広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

羽銀カセットメモパッド

2024-11-05 23:46:28 | 昔のこと
我が家の発掘品シリーズ。
プラスチックケースの中に紙
ケースを開くと、
中身はカラフルなメモ用紙140枚
「カセット・メモ・パッド」
ケースとスタンドを兼用した、メモ用紙セットというわけだけど、モチーフになった物が何かは、一定の年齢以上のかたならご存知でしょう。「カセット・メモ・パッド」の名の通り、コンパクトカセット、いわゆるカセットテープのケースと同じサイズ・構造。
カセットテープケースは、2つのパーツからなる。初期のケースは、テープ(ここではメモ用紙)を入れる側は透明で、もう一方は黒いものが一般的だった。1980年代半ば(バブル前後)頃には、どちらも透明のものが主流になり、このメモ用紙もそれにならっている。

JANコード(バーコード)や「MADE BY P(R)yramid IN JAPAN」の表記からして、大阪のピラミッド株式会社の製品。型番らしき「NO.CM-48」の表記も。同社は現在は単語カードやメモ帳を製造販売しているが、さすがにカセットメモパッドはなさそう。

「メモを使い終ったら、カセットケースとして御使用下さい。」とある。サイズが同じだからできなくはないが、本来のケースには突起があって、カセット側のテープを巻いたリールの中心(「ハブ」と呼ぶそう)の歯車状の部分がはまるようになっている。それがあることで、持ち運び時に安定するし、ないとカセットが傷付いたり、テープが緩んだりしてしまいそう。突起がないこのケースでは、カセットテープに良くない影響もなくはないかも。
「台紙の裏はカセットレーベルになっています。」とも。
カセットレーベルとは、テープの中に何が録音されているか記した紙。何も録音されていない生テープの場合、罫線を引いてA面B面ごとに記入できる厚紙がセットされた状態で販売され、各自、記入したものだ。レーベル自体を自作したり、イラストなどが描かれて雑誌の付録になったりすることもあったはず。
台紙というのは、この説明が印刷されたピンク色のペラペラの紙ってことでしょうか。では裏は、
何もないのですが
この紙に自分で書けってこと?

我が家のカセットメモパッドは、企業のノベルティグッズとしてもらったもの。出どころは、
「羽後銀行」
赤いシールが、若干雑に貼られている。お手軽なノベルティってとこだったのでしょう。でも実用的だし、当時の流行りに乗っていたのだろうし、2024年に存在してもそんなに時代遅れでもないと思う。
羽後銀行は、1993年に秋田あけぼの銀行(旧・秋田相互銀行)を吸収して、北都銀行となった。
そんなわけで、昭和末~平成初期のものではないだろうか。※その少し前頃の秋田相互銀行のトランプ

羽後銀行のロゴについて。
地色は赤。秋田相互銀行も看板の地色が赤だったが、朱色に近かった。羽後銀行のほうがより赤かったはず。店舗の看板は、赤地に白文字で「うぎん」と縦書きされたのは記憶にあるが、シールのような漢字表記かつ横書きは覚えがない。手書きっぽい丸ゴシック体風だ。
「UB」の略は覚えていた。店舗に表示があったかどうかまでは記憶にないけれど。藤子不二雄A作「ウルトラB(アニメ主題歌について)」も「UB」と略され、同じじゃないかと思った思い出がある。


ところで、現在の話。
北都銀行は、同じ持株会社・フィデアホールディングス傘下にある荘内銀行と、2026年度中に合併予定。
2024年11月5日付秋田魁新報が1面トップで「新名称候補、一部を商標出願」と報じた。3つの銀行名を商標出願登録しており、持株会社が「新銀行の名称の候補であることは事実」と認めている。

3件は「いでは銀行」「新緑銀行」「創羽銀行」。
「いでは」は旧国名「出羽」のことだろうから、ふさわしいのでは。「フィデア」に響きが似ている。ただ、「いでは」にしても「いでわ」にしても、言いにくいかな。
「新緑銀行」は漫画に出てきそう。夏秋冬は時期外れで場違いでは。
「創羽」はよく分からない。「そうわ」と読めばいいのか。
担当者レベルでは、案は「100件以上あると聞いている」そうで、実際どうなるか。

【6日追記】コメント欄の通り、翌6日夜に、秋田魁新報と山形新聞が(共同通信が?)、「新銀行名を「フィデア銀行」とする方向で検討している」と報じた。想定の範囲内で無難なところではあるが(+どこの銀行か伝わらないし、フィデアの意味も分からないけれど)、前日の魁の報道は何だったのか。
コメント (4)
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元・焼肉南山

2024-09-07 21:00:22 | 昔のこと
秋田市中央地域・保戸野(ほどの)地区の北寄り、千秋トンネルと新国道を結ぶ「保戸野学園通り」と、新国道の東を並行する「保戸野みその通り」~「泉いちょう通り」が交わる信号機付き交差点。住居表示では、保戸野千代田町、保戸野原の町、保戸野すわ町、保戸野鉄砲町の4町の境界。
秋田では多い無名交差点であるが、そこそこ主要な交差点かもしれない。他県なら「附属中学校西」とか「聖園短大北」とか命名されそうな。会話でこの交差点を伝えたい時、どう言えば通じるか。

この一帯は、お店がそこそこ多い。どの道路も、1980年代に整備されたもので、その後、住宅に混ざって店ができた感じ。
そんな経緯を見てきた者としては、数年前の秋田朝日放送の情報番組「サタナビっ!」で、(たしか)みその通りを指して「保戸野のメインストリート」と称していたのは、ショックだった。保戸野のメインストリートといえば、江戸時代から続く通町(と大工町)じゃないの? いや、実情として、そしてこの40年で生まれたり引っ越して来たりした人にとっては、そのほうが適切なのか…などと。
2023年7月には千代田町のガソリンスタンド跡に、秋田県再進出(2022年に11年ぶり)した「シャトレーゼ保戸野店」がオープン。だから、「シャトレーゼの交差点」で通じるかもしれないが、厳密には、この交差点から2件隣の小さい交差点の角に面しているので、不正確。
永年営業しているところでは、クリニック2件(1件はすわ町側角。もう1件は原の町側の交差点に面していない元・靴量販店)があるが、地元住民以外には通じにくそう。
それと、原の町側角の「ローソン秋田保戸野原の町店」。1997年秋田県初進出したローソン1号店の1つなのだが、ここはローソン密集地帯なので、「ローソンの交差点」では少々まぎらわしい。
ちなみに、鉄砲町側角は駐車場。

そして、千代田町側角が本命かも。
「中国料理 甜甜酒楼(てんてんしゅろう)」がある。のだけど…【15日追記・店舗の看板の一部は「中国東北料理 甜甜」表記。】
仮囲いが設置されていた
2024年7月20日で閉店したとのこと。
最近は、週に1度はここを通っていたのに、気付かないでしまっていた。状況からして、建物ごと解体されるのだろう。【23日追記・コメント欄の通り、解体ではなく、改装など別の工事が行われていそうな感じもする。要観察。】

甜甜酒楼に行ったことはなかったが、評判や人気は悪くなかったようだ。秋田では珍しい「刀削麺」も出していたらしい。
刀削麺は、昔「なるほど!ザ・ワールド」で、中国のものを見て知ったような記憶がある(「空飛ぶ空芯菜炒め」も見たけど、それはタイらしい)。日本上陸は1995年と、歴史は浅いそうだ。
そんなわけで、閉店前の秋田市では、「甜甜(酒楼)の交差点」で通じることがあったかもしれない。
ただ、上記の通り、我々、近場なのに行ったことがない者にとっては「千代田町にある、原の町のローソンの向かいの中華料理屋」程度の認識。
むしろ「南山(なんざん)の交差点」のほうが通じるかも。

甜甜酒楼の建物は、かつて「南山」という焼肉店だった。多くはないが、行ったことがある。
1980年代中頃~後半辺りに、新築でオープン。けっこう永く営業していたが、いつの間にか閉店して、中華料理店になっていたという感じ。
南山時代の建物の外観は、白っぽいグレー一色(のタイル張り?)。時期的に、秋田市立中央図書館明徳館(1983年開館)と、どことなく通ずるものがあったような。「南山」は朱色もしくは赤のカキッとした手書き文字のロゴだった。
南山閉店後に改装されて、一部外観が変わった。
また、交差点角には、おそらく南山時代からシュロの木が植えられていた。2012年10月のGoogleマップストリートビューでは2本あって、平屋の建物=車両用信号機程度の高さ。2022年10月でも変わりないが、2023年8月には2本とも姿を消していた。

ネットの断片的な情報。
・甜甜酒楼は2008年11月15日オープン?
・南山から甜甜酒楼に直接替わったのではなく、その間に他の店が(複数?)入っていた?【22日追記・いただいたコメントによれば、他の焼肉店や洋食系の店が短期間入っていたらしい。】
・南山は2004年10月25日~2004年12月2日の間頃に閉店?

・往時は「焼肉レストラン 南山グループ」というフレーズを使っていた。
言われてみればそうだった。他に南山という店はなさそうなのに、どうして「グループ」なのかと疑問だったのを思い出した。
ウェイバックマシンで当時のホームページを見ると、秋田の南山があった当時は、京都市左京区に「南山グループ本部」があった。2004年始時点では、秋田、名古屋、滋賀、京都、福岡、大分、長崎に店舗があることになっている。2004年の春以降、大分や長崎、そして秋田の店がなくなった。
南山グループは「南山レストラン事業協同組合」を指すらしく、「南山グループは、飲食業を天職として愛し、この仕事を生業として日々精進する、 小規模飲食店主らによる事業協同組合です。 」などとあった。
1965年に大分県中津市で飲食店(洋食店?)を創業。後に焼肉レストランに転向して、飲食店経営を目指す人を指導して、のれん分けを進めた。「そののれんわけ店舗が集まって結成されたのが「南山レストラン事業協同組合」です。南山グループは、1981年4月、農林水産省からの認可を受けて「事業協同組合」として再編成」。
創業者は、2001年に病気で引退、2011年に84歳で亡くなった。2000年代は牛海綿状脳症(BSE)などもあって、経営が苦しかったらしい。

各地の南山グループの店舗名は、「○○店」が多かったが、秋田の店は「秋田南山」というのが正式だったらしい。地域ごとに運営会社が存在することもあり、秋田南山は「(有)レストラン南山」が運営していたらしい。詳細は不明だが、秋田県には「(有)サンユー企画 」というのも存在。

2004年当時のURIは、実は現在も有効で、運営者の所在地も同じ。ただ、南山グループや協同組合の名はなくなっている。
2024年時点の運営者は「株式会社きたやま南山」で、店舗は京都の1店のみ。昔とは、店の雰囲気もだいぶ違ったようだ。
現在掲載される「沿革」では、1971年から全国展開し、そこに「大分県、福岡県、鹿児島県、長崎県、山口県、滋賀県、愛知県、山形県、岩手県、秋田県、福島県」とある。秋田の保戸野でない場所に「1971年時点」で店があったのかもしれないが、そうではなく、「最終的に」記載された県に店舗があったという意味ではないだろうか。また、「運営会社として㈱きたやま南山(当社)設立」は1979年としている。

ともかく、秋田市にあった焼肉南山の面影がなくなろうとしている。そして、交差点の場所がさらに説明しづらくなりそう。

【8日画像追加】
北・泉いちょう通り側から、交差点方向
タイルは南山時代から変わっていないはず。上の写真右後方・建物の北側に駐車場があった。
囲いのすき間から、店舗玄関
玄関は東辺中ほど。建物地際の御影石や、床面のタイルも南山時代のままだろうか。


【10月10日追記】10月9日時点では、上部の外壁が取り払われて、鉄骨がむき出しになっていた。
11月16日までに、更地になった。続きはこちら
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旭化成 ハマナカ…

2024-07-16 22:54:49 | 昔のこと
秋田市大町の手芸店。2017年時点では営業していたが、その後しばらくすると、いつもシャッターが下りるようになったようで、やめられたのか。それでも、看板は残っている。
電柱の陰にあるせいか、今まで気付かなかった看板を見つけた。懐かしいと思うより先に、ある歌というかサウンドロゴというかジングルを思い出した。何十年ぶりだろう。
南向きは色あせが著しい
下の赤い部分に白抜きで「楽しい手芸の店」。
北向きはマシ
上の赤に薄れた「旭化成」。大きなロゴマークの下に黒で「ハマナカ(R)手芸糸」。

「旭化成 ハマナカ手芸糸」である。思い出したかたがいらっしゃるならば、40歳代以上でしょう。
昔、テレビCMがあって、その最後に「♪あさひかせー はまなか…」と女声のジングルが流れていたのだ。

流れていた番組は、旭化成グループ1社提供のフジテレビ火曜21時「なるほど!ザ・ワールド」。
「なるほどサランラップ」とか、キュプラ生地の裏地の「ウラジミール・キュプラスキー」、加熱機能付きカップ酒「富久娘 燗番娘(ふくむすめ かんばんむすめ)※」などとともに、そのCMもあった。CMの内容は記憶にないが、ジングルは覚えていた。
※現在、富久娘酒造は旭化成グループを離れ、オエノングループ。燗番娘はなくなったようだ。

なるほど~は1981年から1996年まで放送された。僕が見て覚えていたとすれば、1980年代後半以降だろう。
あれ? 「手芸糸」だっけ? 「旭化成 ハマナカ手編み糸」だったような…


動画投稿サイトに、当時のCMがいくつかアップされていた。
1972年のCMではジングルでなくナレーションで「旭化成ハマナカ手芸糸」。同じく1社提供だった「スター千一夜」で流れていたのか。
その後、ジングルに。写真の看板と同じ画像が表示され「この看板のお店で」の文字とともに流れる。いつのCMか不明だが、1983年デビューの伊藤麻衣子(現・いとうまい子)が出演しているので、それ以降。
引き続き伊藤麻衣子出演の1985年のCMでは、文字とジングルが「旭化成ハマナカ手あみ糸」に変更。
ということで、1983年から1985年の間に、手芸糸から手あみ糸に変更されたようだ。
素人には「手編み糸」より「手芸糸」のほうが範囲が広いように(例えば刺繍糸、縫い糸等も含みそう)思われるが、単なるブランド名変更ということでいいのでしょうか。とすれば、手芸店の看板は40年以上前に設置されたことになるけれど。手芸糸と手編み糸が共存していたのか??
【17日追記・↑これらのジングルを聞いて、「そうそうこれ」と思いかけたが、なんか違うような、古臭いような印象を受けた。】

1988年には、タレントが別の人に変更。引き続き手あみ糸だが、ジングルが新しくなった。声やかすかに聞こえる伴奏も変わったが、メロディというかイントネーションが若干変更。
特に「ハマナカ」の部分が、従来は「ハマ↑ナ↑カ↓」とアクセントがあった【17日補足・「浜名湖」と同じアクセント】のが、平板になった。僕が記憶しているのは、このバージョンだ。【17日補足・CMの中身は、記憶になかった。ジングルだけが印象に残っていた。】

その後、どうなったのか。
トランプマンが出るようになったなるほど末期や、後継の1年で終わった「メトロポリタンジャーニー(※)」では、流れていたかどうか記憶がない。
※当時いた青森では放送されておらず、ほとんど見られなかったが、おもしろい番組で好きだった。

現在では、あのジングルを聞くことができないのは確実。「ハマナカ」が旭化成グループを離れため。
ハマナカ手あみ糸の企業は、京都市の「ハマナカ株式会社」(その他グループ企業あり)。手芸糸~手あみ糸初期のジングルの「ハマナカ」のイントネーションは、関西弁のそれの影響を受けているのかも。
1940年創業、1957年に旭化成と共業開始としているが、旭化成との関係がいつ解消されたのかは不明。
現在も、旭化成時代と同じロゴマークや「ハマナカ手あみ糸」の名を使っている。ホームページでは、ページタイトルなどに「ハマナカ手芸糸」の表記も見られる。


旭化成傘下にあったことは、ハマナカという企業にとってどうだったのかは分からないけれど、一定の効果はあったはず。手芸をしない者が、30年以上経っても、その名を覚えていたのだから。
そして、親会社(グループ)名、企業・ブランド名、商品のジャンルを並べて、メロディを付けたジングルとしては、名曲ではないだろうか。押し付けがましくないのに印象付けられ、30年以上保持されるのだから。「エバラ焼肉のタレ(たかしまあきひこ作曲だそう)」並みの名作。
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メローイエロー復刻?

2024-06-03 23:49:06 | 昔のこと
ロッテのキャンディ「小梅」を初めて食べた(食べさせられた)のは、1984年・小学校2年生の時に学校でだった。
6年生になった昭和最後の1988年度には、学校で2つの食品を初めて食べたり飲んだりした。

1つは、ブルーベリージャム。
当時は今ほど普及していなかったと思う。学校給食のパンに付くジャムは、イチゴジャムかマーマレード(リンゴジャムも?)だけで、一般家庭でもその辺りが一般的だったはず。イチゴは甘くて酸っぱくて複雑な味(?)で、マーマレードは苦くて、どちらもさほど好きではなかった。

元号が平成になって、卒業も間近になった3学期(当時の秋田市立学校は3学期制)。
家庭科の調理実習の授業参観を兼ねて、保護者を呼んで茶話会みたいなのが開かれた。メニューはサンドイッチ。そのサンドイッチの具材の1つとして、ブルーベリージャムがあった。名前は聞いたことがあったと思うが、青いジャムを初めて食べて、これはおいしいと思った。【4日補足・この時の食材は学校から支給され、ジャムは市販品だった。ということは、当時でもブルーベリージャムはそれなりに流通していたことになろう。我が家ではなじみがないだけだったのかも。】
その後、1990年代後半辺りだろうか、ブルーベリーアントシアニンが目にいいという話が広まったこともあり、ジャムの中ではブルーベリーをわりと選ぶようになった。


もう1つが本題で、メローイエロー。
コカ・コーラが製造販売していた炭酸飲料。
Wikipediaによれば、1979年にアメリカで発売され、1983年に日本で発売。松居直美がテレビCMで「とっても訳せない味」と言っていたのはなんとなく覚えている。「いっきに飲める 新カンキツ系」のフレーズもあったそうだ。
容器は黄色ベースで、丸ゴシック体のような書体で右上がりに「mellow Yellow/メロー イエロー」と表記。300mlのややころんとした緑色の瓶、250ml缶、1.5l緑色PETボトルのラインナップだったようだ。当時は一般に小容量ペットボトルはなく、350ml缶も少なかった。後に瓶がなくなり、350ml缶も出たと思われる。

CMを見て、メローイエローの名前と容器デザインは頭に入ったが、飲むことはなかった。飲みたいとは思わなかったかもしれない。
当時、炭酸飲料は飲んでいたが、新商品に“冒険”するほうではなかったし、ばあさんが冷蔵庫にファンタのオレンジやグレープ、三ツ矢サイダーなんかを入れてくれていたので、それで満足していた。

それを初めて飲むことになったのが、発売から5年経った、学校であった。それも理科の授業中に。以下、記憶の美化や脚色もあるかもしれません。
理科室に移動して授業をした終わり近く、担任の先生が、4人ずつの机(実験台)ごとに、紙コップと1.5lPETボトル(中身の入った)を数本ずつ配った【4日訂正・4人に1.5l×数本だと多い。数卓ごとに数本ずつか】。PETボトルはいずれも炭酸飲料で、ほかは忘れたがその1つがメローイエローだった。
そして「これからみんなで飲みましょう」とおっしゃった。
事前予告はなかったはずで、突然の授業中の“飲み会”に、戸惑いながらうれしく飲んだと思う。中でも、初めてのメローイエローが、訳せなくてもとってもおいしかった。

どうして理科の授業中に、炭酸飲料を飲むのかについては、先生が説明してくれた。
6年生の理科の単元(リトマス試験紙なども使う「水溶液の性質」かな?)の一環として、二酸化炭素が溶けている飲み物を飲もうということで、学年のお金(集金袋で納める学年会計、学年費)から購入したとのこと。学級担任の独断ではなく、学年3クラス共通で行ったことになり、後に渡された会計報告にも該当する支出が記されていた。
時期的には、少なくとも冬ではなく、夏だったような気がする。年度末ならば余剰金処理で、ということもあるだろうけれど、そうでないのなら、純粋に飲ませるために購入したのだろうか。当時、学校の近くにあったスーパーででも買ったのか、メローイエローを選んでくれた先生に感謝。

メローイエローのおいしさを知った後も、あまりメローイエローを飲む機会はなかったと思う。そもそも炭酸をあまり飲まくなったのと、平成に入って、はちみつレモンやカルピスウォーターなども出てきたから?
そして、気が付けば、メローイエローを店頭で見なくなった。
ネットで調べると、平成に入って間もなく1995年頃には、缶やロゴのデザインが変更されてポップなものになっていた(画像を見たらなんとく見覚えが)。その後、2000年に製造終了。再発売の声は根強いようで、2004年以降、断続的に(店舗や地域限定も含む)復刻発売が繰り返されている。

蛍光色のような黄色い液体だが、レモン味などではなく甘め。カフェインを含有し、発売当初は「みかん果汁」、後に「バレンシアオレンジ果汁」が1%入っていたが、2011年の復刻時に無果汁に変更。
復刻発売は、直近では2021年頃が最後だったそうだ。

ところで、メローイエローに先行し、かつ現存する競合商品に、ペプシコ「マウンテンデュー」がある。現在の日本では、サントリーから350ml缶が発売中。
大々的宣伝はされていないし、売られているのもあまり見ることが少なく、個人的には存在感が薄い。15年くらい前に、緑色の缶を自販機で買って飲んで、メローイエローっぽいかなと思いながら飲んだことはあった【末尾追記に続き】。


2004年5月21日。ローソン限定で、メローイエローが復刻発売された。
「ローソン研究所(https://www.lawson.co.jp/lab/tsuushin/art/1486879_4659.html)」サイトでも「復刻発売!」としているのだが…
ファンタシトラス&メローイエロー 490ml 税込み162円 1本255kcal
形状や容量は違うが、最初と同じ、黄色いラベルと文字が懐かしい。裏表とも英字で、カタカナ表記はなし。「無果汁」は片面のみ表示 なので、上写真の面にはなし。

だけど、なぜか「Fantaシトラス」が上半分を占める。
ローソン研究所では「爽やかなファンタシトラスを、なめらかな味わいでほどよい炭酸の「メローイエロー」でシュワっと仕上げました。」としている。
なんだかよく分からない。「ファンタシトラス」に「メローイエロー」を混ぜたってこと???

「黄色4号」による色は、往時と変わっていないそう。
強くなく弱くもない炭酸の刺激は、こんなもんか。カフェインも入っている。
味は…昔の味の記憶がおぼろげで確証はないけれど、昔のメローイエローとは違うのでは。果汁1%でないことを加味しても。昔はもっと、甘いというか濃いというか、もっとはっきりした味だったかな。
【4日追記】まずいというわけではなく、メローイエローじゃない炭酸飲料と思えば悪くない。

昨今の国際情勢、経済状況、オレンジの不作により、天然果汁を使うのは難しそうだけど、純粋なメローイエローの復刻品を飲んでみたい。
あと、今、調べて知ったのだけど、1987年から短期間、姉妹品が存在した。ピンク色ベースの容器の「メローレッド(mello Redd)」で、クランベリー果汁1%。クランベリーはコケモモの仲間(イコールではない)で、ジュースとして珍しい。飲んでみたかった。


【11日追記・マウンテンデューを飲んでみた】本件を受けて、マウンテンデューが飲みたくなって、自販機を探してみた。サントリーの自販機さえ見つかれば、扱っている確率は高そうで、2台中2台に、2枠入っていた。140円。
100mlあたり50kcalなので、52kcalのメローイエローより若干ローカロリー。黄色4号ではなく「カロチン色素」使用。ホームページにはカフェイン量が掲載されていて、100mlあたり「約20mg」。ペプシコーラの倍で、缶コーヒーよりは少ない。
そうそうこれと思わせる味。後味にほのかなオレンジっぽい風味が残るのが特徴的で、これが“肝”かも。ファンタシトラス&メローイエローとは違う。マウンテンデューのほうが好き。何度でも飲みたくなった。【14日追記】ドン・キホーテでは96円。その他のスーパーでは見かけない。


【2024年9月18日追記・その後のファンタシトラス&メローイエローについて
いつの間にか、販売が終了していたようだ。しかし、2024年9月17日、再びローソン限定で「復活発売」。量や価格は同じ。
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JRC登録式

2024-05-13 22:34:39 | 昔のこと
昭和末の小学生時代、毎年春に恒例の学校行事がいくつかあった。運動会(当時から秋田では秋より春のほうが大々的)、遠足、交通安全教室、避難訓練、身体測定・各診療科の検診などもそうだが、今回取り上げるのは「JRC登録式」。
卒業アルバムの中の行事記録で確認できた、6年間のうち3年は、ゴールデンウィーク前後(4月下旬から5月上旬)に行われていた。
ネットで調べると、全国的には現在でも、幼稚園・保育所・こども園から高等学校まで、行う園・学校はある。しかし、秋田市内では行われていなそうな雰囲気。

JRC(ジェーアールシー)とは「Junior Red Cross」、「青少年赤十字」のこと。
※以下、日本赤十字社岩手県支部の資料(https://www.jrc.or.jp/chapter/iwate/pdf/ae8362b1caa8c5b5b669907403abfa8fd256d73c.pdf)も参考にさせてもらいました。
詳しくは日本赤十字社のホームページ等でご覧いただきたいが、赤十字の活動を学校教育に取り入れるもの。そのために新入園・新入学した園児児童生徒を、「登録」する式典といったところ。ただ、実際には、年度単位での登録らしいので、手続き上は、2年生以上も毎年全校児童を登録更新していたのだろう。

岩手県支部の資料には、5月8日の「世界赤十字デー」にちなみ、その辺りで登録式を行う学校が多いとある。実際には新年度初めとか、連休前後という、学校運営的にふさわしい時期がそこであるという理由のほうが大きいかもしれない。
基本的にどこでも同じようだが、母校では、全児童が体育館に集まる、全校集会の形で行われた。岩手県支部の資料には、日赤支部から「担当者が出席して,お祝いと激励を申し上げます。」とあり、そういえば、昔の秋田でもそうだったかも。ほかの内容としては、赤十字の起源や目的の説明があったり、児童代表が作文を読んだりといったところだったはず(その他後述)。

といっても、登録式以外には、明確なJRC活動をした記憶がない。「JRC委員会」が存在する学校もあるが、母校にはなかった。
JRCに関連して「小さな親切運動」というフレーズにはおぼえがあるが、何かをしたわけではないはず。今調べると、「1円玉募金」に赤十字やJRCが関わっているようで、言われてみれば何度か小学校でやった気もするが、毎年ではなかった。
幼稚園、中学校以降では、JRCの名を耳にする機会さえなかった。
というわけで、実質、JRC=JRC登録式なのだが、JRCを印象付けるものがいろいろあった。
●バッジ
赤十字を、白抜きの桜の花(★星にも見える)が並ぶ青い円で囲んだのが、JRCのマーク。
新入生には、それをかたどった直径1センチ強のピンバッジが配られた。多くの児童は、それをクリアケース状の名札(関連記事)の中に入れ、大切にした。2年生以上に進級しても、引き続き名札にいれる子もいたが、学年が上がるごとに少なくなっていき、5年生・6年生ではほとんどいなかったのではないか。
ところで、JRC未登録の学校から、登録式以降に転入して来た子は、バッジをもらえたのだろうか。

●「空は世界へ」
JRCの歌。
登録式前、つまり新年度早々に、音楽の授業など各クラスで練習して、式で歌った。式が終われば歌う機会はなかったと思うが、毎年のことだから、6年間で忘れることはなかったし、今も歌詞は怪しいが、メロディーはよく覚えている。

歌詞は「空は世界へつづいてる」が歌い出しで、「空が僕らの私らの こころよ心よ少年赤十字」で終わる。歌詞では「青」が抜けた「少年赤十字」。
「空」「心」は1番で、2番以降ではその部分が違うものになり、けっこう長い歌だと記憶していた。

調べたら4番まであり、2番は花・姿、3番は星・誇り、4番が旗・しるしであった。
作詞は杉江健次、杉江健介、作曲は橋本国彦。
「赤十字WEBミュージアム」によれば、1946年「日赤は青少年赤十字の戦後再建を進める中、毎日新聞社の後援で「子ども赤十字の歌」の歌詞を一般から募集」し、橋本氏に作曲を依頼。別の情報では、作詞のお二人は兄弟らしい。
作曲者(1904~1949)は東京音楽学校教授を務め、「朝はどこから」や秋田県立湯沢高等学校校歌も手がけている。

1954年には「青少年赤十字の歌」が作られており(田中進兵衛 作詞、山田耕作 作曲)、中学校以上ではこちらが歌われるようだ。

●しんしん
プログラム的には、歌より先のようだが、式では、「ちかい」、いわゆる“誓いの言葉”を全員で唱和する。岩手県支部資料では「各学年ごと一句ずつ」とあるが、我々は最初から最後まで全員で声をそろえたはず。

アメリカのJRCのちかいを基に、戦後ずっと使われているそうで、「ちかい/わたくしは青少年赤十字の一員として心身を強健にし…」というもの。
ずっと前に、学校給食の記事への追記で触れているのだが、この時に、低学年を中心とした児童の間で、クスクスと笑いが起きた。
原因は「心身」が福神漬を連想させるから。

当時、株式会社新進が、福神漬を「新進漬(しんしんづけ)」として発売していた。学校給食のカレーの時にも出され、献立表にも商品名で記載されることがあったので、子どもにもその名が知られていた。「心身」という言葉を知らない、低学年にはおかしかったのだろう。
※現在は「しんしん」ロゴはあるが、商品名としては「福神漬」になっている。また、新進は今なお福神漬のトップメーカーであるが、プライベートブランドの福神漬ができ(製造元は新進だけど)、以前は秋田ではあまり見なかったと思う東海漬物が躍進するなど、相対的に「しんしん」の知名度は下がってしまったかもしれない。

●教室前方
学級担任の方針により違いはあっただろうが、各教室には、その「ちかい」が、通年で掲示された。正面の黒板横の掲示板なんかに張られることが多く、毎日目に入った。
すべすべした厚手の紙に、扁平気味の手書きの楷書で書かれた、賞状のようなしっかりとした印刷物。インクは紺色だったか。今、ネットで画像検索しても、当時と同一と思われるものばかりで、少なくとも40年不変なことになる。

それとセットで、ヒゲの西洋人男性のサイン入りのモノクロ印刷の顔も掲示された。赤十字創設者のアンリー・デュナン。※「アンリ・デュナン」と表記されることもあるが、日本赤十字社では「アンリー」と伸ばしている。その誕生日が世界赤十字デー。
岩手県支部の資料に、やはり昔と同じと思われる画像が載っていて、「アンリー・デュナンの肖像画(写真)」とされている。絵なのか写真なのかどっち?

●高学年の国語
秋田市が採択している光村図書の国語の教科書では、高学年の国語の教科書にアンリー・デュナンの伝記が載っていた。
6年生かと思っていたが、同社ホームページ「教科書クロニクル」によれば、5年生の下巻「大地」に「赤十字の創立者 ―アンリー=デュナン」のタイトルで掲載。現在のホームページでは「アンリー」表記。しかし、当時の教科書では「アンリ」表記で、登録式で聞くアンリーとは違うじゃないかと思ったような気がする。
この授業で赤十字についてよく知ることができ、1年生の頃から登録式で聞いていた話の理解が深まった。

1977年度版が初出で、1983年度版(1985年度まで使用)までは上巻「銀河」のほうに掲載。我々が使った1986年度版から下巻に移って、次の1989年度版(1991年度まで使用)が最後。
作者・筆者名は出ておらず、光村図書編集部によるオリジナルのようで、許可を得て日赤が指導用教材として転載している事例がある。となると、他の教科書会社を使っていた地域・学校の子は知らずに終わったのだろう。
思い出は以上。


日本赤十字社 秋田県支部「令和四年度 事業概要」によれば、2022年度末の秋田県内でJRCに登録されているのは、215校・園、3万2221人。
学校名も載っていて、ざっと見ると大仙・仙北エリアで登録が多い。秋田市内では、市立小学校7校で、母校の名はない。
7校には、大規模校も小規模校もある。過去の事業概要と比較すると、この数年の間に若干の入れ替わり、すなわち新たに登録された学校と、登録をやめてしまった学校が一部ある。学校ごとの方針転換か。
冒頭の通り、登録されているはずの学校でも、(年度は違って2024年度だが)行事予定に登録式はない。登録式をする余裕がなくなったのか。
その他、中学校は秋田市立秋田南と県立秋田南高校中等部のみ。あとは幼・保・こども園、高校(県立私立ともあるが、秋田南高校高等部はなし)、特別支援学校。

僕は当時から、“幽霊登録”、“名ばかり登録”だったことになるが、青少年でもなくなった今こそ、少しは人のために何かしようかな。しんしんを強健にして。
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水銀体温計

2024-02-03 23:11:50 | 昔のこと
A型インフルエンザにかかってしまった。
せき、鼻水などのほか、熱は39度手前まで上がったものの、それほど苦しくはなかった。食欲が落ちなかったのも幸い。
でも、別の疾患で治療中。相談したところ受診するよう指示され、タミフルが処方された。発熱2日目から服用して、その日の夜には(タミフルのおかげかは分からないが)ほぼ平熱に。4日目時点では、だるいようなふらつくような感覚が、若干残っている。
感染経路は同居家族で間違いない。こちらがいくら用心しても、狭い家の中に、しかも衛生観念が低い者(こっちは病気だから配慮してと言っているのに)がいては、どうしようもない。

さて、今は医療用語では「バイタルサイン(の1項目)」と呼ばれるそうだが、体調把握の指標の1つである体温。その計測に使う体温計の話。
新型コロナウイルス感染症以降、非接触式の体温計が広まった(医療機器として認証されていない、温度計のこともあるけれど)。これは、お店とか医療機器の玄関先とか、以前は体温を測らなかった場面で使われることが多いだろう。
昔から体温を測っていた、家庭や医療機関の中では、脇の下にはさむ(舌下やお尻でもできるようだけど)体温計が一般的。

ところで、これってご存知ですか?
細長い物体。この状態ではフタ付きケースに入っています
中身を出すと、
棒状のガラスの中に目盛り
ご存知ないかたは温度計? と思ってしまうかな。広い意味では正解。
正体は「体温計」。
体温計といえば電子体温計を指すようになった今の感覚では「昔の体温計」。正確もしくは誤解のないように表記すれば「水銀体温計」である。
「アナログ体温計」でも通じそうだが、Googleでダブルクォーテーションで囲って検索すると、水銀体温計約36万件に対して約5080件と多くない。電子体温計をデジタル体温計ともあまり言わないと思うし、体温計に関してはアナログ/デジタルとは表現しないのかな。

壁掛け寒暖計や理科実験用の棒状温度計は、ガラスの中にアルコールが入っていて、温度変化に応じて上下する。
水銀体温計では、水銀が入っているわけだが、温度(体温)が上がったらその位置で止まって、自然に下がることはないのが、寒暖計との大きな違い。
電源不要のメリットはあるが、ガラスだし、中の水銀は有毒なので、割れた時には危険。最近は、不要な水銀体温計類の回収も積極的に行われている。

我が家では水銀体温計がまだある。ほんとうは回収に出すべきなのかもしれないが。長年使い続けているのが1本(写真下)、最近発掘されたのが1本(写真上)。
電子体温計では、メーカーや機種によって、本体形状はさまざま。電池サイズや表示部を大きくしたい意図もあるのだろう。
水銀体温計は、三角柱など一部違うものもあったが、大部分はメーカーが違っても同じ(ような)形だった。この2本のように、円柱を押しつぶして平べったくしたような。どちらも目盛りは35、6、37、8、9、40、1、42と表記され、「37」だけ赤文字(下のは経年で退色)。
2本はメーカーが異なる。目盛りの色やサイズが異なるのはすぐ分かる。並べて比較してみるとサイズや、ガラスのカーブによる形状、それらによる触り心地も、微妙に違った。

目盛りは厚紙もしくはプラスチック板のようなものに印刷されて封入され、その前に水銀の管が配置されている。では、その裏側はどうなっているか。
裏面
検温には必要ない内容(電子体温計でも同じだけど)。
上は「TOSHIBA 東芝体温計A」と、メーカー、機種が表示されている。当時は「体温計」=水銀体温計だったことを示す名称だ。
下は「開業十周年記念」として秋田市内の医院の名(親戚宅のかかりつけ医)。その後に「柏木」とメーカー名らしきもの。
どちらにも右側に「C」とあるのは何かの義務付けられた表示だろうか(摂氏のC?)。下はさらに右に「人」みたいなマークも。

メーカーや製造時期について。
下の「柏木」は、明治時代に日本で初めて国産体温計を製造販売し、戦前は独占状態だったという同名メーカーが存在した。そこは1959年に製造をやめたとの情報があった。
だけど、この体温計はそれよりは新しい。体温計をくれた医院(代替わりして今も存在)は1967年開院だそうなので、1977年頃に製造されたことになる。医療機関がノベルティに使うくらいだから、信頼の置けるメーカーなのだと思うが、国産初の柏木との関係は不明。
現在、柏木という体温計メーカーはなさそう。

上の東芝は、もちろんあの東芝。
何でも作る東芝だけど、体温計まで作るとはと驚かれるかもしれないが、そういえばと感じられるかもしれない。かつては「サザエさん」などでテレビCMが流れていたので。
東芝体温計は箱や取扱説明書(兼 記録表)も残っている。
薄いダンボール箱
「特納用」とあり、健康保険組合が加入者に配布や販売するための製品だったようだ。
製造年などは記されていないが、説明書の活字に写研・ナールが使われているし、雰囲気としては昭和50~60年代かなという気がする。

箱には、企業名の表示があった。製造元なのか販売元なのか。
東芝硝子株式会社
東芝本体(東京芝浦電気→東芝)ではなく関連会社。大井川の河口、静岡県榛原郡吉田町に本社があるらしい。

調べると、東芝硝子は1999年に旭硝子(AGC)グループへ吸収。現在は「AGCテクノグラス」となって、本社は引き続き吉田町。体温計を製造している気配はないが、電子、工学、理化学分野のガラス製品を作っている。※東芝の体温計については、この記事後半も参照。

説明書には、現代のそれのように「各部の名称」の説明はないが、文面から読み取れるものとして、
・水銀槽:脇や舌下にはさむ測定部分であり、水銀が貯まっている部分。
・水銀糸:水銀が動いて体温を示す部分(うまく表現できない)。
・留点:水銀槽と目盛り左端の間にある、水銀が戻らないようにするための仕掛け。管が細くなっているようだ。


新型コロナ流行前は、平常時に体温を測る習慣がなく、流行後は、新たに購入した電子体温計をもっぱら使っていたので、水銀体温計はご無沙汰。インフルエンザ療養中の検温の一環として、久々に使ってみることにした。
水銀体温計は5分で、おおむね正確に測定できると記憶していた。東芝の説明書にも「わきの下での検温時間は、ほぼ5分間です。」とあった。
なお、同時に使用した電子体温計は、予測式ではなく実測式で、温度上昇が緩やかになればブザーが鳴り、10分間測定することで正確な値が出ることになっている。

3本を同時にはさむのは無理があるので、連続して1本ずつ、それぞれ5分間測定してみた。電子体温計では、ブザーが鳴った時と10分後の値も計測。
結果。電子体温計は10分経過時。水銀体温計は反射で見づらいですが
見事に3本とも、ほぼ36.4℃!
電子体温計は、2分05秒でブザーが鳴って36.3℃、5分経過時でも36.3℃だった。

自分の平熱は、長年36.5℃だと思っていた。また、少し前に、医療機関用のオムロン製予測式電子体温計で複数回検温した時は、いつも36℃台後半だった。
それらより少し低いのは、タミフルのせいなのか、外気温や室温のせいなのか、よく分からないけれど、3本がそろってそう言うのならそうなのでしょう。

久々に水銀体温計を使った感想。
1.パリンとやっちゃいそうで怖い
電子体温計と比べると、細く、ツルツルしているし、ガラス&水銀だから取扱い注意という意識もあって、少々緊張した。

2.値が読みづらい
自分の目が老眼になったとかではなく。壁掛け寒暖計と同じような感覚かと思っていたが、水銀の線がはっきり見える角度が狭くて、本体を微妙に回転させて、ベストな位置を探すのに苦労した。
どちらも、目盛りに対して真正面ではよく見えず、東芝はやや下、柏木はやや上からが判読しやすかった。


↑掲載した写真は、目盛りに対して左右方向にズレた位置から撮影しているため、正確な値として読み取れない状態です。目盛りの見やすさ(見にくさ)を示す写真です。

水銀体温計の目盛りは、黒いような銀色のような線がくっきりと出ていたと記憶していた。だけど今回の2本は、いちばんはっきり読み取れる位置でも、薄いグレーのようなもので、くっきりとは言えなかった。昔からこうだったっけ?

本体の長さがほぼ同じ2本を比べた時、東芝体温計のほうが目盛りが長く、目盛りの(範囲は両者同じなので)間隔が広い。また、水銀の管の、水銀が達していない部分が黄色い。判読しやすいような配慮がされているようだ(がそれほどでもなかった)。
東芝には、さらに見やすい体温計があった。テレビCMされていたのがそれで、「東芝ネオブルー」。水銀が青く見えて、読み取りやすさを売りにした製品であった。
ネットからは「ネオブルーA」という製品があったことが分かる。我が家にある「東芝体温計A」と同時期の品なのか? 「ネオブルーC」という記載も見られるが、それは今回の2本にもあったような「C」表記をいっしょに読んでしまっている可能性もある(ネオブルーBはなさそうだし)。ネオブルーでは目盛りの背景は黄色ではなく、無着色だったそうだ。

3.使用後が疲れる!
電子体温計は電源を切るか、放っておいてもオートパワーオフされるが、値が保持される水銀体温計ではそうはいかない。水銀体温計を知らない人はどうすればいいか、想像もできないかもしれない。

体温計を「振る」ことで、水銀が下がるのです。
記憶では、体温計を5本の指で握り、肘から先を上から下へ、けっこう力を入れて5回くらい振り下ろさないといけなかった。握りつぶしたり落としたり、周りの壁や机にぶつけたりして壊さないよう注意するのも重要。測定前には、下がっていることを確認することも大事。

久々に振ってみたら、柏木はそんな感じだったが、東芝が手ごわかった。
柏木より落ちかたが鈍く、いくら振っても35.9℃より下がらず、あきらめた(測定前もそうでした)。説明書には、使用後は35℃以下まで振り下げ、使用前は35℃になっていることを確認するように書かれていたけれど無理。

説明書では「水銀の簡単な振り下げ方法」が絵入りで紹介されている。
容器(ケース)に体温計をしまって、「ヒモの両端を指先にかけ、よりをかけて強く両方へ引き、回転させると遠心力で水銀は下がります。」。

そうそう。この説明書を見ていないと思われる人からも、そうやって下げることができると聞いたことがあったので、それなりに知られた方法だったのだろうか。これはこれで面倒そうだけど…


電子体温計が水銀体温計に取って代わったのはいつ頃だったのか。オムロンとテルモの公式サイトを見てみた。
オムロンは、1972年に医療機関向けとして電子体温計を発売しているが、最初の携帯電話みたいな大きな本体が別にあるタイプ。1980年に現在と見た目があまり変わらない、家庭用1号機を発売。1983年には小型化して、現在に続く「けんおんくん」となった。
テルモでは、「1983年11月病院向けに、1984年2月家庭向けに、日本で初めての「平衡温予測方式」の電子体温計を発売」し、「約1分で予測検温できるものとして市場に広く受け入れられました。」としている。

僕も、1980年代後半=昭和末=バブル期が交代時期だったと記憶している。
1980年代半ば頃に電子体温計なるものが存在するのをテレビか何かで知った。画期的な新商品というとらえかただったと思う。
行きつけだった小児科医院では、遅くとも1983年頃までは水銀体温計だったのが、1988年にはテルモ製の電子体温計(HOSPITAL USEとあったので医療用)に代わっていたか。
我が家でも、同じ頃に電子体温計をもらって、使い始めた。それも残っている。電池が切れているけれど。
下がそれ。日焼けしています
本体が厚く(太く)、表示部が小さいものの、現行とそんなに違和感はない。見づらいが、これもTOSHIBAロゴがある。
裏面表示
水銀体温計にはなかった、昔からの「東芝傘マーク(参考記事)」も記される。
「EMT-1」という機種。1というからには、電子体温計初代機種なのだろうか? 「株式会社東芝」とともに「製造 東芝硝子株式会社」も記され、水銀から電子へ製造が引き継がれていた。

上記の通り、東芝硝子を継承したAGCでは体温計は作っていなそう。
東芝としては、2000年11月の情報として「EMT-7」という製品が存在した(その時点で製造終了済みの可能性も)。
さらに婦人用体温計「HT-201」というのが2016年時点で株式会社東芝から発売されていた。その他ライフサイエンス事業を一括して、同年5月31日をもってTDK株式会社へ譲渡されている。2024年時点では、HT-301がTDKから出ている。

このEMT-1がいまいち。予測式だったのだと思うが、誰が測っても平熱が35℃台と表示され、こんなモン信用ならんと、水銀体温計に戻ってしまい、それが今も残っているのだった。だから、その数年後に接した医療機関の電子体温計が、信頼性の高そうな値を表示するのには驚いた。

ちなみに、東芝同様何でも作るパナソニック(旧・松下電器産業)グループでは、体温計を製造していた(いる)とは見聞きしたことがない。
調べると、現在はなさそうだが、かつては松下電工(現・パナソニック電工)から、ナショナル(National)ブランドの体温計が発売されていた。一般的な電子体温計(EW237P)と女性用が「はいなんど」、耳で測る「ミミタッチ」もあり、型番はいずれも「EW」で始まる。EW237Pは2003年頃の製品のようだ。【4日補足・松下グループで水銀体温計を作っていたという情報は見当たらなかった。】


若い人たちは黒電話のダイヤルの使いかたを知らないそうだ。現在の普及率を踏まえて考えれば当然。水銀体温計も同じことだと予想される。
以前、OHPの話題で、OHPを知る/知らない世代の境目は、昭和生まれ/平成生まれと重なるのではないかと予測していた。
体温計の場合は、遅くまで水銀体温計が残っていた家庭もあるだろうから、OHPほどはっきりとは分かれないと考えられる。昭和末生まれでも知らない人がいるかもしれないし、平成生まれで知っている人もいそう。
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「わたしたちの秋田市」

2023-12-02 22:39:49 | 昔のこと
小学校3・4年生(中学年)の社会科では、1年生から社会科があった昔も、生活科ができて3年生からになった現在も、自分たちが住む市や県を題材にして学習を進める。
全国で全員に無償配布される検定教科書では、地域ごとのフォローができないため、別に「副読本」が作られ、配布されることが多い。教育分野において「副読本」とは、検定教科書に対する補助的な教材全般を指すようだが、小学校中学年社会科(および一部では中学校も)向けのものを、特に「地域副読本」と称するそうで、Wikipediaにその項もある。
各地の社会科教育研究会や教育委員会が執筆・発行する。制作支援を商売にする出版社もある。

地域副読本の書名は、自治体名そのものズバリや、「のびゆく○○(自治体名)」も見られるが、圧倒的に多いのが「わたしたちの○○(自治体名)」。
秋田市でも「わたしたちの秋田市」。

自治体によっては、ホームページで閲覧できたり、市民向けに販売するところがあるが、秋田市ではやってなさそう(現行版は「非売品」扱いのようだ)。秋田市立各図書館と秋田県立図書館では、過去のものも含めて収蔵されている(貸出はできないものもあり)。
蔵書検索してみると、秋田市立図書館では、1960(昭和35)年版と、1981(昭和56)年版以降のほぼすべてを所蔵。県立図書館は、市立で抜けている1965~1976年をちらほらと持っている。※未所蔵の年の中には、そもそも発行されなかった年(=前年度版をそのまま配布)があるのかもしれない。

「わたしたちの秋田市」には、少なくとも60年以上の歴史があるのだった。
神奈川県相模原市の「さがみはら ―3・4年生 社会科副読本―(現在の書名)」は、1962(昭和37)年に初版本を作ったとのことで、全国的にそんな感じなのだろうか。

図書館のデータベースでは、いずれの年も基本的に著者は「秋田市教育委員会/編」、出版者は「秋田市教育委員会」。
ただ、初期は異なり、1960年版は「秋田市社会科教育研究会/編」、出版者は県立図書館では市教委だが、市立図書館では「教育書籍」というところ。1965年版は「秋田市社会科教育研究会/編 」、「秋田協同書籍」。
この記事で少し触れたが、秋田協同書籍は現存する教科書の取次供給所の1つ。「秋田県教育図書株式会社」は、現存するか不明だが、協同書籍と関連がある企業のようで、かつては取次供給所の上位の特約供給所だったようだ。

本のサイズは、1960年から1990(平成2)年までが21cmだから、A5判?
(1991年は図書館になく)1992年以降は26cm。これはAB判とかワイド判というサイズだろうか。おそらく、それぞれの時代で主流の教科書の判型に合わせているのだろう。
小学校の社会科の教科書は、現在は左綴じ・横書きだが、昭和末期は右綴じ・縦書きだった(中学校はすでに横書き)。「わたしたちの秋田市」もそれに合わせて、縦書きから横書きに変わっているようだ。

ページ数は、1960年が72、1976年が80、1985年が90、1990年が104、1992年が97、2023年が117。
文字のサイズ、図表や写真が増えたであろうことを踏まえると、掲載総量としては減っているかも。


Wikipediaには、地域副読本の使用義務はないから、未使用の学校も存在するとある。
僕が小学校3年生だった1985年度は、「わたしたちの秋田市」をかなり使った。検定教科書(当時の秋田市は「中教出版」を採択。関連記事。)のほうはあまり使わなかった。4年生では、「わたしたちの~」はほぼ使わなかったはず。

どこかに保管してあるはずだが、すぐには出てこない(図書館に行けば見られるけど)。
表紙は、白地に黄緑色(秋田市の色・若草色?)の細かい縦縞模様が入ったような感じで、横書きの手書き風明朝体で「わたしたちの秋田市」と書かれていたような記憶がある。
中身は、県内他地域との比較として、豪雪地帯の山内村(現・横手市山内)と温暖な象潟町(現・にかほ市象潟町)が取り上げられたり、郷土の偉人として防風林【3日訂正】防砂林植樹を行った栗田定之丞が掲載されたりしていた。社会科見学・市内めぐりの事前・事後学習にも使ったはず。


それから40年近く。合併、市街地空洞化、少子高齢化・人口減少などを経験した、わたしたちの秋田市。人口は1989年に30万人を越えたが、2002年から減少(2005年の河辺・雄和合併後も)に転じ、先日、ついに30万人を割った。
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道徳のフィンガーボウル

2023-11-06 21:07:12 | 昔のこと
2023年10月20日の臨時国会開会式で、新たに就任した額賀福志郎 衆院議長が所作を誤ったことが話題になった。
演壇から議場に向かって「式辞」を読み上げた後、後方に座る天皇陛下へ振り返って一礼後、そのまま降壇するべきところ、階段を上がって天皇陛下の元へ歩み寄り、式辞の原稿を手渡してしまった。陛下は、若干困惑の表情を浮かべた後、立ち上がってほほえんで両手で受け取られた。
卒業式の答辞じゃあるまいし。まして今回のは「原稿」。見た感じ、賞状のような厚手で大きめの一枚紙を、軽く丸めて筒状にした状態。それを渡されても困る。議長が初めてで緊張したと釈明して、それはそうなのだろうけど、衆議院議員を13期もやっていて、知らなかったわけはないでしょう。

あと、演壇後方、階段左右には、4~5人ずつ、何者か知らないけど立っている(議長も式辞以外はその右側で待機するようだ)。その人たちだって、所作は知っているだろうから、階段を上がりかけた議長に「そっちじゃない。こっちへ戻って!」と声をかけて、やめさせることもできたのでは、と思った。
天皇陛下としては、そんなもんいらんと追い返すわけにもいかず、受け取るしかなかったとお察し申し上げる。後で議長が宮内庁長官へ謝罪し、「陛下は気にしていない」旨が伝えられ、まあ一件落着。


この一件を知って、「フィンガーボウル」を思い出した。フィンガーボウルが出てくる、とあるお話。
ある国で、女王主催の晩餐会(食事会? 宴会?)が開かれた。その招待客の1人が、汚れた指先を洗うための水が入った容器「フィンガーボウル」の水を、知らなかったのか緊張したためか誤って飲んでしまった。それを見た女王は、本来の用途を知っているのに、フィンガーボウルの水をためらいなく飲み干した。
そんな内容だっと記憶する。
おそらく小学校4年生=1986年度の道徳の教科書に載っていて、授業で取り上げられた。
「フィンガーボウル」の名と用途を初めて知るとともに、女王が行ったことが果たして正しいと言えるのか、引っかかるような気持ちになったので、40年近く経った今でも記憶に残っている。

当時は道徳が正規の教科扱い(現在は「特別の教科」)ではなく、教科書も検定・無償給与(先日の記事)ではない、副読本のような扱い。秋田市立学校では、学校ごとに教科書を選定していたようだ。母校は道徳教育の研究指定校だったため、毎年、違う教科書を買わされており、どの教科書会社だったのかは失念。

このお話をネットで検索してみると、道徳の授業に限らず、大きなってから(おそらくマナー講習やサービス業界の研修等)知ったと思われる人もいて、そこそこ知られた話のようだ。
Wikipediaの「フィンガーボウル」の項でも言及がある。元となる実際のエピソードがあるとされるが、細部が異なって言い伝えられている。主催者はイギリス国王エドワード8世またはヴィクトリア女王で、招待客は外国人というのが多そう。場所を日本にして、陸軍大将主催の会とするバージョンも存在。イギリス版でも、客の出身はアラブだとかアフリカだとか、いくつかあるようで、そのバラツキ具合からすれば作り話っぽい感じもする。
ネット上の個人の思い出話では、客が「(なぜか招待された)一般庶民」とするものや、女王が「エリザベス女王」、さらに「サッチャー首相」だとするものも。それらは、勘違いあるいは、伝言ゲームのように/時には意図的に、作り変えられたのだと思われる。※差異があって語り継がれる伝説っぽいものとして、ベルトクイズQ&Q/クイズタイムショックの話を思い出した。


そして、令和になっても、道徳の教科書に載っていた。ネットには、授業の展開をまとめた学習指導案が、いくつもアップされている。最近は、フィンガーボウルの説明や食事マナーと合わせて、栄養教諭とともに授業することも行われていた。
道徳教科書の掲載内容に限れば、「人権を大切にする道徳教育研究会(https://www.doutoku.info)」ホームページに、信頼性が高い参考になる情報があった。
同研究会によれば、現時点で3社が、いずれも小学校4年生用に掲載している。あかつき教育図書と日本文教出版は「フィンガーボール」、学校図書が「生きた礼ぎ」のタイトル。※「~ボウル」ではなく「~ボール」表記。この記事では一般的と思われる「~ボウル」も用います。
その他、光文書院の3年生用にも「生きたれいぎ」が掲載されているようだ。「礼」は3年生で習う漢字であるため、3年生向けはまだ「れいぎ」表記なのだと思う。過去も含めて、他社・他学年にも載っていた可能性がある。

出典については、
「“吉沢久子作「生きた礼儀と死んだ作法」”のあらすじである。 この作品が収められているのは、「美しい日々のために:少女の生活設計」(吉沢久子著、三十書房、1953年) 」。
吉沢久子は2019年に101歳で亡くなった、評論家・随筆家。
1965年に当時の文部省が出版した「小学校道徳の指導資料 第2集 第4学年」に「資料 読み物「生きたれいぎ」 」というのがあるらしく、それがこれだとすれば、原典出版直後から、およそ60年に渡って、道徳教育で使われてきたことになる。
教科書会社が違っても、同じ「あらすじ」が掲載されるが不思議だが、文部省が示した資料からの転載ということなのか。

研究会によれば教科書での終わりかたは2パターン存在。
「作法通りに女王がフィンガーポールで指を洗ったなら、その客はどんな思いをしたことか。・・・(ここまでの内容は各社共通) そのあと【日本文教出版】と【学校図書】では、「お客はあとで自分の間違いを知ったとき、女王のとった態度をありがたく思ったことでしょう。」と続き、女王の行動を「生きた礼儀」の手本として評価している。これでは女王のやり方が唯一の正解であるかのように教えることになり、めざす「考える道徳」になっていない。一方【廣済堂あかつき】は女王の行動の評価までは記載せず、考える余地をつくっている。 」。

僕が習ったのはどっちだったか。言われてみれば「生きた礼儀」という言葉におぼえがあるような。「~ありがたく思ったことでしょう。」のくだりがあったような。


フィンガーボールは、学習指導要領における「礼儀」、「礼儀の大切さを知り,誰に対しても真心をもって接すること」をねらいとした教材。
たしかに、女王のやりかたも、客を思いやった行動の1つではある。間違った客は、事実を知った時、女王の対応に感謝はするだろうけれど、そのほかに、女王は確実に自分の過ちを認識していて、そのことで女王に気を遣わせてしまったことを同時に知ることになる。自責の念というか申し訳ない気持ちが生じてしまわないだろうか。さらに、間違いに気付くのが遅れれば、次にフィンガーボウルに接した時は、また飲んでしまいかねない。
自分が間違った客の立場ならば、見て見ぬふりで淡々と手を洗ってくれたほうがいい。「自分の間違った行為を、ひょっとしたら女王は見て(気付いて)いなかったかもしれない」という、“淡い期待”も持つことができ、後悔も軽減される。

間違った客と女王以外の、他の客の立場になってみても、主催者が水を飲んでしまっては、自分はどうすれば…と葛藤することになるだろう。
可能ならば、客が飲みかけた時点で小声で「飲むんじゃないですよ」と止め、できないなら、見て見ぬふりで淡々と手を洗うのがいちばんではないだろうか。

つまるところ、相手を思いやった行動を、その場に応じて臨機応変にすればいいのだけれど、その行動は1つだけが正解ではないだろうし、相手の受け取りかたも1つではない。
37年前は、漠然とした引っかかりが残った程度だったが、今、37年ぶりに思い返してみたら、小学生にも大人にも難しい問題だと感じている。


ところで、お嬢様育ちの芸人(一時期、NHKディレクター)たかまつなな には、牛丼屋に初めて入って、水の入ったコップをフィンガーボウルと勘違いして、指を洗ったという、今回の話と真逆のネタがあるらしい。でも、いくらお嬢様でも、牛丼屋のコップはコップだと思うのでは… そもそも牛丼屋で指先はあまり汚れないだろうし… ネタだから作り話でもいいけれど。
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昭和63年度 教科書一覧

2023-10-16 19:46:55 | 昔のこと
教科書採択に関連して、物持ち良く保存していたものから。
おそらく1988(昭和63)年春、小学校6年生になった時、学校で配られた紙。B5判より小さい紙で、(校内の印刷機などでなく)ちゃんと印刷されたもの。
「教科書のお知らせとご注意事項」
新学期のほか、上下巻に分かれた国語のような秋(今でいう後期開始時)に配本がある場合はその時にも、教科書とともに渡されていた。他の年度版は行方不明だが、少なくとも小学校時代はこのスタイルだった記憶があるが、中学校ではどうだったか。

メインは中ほどの「教科書照合一覧表」。自分の学年に応じた教科書を、もれなくもらったかチェックする用途。記された数字は、その「定価」。※当時は消費税導入前。導入後も、教科書は非課税。
無償配布なのに定価を教えるのがおもしろい(紛失時等は有償販売になるので、定価設定は必要)。これだけ費用がかかって、税金が使われているということを分からせる意図があったのかもしれない。「あなた(お子さま)がお使いになる教科書は、国から無償で給与されます。」の文もあり、当時の僕はそう感じた。今は、市の広報紙などで、それ自体の単価を表示することがある(広報あきた10月6日号は1部25.245円)が、それと同じように。

本文は、きれいな活字で印刷されている。
しかし、「秋田市・河辺郡内公立(小学校)」や、教科書の出版社名と価格は、今では懐かしい、ドットの粗いコンピューターの文字。
だから、県内他地域や県外と文面や枠は共通で、採択に応じて照合一覧表だけ差し替えているのかもと思ったが、いちばん下の「教科書取扱店」は秋田市内の店だけが、きれいな文字で印刷されている。右下には「秋9051」という秋田を意味しそうな記号も。広告部分も、また別の印字なのかもしれないけれど。

「教科書取扱店」。本文において、紛失や汚損時に「下記の教科書取扱店(教科用図書取次供給所)でお求めください。」とある。
「秋田協同書籍」は電話番号なしで名称のみやや大きく記され、その下に「参考書の取り扱いは」として、秋田市内4つの書店。4書店でも教科書本体も購入できたはずだが、分かりにくい書きかた。
「かねこ書店」は土崎港中央一丁目。2010年前後まで営業していたようで、Googleマップストリートビューでは2012~2015年時点では、売物件で看板は残っていた。2018年以降は、宅配寿司が入居。
「三光堂書店」は、大昔は大町にあって、山王大通り(竿燈大通り)建設時に、中央通りの中通一丁目へ移転。今のエリアなかいち住居棟付近にあったそうだが、なかいち着工のだいぶ前にやめているはず。
「三浦書店」は、広小路はじめ秋田市内に複数店舗があったが、2000年頃に廃業(関連記事)。
4書店中、2023年時点で残るのは、加賀谷書店のみ。その電話番号は、2012年で閉店した広小路の本店を掲載。閉店してまだ11年しか経っていないのか。
後に、保戸野の文具店「のてや」も教科用図書取次供給所になったようだが、閉店したため、現在は協同書籍と加賀谷書店。


教科書照合一覧表。

「外国語(英語)」や当時は教科ではなかった「道徳」は、見る影もない。「生活」もまだ始まっていないが、1年生の欄を見ると、理科は配られているものの、社会がない。生活科導入を踏まえて、カリキュラムを多少変えていたのだろうか。あと「保健」は、検定教科書がなかったのか。

採択された出版社。
2024年度の秋田市の採択と異なるのは、社会(中教出版→東京書籍)、理科(大日本図書→東京書籍)、図工(開隆堂→日本文教出版)と、意外に少ない。【16日注記・ここでは1988年度と2024年度の単純な比較です。その途中のどこかで、一度変更されて再度戻るなど、採択が変更された可能性はあります。】
大日本図書の「たのしい理科」は楽しかったけどな。一覧表を見ると、1冊当たりのコストはいちばん高い。※国語などは上下巻に分かれているので、通年ではそちらが高いことになる。

中教出版は現存しない。1993年に、社会と生活の版権を日本文教出版に譲渡して、後に解散。
当時の社会科教科書は、太い横縞(色は学年で異なる)を背景にイラストをちりばめた表紙で、「国民生活と生産 5上」「国土と人間 5下」のようなタイトルが付いていた。タイトルは光村図書の国語もそう(一上 かざぐるま、四上 かがやき等)だけど、こちらのほうが直接的。
なお、小学校の社会科の教科書は、現在は左綴じ・横書きだが、当時は右綴じ・縦書きだった。中学校は当時から横書き。


「教科書のお知らせとご注意事項」は、裏面もある。
いかにも昭和テイスト
「よい本を選びましょう!」とあり、課題図書でも載っているのかと思いきや、問題集・ドリルや教科書ガイドの宣伝。「定価一らん表」まで出ている。
商売っ気があると言えばそうだけど、無償配布の教科書一覧の裏で、“虎の巻”の告知までするとは。


ところで、全国的に小学校3年生には、その市町村のことに限定した教科書に準ずる本が配られ、社会科で使われることが多い。「地域副読本」などと呼ばれるもの(自治体によって有償無償は違うようだ)で、検定教科書ではないので、この紙には出ていない。
秋田市では「わたしたちの秋田市」という書名なのだが、それについてまた後日
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勇気一つを友にして

2023-10-09 22:42:21 | 昔のこと
NHK「みんなのうた」の2023年10月・11月の再放送曲。
明るく楽しい「メゲメゲルンバ」とセットで放送されるのが、「勇気一つを友にして」。
おそらく昭和40~60年代(平成初期も?)生まれの人はご存知の歌だと思うが、好きではない人も多いと思う。僕は大嫌いである。暗いし、言っていることがおかしいし。

作詞:片岡輝、作曲:越部信義、歌:山田美也子、アニメーション:毛利厚。
作詞者は「未来少年コナン」の主題歌や「グリーングリーン」も手がけた詩人、作曲者は「おかあさんといっしょ」や「サザエさん」のBGMでおなじみ。越部作品としては断トツに暗い曲だろう。
歌い出し部分に、「キハーダ」もしくは「ヴィブラスラップ(ビブラスラップ)」という打楽器による「カーッ」の音が入るのが、ちょっとおもしろい。「与作(1978年)」の「ヘイヘイホー」の合いの手や、ハンバーグ師匠が持っているが、当時はまだどちらもなかった。当時の越部先生なりのお考えがあったのだろうけど、今となってはなんか場違い。【2024年7月13日追記・余談だが1973年の八代亜紀「なみだ恋」にも、カーッが多用されていて、今となっては場違いに聞こえてしまう。】
あと、アニメーションも、色と動きが少なくてなんだか怖い。

みんなのうたでの初回放送は1975年10・11月。
みんなのうた向けの書き下ろし作品なのか、先に発表済みの作品を起用したのか(今は書き下ろしが原則だが、当時のみんなのうたで両パターンあったようだ)は不明。Wikipediaによれば、1979年には教育芸術社の小学校6年生の音楽の教科書に掲載されていたとのこと。みんなのうた放送により、広く知られるようになったのかもしれない。

歌詞の内容は、昔、ギリシャのイカロス(イーカロス、イカルス)が、鳥の羽根をロウで固めた翼を着けて空を飛んだ。すると、太陽の熱でロウが溶けて翼が壊れ、イカロスは墜ちて命を失った。だけど、僕らはそんなイカロスの鉄の勇気を受け継いで、強く生きていく。というもの。

歌詞だけでは、イカロスがどういう理由で空を飛ぼうとしたのかが分からない。鳥人間コンテストのように、純粋に飛びたくて飛んだのだと思っていた。それを「鉄の勇気」と褒め称えるべきか…
出典となったギリシャ神話を紐解く(Wikipediaですが)と、少し状況が変わる。
イカロスは、父・ダイダロスとともに、迷宮(塔)に幽閉されていたのだった。自由を求めて飛び立ち、落命してしまったのなら、「勇気」とも言えなくはないか…
いや、そうでもなかった。
翼は父と共同で作ったもので、事前に父から「ロウが溶けるから太陽に近づくな」と注意を受けていたのに、飛び立った後、いわゆる“調子こいて”太陽へ向かっていったのだった(父のほうは翼で脱出に成功したらしい)。
ということは、制限速度をオーバーして自動車事故を起こしたり、閉山中の富士山のゲートをくぐって登山して救助を求めたりする人たちみたいなもんじゃないか。それを「勇気」とし、それを受け継いで生きたくない。

慣用句的な「イカロスの翼」としては、人間が生み出した技術への過信を戒める意味合い。
でも、上記を知れば、技術とか過信以前に、人から言われた重要なことを守れない、バカでしかない。


僕がみんなのうたで初めて本作を見たのは、1980年代半ば頃の再放送。しかしそれ以前に、歌は知っていて、すでに嫌いになっていた。
秋田市立学校(当時は+河辺郡2町立)の音楽の教科書は、教育芸術社を採択していて(現在も)、上記の通り当時はこの曲が6年生用に載っていた。
毎年秋には、学年ごとに学習の成果を発表する学校行事がある。母校の場合、1984年度までは「学芸発表会(学芸会)」、1985年度から「学習発表会」の名称。
その6年生の出し物では、最後に「勇気一つを友にして」を合唱するのが恒例になっていて、毎年聞かされていたから。みんなのうた版を初めて見た時は、アレンジとアニメでさらに嫌いになった。

毎年聞かされて嫌になった上、自分が6年生になったら歌わされるのだとさらに嫌になっていた。
しかし、我々が6年になった時は歌わなかった。
学年主任でもあった学級担任の先生が、これまでのマンネリを打ち破り、新しい歌を歌うことにしたような話をされたのを覚えている。比較的若い先生が多かった学年で、音楽専攻の先生がいたこともあっただろう。
代わりに教育芸術社の中学校の教科書掲載の「明日という大空(作詞:平野祐香里、作曲:橋本祥路=秋田県出身、教育芸術社役員)」を歌った。平常の授業も含めて、「勇気一つを友にして」はほぼ歌わなかったのではないだろうか。※関連して音楽の教科書の話題


教育芸術社ホームページによれば、現行の教科書には「勇気一つを友にして」はどの学年でも掲載されていない。その他ネットを見ると、2000年代半ばくらいではまだ掲載されていたような感じ。
また、現在の6年生の教科書には、「明日という大空」が中学校から移動していた。昭和末の我が母校の先生たちは、先見性があったようだ。
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メゲメゲルンバ

2023-10-08 20:12:59 | 昔のこと
NHK「みんなのうた」の2023年10月・11月の再放送曲。※昨年時点では、NHKプラスでの見逃し配信はされていなかったはずだが、現在はされるようになった。
「メゲメゲルンバ(メゲメゲ・ルンバ)」がついに放送。

初回放送は1981年10・11月。
Wikipediaでは、今回のテレビでの再放送は、1982年以来35年ぶりとか書いてあるけれど、違うと思う。1980年代後半にも再放送されているはず。僕は初回放送とその翌年の記憶はなく、1980年代後半の再放送枠でこの歌を知って、好きになったから。
また、ステレオ音声に聞き覚えもあったので、21世紀に入ってからも、1回限りなどで放送されているかもしれない。※みんなのうたは1981年度新作からステレオ音声。

作詞:藤田詩織、作曲:古田喜昭、編曲:松井忠重、歌:詩織、アニメーション:倉橋達治。
作詞者が歌っているのかな。
作曲者は、1980年代に、みんなのうたのほか、アイドルやアニメの歌を多く作っている。作詞もしたり、テレビ朝日「パーマン」のエンディング「パーマンはそこにいる」は歌唱も。

歌詞も、曲も、歌い方も、アニメーションも、どれも楽しい。
テンポよく、ちょっとスリリングな展開でもあり、いちおうハッピーエンド。子どもの(大人でも?)歌はこうでなくちゃ。ただ、後述のように、今、歌詞をかみしめてみると、考えさせられるものもなくはない。
再放送の少なさのせいか、明るすぎる曲調のせい(トラウマ曲として記憶に残る人などいまい)か、当時子どもだった世代でも知らない・覚えていない人が多いと思われるが、みんなのうたの名曲の1つとしていい。
なお、ヒット曲「コーヒールンバ」にどことなく通じる点もあるけれど、約20年の時差があり、曲調などはだいぶ違うと思う。

久々に見たアニメーションは、全体にくっきりしていて、色鮮やかに感じた。
この年代の再放送曲では、基本的に保存映像をそのまま放送しているのか、フイルムの質感やノイズがあるのに、本作はそれが少ないように見えた。デジタルリマスターしたのか?【8日追記・でもノイズも残っていて、一般的なデジタルリマスター後の映像ともまた違う感じがする。】

名曲メゲメゲルンバには、“汚点”があった。
歌詞の字幕に間違いが3か所もあったのだ。
みんなのうたに限らず、昔のテレビの字幕は現在ほど容易に訂正はできなかったはずで、手書きで修正される場合もあった。本作は間違いに気付けなかったのか、気付いたけれど、もう手直しできない状態だったのか。1980年代の再放送では未修正で、うち1つは、子どもの頃に気付いていた。

今回の再放送。
「事件を次々解決してたよ」は、
「次々 解決」

「シェイアップした」は、
「シェイプアップした」

「昔ばなしする」は、
「昔ばなしする」
すべて修正されていた。

1983年の「オナカの大きな王子さま(岸部シロー版)」では、「(空飛ぶ)じゅうたん」が「じゅたん」と誤植されていたが、2000年代以降の再放送では修正されていた。
そちらは、元の字幕にボカシのようなものをかけ、異なるフォント(名称不明)で「じゅうたん」を上書きしていた。背景のアニメが白っぽいので目立たなかった。

ところが本作では、修正後も、オリジナルのモリサワ「テレビ太ゴシック体BT1」のまま。BT1はデジタルフォント化はされていない。
「シェイプアップ~」のフレーズは、字幕全体が若干傾いている(昔はたまにあった)のだが、傾いたまま修正されている。
ボカシなどなく、背景のアニメは色も動きもあるのに、ボカシ、にじみ、ゆがみのような不自然さはない。間違いがなかったかのよう。

リマスターついでに【8日追記・リマスターではなく、誤字部分に限定した】誤植修正を行って、これが現在のデジタル画像処理技術の威力ということなのだろうか。
「次々 解決」は、他の箇所には見られない、全角1文字分の空白ができているので、「に」を消したのか?
「プ」は、後の「プ」から切り貼りしたのか?
「昔ばなし」は、「を」を消して、右へ移動したのか?(文字の大きさや線の太さが若干違う気もする)

初回放送の雰囲気そのままに、汚点がなくなって良かった。


ところで、「メゲメゲ」って?
曲中では、歌詞には出てこず、「メゲメゲメゲルンバ」の合いの手が入るのみ。
主人公は、2度、ピンチに陥り、どちらもいちおう立ち直る。メゲないということだろうか。

主人公は、誰にも乗れない空飛ぶじゅうたんを乗りこなすスーパーヒーローだったのが、空飛ぶじゅうたんが一般に普及したことで「ただの人」になり、それを受け入れる。
空飛ぶじゅうたんを、ワープロ、パソコン、インターネットに置き換えて、我々世代に当てはめてみれば、なんだか身につまされるものがある。【11月2日追記・新美南吉「おぢいさんのランプ」とちょっと通ずる点がある。】

今回気付いたが、アニメーションでは、一般人が乗る空飛ぶじゅうたんには、自動車と同じハンドルが付いてるのに対し、(元)スーパーヒーローとおまわりさんが乗る空飛ぶじゅうたんには、それがない。
したがって、スーパーヒーローは、標準以上の空飛ぶじゅうたん操縦能力を持っていると考えられる。それを活かす道もあるかもしれないが、「ただの人」を選んだというのも…


ところで、今回の再放送でセットになる曲は「勇気一つを友にして」(勇気一つを→メゲメゲの順)。1975年10・11月初回放送。
メゲメゲルンバとは、初回放送月が一致するのと、歌い出しが「昔ギリシャの」「昔ペルシャに」であることくらい【9日追記・それに「主人公が空を飛ぶ」こと】が共通点。こちらは嫌いな曲である。続く
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さくら 表札に学校名?

2023-10-03 19:32:07 | 昔のこと
2002年度前半のNHK連続テレビ小説「さくら」
主人公・さくらが、岐阜県飛騨高山の中学校に英語指導助手として赴任する。それに関していろいろと。【2024年2月19日補足・物語の設定年代は2002年1月から2003年3月だそうで、放送期間をまたいで少し前~半年後となる。】

まず、「英語指導助手」。
現在は、ALT・外国語指導助手と呼ぶのが一般的なようだが、昔はAET・英語指導助手と言っていた。いつの間にか変わったという感じ。
Wikipediaには、外国語青年招致事業(JETプログラム)において、ALTの呼称を用いているからとある。しかし、JETプログラムは1987年に始まったそうだが、それ以降もしばらくはAETの呼称が主流だったのだから、ズレがある。EからLにかわったきっかけは、ほかにあるのではないか。
そもそも作中では、学校独自の求人で採用されたので、JETプログラムではないと思われ、だったらどうでもいいのかも。


外国人を指して「外人(がいじん)」と呼ぶことがある。
現在では、差別用語に近い扱いになっていて、テレビ番組で一般人が「外人」と発言しても、字幕では「外国人」に置き換えられる場合がある。
昔は、外国人ではなく外人と呼ぶのが当たり前だった。横浜や函館などの「外国人墓地」も、かつては「外人墓地」だった。「外人」を、差別的な意味合いで用いることはなくはなかったと思われるが、その意図がないことも多かったはずで、「外人さん」など親しみをこめた呼びかたでもあった。
2002年当時では、外国人のほうが主流になっていた頃か。作中のセリフでもそうだが、たまに「外人」も出てくる。文字放送字幕でもそのまま表示。


そのほか、職場のお茶くみや飲み会でのお酌、上司より先に帰宅してはならないなど、2020年代ではなくなったとまではいかないが、前時代的な慣習ととらえられているものが、描写される。ただ、当時でも、好ましくはないものとされていたから、ドラマに採用されたわけで、20年経っても、完全にはなくなっていないということでもある。


舞台となる学校は、高山市内にある「高山あけぼの中学校」。私立男子校。実際には、飛騨地方には私立中学校は存在しないとのこと。
作中で、あけぼの中の教員たちの「うちは受験校(または進学校)」というセリフがよく出てくる。高校進学率がほぼ100%になって久しく、中学校はどこでも受験校なんじゃないのかと思うが、要はより上位の高校合格を目指す中学校ということだろう。【19日追記・第30回には、教員による「我が校は 県下でも名だたる優秀校です。」のセリフあり。】
【20日追記】高山あけぼの中学校の校舎は、高台にある比較的新しい建物。岐阜県立高山高等学校(2005年から飛騨高山高等学校岡本校舎)でロケしたとのこと。

東京に、同経営の中学校と高校(校名が分かるシーンがあったが名前は忘れた。男女共学だったかも)があり、理事長はそちらにいる。
【4日追記・高山の校門には「学校法人 高山あけぼの中学校」と表示されていた(普通は法人名に「中学校」まで入れないと思うが)。でも、それだと同経営ではなく、東京とは別法人扱いの可能性を感じさせる。その場合、理事長は、東京と高山の両法人を兼務していることになろう。こちらも男子校らしい。】
【11月29日追記・45、47回の東京の校門には「学校法人 東京あけぼの中学校(改行)    東京あけぼの高等学校」の表示。高山とは法人が異なり、東京は長ったらしい法人名ということになる。】
【11月30日追記・48回での曙大作理事長の話によれば、自身は高山出身で、出征し復員後、東京で財をなし、それを元手に東京で学校創設。そして「15年前 高山に分校を作りました」】
家庭訪問(後述)のシーンで「(高校進学時に)東京の本校に移るには 偏差値が65以上なんでしょ」のセリフがあったことから、内部進学のような制度が存在するようだ。偏差値65は保護者から教員への問いかけであって、それに対して否定も肯定もしていないものの、偏差値65以上は上位7%以内に相当し、かなり狭き門。上記の通り高山側も進学校だそうだし、系列校ならばもう少し緩くても良さそうだけど。

さらに野暮なツッコミだけど、寮母が勤務(住み込みでなく通い)し食事も出る教職員寮【3日補足・「あけぼの寮」】がありながら、その入居者は1人しかいないのは非効率。だったら、後述の通り通学範囲が広いのだから生徒寮を作ったほうがいいのでは。
こういうことは私立学校ならば経営者の方針次第でなんとでもなるから、なくはないとも言えないでしょうけれど。
【11月22日追記】高山校では、夏休み中に希望者を東京校へ連れて行って、「夏期講習」もしくは「補習」を行っている。
第44回では、東京での宿泊先のシーンがあった。3階にだけ明かりが灯った、4階建ての校舎のような建物。門の表示は「東京あけぼの 中学校 高等学校 あけぼの寮」、字幕は「東京あけぼの寮」。内部は畳敷きの大広間、修学旅行の旅館のような部屋。

【2024年2月19日追記】142回で教室の掲示物が映るシーンがあり、「給食委員」や「給食」「配膳」当番の存在が判明。学校給食が行われていることになる。また、時間割表には土曜日3時限分の教科(英語、国語、数学)が記されている。公立学校では、本作が放送された2002年度から完全週5日制になっているが、私学かつ進学校だけに未実施だったようだ。


そろそろ本題。
高山あけぼの中学校には「家庭訪問」がある。学級担任の教員が、児童生徒の自宅へ来るヤツ。
時代や地域・学校によっても違いはあるはずだが、ここは私立学校。学区が限られた公立学校とは違って、広範囲から生徒が通うわけで、家庭訪問も広範囲。「いかに効率的に回るかが大事」といったセリフも出てくる。
これも経営者の方針次第だろうけれど、実際の私立学校では、家庭訪問はないのが一般的ではないだろうか。
ちなみに、平成初めの秋田市立中学校では家庭訪問に相当する行事は、「学区巡視」という名称だった。同様の呼称の学校は、現在でも全国的にちらほら存在するようだ。
生徒の通学路や家庭周辺の環境を確認する目的であって、保護者が仕事を休んでまで応対しなくていいとされていた。保護者が在宅なら、玄関先であいさつする程度。

さくらは、列車に乗って古川町(現・飛騨市)の生徒宅まで行くことになる(第16回)。駅名は飛騨古川。僕は15年ほど前、途中下車でちょっとだけ訪れたが、風情ある町だった。【5日補足・さくらはAETながら学級の副担任を任されている。効率を重視する担任によって、家庭訪問を2人で分担することになり、単身で訪問させられる。】
道に迷ったさくらは、たどり着いた和ろうそく屋の作業とたたずまいに見とれてしまう(第17回)。そこへ、家庭訪問するべき生徒がやって来て、店の若女将と家庭訪問がどうこうと話し始める。
「…ってことは ここ もしかして…」
「俺んち」と言いながら、生徒は玄関の上、鴨居を指差す。この次の画面に謎のアイテムが一瞬映る。

表札?
なお、住所は「古川町五之町」とされているが、実際の当地には三之町までしかないようだ。また、郵便番号の一部が「09-4341」と判読でき、実際の周辺の番号と合わせると「509-4341」だと思われるが、実在しない番号。

画面中央左の白いのが、世帯全員の名を記した表札。ここが彼の家である、何よりの証になる。
おかしいのは、その右。
上の画面を拡大
釘にぶら下がった、2枚の木札。
姉とともに、通学する高校/中学校名と氏名が記されている。札のサイズも、筆跡も同じ。
これは何だ?

見た目が似たものとして、出退表示(で通じるかな)を思い出した。片面に黒、裏面に赤で名前を書いて、その人の在不在を示すもの。道場とか、あとは一部の企業とか下宿屋(食事したかどうか)などにはあるような。国会や地方議員が登院しているかの表示は、今は電気・電子式だけど、昔は木札だったのだろうか【4日補足・今は企業団体でも電子式が多数派か】。
それが一般家庭にあるのはまだいいとしても、学校名まで示すのはおかしい。


ネットで調べると、岡山県の情報が見つかった。多くはないがChakuwiki「岡山の学業」など。実物の写真がないのが惜しいが、読む限りでは作中の木札と矛盾はほぼない。それによれば、
・別名「カマボコ板」。かまぼこ板より少し大きいとの声も。
・高校入学時に、記名済みの板を学校がくれる。
・最近はもらっても玄関には付けない人が多い。一方、卒業後も撤去しない人も。

・岡山市内(? 県内どこでもではない)の一部県立高校などで行われる。2008年時点でまだ配っていた学校もあるが、すでに配らなくなった学校も多い。

・建前上は、成績表郵送時に必要との理由。
・ホンネでは、ステータスが高い高校に通う子がいることを示すため。

岡山県の一部で見られる(見られた)、風習ということになろう。
岡山に限らず、昔は地方では高等学校が最高学府同然だったことはあるだろうから、ひょっとしたら他地域でもかつては存在した風習なのかもしれない。そして、岐阜県、あるいは飛騨でも実は残っていたのか。【3日補足・岡山と比べて、作中のものはサイズが小さく、各家庭で記名したという相違があることになろう。】
シーンとしては、通常の表札だけでも通用するのに、全国的に認知されていないものをあえて採用したのだから、まるっきり無縁というわけではない気がする。実際はどうなのか、知りたい。
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「さくら」も見てしまう

2023-10-01 22:26:57 | 昔のこと
NHK総合テレビで平日午後に再放送している、昔の連続テレビ小説。「ひらり」は、勢いで最終回(2023年9月1日)まで見てしまった。
9月4日からは「さくら」が始まった。ひらりのおよそ10年後、2002年度前半の作品。当時ちらちらと若干、見ていて、音楽や登場人物に多少おぼえがあったが、思い入れはなく、再放送を見るつもりはなかった。のだが、どんなもんかと少し見てしまったのがいけなかった。また、見続けてしまっている(というかひらりより朝ドラらしくていいかも)。以下、敬称略。
【1日補足・今考えてみれば、主人公は僕と同世代であり、時代設定が2002年当時のリアルタイムなので、親近感を抱いたり、感情移入したりしやすいドラマと言えるかもしれない。】

「さくら」は、ハイビジョン制作となった初の連続テレビ小説作品だそうで、音声もステレオ(どの作品が最初かは不明【1日補足・アナログ放送では、副音声とステレオは両立できなかった。ということは、初のハイビジョン制作となった本作が、初のステレオ作品かもしれない(憶測です)】)。オープニング映像は、実写と絵をCGで重ねたようなもの。そんなわけで、一見、今のドラマと違いは少なく、21年前とは思えないかもしれない。
一方、オープニングの表示はナールなど写研製の文字(下記の通り例外あり)で、これは時代を感じさせる。

いちばん最初に出る「連続テレビ小説」が、ポップ書体系。なんか場違いな気がするし、POP体にしては下手にも見える。縦に文字を並べても一直線に見えないし、「ビ」の濁点が小さすぎる。用途によっては、かわいらしい感じで悪くないかもしれないが。
ニィス製「JTCじゃんけんU」というデジタルフォント。
ニィスフォントシリーズは、2000年代によく使われていたようで、当時はテレビの字幕で多用され、秋田中央交通のバス停表示板でも見られた。「さくら」では、他は写研書体なのに、ここだけあえて使っているのだから、こだわって選んだのだろうが、意図はよく分からない。

連続テレビ小説では、1996年度前期「ひまわり」以降、週(または2週)をセットにしてサブタイトルを付けるようになった。「さくら」では1週単位でことわざが付けられている。その表示。

「クレヨンしんちゃん」のタイトル(=アニメの各話ごとのサブタイトルではなく、作品名そのもの)でも使われる、写研の「ゴカール」。ゴカールは、当初は漢字がないかな文字のみの書体だったが、1997年に漢字も登場。
(再掲)
その他、出演者・スタッフの表示はすべてナール。
ストーリー上、英語のセリフもあり、和訳の字幕がナールで表示。


副音声解説は、初代・関根信昭に代わって、本作から江原正士。えはらでなく「えばら」さんなのを初めて知った。
副音声では、英語のセリフ部分に重ねて、江原さんが和訳を読み上げる。主人公の「もう! 日本人の考えが分からないわ!」みたいなのをけっこう感情を込めていて、ちょっとおもしろい。2021年後期「カムカムエヴリバディ」では、女性のセリフは別の人が担当していたそうだ。


主人公はハワイで生まれ育った日系人・さくら(高野志穂)。岐阜県飛騨高山の中学校に英語指導助手として赴任して、奮闘する日々を描く。
その他出演者は錚々たる面々。ひらりより豪華であり、タイムリーだったり意外な人選も目立つ。
ユニークなところでは小林亜星、ラモス瑠偉、ケント・デリカット。後でKONISHIKIも出るらしい。
鍵本景子は「ひらり」以来、鈴木砂羽は「あぐり(1997年度前半)」以来の出演か。後で「マー姉ちゃん(1979年前半)」主人公の熊谷真実も出てくる。
TBS「さんまのSUPERからくりTV」で活躍したセイン・カミュ、その回答者であった浅田美代子も。浅田さんは歌は下手と言われたけど、演技は上手。
歌手としては、さくらの母役に太田裕美。当時、お名前は知っていたけれど過去の人だと認識していた。一時活動を休止し、再開間もない頃だったようだ。演技としては、まあ…
そして、さくらとともに授業する英語教諭役の野口五郎。クセのある人物を好演している。カラオケで森昌子の「せんせい」を熱唱するシーンがあって、「なかなか歌も上手いな(あ、歌手か)」と思ってしまうほど、しっかりと俳優をしている。なお、野口五郎は岐阜県出身だが飛騨ではなく、由来となった野口五郎岳は飛騨山脈だが、長野県・富山県に位置する。
中曽根正晴校長は江守徹、竹下徹教頭は笹野高史と納得の配役。この2役が、内閣総理大臣経験者と同姓なのは、何か意図があるのか。
そして、さくらの教え子であり下宿先の子には、えなりかずきの弟・江成正元、その姉に、駆け出しの長澤まさみ。

やっぱり最後まで見てしまうのだろうか。
ところで、作中の家庭訪問のシーンで、意味が分からないアイテムが出てきたので、別記事にて
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ひらり(終)

2023-09-02 17:41:17 | 昔のこと
秋田市が少しだけ舞台となった、1992年度後半のNHK連続テレビ小説「ひらり」の再放送が、2023年9月1日に最終回(第151回)を迎えた。※敬称略。勘違いやうろ覚えの点もあるかと思います。

秋田ロケのシーンが放送されたのは第49回~51回以降は、ほぼ欠かさず視聴した。最終回まで、会話の中では秋田のことがたまに少々出てきたが、その映像は一切なし。

やはり、展開にまったくおぼえがなく、30年前にはほぼ見ていなかったのは確実。
主人公の姉・藪沢みのり(鍵本景子)が、大学の時の先輩にそっくりなのに気付いた。その先輩に出会ったのは放送後のわずか2年後。熱心に視聴していたのならば、その時点で気付くはず。実際は、当時まったくそんなこと思わなかったのだから。
あと、安藤竜太の後任者でありライバルの小林雅人医師(橋本 潤=現・橋本じゅん)は、その存在が記憶になかった。主人公・藪沢ひらり(石田ひかり)は当然として、安藤竜太(渡辺いっけい)、個性的な脇役の花沢徳衛・石倉三郎親子なんかは覚えていたけれど。

普段、特に新作ドラマはほぼ見ないので、30年前の作品を評価できる分際ではない。それに今さらツッコむのは野暮。
だけど、見た限りで言わせてもらえば、バタバタしているようでモタモタしているような、話が堂々巡りしていた。みのりは恋に悩みまくり、両親は微妙な仲が続いて。

それと、相撲部屋専属栄養士という目標を見付けたひらりが、栄養士専門学校の受験勉強をしながら、梅若部屋のマネージャー見習い/栄養士見習い(業務内容は、力士の食事や健康管理から、部屋の雑用までこなす)をするという展開。梅若親方(伊東四朗)は、栄養士になれなかったら(※)クビという、厳しい条件を付ける。
※栄養士の資格取得は、学校に入学して最短2年後のはず。ただ、作中では「学校の入試に落ちたらクビ」というニュアンスで話が進んでいたように感じた。
放送日と作中の時間経過は同じ設定のようで、部屋の手伝いを始めたのが1993年1月ということらしい【3日補足・開始時点では1992年4月の設定。その後秋田に来たのが8月だったりするので、1年分を半年に収め、後半で追い付いたことになる。】。試験まで3か月を切っていて、しかも難しいらしく、竜太先生に毎日勉強を教えてもらうほど。
それなのにひらりは、力士のデータ管理のためにパソコンを使おうと思い立ち、パソコン学校だかパソコン教室に通い(習うシーンはなく話のみ)、そのすぐ後に部屋にパソコンを買ってもらって使いこなしている。
なんとも忙しいというか、自分を極限に追い込む人なのか、受験勉強に専念すればいいのではと思わずにいられなかった。厳しい梅若親方が「今は受験勉強に集中。パソコンは後でいいだろう」と言わなかったのも、厳しさなのか?
そして、入試は滑り止め校は落ちたものの、本命校に見事合格。これから栄養士目指して勉学が始まるというのに、家族や梅若部屋の人たちが、まるで栄養士資格を取ったかのように大喜びするのも、なんだか…

【3日追記】登場人物たちが、デートから相談ごと等々まで、時には連日、会食のほとんどを「どぜう料理 すみ多」の座敷でしていたのも、ツッコミどころ。毎回どじょう料理で飽きないのか、そんなにどじょうが好きなのか。たまにもんじゃ焼き屋のこともあったけれど。

相撲そのものが描写されるシーンは、ほぼすべてが梅若部屋の中で、国技館など“外”の場面は描かれなかったのも特徴的。日本相撲協会の協力は得ていたものの、現地ロケするにはいろいろと制約があったのかもしれないし、それが話の展開の制約につながったという事情もあるかもしれない。(以上追記)


最終回は無難にハッピーエンド。両国五丁目の人々が、大学病院へ戻る竜太を見送るのが最終シーン。ひらりの入学式当時の朝に当たると思われる。ほかの登場人物たちも、新しいステップへ進み始める。
そこには、ひらりの父方母方それぞれの祖父、藪沢小三郎(島田正吾)・深川金太郎(花沢徳衛)の姿がない。小三郎は、149回で渡英して1年間の遊学。さらに金太郎は、唐突に姿を消し、小林医師の父と有馬温泉に10日間滞在している旨が150回で明らかになった。古い人たちを追い出してしまったようにも感じてしまう。
「完」は太い楷書体(織田特太楷書か?)。NHKが卵ロゴになるのは1995年
連続テレビ小説では、「ちゅらさん」など単発ドラマで続編が作られることがあるが、ひらりは本編限り。栄養士を目指している(もしくは栄養士となった)ひらりを軸に、登場人物たちのその後として、充分ストーリーが成立しそうだった。


以下、いろいろと。
147回のみのりのウェディングドレスの仮縫いのシーン。
「ブティック・デザイナー」役で桂由美が出演。「これもつけてみましょうかね」「いかがでしょうか?」のセリフあり。【2日補足・ということは使われたドレスも桂由美ブランドなのだろう。NHKとしては「衣装協力」扱いはできないので、当人を出演させることで代替としたのかも。】


第90回放送時点辺りで、番組のオープニングの曲や映像について記事にした
連続テレビ小説のオープニングは、作品を問わず、月曜日はスタッフも表示されるため、ほかの曜日より少し長いバージョンが放送される。
ひらりの「晴れたらいいね」も同様だったが、その長いバージョンは月曜日以外でも流れることが少なくなかった。これは異例かもしれない。長い日は登場人物が多いなどではなく、単に尺合わせ・時間調整のような気がする。
歌詞では、長いバージョンは、1番すべて+「一緒にね いろんな話~」で1分30秒。
短いバージョンは、1番最後の「一緒に行こうよ」以降をカット(例(前回の記事参照)の「‘こくわ’の実」「ナビゲーター」部分)し、「一緒にね」へつながる。1分15秒。


前回の記事のコメント欄で、連続テレビ小説では、番組の終わりにも主題歌が流れる場合があったことが話題になった。ひらりの場合、初期は見ていなかったので不明、秋田編以降91回前時点では、流れていなかった。
ところが実は、第99回【3日補足・1993年2月初め放送】から、散発的にエンディングでも「晴れたらいいね」が流れるようになった。

「つづく 制作・著作NHK」の画面が出た後に流れる。
オープニングと同じ長短があり、映像は、両国周辺の風景や、最終回近くでは本編のダイジェスト。歌詞の字幕があり、ナールで「“こくわ”の実」と珍しくダブルクォーテーションになっていた。最後に色文字の石井ゴシックで「明日も/来週も おたのしみに」。

エンディングが流れた回とその長短(無印=短)を記す。間違っているかもしれません。
99 104 105長 119 121 122 126 128 129 134 139長 140 142長 144 146長 148 149
法則はなさそう。やはり尺合わせか。
【3日補足】最終回の最終シーンでは、BGMとして「晴れたらいいね」が最後までフルで流れた。セリフと重なるので音量は低く、歌詞の字幕はなし。


副音声の解説は声優・関根信昭。
アニメや吹き替えのほか、教育テレビの学校放送のキャラクターの声も担当した。「ことばのくに」の悪役・へんしんタンマなど。大昔は、ラジオドラマのナレーションのようなものも担当していたそうで、連続テレビ小説の解説の声を懐かしく聞いたという人がいた。連続テレビ小説の解説は「凛々と」から「ほんまもん」まで10年以上担当。

ただ、「ひらり」では128~133回の1週間分に限り、梅津秀行が担当。
同時期に教育テレビ「ともだちいっぱい~かずとあそぼ」のペカリンさんの声。ひらり終了直後・1993年4月から始まった、夜の「ドラマ新銀河」枠では副音声解説を務めたので、ひらりは関根さんの代役兼お試しだったのか。


ドラマを見ない者としては、15分といえども毎日はしんどかった(←だったら見るな)けれど、それなりにおもしろかった。
以前の繰り返しだが、連続テレビ小説でいちばんおもしろいかったのは1997年度前半の「あぐり」だと思っている。

※再放送枠では、この後2002年の「さくら」が放送
※2024年、ひらりの登場人物と同じ、「寒風山」というしこ名の秋田出身の力士が、実際に誕生した
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AMBITIOUS JAPAN!

2023-07-21 19:02:52 | 昔のこと
東海道山陽新幹線の、JR東海所属車両の車内放送チャイム、TOKIO「AMBITIOUS JAPAN!(アンビシャス ジャパン)」が、2023年7月21日からほかの曲に代わった。ヘンなタイミングだけど、夏休み開始にでも合わせたのか?
後継は、JR東海の新キャンペーンに連動した、UA「会いにいこう」。
変更は今年2月16日に発表されたので、(それまではなかったことにされていたのに)この数か月で突然問題視されるようになった、ジャニーズ事務所(ジャニー喜多川氏)の不祥事を受けてということではない。

「AMBITIOUS JAPAN!」は、2003年11月24日から約20年使われたこと。
なお、JR西日本所属車両では、同時に「いい日旅立ち・西へ(鬼束ちひろが歌い、原曲と歌詞も異なる)」が使われるようになったが、今後も継続(東京~新大阪間でも流れる)。
それ以前は、東海・西日本共通で、ひかり&こだま/のぞみで異なるオリジナルメロディが流れていた。もっとさかのぼると、ピンポンパンポンだったり(音程が一般的なものと違う)、黛敏郎作曲の(奇抜な?)オリジナル曲だったり、開業時は「鉄道唱歌」のオルゴール(在来線車両とは多少異なる?)だったりしたらしい。


日本の大動脈で20年も親しまれたものがなくなるということで、ネットばかりでなくマスコミも取り上げ、名残惜しむ声が上がっている。
個人的には、数度しか聞いたことがなく、東日本の新幹線とはいろいろ違ううちの1点に過ぎないし、その前のひかり・こだまのチャイムこそ、東海道新幹線という感じがして好きだった。
ちなみに、東北上越新幹線のチャイムは30年以上変わっていない。リンク先の記事では、東海道新幹線のことは触れていないが、今回の変更で連想する人が多いようで【22日追記・もしくは勘違いや間違いで?】、たくさんのアクセスをいただいています。


「AMBITIOUS JAPAN!」のチャイムは、始発駅発車後・終着駅到着前に流れる長いものと、途中駅用の短いものがある(いい日旅立ちも同様)。
前者は、歌いだしの部分で12秒。後者は、サビの「Be ambitious!」部分でわずか5秒。
どちらもテンポはゆっくりめで、伴奏が控えめでシンプルな印象。ビジネス客も多い東海道新幹線だけに、あえてそうしていたのかもしれないが、シンプルすぎるとも思っていた。途中駅版は、(伴奏音は走行音でかき消されるので実質的に)「トン トン トン ト トーン」のわずか5音。

元歌のCDは、オリコン1位になったこともあるそうだが、大ヒットというほどではなかったと思う。
まして20年経った今、覚えている人は減っているだろうし、チャイムのメロディーが何なのか分からない人は多いだろう。以前、「東海道新幹線のチャイム、どこかで聞いたことがあるんだけど、何だっけ?」と悩む人のツイートを見たことがある。

日本国民誰もが知るヒット曲が少なくなった今、流行歌を車内チャイムに起用する以上は避けられないことであり、新チャイム「会いにいこう」も、秋田駅発車メロディー「明日はきっといい日になる」も、いずれ同じ道をたどることになる。「いい日旅立ち」だって、若い人は知らないだろうし。
まあ、元歌を知らずに/忘れて、東日本の新幹線のような“車内チャイム専用曲”だと思ってしまっても、さほど問題はないけれど。

ネットで「会いにいこう」の新チャイムと元歌(JR東海がプロモーション映像を公開)を聞いた。
チャイムは全駅共通の9秒で、今までよりは音数が増えて、一般的な車内チャイムらしくなった。だけど元歌をよく知らない状態だと、やっぱりよく知らないチャイム。
ちなみに、N700S(系)と N700A(系)ではスピーカーの位置が違い、それでも同じように聞こえるよう、それぞれ向けに調整されたチャイムが流れているとのこと(鉄道新聞https://tetsudo-shimbun.com/article/topic/entry-3546.htmlより)。



ところで、「AMBITIOUS JAPAN!」も、当時のJR東海のキャンペーン連動。西日本「いい日旅立ち・西へ」と同時展開で、2003年10月1日の新幹線・品川駅開業と「のぞみ」増発に合わせたもの。
キャッチコピーは「AMBITIOUS JAPAN! のぞみは、かなう。」で、後に「AMBITIOUS JAPAN! のぞみはいつも、そこにある。」になったそうだが、前者しか記憶にない。

ところで「ambitious」という英単語は、日本人にどの程度認知され、それを使ったこのフレーズ(曲名)は、どうとらえられていた/いるだろう。
いくつかの英和辞典サイトでは「大学入試レベル」とされ、weblioでは「英検:2級以上」「TOEIC® L&Rスコア:470点以上」「大学入試:難関大対策レベル」。大衆向けキャッチコピーにしては難解なようにも感じる。
そのためか、質問サイトで「AMBITIOUS JAPAN」や「be ambitious」の意味を尋ねる投稿も見受けられる。

2004年3月13日のJR東海ニュースリリース「「AMBITIOUS JAPAN!」キャンペーン実施中!(http://www.jr-central.co.jp/news.nsf/frame/2004312-21463)」を、ネットアーカイブで確認。※この時点でサブコピーは「のぞみはいつも、そこにある。」になっていた。
その中で、
2.楽曲名
 AMBITIOUS JAPAN!(アンビシャス ジャパン)
 ※「大望を抱く」あるいは「意欲にあふれる日本」という意味です。
と説明されている。

僕は「日本よ大志を抱け」だと思っていたし、英語は不得意でも中学生の時からambitiousを知っていた。
ambitiousといえば、クラーク博士では?
明治初めに札幌農学校に赴任。帰任時に「Boys, be ambitious!」のことばを残し、「少年よ大志を抱け」と訳され、今日に伝わっている。
中学校の修学旅行先が札幌であったこともあり、学級目標に採用する(Boys and girls として)クラスがあるなど、身近だった。

JR東海(あるいは曲の制作側)としては、クラーク博士のことばを、もしくはことばを多くの日本人が知っていることを念頭において、ambitiousの語を使ったのだと思っていたのだけど。訳を「日本よ大志を抱け」としなかったのは、クラーク博士への遠慮か。



JR東海のキャンペーンでインパクトがあったのが、
2004年12月 広島駅
当時最新だった700系電車の、JR東海所属編成の両先頭車(1・16号車)側面・窓下の青帯部分に、「AMBITIOUS JAPAN!」の文字を大きく表記。


鉄道車両にこんなに大きく文字を書くことはあまりない。新幹線では、今でもこれが唯一だと思う【21日訂正・九州新幹線「いだてん」や西九州新幹線「HAPPY BIRTHDAY」では、もっと大きな文字が表記されていた】。
在来線では、JR東日本の「EF81」とか、かつてのJR貨物の「地球環境に優しいJRF」とか、労働組合が幅を利かせていた頃の国鉄で要求などを書き殴ったのとかはあるけれど。
屋外広告物条例の規制も気になるが、当然、クリアできていたのでしょう。

当初は2003年末で終える予定だったが、好評だったので、開業40周年や愛・地球博とからめて2005年9月25日まで続いた。
僕も好意的に受け止めており、キャンペーンや歌よりも、この表記が印象に残っている。当時は、静岡、四国、九州を旅する機会があったので、その途中でいくらか撮影していた。
2003年12月 どこかの駅で隣の列車内から

300系電車では、ドア横に円形ロゴを表示(700系にもあったようだ)。
2003年12月「のぞみは、かなう。」
ちなみに、100系電車は2003年9月16日で東海道新幹線から引退。山陽新幹線では0系電車もまだ走っていた。そんな頃。

2003年12月 東静岡駅
コメント (4)
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