広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

矢口高雄氏逝去

2020-11-29 00:28:06 | 秋田のいろいろ
11月20日、漫画家の矢口高雄氏が亡くなった。秋田県西成瀬村(後に増田町、現・横手市)出身で、代表作は「釣りキチ三平」。以下、一部敬称略。
亡くなったことは、全国版でも朝日新聞「天声人語」など小さくなく報道され、秋田魁新報では逝去発表翌日は多くの紙面を咲き、その後も地域面で連載「三平の残照/矢口高雄さん逝去」が始まるなど、連日記事になっている。


僕は、残念ながら矢口氏の作品に、意識して触れる機会はほとんどなかった。1980年代前半に、テレビアニメ化(フジテレビ)された釣りキチ三平を見たという、おぼろげな記憶がある程度。矢口作品がきっかけというツチノコブームの頃にはまだ生まれておらず、教科書に掲載されるようになった頃には大人になっていて、世代的にタイミングが合わなかったこともあろう。
しかし、秋田県を代表する漫画家ということで、県内にいると三平を始めとするキャラクターは目にする機会が多い。人物もさることながら、魚のうろことか背景の自然の描写が緻密で美しく、漫画のコマというより絵画のよう。【12月2日追記・三平の麦わら帽子の繊維1本1本の描写が緻密なのも、昔からすごいと思っていた。】
ちょうど1年前には、秋田に関わりのある人の半生を綴る、秋田魁新報の連載「シリーズ時代を語る」にも取り上げられた。

秋田市民になじみがあるのは、当ブログでも何度か取り上げた秋田中央交通の釣りキチ三平を車体や座席(背もたれ)に描いた「三平バス」であろう。
※「釣りキチ」は入らない「三平バス」が正式。また、ラッピングフィルムによる車体広告とは異なる手法で描画されているので、個人的には「ラッピングバス」とは呼びたくない。「専用塗装」「特別塗装」ととらえるべきだと思う。

以下、以前と重複します。
三平バスは2001年に、秋田中央交通創業80周年記念として、路線バス15台、貸切バス1台を導入。
路線車は、秋田市交通局からの段階的路線移管の真っ最中だったので、その戦力の意味もあった。従来より1段少ないワンステップ車、一部はフルモデルチェンジ間もない、いすゞエルガミオということで、当時としては先進的。
貸切車は、いすゞ自動車のデモンストレーション用のサンプルカーを購入(新古車)して、三平バス化。

気になったのは、
・矢口氏自身も、三平の作品も、秋田市や中央交通の営業エリアとの関係は薄いのに、どうして起用されたか。
・そうした由緒や、80周年記念であることの説明が、乗客には一切知らされていない。
・あっていいはずの、作者名や著作権の表示が見当たらない(そういう点に鷹揚な方だったのかもしれないが)。
といったこと。

その後、当時の秋田中央交通の社長(後に会長、2016年没)が、矢口氏と旧知であることが、三平バス導入につながったらしいことを知った。
社長と矢口氏は、同い年ではあるようだが、具体的にどういうつながりかは知らない。

雪国を長年走り続けるバスだけに、車体は傷む。
2012年頃以降順次、三平バスの車体のリニューアルが施工され、路線バスの通常塗装に塗り替えられていった(一部車両は廃車)。会長が亡くなったのと同じ、2016年秋には、車体に三平を描いたバスは、1台もなくなってしまった。
(再掲)塗装変更後と変更前
塗装変更後も、車内の座席は、従来どおり三平が描かれている。
上記、魁の「時代を語る」の中(2019年11月26日付34回)で、矢口氏ご本人が「釣りキチ三平は秋田中央交通のバスやJA秋田ふるさとの段ボールなんかにも描かれている。」「(昔は低く見られていた)漫画が目を引く存在になるなんて、感無量」と述べていた。
だけどその時点では、三平バスが中身だけになっていることを、ご本人はご存知だったのだろうか。

逝去後の「三平の残照」27日付第1回「笑顔の釣りキチ/行き続ける古里の顔」では、JAの農産物やラーメンとともに、車庫で撮影したと思われる、三平バスの車内後方の座席の写真が掲載。
「秋田中央交通(秋田市)は、01年から16年まで、釣りキチ三平の姿を車体やシートに描いた「三平バス」を走らせた。現在も一部車両のシートには三平バスの姿がある。」
と偽りない表記になっているが、再塗装を知らない人には理解できないかも。

ちなみに、JAではホウレンソウの袋にも三平を描いている。「釣りキチ三平」の作中では、ソウギョをホウレンソウのおひたしを餌にして釣る話があったのだとか。それにちなんだの?

車体をきれいにしても車齢20年。遠くないうちにすべて廃車されるだろう。
座席は、廃棄物にするくらいなら、取り外して売ったらどうでしょう? ほしい人はいるでしょう。あるいは横手市増田まんが美術館(矢口氏の記念館だが、本人はその名称を固辞し、幅広く原画を収集展示している)に展示するとか。




ほかに秋田県民が身近だった矢口作品といえば、昔の羽後銀行のカレンダーではないだろうか。
北都銀行の前身である「羽後銀行」では、客に配るカレンダーの絵に、矢口氏の絵を載せていたことがあった。
起用理由は明白。矢口氏は30歳まで、羽後銀行の行員だったから。
僕が矢口高雄という人を認識し、秋田出身(で元銀行員)ということを理解したのは、カレンダーだった。

羽後銀行は1993年に、秋田あけぼの銀行(旧・秋田相互銀行)を吸収して、北都銀行になった。おそらくそのタイミングで、矢口氏によるカレンダーは廃止。
あけぼの銀行では、近年再注目されている秋田県象潟町出身の版画家・池田修三作品のカレンダーを配っていた。これも合併後廃止。
北都銀行になって、修三か三平かどちらかだけを切り捨てるわけにもいかず、両方ともやめたのではないだろうか。

北都銀行はさらに、2009年に山形の荘内銀行と経営統合し、フィデアホールディングス(本社は仙台)傘下となった。
報道によれば、矢口氏は銀行員経験があって良かったと考え、銀行員と漫画家を両立しようとすることに厳しい態度で接してきた元上司にも感謝していたという。魁には、その元上司のコメントも出ていた。
羽後銀行あっての、矢口高雄だったことになる。


CMに起用していた芸能人が亡くなると、ホームページなどで弔意を示す企業は少なくない。ご遺族へ直接伝えれば充分という判断もあるだろうけれど、素知らぬ顔でいるよりは、一般人の印象は良くなるとは思う。
今のところ、秋田中央交通も、北都銀行も、JA秋田ふるさとも(全農秋田県本部も)、そのようなものはなさそう。

秋田中央交通は、社長も代わったし、車体も変わったし、もう過去のことなんだろうか。(でも新聞には載った)
北都銀行は、名前は変わったし、フィデアになったし、もう過去のことなんだろうか。(でも羽後銀行時代の経験も大切に思っていらした)
JAに至っては、今も、商品に作品を使い続けているのに…

なお、横手市役所のホームページでは、トップページの新型コロナウイルス感染症情報の下に25日付で「矢口高雄氏 ご逝去のお知らせ(訃報)」を掲載。別に市長メッセージもある。

【12月3日追記】第3セクター鉄道・秋田内陸縦貫鉄道では、2019年4月の開業30周年時に、矢口氏を応援大使「スマイルレールアンバサダー」に委嘱していたとのこと。
訃報に際し、マタギのキャラクター「かけるくん」を描いたキャラクターを、年明けまで列車のヘッドマークにして掲出することになった。報道され、公式ホームページでも追悼・紹介してくれている。

その「かけるくん」は、内陸線のキャラクターではなく、沿線であり同社出資者の1つ、「北秋田市公認キャラクターの阿仁マタギ」とのこと。
12月3日付の魁の連載で、ちょうど取り上げていた。かけるくんは、1995年に旧阿仁町40周年記念として、矢口氏に依頼したもの。しかし、2005年の合併・北秋田市誕生で、あいまいな存在になってしまったので、2019年に改めて北秋田市のキャラクターとして契約した。
北秋田市では2018年からハローキティを「北秋田市ふるさと大使」にしてしまっていたこともあるのか、北秋田市のホームページでのかけるくんの影は薄く、紹介ページもない。

ホームページを見る限り、横手市や内陸線は、矢口氏に感謝と弔意の気持ちがあるのがよく分かった。
一方、北都銀行、JA、中央交通、北秋田市は?

【12月6日追記】さらにすっかり忘れていたが、秋田駅の駅弁として関根屋が「釣りキチ三平弁当」を何種か発売していた。2009年2011年に記事にしていた。
訃報を受け、2011年版の「釣りキチ三平弁当・きのこ編(和牛入り)」が、12月1日から20日まで再発売。税込み1080円。
関根屋ホームページでは「先ごろ亡くなられた秋田県横手市出身の漫画家・矢口高雄先生とコラボした駅弁です。」「追悼の意を込めて期間限定で販売します。」とあり、関根屋さんにしては迅速な対応ではあるが、トップページには「期間限定で発売」程度しか表記がない。

それにしても、秋田では、矢口氏とその作品が、広く浸透していたのを改めて実感。
2021年2月には、釣りキチ三平にちなんだパンが発売された。




全国的な場面では、意外な所で矢口作品が使われていたのを、つい先日知ったばかりだった。
NHK「みんなのうた」。

11月初めまで、日曜深夜にアニメ「未来少年コナン」が再放送されており、その後に「みんなのうた」の再放送(厳密には「リクエスト」枠として、再放送とは区別されている)があった。
10~11月は、1曲目が以前触れた、1987年初回放送・工藤順子の「風のオルガン」で、懐かしく見た。
2曲目は「だるまさんがころんだ」。作詞作曲 山本正之、うた 斉藤こず恵。
ちなみに、斉藤こず恵は「山口さんちのツトム君」で有名になった人だが、みんなのうたの放送では別人の歌唱。斉藤こず恵がみんなのうたで歌ったのは、だるまさんがころんだ1曲だけ。
【29日追記・この2曲の今回の放送は、すでに終了しています。29日などは別の曲が放送されます。】

歌詞は、100まで数えなさいと言われて、「だるまさんがころんだ…」と100音になるデタラメな文章で、短時間に数え終えてしまうという、内容。
僕は歌は知っていた。持っていた、みんなのうたのカセットテープに収録されていたから。
しかし、放送で見聞きしたことはなく、この時は初視聴。

放送版とソフト版では、別収録どころかアレンジや歌手が違う場合もある【29日補足・歌手とレコード会社との関係によるものもあるはずだが、歌手の男女が変わったり、大幅にアレンジされてしまうこともあった。】し、時期的に放送版はモノラル録音のこともある。「だるまさんがころんだ」に関しては、記憶のソフト版と今回の放送版で、大きな違いはなかった。放送はモノラル音声だった。

初回放送は1978年8~9月。Wikipediaによれば、その1年後に再放送された後、ずっと再放送されなかったらしい。当時としては珍しくないが、NHK側で映像を破棄してしまったようで、視聴者からの提供によって2013年に復刻(みんなのうた発掘プロジェクト)されたとのこと。


初めて接した映像は、
これは!
アニメーションというより、静止画をズーム程度に動かした映像がメイン。「かんかんからす」などの中島潔氏の絵みたいな感じ。
100数える部分は、純粋なアニメのようだ。

みんなのうたでは、歌が始まってすぐ、歌手とその映像の作者の字幕が出るのが基本。(時代によって異なるようだが)
「だるまさんがころんだ」では、歌手だけ表示。

短い間奏の時に、
「イラスト 矢口高雄」「アニメーション 南家こうじ」
鮮明な字幕で、デジタルフォントのフォントワークス「ニューセザンヌ」だから、映像発掘後に入れられたことになる。
なお、この歌でも使われる、1970~1990年代中頃まで使われた角ゴシック体は、モリサワの写植用書体で、漢字と仮名で違う書体だったようだ。完全に同一のデジタルフォントはない。→この記事参照
実はもともとの放送では、映像が始まる前に一瞬、ブルーバックに「イラストレーション 矢口高雄」「アニメーション 南家こうじ」の文字が表示されてから、本編(歌手名表示)が始まっていたらしい。
【30日追記】字幕が出る前の1番の絵(主に人物)を見ただけで、もしや矢口高雄? いや、矢口高雄に間違いないという確信は持てた。それだけ、特徴的なタッチの絵なのだろう。でも、クセが強いわけではない。

ということで、矢口氏がみんなのうたの映像も作っていたのだった。「だるまさんがころんだ」が唯一の作品。
人物は矢口作品そのものだし、見慣れた自然の中ではないが、家の細部など細かく描かれているのがさすが。

アニメ部分。みんなのうたで歌詞が3行表示されるのは異例
アニメの南家こうじ氏も、これが最初の作品だった。姓は「なんけ」。数年前まで「みなみや」と思いこんでいた(落語家じゃないんだから)。
その後も、多くの作品を手がけて、みんなのうたの常連。現在まで43曲(個人的には「あさおきたん」、森口博子の「上級生」が懐かしい)に携わっている。堀口忠彦と「とこいった(堀口氏の別名義)」を合わせた作品数よりも少し多い。
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弘大裏の変電所跡の跡

2020-11-25 23:54:31 | 津軽のいろいろ
弘前シリーズ。引き続き、弘前大学文京町地区周辺。
気になっていたことその2は、ネットで知ったことの現地確認。

場所の説明(下の航空写真も参照ください)。文京町地区のキャンパスは、正門のある東辺が、富田大通りこと青森県道127号線に面する。
裏の西側には狭い市道があり、さらに西に弘南鉄道大鰐線、そして土淵川が南北に通る。
キャンパス中央は東西の市道で区切られ、正門のある北側が文京町1番地、南側が3番地。学生はあまり使わないと思うが、(少なくとも20年前の)大学当局側は施設管理などの際に「文京町○番地地区」と呼称する場合があった。
1・3番地を分ける市道を西へ進むと、弘南鉄道西ヶ丘踏切を越えて「寒沢スキー場」。
3番地地区の西側では、大学敷地と市道の間に家が並んで面していないが、そこは何度もカーブする「バカヤローカーブ」。

3番地側のバカヤローカーブと線路の間には、行き止まりの道や砂利道しかないはず。
一方、1番地(西側だから教育学部)側では、その市道と線路の間に、もう1本、細い市道が並行している。つまり、大学側から行くと、西ヶ丘踏切の手前で、右(北)へ曲がる道がある。地名も富士見町に変わる。
その道沿いのお話。
Googleマップ航空写真に加筆。赤い★の場所のこと
その道は、大学裏の道と幅はあまり違わないが、車の通行はずっと少ない、生活道路。
僕は、学部と家の方角・ルート的に遠回りになる(しかも、ここを通る=バカヤローカーブを通ることになる)ため、あまり通ったことはなく、なじみは薄い道。
ただ、まれに通ると、印象的な場所があった。
低い塀と門で閉ざされた、樹木がうっそうと茂る土地。
南から
↑↓2枚は、2019年10月撮影Googleストリートビューより。
北寄りにある大きな門。ほかにも小さい門があった
路上から見る限り、道路に面した南北方向も、奥行きの東西方向も長く、広い土地だった。航空写真でざっと比べると、弘大3番地の多目的グラウンドと同じくらい。後述の保存樹林の説明板には「約1ヘクタール」とあった。
Google航空写真でズーム
道路から大きい門をのぞくと、樹木の奥にレンガ造りの建物も見えた。航空写真でもちらりと屋根が見える。
表示などはなく無人のようで、空いたお屋敷の跡か何かかと思っていた(後述の保存樹の表示はあったはずだけど)。


その後、ネットでわずかに情報があり(もしかしたら在学中の「学園だより」にも載っていたか??)、正体を知った。
大正末に造られた、私設の変電所の跡。

造ったのは、前回も登場した、酒造会社経営者(でいいのかな?)・福島藤助。
旧相馬村エリアの紙漉沢という所に水力発電所も造り、この変電所で降圧して、吉野町の醸造所で使ったということのようだ。
いつからか変電所は使われなくなり、醸造所は美術館になったが、発電所は今も現役で、吉井酒造が運営しているらしい。

敷地内の木々は、ソメイヨシノ。1991年に弘前市の「保存樹林」第六号に指定されていた。剪定されない、自然のままの樹形が特徴。花の時期に通ったことはなかったはず。
近年は、吉井酒造(の経営者個人?)の所有だったようで、「富士見町吉井氏所有叢林」として登録。

変電所やその跡としての名称は、一定していないようだ。ネット上では、頭に「旧」や末尾に「跡」を付けた上で、「福島醸造変電所(稼働当初の所有者?)」や「吉井酒造変電所(末期の所有者?)」と呼ばれている。
変電所がいつまで稼働したかは不明。かつてはレンガの建物がほかにも建っていたとの情報があった。
国土地理院のサイトで、1975年の航空写真を見ると、木が小さく、緑の地面が多く見えていた。ソメイヨシノの寿命は長くないから、稼働当初からあったのではなく、後年植えられ、この30~40年で繁茂したということか。
※1939年の地形図には記載されていた。1970年代の地形図では地図記号なし。この記事後半で少々。

非公開だけでなく、存在自体が大々的には公表されない、知る人ぞ知る場所であった。
しかし、2014年のJR東日本「駅からハイキング」では、「変電所跡」としてコースに組み入れられていた(敷地内に入れたのかは不明)。注目されるようになったのかなと思った。
産業遺産であり、緑豊かな空間でもある。この付近には公園(児童公園・街区公園)は少ないはずだし、整備して開放すれば、住民の憩いの場になるのにと考えていた。
弘前駅裏の長四郎公園がそうだと思うが、大規模な「近隣公園」にしてもいいかと思ったら、国は2ヘクタールを標準とすることとしていたから、足りない。街区公園としては充分な広さ。


ところが、今年8月頃、ネット上でここに関する新たな動きを知ったので、現地へ。
南から。奥の工事は無関係
見覚えがあるのは塀だけ。
樹木もれんがの建物も、すっかりなくなって、更地になってしまっていた!
地元の不動産業者名の「管理地」の看板が立っていた。ちなみに、マルサンビル解体の発注主の不動産屋とは別。


保存樹の指定解除は、難しいことではないようだ。秋田市では、旭北寺町の大ケヤキが道路建設という理由で解除・伐採された事例がある。
7月2日に開催された「弘前市みどりの審議会」会議録が、弘前市サイトに掲載されている。会長は弘大農学生命科学部の元先生(現・名誉教授)だ。
それを見ると、「所有者の手入れがままならない」「弘南鉄道線路上へ枝が張り出すので、毎年刈払いをしている」「近隣住民からも、強風時など不安という声」と、所有者による管理が手に負えなくなり、「特別の理由」で指定解除された。
近年は、てんぐ巣病や、木が大きくなって競合も起きていて、剪定もしていたという。弘前市役所側では、土地の買い取りを考えたものの、金銭的に実現できないとの結論。
伐採作業は8月頃。会議録がネットに上がっているのだから、マスコミも知り得ることだが、報道はされたのだろうか。

個人所有の木や建造物が、その持ち主の負担ならば、壊したり手放したりするのはやむを得ないだろう。古いものを大切にする弘前にあっても、それは避けられない。2016年には、松原東にあった、旧・陸軍第八師団のレンガ造りの「覆馬場」の建物を使っていた生協のスーパーが、解体されている(この記事参照)。
でも、勝手な意見として、ここの場合、もう少し残すための努力ができたようにも思う。もっと早い段階で、市に伝わったり、マスコミやネットで広まっていれば、残す道があったかもしれない。今はふるさと納税とかクラウドファンディングとかもある。
吉野町の倉庫はきれいになって注目されているのに、遠くない場所にある同じ起源を持つ場所が、ひっそりとなくなってしまったというのは、少々やるせない。

更地になったから、西側の視界は開けた。
ここからも岩木山がよく見えるようになった
昔の寒沢スキー場の記事(冒頭にリンクあり)で取り上げたように、この辺りの地形は、土淵川を底にした坂で、寒沢スキー場もその1つ。
変電所跡では、西辺が線路に向かった崖状になっているようだ。線路向こうも家が建っているはずで、弘南鉄道の車内からでないと、見ることはできないと思うが、意識して見たことがない。
上の写真では、線路の架線がかろうじて見えているようだから、崖は電車の車高分の高低差がありそう。
その向こうの家並みは、手前が線路向かいの寒沢町、その奥の少し高いのは、土淵川対岸の桔梗野のはず。
【26日補足】そういう地形的なこともあって、ここが「富士見町」で、実際に津軽富士がよく見えるわけだ。

“変電所跡の跡”はどうなるのだろう。
店舗には不向きな場所。学生向けアパートなら最適だろうけど、広すぎる? この辺では珍しい新しい宅地も、市街地回帰でいいかも?
でも、やっぱり公園? 眺めが良さそうだけど、向こうの家の中が見えちゃうか。
弘前大学さんが買って、何か施設(体育施設とか)を建てつつ、一般に開放するなんてのもいいかもしれませんよ。

【2021年5月18日追記】ここが建築条件付宅地分譲「サンヒルズ富士見町」として、44区画が分譲されることになった。2021年5月に、不動産会社による特設サイト開設、テレビCMが始まっている。
サイトには「建設した変電所として利用されていた場所でした。その後は林地となり、ソメイヨシノの名所ともなっていました。」などと、発電所跡であることも明示されている。「弘前中心エリアにありながら、これだけの広大な土地が残っているのはとても稀です。」ともあるが、だったら、違う使いみちで残してくれても…
北寄りの崖際には「緑地」もできることになっていて、そこからの眺めはどうなるだろう。→2021年12月の状況

弘前の話題は続く
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焼肉モ~モ~解体直前?

2020-11-23 23:54:09 | 津軽のいろいろ
弘前の続き。今回は、気になっていたことその1・モーモーのその後(前回の記事)。
弘前大学正門のそば、富田3丁目にあり、市民や大学生に親しまれた「焼肉モ~モ~」が、2020年5月10日で閉店した。
同じ建物1階に入っていた、八戸のユニバース運営の小型スーパーマーケット「Uマート弘大前店」も、6月30日で閉店。「建物・設備の老朽化が激しく、同じ場所に建て直すには敷地面積が狭隘」「2020年8月に家主様との建物賃貸借契約が期間満了を迎えるのを機に、やむなく閉店」との説明。
これにより、空き屋になった。

報道により、1986年に建てられたことが判明。今回、新たに青森県の大規模小売店舗一覧資料により、1986年3月18日付新設であることが分かった。
スーパーは、マルサン富田店→(2000年前後)マルエス主婦の店弘大前店→(2008年)Uマートと、3社が入った。

ネット上の写真を拝見すると、10月29日頃には、Uマートの看板類はなく、正面のモ~モ~の赤い看板は残っていた。建物前にロープが張られ、正面玄関には、大きな「立入り禁止」の赤い看板が立てられていた。それから半月ちょっとしての訪問。
看板が撤去され、足場が組まれている!(左が東・弘大方向、右手前が北・土手町方向)
2階の半分ほどに足場がなかったから、まだ設置途中なんだろうか。
例の「立入り禁止」は少し移動していた。他に2枚くらい同一看板あり

スーパー正面玄関。ここからはモーモーへは上がれないはず
正面玄関前だけ、床がタイル張りになっていた。

向かって左面・弘大側。軒下はアスファルトの駐輪場
上写真左奥も玄関で、そこに2階への階段があった。
奥にも「立入り禁止」が見えるが、隣の「酒ショップ サン」と駐車場を共用しているので、この位置から規制のようだ。

弘大・共用駐車場側から(上写真と同じ面)。手前右の白いのはUマートの看板だった
白い看板の下に、工事の現場事務所があり、表示が出ている。前まで立ち入れるので拝見。
「工事名 マルサンビル(Uマート)解体工事」
状況を踏まえれば予想できたが、解体されることが確定。解体工事は、地元の不動産業者発注のようだ。工事期間(労災保険の表示より)は10月1日から2021年3月31日まで。
驚いたのは、建物名は今なお「マルサンビル」ってことなんだろうか。
何度も言っているけれど、弘前市内には複数のマルサンがあったが、いつの間にかなくなった。そして、秋田駅前広小路にあったマルサンとも関係がありそうなのだが、よく分からない。

西面の裏道へ回ってみる。これまで数度しか通ったことがない。
この辺りから壊すのかも

「焼肉モ~モ~」の痕跡はすべてなくなってしまったかと、表へ戻って酒ショップサンを越えて、弘大側へ行くと…
駐車場の看板が残っていた! 縦書きモ~モ~は貴重かも?
こちら側は月極駐車場の一角を、モ~モ~用にしていたらしい。
1台ごとの札も残り、焼肉なしの「モ~モ~」
今は誰も駐めないということか。

北面。こちらの軒下には、空調の室外機や受電設備(キュービクル)が置かれていたが、台座を残してすでに撤去済み。
向こうに岩木山。道路の先は弘高下駅
岩木山は、昔は見えなかったはず。今は右折レーンがあるが、昔はなくて道が狭く、家が建てこんでいたので(2013~2014年の間に拡幅、家屋解体はそれ以前)。
【2021年8月29日追記】前回のマルエス当時の写真の隅に、右折レーン設置前の角地が写りこんでいた。
(再掲)右奥
古い商家風の建物で「成田米」と看板があり、米屋さんだったようだ。なんとなく記憶にあるようなないような。(以上追記)

次にここへ来る時は、建物はなくなっていることだろう。
跡はどうなるのか。スーパーとしては駐車場も考慮すると手狭なようだけど、場所は悪くないはず。


最後に、再び裏面。
手前の建物は赤れんが
上記のように、マルサンビルと酒ショップサンは、駐車場を共用し境界が明確でない【下の追記参照】。さらに、その隣(=弘大のお隣)にある酒造会社「弘前銘醸」も、渾然一体となっている。所有者がどうなのかは知らないが。

れんがの建物は、同社の倉庫で、弘前市の「趣のある建物」に「弘前銘醸煉瓦倉庫」として指定。
今は4棟が倉庫として使われるが、元は大正7年に8棟が酒蔵として造られたとのこと。
【24日追記】1986年より前の航空写真を見ると、マルサンビルの部分に、現存する倉庫とそろった位置(サイズはまちまち)に同じような倉庫らしき建物が、3棟ほど確認できた。サンや駐車場の辺りにも、建物があった。したがって、少なくとも元は弘前銘醸の土地で、倉庫などを解体してマルサンビルやサンができたようだ。

【12月7日「酒ショップ サン」について追記】酒ショップ サンは、弘前銘醸が運営する店舗だった。
同社公式ページに「自社商品としてのお酒のプロデュースや氷の製造販売、日本酒、ビール、ウィスキー、ワイン、焼酎など様々なブランドのお酒を販売する実店舗「酒ショップ・サン」を擁し」とあり、1994年6月オープンとのこと。
ジョッパル(ダイエー弘前店、元ヒロロ)より3か月後にできたのか。もう少し古い店だと思いこんでいた。
【2021年11月22日追記】酒ショップ・サンは、2021年11月22日にリニューアル。角打ちもできる「弘前銘醸 ハチドリ酒店」となった。末尾にリンクのある2021年12月の記事参照。


弘前市内でれんがといえば、土手町や中央弘前駅そば、吉野町の(過去の記事)「旧吉井酒造煉瓦倉庫」。これは、駅前に本社がある吉井酒造のものが、市へ譲渡されたようだ。今年「弘前れんが倉庫美術館」としてオープンしたのだけど、今回は行っていません。
吉井酒造と弘前銘醸は直接関係ないが、元をたどれば、どちらも福島藤助という人が関わった事業の流れをくんでいるようだ。

そして、弘前大学文京町地区の裏側にも、醸造に関わる、れんが造りの建物がひっそりとたたずんでいたのだが、それにひっそりと大きな変化が生じてしまっていたのだった。続く


【2021年1月26日追記】マルサンビル跡地について、2021年1月26日に東奥日報サイトに「スーパー跡地に「メガ」出店へ/弘前市富田」が掲載。紅屋商事が、ドラッグストア「メガ富田店」を9月8日に新設(開店予定日)する届けを青森県に出したとのこと。メガは弘前市内3店舗だが、この辺りにはなかった。
紅屋ならスーパー形態で出店してくれたほうが喜ばれたようにも思うが、最近はスーパーよりドラッグストアなんだろうか。ただ、メガは、比較的食品も多く扱ってはいる。
余談だが、秋田市にも3店舗となるメガが、昨2020年に新国道沿いに開店している。
東奥日報サイトの写真では、建物は2階の高さまで囲われた状態で外観は見えず、更地にはなっていない。交差点の信号機は歩車ともLED式に交換されていて、車両用は横型低コストタイプ。
【2021年9月17日追記】メガ富田店は9月17日にオープンした。

2021年12月の状況
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弘前2020.11

2020-11-21 23:35:58 | 津軽のいろいろ
秋田県北部まで行くついでがあったので、時間を工面して思い切って弘前へ。
昨今の状況への配慮とスケジュール上、2時間ちょっとの滞在であったが、弘前も秋田県外も、今年の正月以来。

インターネットで得た情報によれば、2020年も(2020年だからこそ?)、弘前にはいくつかの変化が生じていた。
弘前駅~弘前大学近辺だけでもいくつかあるので、本数が多い富田大通り経由のバスを駆使して、2時間で上手く回ることができたので、何度かに分けて記事にします。
まずは、変わらぬ光景。
弘前大学文京町地区裏手・弘南鉄道大鰐線「西ヶ丘踏切」から西方向、いわゆる“寒沢スキー場
曇り空に、岩木山がくっきりとそびえていた。
踏切向こう側から

わずかに雪がある
【2021年10月8日追記・この1年弱後、2021年10月初めまでに、踏切向こう側の複数の建物が解体されて更地になってしまったらしい。訪問したら記事にします。】

唯一、想定外だったのは、今週(18日)、イトーヨーカドー弘前店がリニューアルオープンしていたこと。リニューアルは知っていたが、今、開店だったとは。外はそうでもないので入店すると、中はけっこうな混雑だった。
17年ぶり(前は2003年か)のリニューアルで、無印良品、ロフト、アカチャンホンポの弘前初進出【無印は再進出。下の追記参照】が目玉。無印は五所川原エルムにはあるが、弘前にはなかったようだ。
【12月16日訂正】弘前市街地には、以前無印良品があって、撤退していた。今回が再進出となる。弘前に住んでいた頃に存在したことになるのだが、記憶にありません。
11月27日の弘前経済新聞サイトの広告企画「【無印良品】20年ぶりの弘前再出店 青森県内最大規模」よれば、「「無印良品」が弘前に初めて出店したのは、1987(昭和62)年。百石町の交差点近くに「無印良品 松木屋弘前ショップ」として開業しました。」。
その後2000年に閉店、建物は現存しない。
ヨーカドーの新しい店は、「自分で詰める水」給水器や冷凍食品もあり売場面積380坪で「東北エリアでも最大規模」。(以上追記)

アカチャンホンポは5階。他は1階で、ロフトは駅寄り・宝くじ売り場側から入った、前はくつやかばん売り場(一部テナント?)、化粧品売り場(2階へ移転)だった辺り。
無印良品は、北西角・並木通りとの交差点角の入口を入ってすぐ、1990年代後半に増築された部分、前はファッション関係のテナントだった所のようだ。

地下食品売り場は、全体的にきれいになっていた。イオンスタイル茨島みたいな今風に。
インストアベーカリーができて、イオンと同型のセルフレジもあった(レシート印字が筋だらけだったから、前からあったのかも。1月時点ではなかった)
気になったのは、工藤パンの菓子パンの扱いがだいぶ減ったように感じられたこと。昔はあったフレッシュランチやクリームパンはなく、イギリストーストも4種類くらいになってしまっていた。

イトーヨーカドー弘前店については、セブン&アイグループの経営状態もあって、閉店するかもという漠然とした予感がなくもなかった。
でも、このリニューアルを見れば、当面は安泰でしょう。イトーヨーカドーがなくなり、アカチャンホンポはない秋田は…

その他、2階にABCマート(早稲田地区に弘前城東店あり)ができたり、フードコートが拡大。
なお、イトーヨーカドーの地下(バスターミナル部分の下)にあったJTB弘前イトーヨーカドー店は、2019年10月に、近くに移転して「JTB弘前ヒロロ店」に。跡がどうなったか不明。
1階の道路に面した風除室みたいな所にある、細長いイタリアン・トマト カフェジュニアは先に閉店。6月に地元材料で作るパンケーキ専門店が入った。弘前駅前に複数あったイタトマも、今はヒロロ1階だけになった。秋田駅前には1つもない


その他。今回は以前の続き。
弘前駅前の、そうであることに気付かない人が多い、2つの押しボタン式信号
こんなに大きく「押ボタン信号」とあっても気付かない人は気付かない
正月と変わりはなく、相変わらず、両側で1度に計3人が、押さずに突っ立って待っている場面もあった。
すぐ前が、弘前警察署弘前駅前交番。
手作り表示が色あせてしまった(日当たりによるようで、あせていないものも)
交番の左隣、上の写真で手前側には、以前からだったと思うが、季節によっては農産物の無人販売が置かれる。こんな街中・駅前にあるのは珍しい。
この時は、複数品種のリンゴや野菜のほか、袋に入ってもいい香りを放つマルメロなどもあった。
隣が交番で、売るほうとしては心強そう。ただ、場所代込みなのか、無人販売にしては若干お高い気もした。


中土手町の弘前パークホテル1階、2019年5月に閉店した紀伊國屋書店弘前店の跡。これも正月とほぼ変わらず。帰ってから気付いたが、正月は出入口扉前の格子のシャッターが下りていたのが、今は上がっていた。ということは、ガラスの扉の前までは立ち入ることができてしまう。雨宿りに使えそうだけど、その意図は?
向かいが紀伊國屋書店跡
紀伊國屋書店の向かいには、青森銀行土手町支店があった。

ところが、今年3月16日に、支店内支店として弘前支店(弘前公園近くの「青森銀行前」バス停の指す店)内に吸収されてしまった。
今は店は空き店舗になり、ATMコーナーは「土手町出張所」として稼働しているので「青森銀行」の看板は残る。土手町循環100円バス(一般路線バスは乗降扱わず)の「青銀土手町支店」はそのまま。
左が富田大通り、奥が弘前公園方向
旧土手町支店は、角から2軒目。角の店の1階はシャッターが下りて「貸物件」。以前はにぎやかな雰囲気の服屋だったような…
2020年1月27日付「弘前経済新聞」によれば、古着店「ガレージパラダイス」で1月31日閉店。2005年オープンで、その前は短期間携帯ショップ、その前は和菓子店「おきな屋」の支店だったとのこと。
土手町も寂しくはなっている。また、ここから住吉入口にかけても変化していた。

続く。
【24日補足】今回は、 弘前駅前(土手町循環100円バス)青銀土手町支店(徒歩)住吉入口(富田大通り経由安原行き)三中校前(徒歩)寒沢スキー場~教育学部裏~弘前大学前(富田大通り経由駅行き)弘前バスターミナル前 の行程で移動しましたが、適宜入れ替えて記事にします。
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JR支社/工藤パン ホームページ

2020-11-20 00:02:14 | 機械モノ(デジカメ以外)
北東北の2つの企業のホームページ(公式サイト)の変化について。
インターネットが普及して20数年。1990年代後半には官公庁や大手企業が公式サイトを立ち上げ、2000年代になると個人や中小企業にも広まった。
手作り感満載のデザイン、凝りすぎて見かけばかりで中身がないページ、「Sorry, Japanese Only.」とか、今思えば懐かしい。
大山のぶ代版「ドラえもん」の末期、2004年には、ジャイアンの母ちゃんが、剛田商店にホームページが存在することを話す場面があるそうだ。青森県の弘南鉄道は2008年にホームページを開設し「やっと」と思ったものだが、剛田商店より遅い。

その後、個人ではホームページは廃れてブログ、さらにSNSが主流になった。今、個人でホームページを持って更新し続けている人は、相当な熱意・意志・根性がある方に違いない。
一方、企業・団体では、ある程度の規模ならば、ホームページがあって当然というのは変わらない。しかし、技術やデザインの流行り廃りによる変化は多い。スマホ対応、SNSとの併用などもある。
ここまで前置き。


まず、おそらく今週中頃のこと。
東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)の、盛岡支社と秋田支社のホームページが、消えた! 正確には本社ホームページに統合。

JR東日本には12の支社がある。その多くが、本社とは別にホームページを公開している。
東京支社は昔からホームページがなかったようだ。大宮支社と横浜支社は、かつては存在したものの、それぞれ2004年頃と2011年頃になくなったとのこと。したがって、最近は首都圏3支社だけなく、9支社にあった。

JR他社では、JR東海は昔から支社サイトはなく、JR西日本は昔は各支社あったがいつの間にか、そろってなくなったかと思う。
JR東日本は、首都から田舎まで、多様な環境で鉄道事業をしている会社。各地域に寄り添って、ふさわしい情報を提供する意味では、支社のホームページは意義が大きいと思っていた。
ダイヤ改正や季節ごとの臨時列車のプレスリリースは、本社発表と各支社発表がそれぞれあった。同日付の発表だが、一部支社(秋田支社が多かったような…)では、掲載が1~数日遅れることがあった。それぞれにアクセスして読むのは手間ではあるが、本社発表には載らない細かな情報があって、役に立ったし楽しかった。
各支社が力を入れているであろう、旅行先や企画、おトクなきっぷが目立つように紹介されているのは、分かりやすかった。

不思議だったのは、各支社で、そのURL(ホームページアドレス、URI)が統一されていないこと。
盛岡支社は「https://www.jr-morioka.com/」、秋田支社は「https://www.jreast.co.jp/akita/」、新潟支社は「https://www.jrniigata.co.jp/」など。
各社がホームページを始めた時期や経緯がまちまちだった名残りだろうか。当然、デザインや構造もまちまち。


今、盛岡、秋田両支社ホームページだったURLにアクセスすると、同じデザインでリンクを並べた、白地に文字だけのページが表示される。
「JR東日本 ○○支社ウェブサイトにアクセスいただき、ありがとうございます。」「大変申し訳ございませんが、本ページはJR東日本ウェブサイトと統合しました。」「主なコンテンツの移行先は下記のとおりです。」とある。

移行先は、秋田支社は「www.jreast.co.jp/akita/~」と、従来と同じサーバー上にありそう。支社トップへのリンクがないなど、デザインは少し変わったと思われる。盛岡支社は「www.jreast.co.jp/morioka/~」に変更されていて、「www.jr-morioka.com」は廃止されたようだ。

そして、「その他の今後JR東日本 ○○支社が展開するウェブコンテンツは」「以下URLからご確認ください。」と「https://www.jreast.co.jp/travel/tohoku/」を案内している。
リンク先は「東北・道南エリア」となっていて、情報がごちゃごちゃしてしまっていると思う。

いちばん気になる、支社のプレスリリースは、本社のニュースリリースと同じページ(https://www.jreast.co.jp/press/index.html/)に掲載するようだ。
このページでは、元々は本社発表分だけを掲載していた。それが2016年2月頃から、各支社発表のリリースのうち主要なもの(?)を重複して掲載するようになっていた。
現状では、本社と支社が日付順に混在していて、分かりづらい。また、地域分けが支社名でなく「関東」「信越」「東北」と大雑把なので、絞り込み機能があるのだが、実質的に絞り込めない。
山形県の一部も管轄する新潟支社の情報は「信越」だろうし、「東北」で「なんとかキャンペーンを開催します!」とあり、秋田で応募できるかと思いきや、無関係の仙台支社のことだったり、ややこしい。ズバリ支社名で分けてほしい。


ホームページ運営には、(ほぼ)専任の社員か、専門会社との契約が欠かせない。最新で正確な内容の確保、セキュリティー対策は必須。
2支社のホームページが、実質廃止されたのは、これが理由だろうか。

他業種を見れば、支社レベルで、ここまでの規模・内容のホームページを持つ組織というのは、国の省庁の出先機関くらい(国交省なら地方整備局、運輸局等)かも。NHKの各放送局は、ニュース以外はお決まりのフォームに従っているような形だし。

JR東日本盛岡支社、秋田支社には、引き続き、きめ細かな情報提供を期待したい。

【12月19日追記】この後、さらにホームページがなくなる支社が増え、12月18日のダイヤ改正発表時点では、ホームページは八王子、仙台、新潟の3支社だけになったようだ。ダイヤ改正の支社ごとのプレスリリースは引き続き作成され、本社のホームページにまとめて掲載。



もう1社は、青森の株式会社工藤パン。
けっこう以前から「http://www.kudopan.co.jp/」でホームページがあった。【追記の通り2007年3月開設】
秋田のたけや製パンは、剛田商店よりも弘南鉄道よりも遅い、2013年秋にやっと開設したが、それよりはずっと前からあった。※たけや製パンでは、それ以前には、企業情報程度のみ掲載し、ずっと未更新・放置状態の別URLのページはあった。

工藤パンでは、毎月の新商品情報(一部)は掲載してくれていたが、ずーっとデザインは同じ、季節のお菓子みたいなページはずーっと準備中のままであった。【20日補足・初期には「季節商品情報」にも中身があって商品が掲載されていたこともあった。】
今年11月1日には、従来と同じように11月の新商品がアップされたのを確認。

ところが今、デザインが一新!!
11月初めには新しくされたらしい【27日追記・「11月2日」付でリニューアルと、ページの新着情報に書いてあった】。開設以来初のリニューアルでは??
【20日追記】「インターネットアーカイブ」をたどると、最古の2007年6月28日時点で、11月1日と同じデザインだった。また、そこに「07.03.29●ホームページが完成しました。」とあった。したがって、工藤パン公式サイトは13年前に開設され、13年間デザインが変わらなったことになる。(以上追記)
今風のデザインになったが、内容も充実した。
特に「商品情報」。パンだけでなく和菓子も含めて、新商品以外も合わせて発売中の全商品が掲載されているかもしれない(その分見づらいけど)。アレルゲン、栄養成分表示もあるし、フリーワードでの検索もできる。
さらに、ちょっと分かりづらい位置(http://www.kudopan.co.jp/pcategory/english-toast/#english_history)だが、発売終了した歴代のイギリストースト(味違い)のページもある。2007年以降=おそらく派生商品全部か?
なお、サンドイッチや調理パンで、有限会社幸福の寿し本舗が製造する分は、そちらのホームページに掲載されるようだが、更新停滞気味。

パンメーカーの商品数は膨大で、店に行っても全商品を買えるわけでないから、ホームページで紹介する意義はさほど高くはないかもしれない。でも、今後も、毎月の新商品をしっかりと掲載してくれれば、役に立つことだろう。

そのほか、「お問い合わせ」が新設。
2013年のたけやの時に指摘したが、当時の工藤パンも、山崎製パンも、山崎製パンも、消費者からの意見や質問を、ホームページからは受け付けなかった。
現時点では、ヤマザキもたけやも変わらず。この度、工藤パンがホームページに投稿フォームを設けた。ヤマザキグループ内で最初か?

ただ、名前、メールアドレスに加えて「お電話番号(必須)」。
そして、お問い合わせには返信するが、ご意見・ご感想には「個別に回答はできません」。
これには苦言を呈する。
だって、返事をくれないのに、客が名前、メールアドレス、電話番号をすべて必ず伝えなければいけないってのは…
※必須とされていても、実際には空欄のままでもエラーにならず送信できる場合もある。しかも、それなのに、期せずして丁寧なお返事を頂戴した、某大手食品メーカーもあった。

もちろん、客であっても、企業に何かを伝える時は、返事を求めないにしても、名前と連絡手段の1つ(ネットならメールアドレスでしょうね)を添えて、責任と誠意を示すのはマナーだと思う。【20日補足・古い言葉で、ネット上のエチケット「ネチケット」とまではいかないだろうけど。】
でも、必要以上の個人情報を伝える必要もないとも思う。苦情を言おうとする客を萎縮させるためではないかと、勘ぐってしまう。しかしそれは、客がお礼やちょっとした感想を伝えたいと思う気持ちも萎縮させてしまうことを、企業は知っているだろうか。
メールアドレス、電話番号、住所のどれか1つで充分だ。ちなみに、そのほか、送信者のIPアドレスなども、先方には把握されていると思われる。

これは他業界でも同様で、例えばマスコミ。
IBC岩手放送では、意見や感想は、連絡先未記入でも送信できる。
昔、「秋田ケーブルテレビでIBCテレビを見ています。『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』を、テレビ東京の放送後、早めに放送してくれて楽しんでいます。これからもお願いします」と送信したことがあった。今も放送を続けてくれている(秋田テレビでもやるようになったけど)。

一方、秋田放送(ABS)では、「お手数ですがすべての項目に入力をお願いいたします。」と、郵便番号、住所、電話番号まで要求しておいて、「ご返答をお約束するものではございません。」。

商売する企業にとって、客からの声は大切なはず。
作って売る側では、どうしても気付けないことはあるはずだし、それで小さいことかもしれないが気付くことができて改善につながることもあると思う。
そのためには、まずは幅広く耳を傾けることが大切だと思うのだが。

【2021年7月3日追記】2021年6月にたけや製パンのホームページがリニューアルされ、メールフォームが新設。しかも電話番号を入力しなくても、送信できる。山崎製パンはいまだに電話番号のみ。工藤パンは変わらず電話番号必須。3社それぞれ。
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ゴド渡

2020-11-19 00:07:18 | 秋田の地理
秋田運河や新川橋(架け替えについて)のことを調べていて見つけたものについて。
図書館などで調べていないこともあり、最終的な答えは出ていないので、何かご存知でしたら教えてください。

これまで取り上げたように、昭和初期に雄物川放水路ができる前は、今の秋田運河(旧雄物川)が雄物川本流であり、秋田市の中央部と南部(今で言う西部地域)を分けていた。
1892(明治25)年に、新川橋が架かったのが、最初の橋のようで、それ以前は渡し舟(渡し船、渡船)だけが交通手段だったらしい。
新川橋の位置には「芝の渡し(新川の渡し)」が存在した。

埼玉大学教育学部谷謙二研究室の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(http://ktgis.net/kjmapw/index.html)」で、明治45年と現在の地形図を比べてみる。
各図右上が秋田市街地、右図下左右が雄物川放水路

芝の渡しの上流【19日補足・約1.4キロ上流】には、「三七の渡し」があり、新川橋供用後も、運河ができるまで運航されていたらしい。
三七の渡しは、今で言うと、雄物川本流から秋田運河が分岐する「新屋水門」付近。通称三角沼の南。新屋船場町と茨島の間だが、当時は茨島は牛島村の外れ。
当時、近くで養蚕が行われていて、「蚕室」が転じて「三七」になったとのこと。下の昔の地図の画像で、「Y」のような桑畑の地図記号も見える(その外側にはもっとある)。
「三七渡」とある。今は放水路対岸の「栗田神社」がこんな位置にあるのに戸惑う
上の明治の地図で、分かりづらいが渡船の地図記号が表示されている。
明治の地図記号は今とは違う点もあるが、渡船はマークとしてはほぼ同じ。航路を線で結び、船を真上から見た砲弾のような記号がある。
現在の地形図では、その船のマークは、川の中央に描くようだが、当時はそうではなかった。三七渡では、左側、船場町の岸にある。どうも、渡し船の拠点となる待機する側の岸が分かるようになっていたようだ。
現在の堤防の道路のすぐ南(=堤防斜面辺り)が三七渡だった
当時は国道13号や秋田大橋・県道56号などなく、茨島~卸町一帯は、一面の荒れ地や水田だった。移動手段は徒歩だろう。
新屋方面と牛島を行き来する場合、新川橋を使うと、刑務所前~旭南小学校前(馬口労町)~刈穂橋~旧道(今の牛島商店街)と、遠回りになったはず。旭川を刈穂橋で渡らないといけない。
一方、三七渡を使えば、原野や田んぼの中に、道がいくつかあり、牛島(東一丁目バス停付近)や仁井田(大野)にダイレクトに到達できた。

今では想像もできないことばかりだが、地図を頼りにがんばって想像してみると楽しいものだ。


ここから本題。「今昔マップ」で、明治45年の雄物川を下流・北方向へたどっていると…
「渡ドゴ」?
右から読むから「ゴド渡」だ。
距離にして300メートル以上、右の岸に船の印。

上流の雄和地域は別として、明治初期の秋田市の雄物川には3つの渡船があったことになるが、こんな場所とは。
しかもヘンな名前だけど、「ゴド」から「ごうど」を連想した。変換すると「河渡」がある。これが由来かも。
三七の渡しだって、知らないと不思議だが、知ればどうってことない由来。

信じられないのが、渡しの場所。
今と比較
今でいうと、土崎港南と寺内の境の国道7号(臨海バイパス)の日本通運付近と、向浜の日本製紙秋田工場前の公園を結ぶ。
かつての雄物川の右岸が、ほぼ臨海バイパスと重なると聞くが、今昔マップを見るとよく分かる。
新旧を重ねる。左側の岸は、今と同じ位置
土崎側は御蔵町、穀保町と当時から建物が密集。港町でにぎやかだったのだろう。
でも対岸。今だって工場しかないし、北は海で行き止まり、南は勝平の町までは近くない場所で、訪れる機会がない市民がほとんど。
当時の地図ではもちろん工場も勝平の住宅もなく、船着き場に続く道は、すぐに切れてしまい、あとは一面「荒地」の記号。

そんな場所に着くゴド渡しを、どういう人が利用していたのか。地図記号からすれば向浜側で田畑とか漁のために通勤していたわけでもないだろう。
となると、荒野の道なき道を進んで、新屋方面と行き来していたのだろうか。
左岸側には道も人の気配もなさそう
たしかに、牛島~三七渡し~新屋と同じく、新川橋を渡るよりは距離は短い。
でも、砂浜だったろうし、冬は猛吹雪だったろうし。


ゴド渡しも、運河ができると消えたのだろうか。
ゴド渡し跡の少し下流【19日訂正・補足】約1.8キロ上流に、港大橋(後に新港大橋)が架かるのは1969年。1980年代後半に、雄物大橋、秋田南バイパスができて、土崎~向浜(勝平)~新屋のルートが確立されるわけだが、ゴド渡しが上記の想像通りだとすれば、明治時代にはおおむね同じルートがあったことにならないだろうか。
ゴド渡しについて、ネットでは、いくら調べてもこれ以上は分からなかった。

【22日追記】コメントで、「デジタルアーカイブ秋田県立図書館」収蔵の1916(大正5)年の「秋田市近郊地図」の存在を教えていただいた。
それには、明治45年と同じ位置に渡船があり、名前はなし(「三七ノ渡」は名称も記載)。向浜側には、船着き場から南北両方向にわずかに道が描かれていた。

秋田運河になってからのことについて、いつか、若干続くかもしれません。
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newまんたらめ号

2020-11-17 00:18:58 | 秋田市営バス
秋田市内を走る、観光タイプの大型バス。
オレンジ色一色
2017年にモデルチェンジ・2019年春にマイナーチェンジされて顔付きが変わった、三菱ふそう「エアロエース」。
秋田のバス会社では導入したところはあるだろうか。宮城交通では導入しているが、高速バスの秋田便では見たことがない。

このバスの正体は、
「まんたらめ号」!
いちばん前の側窓の下に、銀色のとんがったものが付いているのは、「FUSO AERO」と彫られた「側面ペットネームプレート」=エンブレム。装着しないこともできる。

「まんたらめ号」が代替わりしたのだった。最初は2020年5月に目撃した。
12年前に記事にしたのですが、「まんたらめ号」とは、太平山麓にある「秋田市太平山自然学習センター」、愛称「まんたらめ」の送迎バスの名前。
「まんたらめ」は、所在地の「秋田市仁別字マンタラメ」に由来し、アイヌ語で「源流、源」の意味。

まんたらめは、かつてあった「大森山少年の家」の後継として、主に小中学生の宿泊研修、秋田ではそう呼ばないが“林間学校”の場となる、秋田市教育委員会の施設。
初代まんたらめ号は、まんたらめ開所の翌2004年度から存在したようで、元は秋田市交通局(秋田市営バス)が使っていた、いすゞ製車両。

1993年に空港リムジンバス(当時は市営バスと中央交通の共同運行)用として導入。交通局のリムジン撤退で、高齢者向け貸切バスなどに使われるも、貸切事業からも撤退。白ナンバーになって、市教委管轄になり、2003年度に市立御所野学院中学校美術部員がデザインした外観になって活躍した。
(再掲)初代まんたらめ号。折り戸なのが路線用の名残り

2代目まんたらめ号は、そっけないデザイン。
「まんたらめ号」以外何もなく、余計に長く感じる

写真では色合いが統一されないで写ってしまっているが、くすんだオレンジ色という感じだけど、鮮やかではある。
トヨタ「アクア」のメーカープションカラーとして、2014年末から2019年まで「オレンジパールクリスタルシャイン」という塗装があったのだが、それに近い。並べると違うかもしれないけど。
秋田市やまんたらめと、この色のと関連性はないと思う。どうしてこの色にしたんだろう。

それに、初代と同じ絵柄を描くのはコストなどで難しかったのかもしれないが、ワンポイントでも何かあればいいのに。
デザインが一新されたヘッドライト周り
LEDヘッドライトやツリ目デザインで、これまでの三菱ふそうの観光バスとはやや印象は変わったものの、そんなにキツイ感じもしないかな。
正面の行灯も、初代同様「まんたらめ号」。

以前も指摘したが、これでは、まんたらめ号の正体が分からない。正体を隠す必要はないし、秋田市民の税金も使って買った=秋田市民の物ではないだろうか。
秋田市の市章とか、「秋田市」か「秋田市太平山自然学習センター」の文字くらい、表示してもいいと思う。
太平山とまんたらめ号。まんたらめの場所はもっと左寄り
マイナーチェンジ前モデルと変わっていないと思われる後部は、何もない、見事にオレンジ一色。屋根も。※初代は後部にも、模様と「まんたらめ号」があった。

これまで、まんたらめ号は、1月の「新成人のつどい」の際、秋田駅から会場の市立体育館までの参加者輸送の任にも就いていた。まんたらめで宿泊研修した人にとっては、再会となる。
今年度の新成人は、年明けにまんたらめ号代替わりを知ることになるかと思いきや、新型コロナウイルス流行により、つどいは2021年夏に延期された。

また、まんたらめでは、学校利用がないタイミングで年数回、一般市民を対象にしたイベントを開催している。事前申し込みや抽選が原則のようだが、大人が参加できるものもある。
その際は、秋田駅東口からまんたらめ号による送迎が行われるようだ。今回も、そうした催しのための運行だった。


12年前に取り上げたように、元市営バスの車両はもう1台、黄色い「やまびこ号」があった。これはまんたらめ号より若干古いと思われる、日野セレガの貸切車。
当初は市教委の中央公民館所属だったが、今は公民館がなくなったから、市長部局の中央市民サービスセンター所管なのだろうか?【2022年1月10日追記】市教委 生涯学習室管轄の「社会教育バス」の位置付け。
やまびこ号は、先立って2019年に代替わりしてしまった。2代目は中型の日野メルファで、水色系の当たり障りのない塗装だったと思う。→この記事にて
秋田市交通局末期の事業縮小にほんろうされながらも、秋田市役所から離れることはなかった2台がなくなった。

【2021年2月25日追記】新しいまんたらめ号の客席の定員は55人らしい。
ちなみに、児童生徒数が多い学校ではまんたらめ号では運び切れない。ピストン輸送ではなく、足りない分は民間バス事業者を使っていた。年度分を一括して、秋田市が入札をしている。児童生徒の金銭負担は不明。
【2022年1月10日追記】まんたらめ号は購入ではなく「7年間のリース契約」とのこと。
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サイカチ その後

2020-11-15 00:17:52 | 動物・植物
秋田市土崎にサイカチの木があるのを発見して、花が咲いたところまでアップした。その後。
7月下旬
びろーんと平べったい さや(莢)がぶら下がっていた。
なかなかインパクトのあるさやだけど、葉と同色だし、位置的に見上げないと気づかない。

平さやのインゲンマメ(モロッコインゲン)よりは、ずっと大きいが、より平べったそう。実物を見たことないけど、ナタマメよりは小さくて薄い。
別のさや
やや短く、カールというより波打っている【15日補足・必ずカールするとは限らないのだから、ツル植物のように右巻き/左巻きのような決まりはないのだろう】。中の豆の凹凸が少し分かるかな。

サイカチは、1本の木の中で雄花・雌花・両性花があるそうなので、さやの数は咲いていた花の数よりは少ない。路上から確認できたのは数房程度。

8月中旬。たしか最初の画像と同じさやを写したと思う↓。
さらにカールして、厚みが増した

9月頃には、写真を撮影できなかったが、さやが黒っぽくなっていたはず。ネットの画像では赤紫になるのと黒になるのがあるみたいなので、来年以降の課題。

そして10月中頃。
8月とほぼ同じ形で茶色くなっていた
さらに、10月末。
これは2枚目の写真のさや

高い位置のさや
これで完熟した感じ。この時点で落葉も進んでいた。
葉柄は木に残るものもあり、路上には細かい葉(複葉を構成する個々の「小葉」)が散らばっていた

今は全部落葉したことでしょう
また来シーズン。

【追記】12月7日時点では、葉がすべて落ち、豆のさやだけが、全体で10個ほどぶら下がっていた。色は黒っぽい?
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弘前ナンバー

2020-11-12 23:37:37 | 津軽のいろいろ
秋田にいながら弘前の話。
10日ほど前、雨上がりの日暮れ迫る秋田市の二丁目橋交差点。※そのため写真はブレています。
弘南バスの貸切バスが2台!

新型コロナウイルス感染症流行のため、秋田県外の貸切バス(観光バス)はとんと見なくなっていた。
おそらく何か月ぶりかで、県外の貸切車に遭遇したかも。それが弘南バスだった。
交通量が多く一瞬で、詳細はよく分からなかった。横手市で種苗交換会が開催中だったし、進んでいった方向からして、日帰り見学ツアーとか?

この2台とも、ナンバープレートが白っぽい。下半分はピンクがかっている。
下は桜、上は岩木山と弘前城天守が描かれているのだが、よく見えず
今年5月から交付が始まった「弘前ナンバー」の「図柄入り(カラー版)」だ!
話には聞いていたが初めて見た。秋田で見られるとは。

弘前ナンバーは、青森県内初のご当地ナンバープレート(正式名:新たな地域名表示ナンバープレート)。
弘前市と西目屋村の車が対象【13日補足・新規登録車が対象で、以前からある車は「青森」ナンバーのままでよい】。図柄なし、図柄モノトーン、図柄カラーの3種類がある。
後ろの車 ※早めのライト点灯が偉い。中央交通も一般車も見習え
2台は日野セレガ。弘前ナンバーは、前の車が「676」、後ろが「12-?2」と飛んでいる。
弘南バスでは、以前から保有している、青森ナンバーのバスのうち何台かを、希望ナンバー制度を使って、青森ナンバー時代と同番の弘前ナンバーに付け替えたそうだ。ネットの情報によれば、貸切車のほか、高速専用車、一般路線車いずれにも、何台かある。
今回の2台。676は、青森ナンバーで「か676」だった「52302-2」号車。2011年の車。
もう1台はおそらく「か12-02」の「53103-3」か。昨2019年に買ったばかりになるが「-3」だと五所川原営業所配置。表記を確認できなかったが、弘前に転属したのか?


そのほか、弘前大学農学生命科学部から譲渡された1980年製のバスは、「か917」から「あ555」に変更。社番の「55501-2」号車に掛けたのだろう(555で日野・昭和55年製を意味している)。
一方、5月以降の導入車(で弘前市内配置ということでしょう)は、カラー図柄で、希望でない【12月10日訂正・「弘前210」なのでやはり希望番号なのかも】通しナンバー。一般路線車で、京都市営バスの中古(エルガミオ)が来て、それは「5」~「7」のようだ。

弘南バスでは、今後も、弘前市内に配置する車はカラー図柄ナンバーにするのだろうか。
図柄なしナンバーと比べて、1台当たり1万2千800円(カラーにするのに必要な寄付金を最低額の1千円として)は余計にかかるみたいで、負担になるのでは。ただ、寄付金は「公共交通サービスの改善や観光振興等に関する事業に活用」するそうで、自分に戻ってくる形になる場合もあり得るかも。

その後、弘前での状況
後に秋田へ来た、別の貸切車

秋田でも絵入りご当地ナンバープレートが登場し、バスに付けられた
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喫茶 研究室?!

2020-11-11 20:39:01 | 秋田の季節・風景
秋田駅の北、千秋公園の東に「崖下の研究室」があった。

今「地方独立行政法人秋田県立病院機構 秋田県立循環器・脳脊髄センター」が建つ場所の横~裏面は、崖状になっていて、崖下にはいくつかの民家やアパートがある。
その1つ、民家のような建物に「秋田県成人病医療センター研究室」という表札が出ていた。
(再掲)「秋田県成人病医療センター研究室」

循環器・脳脊髄センターの場所には、かつては「秋田県立脳血管研究センター」と、県直営でなく財団法人が運営する「秋田県成人病医療センター」があった。
新センター設立に先立ち、秋田県成人病医療センターは2015年3月で廃止・解散されているのに、2020年になっても、空き家のようではあるが、その名を冠した表札が残っていた。

2019年秋には、窓の1つが開けっ放しにされており、これでは中が荒れ、建物が傷んでしまうと、余計な心配をした。解散した財団法人に連絡するすべはないから、関係が強かったと思われる秋田県庁へ報告したのだが無視され、なぜかさらにもう1枚の窓も開いてしまい(意趣返し?)、なぜか冬になると2枚とも閉まった。
そんな雑な扱いをされた建物。新しいとは言えないし、いずれ解体されると予想した。あるいは放置され続け、“危険な空き家”になるか。

2020年9月までは研究室の名を掲げた空き家のままだったはず。その後、10月初め。
工事中!
以前はピンク色だった正面の外壁が、きれいな白色に変わっていた。建物内では大工さんたちが細かな作業をしていた。解体工事ではない。
「~研究室」の表示板がついに消え、1階の道路に近い部分が、なんかおしゃれになっている!!

秋田県成人病医療センター研究室が、新たな用途で使われるようだ。びっくり。
中をうかがうと、正面と同じ雰囲気で改装されていた。カフェか、美容関係のサロンか、そんな気配。

11月に入って、工事が終わったようだ。


(再掲)空き研究室だった頃


外観で改装されたのは正面だけ。側面は以前のままで、開けっ放しにしていた窓もそのまま使用(反対面の窓は変わったかも)。
正面も、1階左奥にあった民家のような玄関ドアや、2階の大きい窓は変わっていない。
1階道路沿いの窓と、物置のドアのようだった引違い戸は交換された。その辺りが、この建物の新しい用途のメインになりそう。引き戸が、新たな出入口になるようで、いろいろ書いてある。

上には「      & Cafe」。
左側の文字がプラ板で隠されている。とりあえずはカフェになるようで、近いうちにさらに何かも兼業するのだろう。【末尾の追記参照】

小さい看板も、一部を隠して「喫茶コ」。
「コ」が名前らしい。「来週オープン」の手書きの紙も出ていた。
ということで、11月15日の週、秋田県成人病医療センター研究室が、新たな道を歩み始めるのだった。


崖の上なら、眺めのいいカフェになるに違いないけれど、崖下のここは区画整理の関係で車が前を通らなくなったから、落ち着くかも。高校生など若者がよく通るから、タピオカのテイクアウトもイケるかも(もう古い?)。
2階はどうなるのでしょう。
繁盛をお祈りします。


こうなるのであれば、1年前にもっと早く窓を閉めておけばよかったのに。改装工事で、補修や清掃の手間が増えたかもしれない。または今回手を付けなかった部分に、何らかのダメージが残っているかもしれない。
「コ」とは不思議な店名だけど、「喫茶研究室」でもよかったかも?!

【11日23時追記】コメントで貴重な情報を頂戴した。
ネット上に情報があり「秋田県内初となるカフェ併設薬局」になる。薬局部分は秋田市のふるさと納税活用のクラウドファンディングで資金調達中の模様。
隠れている文字は「Pharmacy」、「喫茶コ」は禅語の「喫茶去」や秋田弁の「~っこ」にちなむのではないかとのこと。
再出発後も医療に関わる用途に使われるとは、奇遇だ。(当ブログとしても、奇しくも2回連続で薬局の話題です。そのため#薬局タグを追加しました。)

【2021年1月26日追記】2021年1月から調剤薬局としても営業開始したことが、秋田魁新報地域面で報道された。
「ヨルモカ薬局 喫茶コ」という名だそうで、新聞によれば「夜も可」「喫茶にも来てね」の意味を込めた。
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門内バス停・門内薬局

2020-11-09 23:33:18 | 秋田のいろいろ
秋田大学医学部附属病院の話題。
病院の前を、月に1度行くか行かないか程度で通りかかるのだが、9月初め。
病院正面
正面向かって右の前後方向が、「大学病院前」バス乗り場なのだが、そこで工事していた。
それまであった、バス乗り場の上屋がなくなっていて、後方の駐車場スペースの一部をつぶして細長い2階建ての建物を建設中。
白い仮囲い部分に、元の上屋があった

仮の乗り場
これまでバスが停まっていた部分にコーンを置いて、仮の乗り場にしていた。代替として、病院玄関に通じる屋根付き通路の一部を、来るバスが見えるように窓を透明にして待合所にしていた。

今回の工事前の風景を、再掲写真とGoogleストリートビューから。
(再掲)病院の建物外壁も今と違う2011年。右端がバス停

Googleストリートビューより

この大学病院前のバス停は、ある程度のバスターミナル機能を有する。秋田駅行きは、西口行き2経路と東口行きの3パターンが発着する。2012年に、違う経由の西口行きが近接して発車するダイヤが多く、本数と比べると実質的な乗車機会は少ないことを指摘した。その後、今は本数自体もいくらか減ったし、近接ダイヤもほぼ変わっておらず、相変わらず。

そして、今は病院の門の中・敷地内にある大学病院前バス停だが、以前は門の外にあった。
病院に向かって手前(道路横断要)の左側の土地にあった。今は、外来患者用平面駐車場になっている土地だから、当時から大学の所有地ではあったのか。なお、今の門内のバス乗り場付近は、以前は駐車場や通路だったようだ。
現位置になったのは、2009年よりは確実に前、2000年代中頃、市営バスがなくなったよりは後のことだった。
国立大学法人化、(それに便乗した?)病棟など建物の整備などもあって、大学病院の風景はいくらか変化した。

秋田大学に限ったことではないようで、弘前大学医学部附属病院でも、建物と正面周辺が整備され、2011年10月から土手町循環100円バスが、病院の敷地内(というか玄関)へ乗り入れるようになった。ただし、一般路線バスは従来どおり路上バス停。


10年ちょっとで、バス乗り場を作り変えるのか、小さくはない建物は何になるのかと思っていた。11月初め。
できあがっている ※左手前が、昔のバス停の場所

「日本調剤 秋田薬局」ができた!
「日本調剤」はピンとこなかったが、大手調剤薬局チェーン。テレビCMもやっている。
「秋田薬局」というおおざっぱな店舗名だが、秋田市内には初出店らしい。八郎潟、本荘、大曲などの総合病院近くには、すでにある。
【12日コメントにより訂正】2011年から2015~2017年頃まで秋田市内に「日本調剤保戸野薬局」があった。総合病院近くでない小さい薬局で、今は居抜きで地元の佐野薬局になっている。日本調剤は秋田市再進出となる。

ここでバス停から離れて、薬局のこと。今回のようなことってどうなの?
日本の医療業界では「医薬分業」が進められてきた。今は医者で処方箋をもらって、調剤薬局(保険薬局)へ持っていって薬をもらうのが基本。昔は、診察後に医療機関で薬を出された。個人開業の町医者でも。
秋田では比較的早かったようで、1980年代後半頃から、現行の院外処方が広まった。しかし、あちこちの医院のすぐ近くに、そこの患者をアテにした調剤薬局ができた。いわゆる「門前薬局」で、手間が増えるだけで、なんだかなという気がしていた。
ここ10年くらいは、門前薬局の大手調剤薬局チェーンが進出したり、ジェネリック医薬品、おくすり手帳・かかりつけ薬局/薬剤師が普及したり、また雰囲気が変わってきた気もしていた。

すでに他の薬局があるように、大学病院敷地外の近くに薬局を出店するのなら、門前薬局ではあるが、文句はない。
だけど、ここは大学病院の敷地内、「門内薬局」だ。いいの?

調べると、2016年に規制緩和が行われた結果らしい。
それまでは、医療機関と調剤薬局の間には公道を介する必要があったそうだ。隣接地では間にフェンスを設置するなどしなければならかった【12月3日補足・つまり、フェンスで区切ることで、いったん公道の歩道に出て、再び敷地内に戻るという形】。それでは移動に制約がある患者は大変という理由で、医療機関と同一敷地内でも薬局が営業できるよう、緩和された。※地方厚生局の個別判断を受ける必要はあり。同じ建物内や専用通路でつながっている場合は、引き続き認められない。
また、門内のほうが基本調剤料が低い、つまり薬が安く買えるようだ。
規制緩和を受けて出店した、ある大手薬局チェーンのホームページでは「敷地内薬局」の語を用いているが、カッコで「門内薬局」を1度だけ使ってもいた。

一方で、これは「医薬接近」であり医薬の独立性が保たれるのか、医薬分業の趣旨やかかりつけ薬局の流れと矛盾するという、指摘も、当然ある。

今のところ、全国的に大きい総合病院で事例があるようだ。でも、地域医療をリードし、ある程度中立性も求められるであろう、国立大学病院が率先して院内薬局を開業させるというのは…
借地代・家賃が大学の収入になるというだけでは、病院や学内にスタバやコンビニを入れるのも同じことだけど、医薬分業も合わせると、パチンコ屋と景品交換所みたいな…


話をバス乗り場に戻して。
東口行きバスが到着

敷地内から。このバスは手形山経由西口行き
前後で乗り場が2つ。
あまり利用しないのでいつも忘れてしまうのだが、外側・道路寄りが1番で病院本体の建物寄りが2番と番号がある。駅行きは両方から出る。ここで折り返す手形山経由西口行きは1番、赤沼線東口行きは2番。手形山経由でない(三吉神社入口・赤沼入口経由)西口行きは1【12月28日訂正・2のようです。病院始発路線(手形山と朝の直通車庫行き)が1、途中通過の路線は往復とも2という分け方らしい】だったっけ?
これまでは、同じ時刻表が両方に出ていたり、明確な標柱がなかったり、分かりづらかった。そもそも不慣れな人には、東口と西口の違い、経由地の違いも不安にさせる。
新しくなっても、上記の点は変わっていないと思われる。

新しい乗り場の屋根は、薬局のひさしが「雁木(がんぎ)」「こみせ」のように、通路部分に張り出した構造。薬局の玄関もここに面するので、スロープができて狭い箇所もあるが、通路としては従来と大差ない。

秋田駅西口を意識したのか、木質の格子状の壁もあるが、ちゃんとガラスが入っている。でもベンチはない。工事中に使っていた、玄関寄りの待合室が引き続き残っていたから、そこで座れということか。間に車の出入口があるので、移動時は注意。
【10日待合室について訂正】訪問時は短時間で、営業中の薬局に遠慮して建物内を見ないでしまっていたが、薬局と同じ建物に待合室ができたようだ。ベンチが4脚ほど置かれ、空調もあるようだ。平日の7時から21時まで開放。通路・乗り場と待合を区分したことになるが、土日は座れないとは。【22日追記】待合室は、建物の門寄り、上の写真でスロープの所。

ここは、あまり広くないスペースを、後付けでバス乗り場にしたこともあろうだろう、車の動線はやや無理があると思う。バスも一部一般車(駐車場の1つ)も救急車も、この正面から出入りするはず。
中でも、建物寄りの2番乗り場に着けるバスは、
これで乗降扱い中
通路・上屋と車体を並行にバスを着けるのではなく、このように斜めに停まってしまうことが多い。そうせざるを得ない。
道路から門内に入り、突き当りの建物(通路の壁)ギリギリまで進んで、180度向きを変えてすぐが、乗り場。そして3つ上の写真でも分かるかと思うが、(業務用?【12月28日訂正】救急車専用の)車の出入口が間にある。
Googleマップ航空写真に加筆。赤い線のように動かないといけない
そんなきゅうくつな場所なので、バスはバックして切り返さないと、2番乗り場にまっすぐに着けることは不可能だと思う。でも狭いから、ミラーをぶつけたり、周りをちょこまか動く他車や人と接触する危険がある。2番に入る赤沼線には、(中型でなく)大型バスも入るから、なおさら大変だろう。

秋田大学当局も、中央交通も、意見を出し合って検討して、設計するなり配置するなりしても良かったかもしれない。

あと、ここが「大学病院前バス停」である旨の表示が見当たらないと思う。乗り場ごとの標柱もそうだが、それよりも「バス乗り場そのものの存在」を知らせる表示(看板)のこと。
今までならなんとなくバス停っぽかったが、現状では「建物の一部」とか「薬局前のきれいな通路」に見えて、バス停はどこかと探してしまう人がいるかも。
大学病院前バス停は、病院関係者だけが使うのではないのだから。
【2021年4月21日追記】その後、2021年4月に久しぶりに行くと、格子状の部分に、白地に青のアイコンと文字でバス停を示す表示板が複数設置されていた。これなら問題ないでしょう。

病院の門前から門内に移った、バス停と薬局の話でした。
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市街地紅葉2020

2020-11-08 23:49:04 | 秋田の季節・風景
秋田はもう晩秋。平年よりは遅いような感じがしなくもない、秋田市内の紅葉・黄葉の風景。
7日午後は、青空が広がる時間もあった。
八橋運動公園のイチョウ
青空には、初秋のようなうろこ雲。
八橋運動公園けやき通り側
上の写真奥の建物は、喫茶店「異人館」。2016年も取り上げたように、外壁がツタで覆われている。
今年も紅葉

ほかの場所のツタ。
手形陸橋手形側のらせん階段
写真左、陸橋の下に、機器室のような箱が建っていて、その外壁にもツタ。

ほぼ全部のツルが真上に一直線に伸びている。タイルのマス目との組み合わせがおもしろい。
その一方、葉の大小、紅葉具合のグラデーションの違いもおもしろい。

次はこれ。
紅葉したツタがきれいに「+」形?
ここはやや早くて、今はもう散ってしまっている。
散った後に撮影
秋田駅西口の閉店した「ホテルハワイ駅前店」跡の空きビルの西面。
下から見上げる
坂になっていて、地際には立ち入れない【9日補足・立ち入れなくもないか?】のでよく分からないが、4階くらいまでツタが達している。
客室の上下左右の境の外壁に、等間隔に溝があって、ツタがそれ伝いに一直線に生長していた。
手形陸橋のように真上に伸びるのは、分かる(植物ホルモンのオーキシンの作用など)けど、真横にきれいに伸びるのは不思議。そんなに深い溝ではないし、上に行きたくなりそうなのに。
【9日追記】街中で見かける紅葉するブドウ科のツタには、大きく2種類あると思う。葉が小さく、壁や茎(ツル)に密着するのと、葉が大きく光沢があってせり出すようなのと。手形とホテルハワイは、いずれも前者。おそらくこれが、日本在来の「(種名としての)ツタ」。後者は、山野では見ない気がするので外来種や園芸種なのかも。そして後者は上にも左右にも面的に広がりやすく、前者が上に一途に伸びる傾向があるようにも思うから、種の特性なのかも(でも真横は珍しいのでは?)。なお、常緑の「キヅタ」というのもあるが、ウコギ科。
+というより漢数字の「十」
ホテルハワイ駅前店跡は、今年初めの話では、解体されてマンションになる。今年で見納めか。

話がそれますが、駅前店を見上げて気付いたこと。
広小路側・秋田ビューホテル前から南面
上の写真手前側の、てっぺんの出っ張った部分。
落書きがある
侵入して、てっぺんまで上って、落書きした者がいるようだ。ビューホテルから丸見えでしょう。


最後は、広面の秋田大学医学部附属病院前の街路樹・モミジバフウ。※モミジやカエデとは、葉の形が似ているだけで、縁は遠い植物。
11月初めではほぼ散っていることが多かったが、今年は、
まだ紅葉の盛り

散り始めてはいる

まだ緑がかった果実も

翌2021年のモミジバフウ
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くらた保戸野店跡

2020-11-05 23:44:49 | 秋田のいろいろ
秋田市中央地区の北、保戸野桜町と泉の境界が、天徳寺地下道に続く神田線・添川線のバス通り。沿道は、民家の中にいくつかの店や飲食店が混在している。商店街というほどでないが、昔はAコープのスーパーもあった。そこに、
こんな建物がある
保戸野桜町側。前に駐車スペースがある、頑丈そうな3階建て。使われていなそう。

1階と2階の間の壁は、微妙に色が違う青系統の細かいタイル。同じタイルが使われている建物が、ほかにもある。
再掲
中通二丁目の仲小路にある「くらたビル」。
1970年に湯沢市の菓子店「お菓子のくらた」が進出して「秋田店」になり、2014年に閉店。引き続きくらたが所有し、別業種のテナントが出たり入ったりしている。今は美容関係の店のようだ。

そう。保戸野桜町の建物も、かつてはくらたの店舗だった。
こちらは青い部分は少ない
くらた公式サイトには、(秋田店以外は)現在も存続する店の開店年月しか掲載されていない。
秋田市内では、1970年秋田店、1983年山王店、1998年東店(2006年移転)、2001年外旭川店、2008年トピコ店、未掲載だが泉グランマート店。

ほかに「保戸野店」と「川尻店」が存在し、後に閉店したようだ。保戸野桜町が保戸野店。
保戸野、川尻両店の開店時期は、おそらく1977年から1983年の間だと思われる。
そして、1997年の時点では営業していて、その後、閉店した。
保戸野店は、たぶん2000年以降、2010年よりは前に閉店したと思う。【7日追記・いただいたコメントによれば1980年12月開店、2007年始頃閉店の可能性あり。およそ25年の営業となる。】


閉店してしまったのは、会社の事情もあるだろうから、仕方がない。気になるのは、閉店した後の建物のこと。
保戸野店の道路側は、駐車場分引っこんでいるもののガラス張り。路上から内部をのぞくことができ、一部表示も残っている状態。

「お菓子のくらた」が2つ、「焼きたてのパン」も。

かつては客がいたスペースに、奥から出されたらしい什器類が、雑然と置かれている。パイプ椅子、焼く前後のパンでも並べていたような棚状のもの、材料をこねるような機械など無造作に。

現在も繁盛している「くらた」という企業・店を知らない人がこの状況を見たら、大変失礼だが、ここにあったお菓子屋さんは倒産して夜逃げしたのかと思ってしまいそう。
繰り返すが、くらたは今も秋田県を代表する菓子店として営業している。

閉店した(する)のなら、什器を他店で使うとか、売り払うとかすることもできただろうに。最低限、表示は完全に消すくらいはしてもいい。どうして何年も放置しているのだろう。
そして、建物や土地も、貸すなり売るなりすればいいのに。
このままでは、何年かすれば、壁の剥離など建物の老朽化も心配しなくてはいけなくなりそうだ。
先日、道路拡張を控えている秋田市の通称横町で、古い低いビルの壁がはがれて路上に落ちる事故があった。幸い、人や他の物への被害はなく、長時間通行止めになっただけで終わったが、タイミング次第では危険だった。ここも、このままではいずれそうなってしまいかねない。

【8日追記】Googleストリートビューで確認すると、2015年8月までは、向かって左側の道路際に、縦書き・両面の「お菓子のくらた」の自立看板も残っていた(間違って買いに来る人がいたのでは?)。2018年7月までに撤去されている。コメントによれば、時折人の出入りはあるようで、上の写真の店内が見えている部分にも、以前はロールカーテンが下りていたとのこと。

ここは今や古い住宅街になり、高齢者が多い。
うちの親戚がこの近くに住んでいる。昔は、急な来客でも、すぐにくらたでお茶菓子を調達できて助かっていた。
今は、シュークリーム屋さんやチーズケーキ屋さんはできたものの、和菓子となると、上記の通り、外旭川や泉菅野のグランマートのくらた、泉いちょう通り・秋操近隣公園近くの榮太楼松寿庵【8日追記・閉店したとのこと】など、「すぐに調達」とは言い難い距離。くらたのような“地元の少しいいお菓子“を買いたい需要はあると思う。

10月下旬にGoogleマップでここを見てみると、誰が登録したのか、
「旧くらた保戸野店跡地」
哀しいスポット名。ところが今は、
「お菓子のくらた保戸野店」
なぜか営業中かのような名前に変わってしまっている。
川尻店については、登録されていないようだ。これも建物が残ってしまっているせいか。
【22日訂正・追記】くらた川尻店だった建物も残っているとのコメントをいただき、ストリートビューで確認できた。
今は外観がきれいにされ、(店だった部分を改装して?)車庫のように使われている。「お菓子のくらた」表示をはがした跡は判読可能。2階建てで、保戸野店よりもやや小さい建物。
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保戸野新橋たもとの変化

2020-11-03 22:40:45 | 秋田の季節・風景
秋田市中央部・旭川に「保戸野新橋」が架かる。
千秋トンネル通りの鷹匠橋のすぐ上流、県立秋田北高校の近くなのだが、存在も、その名もマイナー。所在地は、右岸が保戸野八丁と保戸野中町の境界、左岸が千秋中島町と千秋矢留町の境。
これまで当ブログでは、たもとの道路形状がやや複雑なことによる道路標識のこと、千秋側のたもとの「鑑の松」とその向こうに見渡せる千秋公園・御隅櫓の光景などで、何度か登場している。

秋田市が管理する小さめの橋では、古くなったいくつかを、大規模に改修(一丁目橋は2018年度実施)している。
保戸野新橋が2020年度の対象になったようで、10月末から車両通行止めにして工事開始。楢山大回り線と秋田高校~御所野の路線バスも迂回運行。
その工事とは関係ない、保戸野側のたもと(=厳密には、橋自体とは無関係なわけですが…)が、今回の話題。

まずは現在の写真。
鷹匠橋から上流方向。新橋右が鑑の松、正面奥のイチョウとケヤキは保戸野街区公園

新橋上流・保戸野八丁寄りから

以前と光景が変わってしまった。
なくなったものがある。

(再掲)2010年

保戸野側たもと、下流側にあった、大きな1本(地際から3本に枝分かれしていた)のケヤキの木が伐採されてしまった!
10月23日頃のことだと思われる。

がらんとしてしまった
保戸野側たもとは、市道がほぼ「く」の字で橋に入るほか、川沿いの河川管理用通路(歩行者通路)も合わせれば「K」の字。それらの道から橋へは、わずかに上り坂になっていた。
そのうち、下流側の通路と道路にはさまれた一帯の、いちばん橋寄りの家が、ケヤキ伐採に先立って解体されて更地になっている。
ケヤキがあったはずの場所
切り株もすっかり撤去されてしまい、どこにあったのか分からなくなっていた。

今まで、てっきり河川管理用通路や道路の一角、つまり公共の土地にケヤキが生えていたのだと思いこんでいた。
しかし、この状況を見ると違うようだ。通路・道路だった部分の舗装は手つかず。
Googleマップストリートビューで確認
明らかに民地内にあったのだった!

最初、伐採に気付いた時は、橋の工事のせいで? と疑ってしまったが、そうではなかった。工事どうしがバッティングしないよう、日程の調整はしたかもしれないが。

河川管理通路下流側から。けっこうきつい坂だ

市道下流側から
解体された白いお宅は、民家ながら、少なくともここ10年弱は、生地屋さんか何かの小さな店もやっていた。家自体は昔からあった気がするが、建て替わっているのかもしれない。
家をはさんでケヤキと反対(下流側)には庭があって、けっこうな樹木があって、ボーダーコリーがいたこともあった。
私有地だからどうこう言えないが、みんななくなってしまった。場所的に、この跡には家を建てるしかないでしょう。あと、若干、見通しが良くなって通行しやすくはなったが、上流方向はカーブもあるし狭いし、引き続き歩行者も車両も、注意して譲り合って通行を。
【12月17日追記】その後、やはり家が建ちそうな工事が始まった。【2021年6月7日追記】さらにその後、気がつけば家が3軒できていた。

あまり気に留めていなかったが、なくなったケヤキは大きかった。樹齢としては鑑の松(300~400年?)には及ばないだろうけど、100年は越えていたのでは。

在りし日のケヤキの写真を再掲する。
(再掲)2008年

(再掲)2010年対岸から
この10年ほどでも、生長して、樹冠が大きくなったのではないだろうか。
(再掲)2017年7月増水時
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泉外旭川駅工事2020.10

2020-11-02 00:32:10 | 秋田の季節・風景
約4か月ぶりに、来春開業の泉外旭川駅の工事状況。
計画通りかは知らないけれど、着々と進んでいる。
前回で床はできていたホームは、9月中頃にかけて屋根がついた。上り側がやや早く進み、今は下りもできた模様。
自転車道から上り側
下り【11月1日訂正】上り側には、西風除けなのだろうか、波打った黒い網の鉄板らしきものが背面に設置。でも風よけなら穴がないほうがいいのでは? 西日よけ?
通過列車内から下り側
下り側は風除けはない。線路向かいの西側には、常緑樹(住宅の騒音対策?)が植えられているので、代用できるためか。
上下とも、すでに、列車接近表示器らしきものが吊り下げられている。その他、駅名標、照明、標識類などはまだ。

屋根はホーム全体ではなく、2~3両分程度のみ。上下とも、地下通路出入口の近くということだろう、土崎寄りに設置。
下り。先頭側にちょっとだけ屋根

さて、先週気付いたのだが、下りホームの先に新たに設置されたものがあった。
線路右側


黒くて四角い信号機が、右を向いて設置されている。
道路の交通信号機では、設置しても使わない場合は、「工事中」の黄色いカバーをかけることが多い。鉄道の信号機では、バツ印をつけるか、向きを変えることになっていたかと思う。

外旭川側の遊歩道から見てみると、
ジョギングコース800m付近
外旭川側を向いて点灯していない。

灯火が縦だけでなく横方向にも、計7個並ぶ「中継信号機」。すべて白(肌色)で点灯して、その並び方(縦/横/斜め)で示すもの。わりと見かける。
中継信号機は、カーブなどで本来の信号機が見えない時、その手前に設置されて、本来の信号機と同じ内容を示すもの(表示方法は違う)。交通信号における、(点滅式もあるがそうではない3灯式の)予告灯/予告信号と同じ役割。

泉外旭川駅は、行き違い設備などがない、線路上の停留所のような駅なので、専用の出発信号機がない。下りホームは秋田貨物駅の構内に位置するので、秋田貨物駅の出発信号機に従うことになるが、ホームの先に左カーブがあるため見えないから、中継信号機が新設されるようだ。

上りホームには、今のところ信号機は見つけられなかった。
上りでは、泉踏切の先、秋田工業高校のカーブの手前にある、第一閉塞信号に従うことになる思われ、やはり中継信号がないと見えない気がする。今後設置されるのか?



外旭川側自転車道・駅の北側から
上の写真、左が上りホーム、離れて右に下りホーム。その間の白い枠組みが、地下通路の出入口になりそう。

駅前広場の整備を見ておく。まず、ごぶさただった外旭川側。上の写真から少し左を見ると、

自転車道のすぐ際・アンダーパスを埋めた部分に、建物(通路出入口)ができつつある。泉側は4か月前でこの程度の状態だったから、外旭川側のほうが遅い。
かつてアンダーパスの下り口だった場所から
建物が横に長いように見える。
駅前広場もまだ形が見えにくい。
線路側を背に
泉側と比べると、道路が狭い。ここに送迎の車や路線バスも入るとなると苦しいのでは。


泉側。
出入口の建物はかなりできている
白い壁になった。ガラスが多く、一見、小さめのコンビニに見える。

線路を背に
こちらは5月の時点で、道路の形が見えてきていた。今もあまり変わっていない。

例年なら12月中頃にダイヤ改正内容が発表されるから、開業日もその時に明らかになるかもしれない。→その後、3月13日開業と決まり、ダイヤも発表された。

【追記】11月25日には、下り側の中継信号機が正面を向いていた。点灯しているかは未確認。点灯している。
12月31日には、下りホーム上で、車掌用の中継信号に相当する「レピーター(出発反応標識)」も点灯していた。また、中継信号機は、さらに先の出発信号の少し手前にもあった(たぶん以前から)ので、第1中継、第2中継となるのだろう。

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コメント (6)
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