当時はなかった。

3学期制だった当時は、始業・終業日は、給食なしで11時くらいまでには下校が基本。
その日、僕は新学期早々掃除当番に当たって残っていた。そこへ校内放送が流れた。教頭か教務主任辺りの先生だったか。
「さっき取材していった様子が、12時15分から放送されるそうです」と。
編集や他のニュースとの兼ね合いで不確実だったのが、確定したと連絡があったのか。

校内放送は、早く帰って家で見ろというつもりだったのかもしれないが、我がクラスは違った。
担任の先生が、都合で早く帰らないといけない人は別として、学校に残って見ていきなさいとおっしゃった。

ということで、10人くらいか、掃除が済んだ教室の席に座って、お昼のニュースを見ることになった。
2年生だと「居残りさせられる」のもたぶん初体験だし、教育テレビの学校放送しか見ない教室のテレビで、違うチャンネルのニュースを見るのが新鮮だったはず。ちなみに、この年はロサンゼルスオリンピックが開催されたので、後にそれも見せてもらうことになる。
当時の教室のテレビは、ナショナル(現・パナソニック)ブランドの、外枠が木目風パネル(家具調テレビ)で、ダイヤルでチャンネルを回す、モノラル音声・19インチくらいの受像機。※4対3テレビ末期は、14インチの次は21インチが主流だったが、その少し前は20インチとか19インチという画面サイズもわりとあった。
ドキドキして待ったわりには、「誰が映った」くらいであっけなく終わって、下校したはず。


もう1つその時の思い出。
担任の先生は、昼食前の児童を12時15分までただ待たせるのを不憫に思ったのか、飴を1粒ずつ配ってくれた。
学校でお菓子を食べるのも、おそらく初めてで、不思議な気分だったかも。(その後、卒業までに何度かあった)

その飴は、先生が個人的おやつとして備蓄していたのであろう、ロッテ「小梅」。
小梅は、中に梅ペーストが入った小玉と、甘い大玉が混在した商品。今も当時もほぼ変わらない商品形態だが、今は大玉は1袋に2つ(昔はもっと多かった?)で、期間限定で青梅味になるらしい。
児童には小玉が配られた。当時の僕は、梅味のものなど酸っぱすぎて食べることがなかった。もらったはいいけれど、特に中のペーストに困惑しながらなめた思い出。

僕が初めて小梅をなめたのは、1984年4月4日の昼だったことになる。
今は梅は好きになったけど、小梅は何年も食べていない。

【2020年9月13日追記】1984年春の気候について。
1983年末~1984年の冬は、全国的に雪が多く「五九豪雪」とも呼ばれる。それまで経験したことがないくらい、雪がたくさん積もったと当時思ったのを記憶している。自宅の一部では、屋根から落ちた雪がたまって軒まで達し、容易に(平屋の)屋根に登れるようになった。ただ、秋田では10年前の「四八豪雪(1973~1974年)」ほうが強烈だったらしく、当時大人だった人は五九豪雪はあまり印象にないようだ。※四八豪雪は秋田だけ局所的な大雪だったそうだ。
その名残りか、1984年の春は遅かった。秋田市の気象データでは、4月中旬でも最低気温が0度前後(氷点下も)の日が多かったが、記憶にはない。
桜の開花も遅く、5月の連休に弘前公園の桜(通常なら4月末~連休が見頃)を見に行ったのに、ぜんぜん咲いていなかったのは覚えている。その時が、初めての弘前。その次訪れるのは11年後で、4年間弘前で暮らすことになる。(ちなみに、その翌年1985年春に弘前大学卒の新採用の先生が同じ学年の違うクラスの担任になり、弘前に大学があることを知った。)
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秋田製ごみ置き場

2020-08-19 23:58:43 | 秋田のいろいろ
“告ぐ”」でも触れた、秋田市のごみ置き場(ごみ集積場)について。
土地によっては「ごみステーション」と称するそうだが、秋田市では一般的ではない。ただし、秋田市役所ホームページでは「ごみ集積所」が基本なものの、一部で「ごみの収集・集積所(ごみステーション)」の表記が見られる。
秋田市では集積所を「概ね15戸から20戸につき一カ所設置できます。」とのこと。乱暴に計算すれば、秋田市の世帯数は13万7千だから、20で割っても6千か所以上、集積所があるかも??

昔は、覆うものがない台だけの集積所もあれば、何もなく道端にただ積み上げただけの集積所もあった。
2014年に「秋田市ごみ集積所の設置および維持管理に関する要綱」が定められた。「ごみ集積所の形状は、ボックス型、折りたたみ型および被せネット等(ブルーシートを含む。)の3種類とする。ただし、市長がやむを得ない事由があると認めるときは、この限りでない。」とあり、今は基本的には積み上げるだけではいけなくなったらしい。

市街地では、以前は積み上げてネットやシートをかける集積所も多かったが、近年は激減している。
市が、集積所の購入や設置に補助金を出すようになり、それを利用した町内会が多いのだと思われる。

補助制度は、集積所を自作しても対象になるものの、実際に新たに設置されるものは市販品を購入する町内が多い。もちろん複数のメーカーが製造しているが、市内で圧倒的に多い製品がある。市街地に限れば、おそらく集積所の半分前後がそれではないだろうか。それが、
これ
「折りたたみ型」に該当するので、
折りたためる

たたんだ状態の中央部
上の写真で「T」型の部品を四角い枠が囲っている。その枠は右側のボルトを軸に右へ半回転させることができ、それによって、T部分が手前に倒れ、収納スペースができる仕掛け。

広げると全面がネットで囲まれ、上面のネットがめくれる作りで、そこからごみを入れる。
上の2つの写真は、別々の町内のものだが、広げた時に地際になる部分は銀色のシートになっている。ただし、製造メーカーのホームページに出ている写真は、シートがなくすべてネット。
高さ1.3メートル。幅は186センチと247センチ、広げた時の奥行きは90センチと70センチがあり、組み合わせて4タイプがあるようだ。2つ並べて設置する町内もあった。
こんな町内も
本来のネットだけでは足りないのか、青い網を足している。
これは2つのコンクリートブロックの重さで、路面や地面に固定する方式。ブロックが、枠の後部ギリギリにあるので、背面を無駄なく使えるものの、その分、条件によってはバランスを崩して後ろに倒れてしまいそうな気がしなくもない。
上の写真では、歩道の車道際に設置しているから、後ろに倒れたら車にひかれる。以前、台風で倒れたのを1つだけ見たが、それは前に倒れていた。メーカーでは、条件によってはアンカーボルト等で固定することを呼びかけている。

強固ではなさそうな作りだけど、そんなに壊れやすいというわけでもないとは思う。でも、
こんな町内も
黄色い網もあるけど、なんか枠が壊れてません?

この多数派の折りたたみ置き場、実は秋田で作られている。シールが貼ってある。
「日本機械工業株式会社」
新国道から貨物駅方向に入った、秋田市寺内字三千刈に本社がある企業。道路の防雪柵なんかも作っている。
公式ホームページによれば、これは「折りたたみ式ゴミネット NEWタウンネット」。1999-2000年のグッドデザイン賞を受賞しているので、20年以上売られていることになる。
秋田市でのシェアは圧倒的だが、全国的には分からない。「折りたたみ ゴミ置き場」で画像検索しても、他にさまざまあって見当たらない。秋田市が地元メーカーの製品をあっせん・推薦などしているのか、それとも製造元が地元で熱心に営業活動している成果なのか。


折りたたみでない、ボックス型とされる常設のごみ置き場は、スペースに余裕がある郊外部のほうが多いかと思う。町内の器用な人、あるいは大工さんが作ったような小屋状の集積所は、今も見かける。「路線バス乗り継ぎ旅」だと、徒歩移動中にバス待合所を見つけたと思ったら、ごみ置き場でぬか喜びする場面がある。
常設タイプでも、新しいものをたまに見かける。そんなに多くないが、市内に複数あるのが、
このタイプ
カキッとして丈夫そうな、全金属製。プレートがあって、
「有限会社 堀井鉄工」
これも秋田市内。勝平の新屋天秤野にある。
ホームページによれば、竿燈まつりの継ぎ竹の接続部品(タンパクと呼ぶそうだ)、赤れんが郷土館の「P」看板なども作っているが、「ゴミステーション」が主力商品。
20年ほど前から、全国に900基以上設置例があるとのこと。規格品もオーダーメイドもあるが、最低でも10万円はする。


秋田市がごみ置き場を何らかの形で「覆う」ことを求めているのは、カラスや動物に荒らされないためだろう。紹介した2タイプとも、壁はなく網で囲まれているので臭いは漏れてしまうが、通気性を良くする意図だろう。
常設タイプだと、屋根というか天面があって雨や雪が降り注がない。秋田市街地程度の積雪なら耐えられそう。でも、横は全部網なので、吹雪の時は中に積もってしまう。折りたたみ式では天面もネットなので当然。
となると、気になるのは、出したごみが濡れてしまうこと。回収・処分されるものだからいいのだろうけど、その分、重くなり、回収する人や焼却炉に、多少は負担になりそう。古紙だと、確実に重くなるから、雨の日は出すのが特に気が引けてしまう。

そもそも折りたたみ式では、資源化物の日はたたんだまま、前に置いても問題がないようにも思う。カラスたちは資源化物は狙わないはず。
でも、秋田市の決まりでは、ごみの種類を問わず覆うことを求めているようにも読めるから、厳密には広げないといけないのだろうか。
冒頭の写真を見れば、広げた中に瓶回収箱が入っている。回収業者が箱を置いていく時は、広げずに路上に置いていくので、各町内の人たちが広げて中に入れていることになる。実際には、資源化物でも広げる集積所のほうが多いのではないだろうか。

以上、秋田産、地産地消のごみ置き場でした。秋田市のごみ集積所の話は続きます
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「<>」「><」ボタン

2020-08-18 00:42:20 | 秋田のいろいろ
JR東日本秋田支社のドアボタンの話。
奥羽・羽越・津軽線を走る701系電車において、新タイプへの更新が始まったのは、2013年末のこと。
その後、更新が進んだものの、工場(秋田総合車両センター)に入っても、必ず交換されるというわけでもないようで、今も製造当初のボタン(以下、原型)のままの編成も数本残っている。
2両編成のN16編成は未交換

原型ボタンの外側はぐいっと押さないとならない
秋田の701系は、田沢湖線用を除いて2両編成30本と3両編成11本が運行中(関連記事)。
その中で、運用範囲が狭いグループが2両×3本ある。
N36~N38編成で、申し訳程度のボックスシートが設置され、奥羽本線の新庄-秋田と秋田-弘前だけを走っている。弘前方面は1日1往復だけだし、新庄方面は利用する機会が少ないので、個人的には遭遇する機会がほとんどない編成。
N37編成。貫通扉の「N37.」の文字が太く、「ワンマン」の書体が違うのは、秋田支社の気まぐれ?
N37編成のドアボタンが違った。※写りが悪くて恐縮です。
車外
ボタン自体は車内外とも同じもの。
車内
他編成の新しいドアボタン(以下「多数派」)を見慣れた人なら、ちょっと違うと思われるかと思う。
僕の第一印象は「出っ張ってる」。ボタン自体もだし、周囲の黄色い輪も、立体感があるような、だけど平べったい感じもするような。それに、ボタンそのものが若干小さい感じも。
多数派と比較すると、
(再掲)

(再掲)
比べると、まずはボタン表面のアイコンが違う。
多数派は、エレベーターのドア開閉でよく用いられる、中央に縦線、ドアの動く方向を横にした▲で示す。平面に印刷されているはずで、指で触れるだけでは区別できないと思う。
N37編成は「<>」と「><」で、盛り上がっているので、触れて区別可能。

どちらも、ボタンが有効な時は、周囲に緑や赤のLEDが点灯する。多数派は、点灯部もボタン中央と同じ平面で、LEDの粒が見える。N37ではつるんとしてカーブ(アール)が付いていて、ほぼ均一に点灯(写真に撮ると明暗が出る)する。
その外周の黄色い部分も、多数派は外に向かって傾斜した「頂上が平らな山」みたいな作り、N37は平面部分が広く、救命用浮き輪もしくは切ったバウムクーヘン状。

多数派では、ボタン面と黄色い枠の高さがそろっているのに対し、N37ではボタンのほうが少し出っ張って、さらにアイコンが出っ張っている。
N37編成車内ボタン
また、車内側のボタンの三角柱の台座は、多数派ではボタンがない面は白いプラスチック製【18日追記・というかボタン取り付け面だけ金属で、その縁も含めて樹脂製】だが、N37ではその面も金属【18日追記・全面金属で、樹脂は見えない】。

ボタンを押すと、多数派ではコリッというかカチッという軽い感触だけで、ボタンそのものはほぼ動かない。小指でも操作できるであろう。
押したところ
N37では、ストロークがわりとあって、ボタンが戻ろうとする反動もあるので、多数派よりは押すのに力を要する。クリック感はなかったと思う。原型のゴムをかぶせたような車外ボタンに比べれば、軽いけれど。【18日補足・そういう点では、原型の車内側のボタンと共通するが、原型よりは軽くて押しやすいと思う。】


ドアボタンに求められるのは、誰でも分かって誰でも使いやすいことに尽きる。
アイコンの機能(開/閉)の分かりやすさと触覚での識別はN37のほうが良さそう。でも、ボタンの反応・操作性では多数派のほうがいいのではないだろうか。
ボタン自体の存在の分かりやすさや、大きさ(測ってないので厳密には不明)は大差ないだろう。

調べてみると、以前ちょっとだけ取り上げた、首都圏のE233系電車の一部の車外のドアボタンも同じもののようだ。
(再掲)モハE233-421。2007年製造
けっこう前から存在するボタンで、JR東日本では2種を並行して使っているようだ。

仙台地区のE721系電車の一部では、2019年頃にN37編成と同じもしくは酷似したボタンに交換された車があり、701系の一部でも交換されているとのこと。車外/車内問わず。
秋田のN37編成では、少なくとも2019年4月時点でこれに交換済み。2015年始までは原型ボタンで、2015年春にボタンが交換されているようだが、その時に既にこれだったのか、あるいはいったん多数派に交換された後、再度これに交換されたのかは分からない。

秋田地区における、ボタン交換の進捗が分からないが、原型のまま残っている編成は、いずれこれになるのだろうか。としても、既に交換済みが多いから、それらを変えない限り「少数派」になりそうだけど。


ところで、男鹿線の蓄電池電車EV-E801系。今はまだ2両×1本だけだが、今年度中に5本追加導入され、来春から本格稼働。
先日(7月末か8月頭?)、ホームで見かけた時、車外のドアボタンが以前と違う気がした。改めて確認。
今春のラッピング時

今春のボタン
落成時点から付いていたのは、701系交換後の多数派と同じボタンだった(ただし、車内側の台座は異なる)。
現在は、
N37と同じボタン!
車内側はそのままで、車外だけ交換されていた。わずか3年で交換されるとは…
やはりこれがこれからのドアボタンなのだろうか。
車外側ではアイコンの分かりづらさは(1つしかボタンがないので)大きな問題ではないし、中と外でアイコンが違うのもちょっとおかしいかも。

701系の今後の交換、EV-E801系量産車に注目。
【追記】その後、2020年12月19日には、運用区間限定でない2両編成の、N11編成とN21編成でも、このボタンに替わっているのを確認。12月31日にはN18編成も。
EV-E801系量産車は、内外ともこのボタン。
EV-E801系のG1編成の車内側も、2021年にボタンが交換されて、このボタンになった。
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エフエム秋田やっと復活

2020-08-17 00:09:36 | 秋田の季節・風景
秋田市八橋にある、エフエム秋田局舎正面の壁面の社名表示が、経年で部分的に取れて「 フエ 秋田」となって、長年手つかずだった。
再掲)2015年撮影

2020年6月頃、外壁に足場が組まれ工事が始まった。
(再掲)

そして現在。
外壁の色が変わった!
外壁全面の再塗装工事だった。
これまで小豆色のような色から、水色に一新。玄関周りの正面側・ひさし下の1階は手つかずで小豆色。【26日追記・その後、8月下旬には1階部分の工事が始まった。続き参照。】
正面以外も水色

「フエ秋田」だった位置には、白い帯が入って、そこに、新しくくっきり「AFMエフエム秋田」。
ひさしの左側に足場の部品がまだ置かれている
やっと「エフエム秋田」が復活した。
文字の色は変わったが、大きさも変わり小さくなった。長さというか幅は半分ほどになった。
 
工法は従来と同じく、レンガ風の凹凸のある壁面に、文字を貼り付けているようだ。また何十年かすれば、フエ秋田化しまうかも…


ところで、エフエム秋田の社屋は、大通りであるけやき通りの北側に続く道路(秋田テレビ本社前)には面していない。そこから曲がってすぐの細い道に面している。
そのため、南・けやき通り側から来ると、局舎正面やその表示が見えるものの、北側から来ると、分からない。存在を見落としてしまうかもしれない。
その対応ということだと思う。以前はこうなっていた。
2018年7月撮影Googleストリートビューより
局舎の裏の隣、つまり北西側には、けやき通りに面して「タイヤ館」がある。
その駐車場越しに局舎の裏面の西角がちらりと見ることができ、そこに縦書きで「FM秋田」の表示があった。
プラタナスの街路樹で視界が遮られるかもしれないが、これにより、いちおう北側からでもこれがエフエム秋田の建物であることは伝わっていた。
【17日補足】エフエム秋田開局当時は、局舎後方(北側)の道路は未完成だったはず。裏側から来る人のことは想定していなかったのではないだろうか。
現在
工事後は、裏面には何も書かれていない。
JR貨物のコンテナはタイヤ館のものでしょうね

エフエム秋田は今年で開局35周年。
正面表示を小さくし、裏に何も書かなくても分かるほど、存在と場所が浸透したということだろう。ひょっとしたら屋外広告物の許可申請手数料節約かもしれないけど。

※この直後、正面1階の玄関周りに足場が組まれたので、続く。【追記】9月28日時点では囲いがなくなり、玄関周りも他と同じ白・水色になっていた。
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秋田 和田

2020-08-14 22:46:29 | 秋田の季節・風景
秋田駅からJR奥羽本線上り(いわゆる“奥羽南線”側)に2駅だけ乗車。短距離で秋田市内ではあるが、個人的には乗る機会が少ない方面であり、さらに初めて降りる駅。指定席券売機で往復乗車券を購入。
ゆき券
券面左下の数字(券番?)「60006」は、これを発券した券売機が、その日に扱った6件目のきっぷという意味だと思う(1件目はメンテナンス用で、5件目かも?)。
秋田駅には指定席券売機が4台並ぶ。このFC1号機は、うち唯一のクレジットカード専用機なので、少なめかもしれないが、単純に4倍すれば、午前10時頃で30件ほどしかきっぷが売れていないことになると思う。新型コロナウイルスのため、それだけ(少なくとも)長距離客が減っているということか。

自分で画面で確認して買ったのに、券面を見て、一瞬どきっとしてしまった。
「秋田→秋田」に見えてしまったから。
※秋田発秋田行きの乗車券も、大回りして重複しない経路ならば、(窓口で)購入することはできる。

もちろん「秋田→和田」。秋田駅から和田(わだ)駅まで。
のぎへんの漢字+田は共通ながら、つくりは火と口で区別付きそうなものだけど、一瞬だけなら見間違う。
秋田中央交通では一時期、秋田駅(西口)-和田駅前の路線バスを運行していたのだが、その行き先表示は「わだ駅」とひらがなにしていた。
(再掲)2018年10月で廃止された横山経由わだ線=路線名もひらがなだった
それは、Wikipediaによれば秋田と和田の誤認を防ぐためだったそうだ。「要出典」っぽいけど、この乗車券を見れば、改めて納得できる(そして中央交通としては気が利いている)。


新庄行き各駅停車は、適度な間隔をおいて座れる程度の乗車率。この時間はいつもこのぐらいかもしれないが、お盆にしては旅行客風の人は3人(いずれも一人旅)ほどしかいない。地元の人はいつも並みのようで、全体の乗車率は緊急事態宣言中のゴールデンウイーク、あるいはその前の年度代わり頃よりは、多いと思う。

秋田-和田は13.3キロ、12~13分、240円。
間には四ツ小屋駅(2年前の記事)だけ。和田の次は、秘境駅とも言われる大張野駅(10年前の記事)。
大張野まで秋田市内だが、和田と大張野は旧・河辺町(2005年1月まで)。

和田は、河辺地区の中心地なのだが、これまで国道13号などで通過するばかりで、駅も町なかもなじみが薄かった。今回も、行ったわりには急ぎ足でざっと見ただけに終わってしまったのだけど、簡単に記録しておきます。
和田駅は明治時代開業。元は2面3線だったが、今は秋田新幹線(標準軌)の通過線ができたため、乗降できるホームは2面2線。
上りが主に停まる2番線。向かいが1番線でその向こう側(柵)が標準軌
停止位置目標やワンマンミラーは、両ホームとも上下両側向きに設置されている。

駅舎は橋上駅舎。
券売機はなく、窓口で購入できる簡易委託駅。秋田地区の慣例として、降車客のきっぷは委託の人が集札し、ワンマンでもすべてのドアが開く。
乗車時の改札や案内はなし。改札口の隣に10人弱座れる待合室、1階にもベンチなどがあるが、いずれも乗り遅れやホーム間違いには注意。

駅の建物も町も国道13号も北側にある。
跨線橋と並んで南北自由通路があり、まずは南側を見ると、
水田の中に道路が伸びるだけ
秋田では珍しくはないが、見事な田んぼ。奥のほうに集落があり、雄物川支流の岩見川が流れている。渡った先が「七曲臨空港工業団地」。
北側へ降りると、
なかなか立派で新しい駅舎
合併直前の2003年にできた橋上駅舎。2011年までキオスクもあった。
駅舎に向かって右側は「ふれあい交流館かわべ」という施設。元は河辺町の施設だったので、今は秋田市管轄らしいが、入らなかったし、秋田市役所のホームページには名前と所在地ぐらいしか掲載されておらず、よく分からない施設。

駅前には高雄【11月25日訂正】高尾タクシーが待機。
かつては中央交通の路線バス(上記わだ線や国際教養大線)が乗り入れていたが、現在は秋田市マイタウン・バス南部線のみ。御所野のイオンモール~和田駅~岩見温泉の路線が、平日7往復・土日4往復と、その他予約式路線。
【19日追記】国際教養大線は2019年春まで和田駅乗り入れ。以降は四ツ小屋駅に変更された。以前は、和田駅で教養大の学生らしき人が乗降していたのを見たことがあった。おそらく、この変更により和田駅の利用者や売り上げが、多少なりとも減ったのではないだろうか。
【11月25日追記】新型コロナウイルス感染症による国際教養大のオンライン授業実施のため、2020年春以降、四ツ小屋駅発着の路線バスは運休中。運行再開後は、再び和田駅発着になるという情報もある。
【12月11日追記】2021年1月9日から、駅裏の南側に「和田駅前」停留所を設置し、教養大との間を運行することが告知された。再び中央交通が河辺・和田に来るようになり、和田駅の利用者と売り上げも増えることだろう。
【2024年11月5日追記】その和田駅~国際教養大のバスは、2025年3月で廃止とのこと。

駅舎を左に駅前の光景
駅舎に向かって右(上の写真で奥左)側には、「秋田市河辺生産物直売所・農産物直売所フレッシュランドまごころ」。お盆の花が次々に売れていた。
その向こうに見えている、似たような形の屋根は、線路からも見える秋田市立河辺体育館。

和田駅前には、それ以外には店もなさそうだし、左右方向の道路もない。
上の写真で直売所の右手前の民家前から右方向に伸びる、広くはない道が、和田駅のアクセス道路。これが県道175号で、和田駅前から国道13号まで約400メートルの短い路線。

県道を進む。駅前にもあったが、すぐにバス停。
「和田駅入口」
秋田市内で、一般路線バスが廃止され、マイタウンバス化された路線では、廃止前のバス停ポールを譲り受けて(?)継続使用することがある(外旭川笹岡)。
ここもそのようだが、おそらくマイタウンバスと教養大線が共存していた時期は、2社で共用していたのだろう。それが、中央交通撤退後もそのままで中央交通の名と社章が残っている。
「バスで行こう」の部分に、マイタウンバスを受託する「高雄【11月25日訂正】高尾ハイヤー(企業名はタクシーじゃないのか)」。バス停名はパソコン作成で上張りされていて、角ゴシック体の斜め字。

昔のストリートビューでは向かい合って両側にポールがあったようだが、現在は和田駅に向かう側にしかなかったと思う。しかも時刻表が入っていなかった。駅が終点でなく、先まで行く路線もあるのだから、時刻表がないのはマズいのでは?

路上からは見えない位置の裏面を拝見すると、
こちらは原型の手書き文字

小さな十字路があって、その辺りが和田のメインストリートあるいは中心部のようだ。道は見通しが利かず、全貌は分かりづらい。会社や店はちらほらとはあるが、民家や空き地も多くて、思っていたよりも寂れているというのが、率直な印象。

駅を背に左、西へ曲がる。
振り返って和田郵便局など。右が駅方向
上の写真奥に、小高い丘がある。駅から見ると右。
「和田公園」だそうで、眺めがいいようだ。太平山三吉神社もあるらしい。

郵便局の斜め向かいの奥まった所が、旧河辺町役場だった、
「秋田市河辺市民サービスセンター」
他の各市民サービスセンター同様、愛称が付けられているのだが、道路からは表示が見えなかった。ここは「カワベリア」。
正面上に秋田市章が設置されているが、若草色ではなく、外壁と同じキツネ色で溶けこんでしまっている。
この裏などに消防や図書館など公共施設がまとまっている。まとまっているわりにはバラけた配置というか、道路のカーブや裏手に梵字川が流れているせいなのか、初めてだと分かりづらい。
金融機関やマックスバリュ、薬王堂、駐在所(秋田東警察署)などもある。

と、この程度の和田訪問でした。
これで、秋田市内の旅客駅で乗降した経験がないのは、羽越本線・桂根駅だけになった。別に狙っているわけではないが、桂根は停車本数が少ないから難しい。あと、クルーズ船来航時だけの秋田港駅、来春開業の泉外旭川駅もあるか。
コメント (7)
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秋田駅芝生広場/通路窓

2020-08-13 00:38:36 | 秋田の季節・風景
最近の秋田駅(改札外)から。
5月の連休に完成直前であることを少し触れた、「芝生広場」が通称で、「秋田駅西口駅前広場」が正式名称らしい場所。8月1日に供用が開始された。
西口の自由通路・ぽぽろーどより南側、以前平面駐車場だった部分を、天然芝にして、憩いの場やイベント会場として使おうという、ある意味大胆な事業。
駐車場は、JR東日本管理の誰でも駐められる時間貸し有料だったものを、立体駐車場が拡充されたとして、廃止。秋田市が芝生にしたもの。

ぽぽろーど下から2019年9月。左が立駐、正面がJR秋田支社跡にできつつあった秋田放送
上の写真は、平面駐車場営業終了直後。

平面駐車場の西辺は、ケヤキ並木の歩道。かつては人工のせせらぎ(水路)があったのが、いつの間にか廃止。ケヤキはムクドリが大集合する時があり、その対策か、不格好に剪定(と呼んでいいのか?)されることがあった。
芝生化後も、ケヤキ並木と歩道は存続。路面のタイルが張り替えられ、黒いテーブルと椅子が設置された。オブジェや記念碑もあったが移設して存続。
北西角から
駐車場時代は、中央通り側と駅を行き来する歩行者は、駐車場を横切りにくかった。秋田支社(現ABS)前、立駐前を通るか、この西辺の歩道を通るかだった。立駐前経由は出入りする車に注意が必要、西辺経由では信号待ちが長い傾向があった。
芝生化後は、芝生の中を斜めに突っ切る通路ができたので、信号待ちは必要だが、ショートカットできる。
自由通路から。左が中央通り
この2枚↑↓は雨上がりなので特に緑が鮮やか。
少し角度を変えて ※ガラスの網が写りこんでいます
平面駐車場時代は、駐車場の出入り口と、駐車せず送迎で乗降させる場所が、近接した上狭かった。現在は、乗降専用となり、拡張されてカーブが緩やかになった。
上の写真左側、東辺の駅舎寄りでは、芝でなく「ジャノヒゲ」という植物もしくはその仲間が植えられている。

これまでのところ、天気のいい日は、椅子でも芝生上でも、くつろいでいる人をちらほら見かける。まあ、悪くないかなとは思う。
不安なのは、今の鮮やかで均一な芝の状態を維持し続けられるか。机や椅子も、雨ざらし雪ざらし、フンざらしで傷まないか…
ジャノヒゲも、エリアなかいちのほか店舗などでも、近年ちらほら植えられているが、踏まれるせいか積雪のせいか【14日追記・元気なさそうだったり、ゴミにまみれたりしていることが少なくなく】、(少なくとも秋田では)グラウンドカバーにはあまりふさわしくないようにも見えるけど。

【14日追記】敷かれた芝は、西洋芝の寒地型の1つ「ケンタッキーブルーグラス(和名・ナガハグサ)」とのこと。日本芝や西洋芝・暖地型は冬は枯れるが、これは冬も緑だという。


話変わって、自由通路ぽぽろーどの東寄り部分。
何度か撮影した写真を紹介しているように、通路沿い両側に新幹線ホームなどを見下ろせる窓があり、子どもを中心に人気のスポット。
(再掲)東側はホームの上でない部分も同じ構造
ただ、子どもにとっては、窓がやや高い位置。そして、出窓ではないけれど、壁と窓下辺との間に、50センチくらいだろうか、金属製の平らなスペースがある(柱の都合?)ので、余計に窓が“遠く”にある。その結果…
そこに乗っかる子が

ここで転落事故があったのをご記憶だろうか。2006年8月27日のことだったそうだ。
窓(新幹線が見づらい北側)から子どもが落ちて負傷した。どういう落ち方だったのか知らないが、ケガで済んで幸運と言うべきだろう。この下は線路、2万ボルトが流れる架線、舗装路面などなのだから。
【13日追記】たぶん思い出した。窓の外のすぐ下に管理用のキャットウォーク的な通路があって、地面でなくそこに落ちたため、軽症で済んだということだったような。
それを受けて、管理する秋田市では、窓にストッパーを付けて開口を少なくし、「上がらないで」の注意書きを設置するなど対策を行った。

その後、経年で注意書き(ラベルライターで印字したもの)がはがれたり薄れたりした。上の写真の通り、ストッパーは機能しているようだから、よほどスリムでない限り落ちることはないだろうけど。また、窓下の壁には通路の手すりが2本並行して設置されているのだが、窓へ上り下りする時、その手すりに足(たいてい土足)をかける場合もあり、衛生面でも問題があると思っていた。

10年以上経ち転落事故を知らない人が増えているのに、注意書きもなければ、上がってしまうのをやめさせる根拠は薄くなってしまう。
そこで、数年前、秋田市に注意書きを新たに設置してはどうかと提案し、それを受けて、以前よりちゃんとしたラベル(大人向けと全ひらがなの2種)を、全部の窓に貼ってくれた。現在も明瞭に判読できる。

それなのに、ジイさんに連れられた2人の子が、上ってしまっている。神経を疑う。(そういえば2006年の事故も、ジイさんが引率していたような…)
しかも土足で。
転落は別として、新型コロナウイルス流行下、不特定多数が素手で触れる場所である手すりに、土足をこすりつけるとは(上の写真はつい先日撮影)。神経を疑う。
※ただ、この手すりを手すりとして使う人って、ほとんどいないのも事実。ごみ箱やクリスマスツリーをくっつけて置くくらいだし。でも、手すりなのであり、そのことは見れば分かるだろうに。
やめてくださいと声をかける気にはなれなかったが、なんとも。
【13日補足】現状では、注意書きと多くの人たちの良識のおかげで、ここに上がる人はほとんどいない。背が低い子は、おんぶ・抱っこ・肩車などしてもらって見ている。このジジ+孫で久々に目撃した。

公共の場所において、こんなことをさせてしまうような構造にしたのが間違い、つまり“欠陥“と言えるかもしれない。
20年少し前の設計やデザインの技術をもってすれば、工夫の余地があったようにも思える。今からでも、なんとか改善できないものか。
コメント (4)
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菊池俊輔作曲の校歌

2020-08-12 00:50:01 | その他もろもろ
新型コロナウイルス感染症により、多くの活動やイベントが中止されている。
学校の部活動の全国大会もその1つで、特に最終学年の生徒がそのまま引退してしまうので、かわいそうという考えが多いらしく、あちこちで代替となる試合が小規模に開かれている。

高校の硬式野球=甲子園もその1つ。2020年の高校野球は、春(センバツ)も夏(選手権)も中止。
夏は、代替として各県・各エリアレベルで試合を実施。
センバツの代替は、既に決定済みだった出場校を甲子園へ招待し、限られた関係者だけを観客にして各校1試合だけ行う形式の「2020年甲子園高校野球交流試合」として、8月10日から開催中。
東北地方では、エリアの大会も同時期に開催されている。これに出場し、かつ甲子園にも呼ばれた高校もあり、それは試合が重ならないよう調整の上、甲子園からとんぼ返りで東北の試合という例もある。(そうまでする必要があるのか、個人的には疑問。)


さて、スポーツ全般に興味がない者として、大会にどこの学校が出ようが関心はほぼないのだが、今春のセンバツ~甲子園の交流試合は例外。
とある高校が出場校に決定(春夏通じて初出場)したことを知って喜び、センバツ中止を知って惜しみ、代替開催を知って再び喜んだ。

その高校とは、静岡県沼津市にある私立「加藤学園高等学校」。
理由は、別に学校に縁があるとか、注目の選手がいるとかじゃない。校歌。【12日追記・その作曲者になじみがあり、聞いてみたいという理由。】


以前、校歌の作者に興味を持って調べた
地元と関係が薄い、歌謡曲を作るような有名な人が校歌を作ることもあった。
一方、有名な作詞家・作曲家であっても、ネットで検索する限り、校歌をほとんど作っていない人もいた。
そのおひとりが、「ドラえもんのうた」を始め、数多くのテレビ番組の歌や曲を作曲・編曲した、青森県弘前市出身の菊池俊輔氏(過去の記事)。

Wikipediaでも、日本音楽著作権協会(JASRAC)のサイトで検索しても、菊池氏作曲の校歌は2校しか出ていない。
その1つは弘前市立大成小学校。JASRACには「われら大成の子」という副題も登録。
大成小は1885年開校、1902年に分割され第一大成と第二大成に。
Wikipediaによれば、校歌は第一が1927年に「大成の歌」、第二が1952年に「大成の華」として制定されている。
そして、2002年に第一と第二が統合し、再び大成小になった。
ということは、2002年の再統合時に作られた、まだ新しい校歌ということだろうか。【2023年1月6日追記・弘前経済新聞の記事(https://hirosaki.keizai.biz/column/41/)にも「2002年には母校・弘前市立大成小学校の校歌を作曲」とある。】

もう1校が、加藤学園高等学校。作詞は重友純氏。

ただ、全国のすべての校歌の作者を網羅することは不可能で、Wikipediaにすべてが記載されないのはむろん、同じ作者であってもJASRACに登録される学校とされない学校がある場合も多い(作詞・作曲の“相方”側の都合??)ようなので、これ以外にもある可能性は高い。
さらに調べると、菊池氏は1975年制定の神奈川県相模原市立麻溝台中学校の校歌を作曲していた。
学校ホームページでは、譜面とともに掲載され「JASRAC許可番号」も記されている。でも、JASRACのデータベースにはないのだから、よく分からない。作詞者は「宮沢章二」となっており、詩人・作詞家の宮澤章二氏のことか? 宮澤氏は関東一円の校歌を多く作詞している。


本題に戻って加藤学園高校。
学校のホームページには、詞や歌唱と伴奏のデータが掲載されているが、作者名は未掲載。校歌の詞、譜面、音を掲載しながら、作者名は非掲載という学校は、公私立問わず全国的にけっこうある。作者こそ必要な情報だと思いますが…
さらに、加藤学園には同経営の「加藤学園暁秀中学校・高等学校」があり、1990年に作られたその校歌も、同じ作詞者・作曲者による別の歌(公式サイトには歌詞等も未掲載)だった。なお、「暁秀初等学校」もあるのだが、その校歌は不明。

現在の加藤学園高校校歌は、1996年度に同校3代目校歌として制定。こちらも古くはない歌だった。
同校は1926年に女子校として開校、「沼津女子商業」を名乗った時期が長く、1983年に加藤学園高校に改称、1985年に共学化されたようだ。
2代目校歌は1985年に、初代校歌と同じ作詞作曲者で作られたらしい。
2代目校歌は、なぜたった10年ほどで作り変えられたのか、そして、(先にできた暁秀中高も含めて)ほとんど校歌を手がけず、沼津と縁も薄そうな菊池氏に作曲を依頼し、引き受けてもらったのか、気になる。


学校のサイトで、既に校歌を聞いている。
先に詞について。
沼津らしく「千本浜」が歌い出し。2番で「清しき富士」が歌われる。
2番まである歌詞では、校名は出てこない。2番を歌い終わった後に、「凛たり 加藤学園高校」というフレーズが付加されるという構成。

(音楽の知識がなく、菊池俊輔作品だという先入観の影響もあるのでアテにならない感想ですが)菊池先生らしい歌のように思えて、親しみが湧いてしまった。
前半は七五調の詞なので、「忍者ハットリくん」や「Dr.スランプ アラレちゃん」のオープニング「ワイワイワールド」と歌詞を入れ替えても歌えそう。
後半の盛り上がる部分(夢は雲間を縫い~)も、「ござるござるよハットリくんは」「みんな集まれペンギン村に」と曲調が似ているような。
最後の「凛たり 加藤学園高校」は、「アンアンアン とっても大好き ドラえもん」と通じるような。

菊池先生の歌は、前奏(イントロ)・間奏・後奏(アウトロ)が、あたかも別の曲かのように特徴的なことが多いと思う。
「ドラえもんのうた」なんか、前奏・後奏が違うし、アニメを視聴していた人ならその音が頭に残っているに違いない。さらにテレビでは流れなかったが、1番と2番の間奏と、2番と3番の間奏は、それぞれまったく別。
「ワイワイワールド」はたかしまあきひこ氏が編曲となっているが、これも前・間・後が独特なので、元の旋律は菊池氏が作ったのかも(作曲者と編曲者の役割分担って、素人には複雑)。

加藤学園高校校歌も、サイトにあるピアノ伴奏を聞くと、校歌にしては凝っていると思う。公式サイトの集会か何かで歌っている音声では、若干簡略化して演奏されているようだけど。


そんな校歌が、初めて甲子園に鳴り響くのを聞きたい。
ぜひ勝って、と願う以前に、今は試合の最初のほう(1回裏と2回表のそれぞれ前【12日訂正】2回表裏それぞれの攻撃前)で両校の校歌を聞くことができる。
今年は観客が少なく、大声で歌うことはできないようなので、校歌をしっかりと聞くことができるだろう(客席で手拍子はするようだけど【16日追記・実際には手拍子をしない学校のほうが多そう。起立するだけの学校が多数派(=加藤学園も)だが、座ったままの学校もたまにある。】)。

今大会は、センバツの代替ながら、夏の時期という変則的なもの。となると校歌が違ってくる。
会場に流される校歌の音源。
春は、各学校に持ちこんでもらったものを流すそうで、学校の合唱部らしき歌声もあれば、男声独唱もあれば、2019年には明豊高等学校で作者である南こうせつ氏が歌うものが流れた。
夏は、主催者の系列である朝日放送において、プロが演奏・歌唱(合唱)したものをまとめて録音している。
今大会では、夏ながら各学校の音源を使っているようだ。この状況では録音もままならないだろうし。(明豊高校も出場して試合済みだが、やはり南こうせつ版だったらしい)

テレビ放送。
NHKは相変わらず放送。東北では、東北地区大会と重なる場合は、東北大会を総合テレビで放送し、甲子園はEテレに回されてしまう。
民放はこれまでは、全国的にはBSでの放映となるが、春はTBS系毎日放送、夏はテレビ朝日系朝日放送の製作。
今大会では、テレビは朝日放送=BS朝日。ただし、ネット中継では、毎日放送のアナウンサーが実況をするものもあるとのこと。

校歌については、BS朝日では、初盤の攻守交代時の校歌は、“民放の宿命(by 久米宏【2023年9月25日訂正・久米宏ではなく生島ヒロシの発言という情報もあった。】)”であるCMを入れてしまうようだ。タイミングによっては部分的に聞けるが、字幕などなし。試合終了後の勝った学校のものは、放送されるはず。
ネットでは、試合終了後にノーカット配信もされているが、校歌部分は攻守交代も勝利校のものも、カットされてしまっている。
ということで、NHKを見るのが確実。

高校野球では、校歌は1番しか歌われないが、「凛たり~」部分も歌われる(学校側で1番だけの音源など保有しているのか?)のか、前奏や後奏はどんなアレンジになるか、どんな歌声で流れるか、12日の第二試合に期待。


【14日追記】加藤学園が勝利。校歌が2度、甲子園に流れた。
流れた歌は、やはり、1番の後に「凛たり~」を付けた構成。
伴奏はピアノのみで、学校ホームページに掲載されている「校歌伴奏」の音と、同一の譜面(ただし、間奏と2番はカット)だと思う。これが正式版ということか。
歌唱は男声。あまり多くない人数の合唱のように聞こえたが、もしかしたら1人が違うパートで歌ったものを多重録音しているかも。一般的に連想される、校歌の男声合唱よりは柔らかい雰囲気。
「夢は雲間を」以降、最後の「加藤学園高校」までは、2部合唱。「碧空を翔ける」辺りが美しい。


NHKとBS朝日(朝日放送)両方を見た。
両局とも歌詞が表示される。加藤学園校歌は、やや難読な漢字が多く使われている。当て字というより、あまり使わない言葉というだけなのだが、初見で一瞬では読めない。

NHKは伝統の縦書き。昔は楷書の手書きだったが、今は行書体のフォント(好きじゃない)。
「朝(あした)」のみふりがなで、他はなし。「松風颯々」「雲間」「碧空」「翔ける」「旗幟」「扉」ぐらいはあってもいい。
※正解は「しょうふうさつさつ」「うんかん」「へきくう」「かける」「きし」「と」。なお、学校公式サイトの歌詞では、颯々、朝、旗幟、扉にふりがな。

朝日放送では、一律漢字なしのようだ。
こちらは画面下に2行の楷書体フォント【14日追記・フォントワークス「グレコB」のようだ。ひらがなの形から「ニューグレコ」ではない】。機械的に常に2行ずつ表示するようで、詞の展開と合わないこともある。

ツイッターでは、中継を見て、菊池俊輔作曲であることを指摘する声がいくつか。驚いたり、うらやましがったり。
加藤学園高校卒業生でも、知っている人と知らない人がいるようで、知っている人は在学中に説明されたらしい。

【2021年5月14日追記】菊池俊輔氏は2021年4月24日に亡くなった。全国的にも報道されたが、加藤学園のホームページには、追悼の言葉はおろか、校歌作曲者名すら、相変わらずないのが惜しい。
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牛島マルダイのポスト

2020-08-09 23:54:49 | 秋田の季節・風景
秋田市内で5店舗を展開する「スーパーマーケットチェーン マルダイ(以下、マルダイ)」がある。※県外には、いくつかのマルダイというスーパーがあるが、無関係。
秋田市南部、羽後牛島の北東側、国道13号と旧羽州街道が近接する辺りに、西洋のお城のような外観の同社「牛島店」がある。
1986年にオープンしたそうで、秋田市「市民が選ぶ都市景観賞」を受賞している。受賞時は「マルダイ新牛島店」の名。なぜなら、当時は踏切を渡った、今の国際タクシーのところに初代「牛島店」があって、後にそれが閉店・統合されたからだそうだ。
現・牛島店には、秋田銀行のATMコーナーがあるが、それは今も「マルダイ新牛島店」の名称。
マルダイ牛島店は、道路に面して広い駐車場があって、その奥にお城が建つ。お城の形はともかく、配置としては当時としては時代を先取りしたスーパーだったはず。

マルダイ牛島店には、郵便ポストが設置されている。※「郵便受け」ではなく、郵便物を出すほうの「郵便差出箱」のことです。
建物際にポスト
スーパーは人が集まる場所だから、ポストがあるのは珍しくはない。
道路際ではなく、店の建物のほうに設置されているが、それも普通。スーパーに用がなくて、投函だけする人は面倒だろうけど。
でも、ここの場合、設置位置がちょっと変わっている。
上の写真で、左奥の銀色のサッシが店舗の出入り口。その右手前に、もう1つ黒い枠のドアがあるが、店内には通じていない。そのドアの横にポストがある。
黒い枠のドア
ポストの上の微妙に高い位置には、郵便受けもあり「マルダイ」と表示。ドアのガラスには「MARUDAI Co.,Ltd. Head Office」。
そうだった。マルダイの本社も牛島店と同じ建物に入っているのだった。その玄関のようだ。

右があきぎんATM
ポストは、店舗入口と少し距離を置いて背を向け、本社に出入りする人が使いやすそうな位置と向き。これでは、来店客を相手にしていないように見えてしまう。

Googleストリートビューを見てみた。
2012年10月撮影
今と色などが微妙に違う。
そうだった。牛島店は数年前(2016年11月)にリニューアルされている。上のストリートビューでは、左右両端の赤い枠が店舗出入り口。
リニューアル時に、赤が銀色になって、左側の小さい出入り口を廃止、右側1つになった。
そして、リニューアル前と今とで、ポストの位置が違う。上画像では、右の出入り口の左側(Googleロゴの「g」の上)に、右向きで設置されている。
現在は、同じ向きのまま、右隣の本社出入り口の左側へ移設されたことになる。

はっきりとは分からないが、店舗玄関は色だけでなく、構造も変更された感じがするので、ポストが干渉してしまって、移設を余儀なくされたのか。あるいは、収集時に客を邪魔してしまうようなこともあったのかも。
以前も今も、右を向いている理由は、収集(取集)作業のためで間違いない。ポストは向かって左側に扉があるので、正面向き設置では左面と壁が近くて、扉を開けられず集められなくなってしまうから。
同じ理由で、ポストが横を向いているケースは、わりとある。昔の丸ポストは、扉の向き(頭の向き?)を変更できる設計だったのだが。

でも、マルダイ本社関係者以外の郵便を出す人にとっては、ほんの数歩ながら余計に歩かされ、用もない本社玄関に近付かされ、少々抵抗感を覚える配置かもしれない。
もう少し前もしくは左前に脚を埋めれば、正面向きに問題なく設置できそうに見える。それでも客の動線に影響なさそうだし、多少デッドスペースが増えるもののこんな半円形の柱の前なんて、大した使いみちもないのでは?
些細なことだけど、移設時に、もう少し配慮してくれても良かったと思う。
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竿燈2020

2020-08-06 22:12:42 | 秋田の季節・風景
いつもならば、梅雨が明け、竿燈まつり(昨2019年)最終日の秋田市。
今年は、まだ梅雨が明けず、新型コロナウイルス感染症のため竿燈は中止(中止は戦時中以来)。
最近は、アブラゼミが鳴き、暑く、日差しは少ないものの夏っぽいとは思うけれど、いつもの年ならばと考えると、物足りない。
(国は認めないが)東京などで感染第2波が起きているのを思えば、(竿燈以外の全国各地も含めて)夏祭りを中止したのは、妥当な判断だった。

竿燈が取りやめになったのは、8月の4日間のまつりだけではない。
竿燈参加団体を取りまとめる組織・秋田市竿燈会(市役所やまつり実行委員会とは別)では、各団体に対し、コロナ感染症が終息するまで、竿燈の練習を自粛することも求めている。
その結果、町内の練習=技術継承が止まるのはもちろん、学校単位で参加する所では、卒業年次の人が最後に何もできずに終わってしまうようなことになる。あるいは、昔ながらの町内ごとに地元で竿燈を揚げたり、病院や高齢者施設などへ出向いて見てもらうようなことも、できない。
秋田県内では新規感染者がほぼなく、流行していないのだから、少し緩和してもいいようにも感じる。

そんな状況でも、竿燈に出ている町内の地元では、せめて雰囲気だけでもいつも並みにということか、こんな光景が見られる。
川反五丁目

八日町
各町内竿燈会の練習拠点や詰め所となる、神社や町内会館などに、いつも同じように(2009年の記事)提灯などを飾り付けている。ただし、まったく飾っていない町内も少なくない。

町内の道路や各家庭にも提灯を下げる所も。
室町・グラジオラスと

柳町・自販機と(提灯の向きが揃ってないのが惜しい)

柳町・これは竿の切れ端?

竿燈の実物は、竹を組んで、提灯を取り付ける作業が必要になるが、いくつかの町内では、今年も組み上げて、特別に設置(立てて固定)しているようだ。
秋田大学でも、医学部附属病院の玄関ホールに飾ったことが、7月30日の魁で報道された。それによれば、「秋田大学竿燈会には学生も所属するが、9割は教職員。」。じゃあ、秋大竿燈会は学校竿燈というより職場竿燈に近いのか。県立大や国際教養大のほうが、学生の竿燈が盛んなようだ。※秋大は附属特別支援学校も竿燈に出ているが、残り「1割」に含むのか(大学本体と別の竿燈会扱いの可能性がある)は不明。


さて、夜のまつり会場になるはずの竿燈大通り。
日本銀行秋田支店前交差点付近から二丁目橋方向
中央分離帯の観覧席も、そのほかも何もない、平常の光景。上の写真に人も車も少ないのは、いつものことであり、タイミングのせいもある。
なお、例年、東北電力がまつり直前に会場周辺の電気設備の点検を行っているが、それは今年も実施された。

そのほか、昼の会場となる秋田駅前にかけての中心市街地には、竿燈らしいものはまったく確認できなかった。
まつりがないのだから、それで適切かもしれないが、各町内と比べると寂しい。

ねぷたまつりが中止になった弘前では、「伝統復活事業「#城下の美風」」と銘打って、土手町などの通りや各施設・家庭に、小さなねぷたを飾り付け(昭和まであった風習だそう)るなどしている。弘南鉄道大鰐線の車内にも金魚ねぷたが下がっている。
竿燈の一部町内の対応に通じるものだが、秋田でも街全体でこんなことができたかもしれない。

夜空に揺れる竿燈を次に見られるのは、いつになるだろう。

【7日追記】翌7日は立秋。立秋時点で梅雨が明けていないと「梅雨明けなし」とされるそうで、今年の東北北部はその可能性が高くなった(今後の検討で、それ以前に明けていたとされる可能性もなくはない)。また、秋田市内で新型コロナウイルス感染者が8人発生。いろいろとある夏。

また、7日付秋田魁新報地域面では、市内のある町内竿燈会では、子どもだけが町内で竿燈を揚げる催しを1晩だけ、ぶっつけ本番で行ったことが報道された。衣装は正式なもので、提灯にはろうそくが灯っていた。
市竿燈会は、練習さえ自粛を求めたのだから、子どもであっても、地元であっても、今は竿燈を揚げることなどできないと思っていた。報道されたのだから、自粛要請を受け入れずに“強行”したというわけでもないだろう。
市竿燈会の決定内容を詳しく知らないが、そういうことが実施できるのであれば、本文中で触れた大学卒業年度の人や福祉施設入所者向けくらいなら、やれるのではないだろうか。各団体でより慎重に判断しているとか、練習なしでは事故の危険があるといったことはあるだろうけど。

※2021年も中止、2022年に3年ぶりに開催された。
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産業会館跡地に謎の物体

2020-08-05 00:42:09 | 秋田の季節・風景
昨2019年、20年以上空き地だった、秋田市中央部の「旧産業会館跡地」に、久しぶりに建物が建った
と言っても、仮設のプレハブ。
千秋公園下の秋田県民会館跡地に建設中(2021年末竣工・年度末開館予定【9月15日追記】新型コロナウイルスにより工事が遅れ、2022年6月オープン予定に変更された)の、県と秋田市の複合新文化施設建設工事の現地事務所。
今年の春頃、少し変化があって、それが謎。
竿燈大通りから

土手長町歩道橋から

(再掲)昨年撮影
歩道橋からの写真を比べると、昨年は、敷地内の建物沿いに仮囲いが設置され、囲われていない部分は駐車場のようだった。
現在は、仮囲いが敷地いっぱいまで拡張され、敷地の一部に赤い鉄骨で組まれた構造物が新たにできた。既存の2階建てのプレハブよりも少し背が高い。
竿燈大通りからの写真では、左側の信号機の背後に位置し、真っ白な正方形に近い板で覆われている。

今年春に気付いた時は、鉄骨を組んでいたから、工事の進行に伴い、プレハブを増築するのかと思っていた。その後、壁ができる気配がなく、西面に目隠しのような白い板が付いただけ。南北面は鉄骨むき出しのまま。
素人には意味不明な物体。
向かい側土手長町通りから

歩道橋からズームして、北面を拝見。
う~ん
それでもよく分からないけれど、こんな↓感じ?

4層構造+屋根の構造のようだが、地面には床がない。地面に置かれた車輪がついたオレンジ色のものは、レンタルのニッケンのシールがあり、昇降しそうな感じ。
2層目と3層目は、構造はほぼ同じ。鉄骨枠のやや内側に、フロアの下から上まで、ガラス状のものが張られている。ガラス面は垂直でなく、竿燈大通り側から見て「\」のように傾斜している。
ガラスは、2層目では透明で、向こう側の自販機が見えているのに対し、3層目は鏡面のようでこちら側が写っている。
4層目は、腰よりやや高い位置までガラスがあり、金属の手すりもある。ビル内などにある、転落防止の柵と同じもののように見える。

上の写真右側(フレーム外)が白い板だが、その間に足場が組まれている。上の画像では、3層目以上は覆われていて見えないが、赤い○で囲った部分、2層目では覆いがなく、2層目の床と高さが一致する足場が接続しているのが確認できる。
拡大
驚くのは、2層目の「床」だと思われる部分の幅の狭さ。鉄骨全体の幅(南北方向)に対して、極端に狭い。人1人が通れるくらいのようだが、ガラスがあるからどうなのか?
一方、反対側、既存プレハブは2階建てなわけで、この物体のフロアとは一致しない。しかし、プレハブとの間にも足場が組まれていて、はしごもある。おそらくそこを伝って、人が出入りするのだろう。でも、この幅では?

反対の南面は、既存プレハブに隠れてほとんど見えないのだが、また違う造り。
土手長町通りから
木質っぽい横方向のルーバー状のもので覆われた部分がある。おそらくそこが3層目。
その上の4層目は、北側からと同じく、ガラスの柵が見える。
竿燈大通りに向いた西面の白い板は、日除けなのか、目立つ場所だから目隠しなのか。気にし出すと目についてしまい、映像を投影するスクリーンとして使えそう、広告なり絵なりかいたらどうか、などと考えたり…

人が常時滞在する場所ではなさそう。何かの作業を行う場所なのか? ほんとうにまったく分からない物体。何なのでしょう?????

【8日追記】コメントで教えていただき、正体が判明。これは「試験施工用のモックアップ」とのこと。
図面からいきなり実物を建てるのではなく、事前に同じ材料で試しに作ってみて確認するためのもの。
それを踏まえて、新施設の完成予想図を見ると、正面側の外観が傾斜したガラス風になっていて、この謎だった物体の2~3フロアとかなり似た見た目だ。今後に注目。

【2021年4月10日追記】その後、本体の工事が本格化した2021年春までには、このモックアップは撤去された。
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