広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

土崎蕎麦屋/謎のP

2014-03-31 23:57:55 | 秋田のいろいろ
奥羽本線で秋田駅の1つ北隣・秋田市北部にある土崎駅。
2011年夏頃まではキオスクがあったが閉店してしまい、今は秋田県内ではかなり稀少な存在となった立ち食いそば屋が改札の外で営業している。※この記事参照
そば屋は、ちょうど1年前に経営者と店舗名が変わって、日本レストランエンタプライズ経営の「土崎待合めん」から、ジェイアールアトリス経営の「そば処 港ばやし」 となっていた。

昨日、土崎駅を利用した。
消費税増税前かつ新学期前ということで、定期券や長距離きっぷを買うと思しき学生などがわりと頻繁に訪れていた。
かつてキオスクのあった場所から見る土崎駅待合室。仕切りが移設されている。奥左が改札口
上の写真右手前がそば屋のスペースなのだが、昼間なのにシャッターが下りている?
「お知らせ」
「工事のため、3月28日から当分の間休業させていただきます。」という、27日付のアトリス名義のPOP書体の掲示。(こういうのにPOP体を使うのっていかがなもんだろう。個人的にはPOP体自体、嫌いなのですが)

僕が待合室にいたわずかの間に2組の客が外から来て、掲示を見て「え? やってないのか…」などと話して帰っていった。列車を利用しなくても、そばを食べに来る人がけっこういるほど、親しまれている店なんだ。
改札口側を背にして
気になるのは「当分の間休業」と期日を定めていないこと。休業に入ったのが唐突な感じもするし…
どこをどう改修するのかも予想がつかない。消費税が上がる前に済ませておけば、工事費を抑えられたのに…

【4月20日追記】4月19日から営業を再開した。
思ったより早かった。店舗名はもちろん、店構えも特に変わっていないように見えるが…
ちなみに営業時間は7時から18時。日曜も営業していたから、無休か。



話変わって、秋田駅前のフォンテAKITA。
オープン3周年記念として、隣接する西武秋田店と共同でスタンプラリーを開催している。1000円以上買物してもらえるスタンプを、異なる2店(=テナント1つを1店とカウント。フォンテ内の2店または西武内の2点でも応募可)分集めて応募できるようだ。
スタンプ用紙はフォンテ発行がピンク、西武発行が水色かな?

その応募用紙に、名前、電話番号、住所を記入して、店内の箱に入れて応募するのだが、1つ謎が。
「お名前」欄の後ろの「マルP」って何?
まさか印鑑を押せっていうんじゃないでしょうし(だとしても「P」ではないだろうし)。
何を意味する「P」なのか、気になる!

昨日の最後に少々触れたように、3周年記念キャンペーン中なのに、フォンテ地階のザ・ガーデン自由が丘西武秋田店では一部を仕切って改装工事をしている。
「3周年」というのは、フォンテのフルオープンのことであり、ガーデンはその数か月前に開店していたから、あまり関係ないってことなのかな。※その後、こうなった(リンク先後半)
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休館中の水庭

2014-03-30 23:47:11 | 秋田の季節・風景
エリアなかいちに移転した、新しい秋田県立美術館。※概要や内部について以前の記事
広小路から見る県立美術館
3月24日から今日30日まで「施設設備のメンテナンスのため」に全館休館となっていた。
以前の展示替えの休館では休館の告知方法が問題になった反省を踏まえて、秋田駅中央改札口を出てすぐの所に看板は立てられていた。「駅に看板を立てられても、もう秋田まで来ちゃったんですけど…」という旅行客の方がいらっしゃらなかったことを祈ります。
玄関にも表示が
25日に、広小路から県立美術館(正面側なのかな? 唯一の玄関は脇にあるけど…)を見ると、いつもと様子が違うのに気付いた。(24日は未確認)
広小路側は1階部分がせり出していて、その上が「水庭」になっている。2階の「ミュージアムギャラリー(カフェ)」から水越しに千秋公園(や旧美術館)が眺められる趣向。
下からは(水が見えないので)単なる屋上にしか見えないわけだが、25日はその奥のほうに足場やシートが掛かけられていて、水庭の部分を工事関係者らしき人が動いている。

翌26日に、隣の秋田市にぎわい交流館AU(あう)の2階・3階から観察。
水が抜かれている
そういえば、冬期間は水を抜いて、代わりに雪を眺められるようにするのだった。
 
さらに今は、2階の窓側にある庇部分がすっぽりとシートで覆われ、所々でそれが出っ張っている。水庭部分にはグレーチング(網状のフタ)や土嚢が積まれ、水底となる床部分は汚れている
防音シートなので、中では音が出る工事でもしていたのか?

28日には、
庇部分のシートが外れた
庇の中は見えるようになったが、窓はグレーのもので塞がれている。
 
庇の下には側溝らしきものがあり、中に配管がある。26日に積まれていたグレーチングはここのフタだったようだ。中に作業員がたくさん入っていて、腰ほどの深さのようだ。
防水関係の作業をしていたのかもしれない。

29日。
窓が見えるようになった
工事関係者の姿はいなくなっていて、別の作業員がホースで水を撒きながら、床磨き用の機械(バフマシンと呼ぶのかな)を使って、水底になる部分を掃除していた。

今日30日はどうなっているかと、朝できるだけ早く行ってみたものの、既に水がたたえられ、通常の姿に戻っていた。
ほぼ同じアングルで順番に。
26日

28日

29日

30日
今回の休館中には、展示替えや内部のメンテナンスもあったはずだが、水庭のメンテナンスも1つの目的だったようだ。
完成から2年近く経ち、冬が終わって新たに水を貯めるに当たって、防水性の維持とクリーニングのための各種作業を実施したということだろう。

こういう特殊な建物の維持管理って、やはり大変なものだ。
今まで気にしていなかったが、今回上から見下ろして気になったのが、水庭の水深。第一印象としては思ったよりもかなり浅く見えた。5センチくらいかなと思って調べてみると、水深は15センチらしい。
見ていて気になったのが、作業で使う水を、下(地上)からホースを伸ばして使っていて(上のクリーニングの写真参照)効率が悪そうなこと。メンテナンスのことも考えて、水庭の脇の中から見えない所に蛇口を付けておけば良さそうに素人は思ってしまうのですが…



さて、エリアなかいちの商業施設棟に入っていた食品スーパー「サンマルシェ」は、撤退することになって今日で閉店。
閉店セールで棚がガラガラになったのをテレビのニュースでやっていたが、「閉店で半額とか言っても、元が高いんだから…」という声もある。
そして、後継テナントは白紙。報道では「県外など複数社から打診がある」とか言っているが、どこまで具体的なのか。
【31日追記】サンマルシェの中でテナントだった店(なかいちから見れば“孫”テナント)の多くは、引き続き出店継続の意向だと前から報道されていたが、今日の魁地域面によれば、それらの店は4月3日にも暫定的に営業を再開する見込みとのこと。でも、まるごと市場がやめてしまっては、生鮮食品や日用品売り場はない状態になるのでは?
【4月2日追記】各報道によれば、4月3日から旧テナント24店のうち20店が、施設所有者である秋田まちづくり社と直接契約して営業を再開。商業施設名をサンマルシェ改め「なかいちプラザ」とする(サンマルシェと関係なかった飲食店等も含めた名称)。抜ける4店は精肉店や韓国食品の店。「生鮮食品」は残るらしい。

【5月16日追記】その後、「なかいちプラザ」として営業再開し、それなりに順調に軌道に乗ったかと思っていた5月15日、青果店と鮮魚店とラーメン店が同日を最後に撤退することが分かった。
先に撤退した精肉店と合わせて、生鮮3品を売るテナントがなくなり、全体の4割近くが空きスペースになるという。
4月上旬の営業再開後、運営会社とテナントで交わした仮契約の満了日が15日だった。他のテナントとも、正式な契約は結んではいないとのこと。(以上追記)

※この年の暮、リニューアルした状況はこの記事末尾参照

秋田駅側出入口
上の写真から些細なこと。
このドアは左側が自動ドア、中央と右側が観音開きの手動ドア2つ。
僕は、こういう環境の場所では、前後に人が続かず手が空いている時は、できるだけ手動のドアを使うように心掛けている。多少なりとも節電になるかと、勝手に思って。
上の場合、右側のドアはカートが並んでいるから通るのに邪魔そうだし、締め切られている可能性がある。だから中央のドアを押すか引くかだろう。
ところが、「ガンッ!」と音がして開かない。中央のドアもロックされていたのだった。

自動ドアがあるとはいえ、位置的にはど真ん中のドアなんだから、開けようとする人が他にもいるんじゃないかな。足拭きマットだって置いてあるし。
そもそもロックしているのなら、「締め切り」ぐらい表示してほしい!
こういうのも、ここの利用者・客の視点での配慮のできなさの一端のような気がしてしまう。
【7月17日追記】その後(上記追記のテナントや経営者の変更後に発見)、締め切りのドアに「出入り口は右(または左)側の自動ドアとなっております」とかいう紙が張られた。


一方、秋田駅前フォンテAKITA地階の「ザ・ガーデン自由が丘西武 秋田店」は、昨年9月にリニューアルしたばかりだが、現在、店舗の一部を仕切って改装工事中(営業は通常通り継続)。
今までは酒類や肌着を少々置いていた、レジの外から見て左側の広範囲が対象。どのように変わるのか。※こうなった(リンク先後半)
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バス角館線復活 他

2014-03-27 23:19:09 | 秋田のいろいろ
最近、バスの話題が多くて恐縮ですが。
昨日、普段は見ない、羽後交通のホームページにアクセスしたら、同日付で「秋田駅⇔角館 路線バスを運行いたします」というのがアップされていた。
肝心の説明用PDFファイルが別のものになっていたので、訂正された今日になって、詳細が判明。

4月26日から、羽後交通が秋田市と仙北市角館を結ぶ路線バスを運行するという。
羽後交通では以前も秋田市-角館の路線(急行扱い)を運行していて、2010年3月で廃止されていた。それが復活するとも言えるが、以前と同じではない。
まず、毎日運行ではなく、4月26日~5月6日の毎日と以降10月26日までの土日祝日のみ運行。普段の平日は走らない。冬期も走らないということだろうか。
他にもいくつか違いがあるので比較。
・以前の急行角館線(廃止直前の状況)
1日5往復、秋田駅西口発着、長崎屋バスターミナル・御所野(イオンモール前)・境(大仙市協和)経由、秋田市内の区間(駅~御所野)のみの乗車可、回数券使用可
・新しい路線(急行とか種別はない?)
特定日のみの1日2往復秋田駅東口発着、御所野・境経由、秋田市内のみの乗車不可、現金払いのみ

停留所は、角館営業所、角館伝承館入口、境営業所、イオン御所野店、秋田駅東口。(以前はもっと多かった)
角館-秋田、境-秋田の間でだけ利用できるようで、大人の運賃はそれぞれ1200円、600円。
ダイヤは、角館発が8時00分→秋田着9時35分、15時30分→17時05分。秋田発が9時45分→角館着11時20分、17時15分→18時50分。

以前の急行の所要時間や運賃は不明だが、大きくは違わなかったはず。
長崎屋など秋田市中央部での乗降はできなくなるが、茨島辺りの渋滞が避けられる分、定時運行は確保されるかもしれない。
ただし、休日の御所野の混雑や花見中の角館の渋滞には巻き込まれそう。秋田駅での折り返しが10分しか取られていないけど、大丈夫でしょうか。
ちなみに、羽後交通の路線バスが秋田駅東口に乗り入れるのは初めて。【28日追記】東口では高速バスが使う4番線発着。

ダイヤを見ると、どちらかと言えば角館の人が秋田市に来る需要を重視しているように感じる。
朝に角館から秋田にJRで来る場合、こまちの始発は8時45分(秋田着9時32分)までない。その前に大曲で乗り換えが必要な普通列車が2本あって、6時50分発(7時56分着)と7時17分(8時38分着)。
つまり、普通列車よりは遅く角館を出て、始発「こまち」と同じくらいに秋田に着くという設定。
価格は、普通列車の運賃だけでも1320円(税率5%では1280円)だから、バスのほうが安い。
また、秋田新幹線では、自由席がない代わりとして、自由席特急券と同額の特定特急券(立席特急券)を使って、指定席の空席へ着席できる。とはいえ、繁忙期で満席だと座れないし、空いていても途中駅から誰かが乗ってくるのではないかと気をもむ。バスなら、そんな心配はなく、確実に座れるはず。
(再掲)以前は独特の風貌の車両も使われていた。今度はどんな車が入るか?
4年前に急行バスが廃止になったのは利用が少なかったからだろうが、運行日を限って復活したからにはそれなりの利用が見込めると判断したからだろう。
都市間の路線バスがまったく発達しない秋田だが、こうした潜在的な需要はそれなりにあると思う。JRのひとり勝ちに対抗すべく、各バス会社が工夫して盛り上げてほしい。

【4月19日追記】4月19日付秋田魁新報県南ワイド地域面で、小さく報道された。運行を「再開」するという言い回し。
羽後交通は「(廃止後に)観光客や住民から交通アクセスが不便との声が多く寄せられ、試験的に再開することにした」と話しているとのこと。

※運行開始後の模様はこちら


秋田-角館のバスが復活するとなると、喜びそうな人がいる。
「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」の太川さん(と蛭子さんとマドンナ)だ。
以前、検証したように、現在のダイヤでは、秋田市から他県へ路線バスで乗り継ぐことができるのは、本荘経由で山形県庄内地方だけとなっていた。
角館までの路線が復活すれば、第15弾のようにロスタイムは多いながらも田沢湖・十和田湖回りで青森県、県境で歩くものの山形県内陸側にもつながる。【28日追記】田沢湖・玉川温泉・鹿角花輪と乗り継いで大館へ出れば、(県境は歩くものの)青森県の弘前側へもつながる。
※過去には、鳥海山の登山バスなど、運行日限定のバスを利用した実績がある。

路線バス乗り継ぎ旅が再び秋田に来る可能性も出てきた?!

バス旅といえば、自転車旅(強引ですが)。
NHK BSプレミアムの「にっぽん縦断 こころ旅」が、今年春も制作・放送される。
昨年秋の旅(放送は2月初めまで)で静岡県と愛知県を訪れて、全都道府県を踏破して、その後どうなるかと思ったら、4年目・2周目に突入することになった。
3月31日放送開始で、愛知から京都を経て日本海側を通って北海道までの14週。6月下旬から7月初めには、また秋田や青森を訪れる。

今シーズンは、朝に14分の「朝版」、夜に29分の「とうちゃこ版」(週末に再放送)という編成。
※特番によれば、正平さんが「とうちゃこ」を初めて使ったのは、いちばん最初の2011年春の旅の3日目だかだそうで、かなり早い時期だったことが判明した。(その2011年春の旅の前に、5回のパイロット版が制作されている)



バスの話で、途中のままで忘れていた話をこの場を借りて。
昨年10月15日から、秋田駅西口の次とその次のバス停である「千秋公園入口」と「木内前」の乗車位置が集約された。
両停留所とも、中央交通の一般路線バスは2本のポールにまとめられ、従来のポールにハリボテ状のものをかぶせた表示板になったところまで紹介していた
(再掲)
10月22日でこんな状態で、どことなく中途半端な感じがしていた。
その後、27日には、
こう変わった
中途半端に感じたのは未完成だったからか。
左右に柱状のもの、台座にカバー状のものが付いて、いくらかは見栄えがするかな。今写真で見ると、路線名や時刻表がある部分の色や質感も違っている。時刻表自体もモノクロからカラーに替わっている。以前のはそっくりそのまま「仮」だったのか?
以前のは頭でっかちで、今度は重装備すぎる感じがしてしまう。どっちにしても元々の姿を知っていると、張り子のなんとかみたいな…
それでもなお、会社名が表示されていないのは、いかがなもんでしょうか。

(再掲)
木内前では、余った1台が「製作中」と書かれて放置されていたかに見えたが、それは、
「路線案内」になった
少し遅れて11月17日に確認。
2つのポールの中間のポストの隣に、車道に背を向けて置かれ、やや傾斜を付けて路線図が掲出され、どの路線はどちらの乗り場なのかが分かるようになっている。
各乗り場ごとにも路線図が【5月10日追記】乗り場ごとの路線図は、千秋公園入口にも掲出
以前はこの手のものがまったくなかったので、分かりやすくはなったけど、路線数が多いわりに細かすぎると感じる。
そもそも、今の寂れた木内前から、秋田市のバス路線に不慣れな人が何人乗車するかと考えれば、あまり必要のないアイテムかもしれない。
費用があれば、電照式とか接近表示付きとかを置くべきなのだろうが、それは今のこの街ではかなり難しいことだろう。

【7日追記】木内前の1番と2番の間にある空港リムジンバスのポールは、統合以前の一般路線用と同様のハリボテ型だった。それが4月5日頃に、金属製の細身のものに交換された。おそらく、統合前に千秋公園入口で使っていたもの(旧市営バス路線用だから、交通局からの譲渡か?)の1つを転用したのだろう。
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先端の形

2014-03-26 23:47:28 | 秋田のいろいろ
2009年に信号機のボディの色のバリエーションを取り上げた。その多くは、信号機が取り付けられた柱(信号柱)や同じ道路の照明灯も、ボディと同じ色で統一されている。
今回は、秋田市内のそうした柱の先端(てっぺん)の話。

竿燈大通り、土手長町通りの一部、中央通りでは、道路管理者や柱の色は異なるものの、竿燈の提灯をモチーフにした照明が設置されている。おそらく1990年代前半に設置された。【11月1日追記】平成元(1989)年の段階で、中央通り、竿燈大通り、広小路の全区間または一部区間で、既に設置されていたようだ。2014年時点では、県道と市道で中の電球(の色や方式)が異なるらしく、点灯色が違う。この記事後半参照。
土手長町通りの二丁目橋交差点。茶色いタイプ
提灯形は後年整備された道路(例えば土手長町通りの両端や南大通り)では採用されず、一般的な下方向だけを照らすタイプが使われている。提灯形は光が上に拡散して効率が悪いためだろうか。

上の写真で分かる通り、提灯形照明灯や同じ道路の信号柱の先端は、ヤリ(槍)のようにとがっている。
鳥が止まってフンを落としたり、雪が積もりにくいようにという配慮なのかもしれないが、後から整備された他の道路(例えば通町)では平らになっているものもあるので、単なるデザインだろうか。

僕は今まで、提灯形街路灯のある通りでは、その柱の先端はどれも槍状だと思っていた。ところが、先端の形状はもう1種類存在することを知った。
 竿燈大通りでは緑色
上の2つの写真は、竿燈大通りの西側(山王十字路寄り)と東側(旭川・秋田駅寄り)のもの。違いが分かるだろうか。

そうです。もう1種類の先端は、
 擬宝珠(ぎぼし)!
改めて見てみると、二丁目橋からきららアーバンパレス(旧・三井アーバンホテル)の丁字路交差点までが擬宝珠タイプで、それより西側の山王十字路までが槍タイプ。※山王十字路以西の狭義の山王大通りも槍タイプ
竿燈大通りの東西でほぼ半分ずつに分かれるのだった。上の写真のローソン前の歩行者用信号の柱が擬宝珠タイプの西端に当たる。

記憶をたどれば、平成初期に竿燈大通りが現在のように(融雪や照明灯など)整備された際、東側から工事が始まったはず。だから、最初は擬宝珠だったのが、途中から槍に変わって、それが中央通りなどへも引き続き設置されたと考えられる。(以降、照明灯は別タイプになっても、信号柱だけは槍タイプになっている道路もある)
【2019年7月30日追記】NHK秋田の竿燈大通り前の電気設備点検のニュースでは、竿燈大通りの電線地中化は「昭和62(1987)年」と伝えていた。擬宝珠はその時のものだろうか?
【2021年10月2日追記】Youtubeにアップされた1987年撮影(葉が茂り、夏服の人も長袖の人もいるから、初夏頃?)という映像によれば、その時点でまだ建設工事中の三井アーバンホテル前までが緑色になっていて、その西隣は通常の電柱・信号であったので、一致する。
 色合いも少し違うような

しかし、竿燈大通り東側でも、一部で槍タイプが混在している。日本銀行秋田支店前交差点付近にいくつか見られ、後から追加で設置または更新されたのだろう。
向こう側の歩行者用信号柱だけ槍
その1つ隣の交差点では、警察関係の感知器の柱が明らかに後から設置されていて(色あいが違う)、やはり槍タイプ。しかも、
槍の形が異なる
照明灯や信号柱では、柱自体(断面)が四角いので、それに合わせて「四角錐」の槍だった。しかし、この感知器の柱は断面が円形なので、「円錐」の槍。


場所が変わって、南大通り。こちらは竿燈大通りと色は同じ緑色だが、照明は違う形。
先端は槍(脇道側は先端が平ら)
この柱は円形だが、槍部分だけは竿燈大通りと同じ四角錐だ。

以前も紹介したけれど、何年も・何度も通っている竿燈大通りでも、気づかないことがいろいろあるものだ。

実際の竿燈では、先端は御幣または日の丸の旗だから、槍も擬宝珠もどっちにしても本来とはかけ離れている。(提灯が2つだけという時点でかなりかけ離れているわけだが)
どちらかと言えば、擬宝珠のほうが和風っぽくてイメージにあっているような気がしなくもないが、ふさわしいとも言い切れない…
當福寺の屋根と槍
擬宝珠をやめてしまったのは、複雑な形状のためもしくは需要の少なさから特注品で製造コストがかかったからだろうか。


そういえば、高知では寛永通宝が信号柱に付いていた。
再掲

【11月1日追記】冒頭の追記の通り、平成元(1989)年で中央通り、広小路、竿燈大通りに設置されていたのは確認できたが、既に中央通りや広小路は槍タイプだった。かなり早い段階で、擬宝珠から槍に移行したと考えられる。
それから、2014年度に、これらの照明をLEDに交換する事業が行われる。中身だけの更新で、灯具の形状は変わらないようだ。この記事にて
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秋田駅周辺小変化

2014-03-25 23:42:32 | 秋田のいろいろ
秋田駅周辺のちょっとした変化を3つ。
●デイリー跡解体
秋田駅の北側では、秋田駅西北区画整理事業が行われている。
2011年の県立脳血管研究センター裏手の新たな道路開通以降は、目立った変化はない。ただ、よく見れば、線路の反対側(東側)ではアンダーパス予定地近辺に新たな宅地ができはじめるなど、着々と進んではいるようだ。
直接関係はないが、近くの県道28号線・手形陸橋の車線増設工事もやっと始まっている。

そんな中、新たに開通した市道の北側・手形陸橋の下との間の道路。
奥に手形陸橋が見える
手前から2つめの建物が解体されている。
半分ほど解体された状態
この建物は、上の階は「シャトレー羽生」というアパートで、1階にはデイリーヤマザキだったかヤマザキデイリーストアだかが入っていた。
近年は1階は閉店して、シャッターが下りていた(落書きされていた)が、赤い庇が残っていて、デイリーの名残りを感じさせる。

以下、在りし日の姿を2012年10月撮影のGoogleストリートビューより。
上の写真と同じ南側から。手前に看板が残っていた

手形陸橋を背に北側から。右奥が脳研

看板類
看板によれば、「デイリーストア」名義で、朝7時から午後10時か11時まで営業していたことになる。(営業時間からすれば「Yショップ」のような気もするが、区別があいまいな時期だったのかもしれない)

現在は、解体はほぼ終わっているはず。
裏通りではあったが、周辺に住む秋大生、秋田駅から通学していた工業、北高あたりの生徒には、なじみ深い店だったかもしれない。
ここら一帯は直接的には区画整理と関係なさそうにも見えるが、けっこう空き地が増えたようにも感じる。【4月9日追記】もしかしたら、新設アンダーパスからまっすぐ延びる新しい道路が、ちょうどデイリー跡に出てくるのかもしれない。【2015年6月11日追記】結局はアパートが建った。

2016年秋に、この隣に変化


●フォーラスの裏の外壁
今度は新しい道路の逆側、広小路側。
パチンコ店リボン会館が更地になり、ここも道路ができる(拡幅される)ことになっている。(他の用地買収等がまだのため、着工は少し先になりそう)
リボン会館がなくなったことにより、従来隠れていた秋田フォーラスの裏というか脇(西側)の壁面が、広小路から見えるようになっていた。
(再掲)白いのがフォーラス
現在、この外壁は、
足場ができて覆われている
何らかの工事が始まったようだが、表示がなくて分からない。
ローソンが入る茶色い「秋田駅前ビル」 も解体されるはずなので、フォーラスはさらに外壁をさらすことになるのを踏まえれば、見栄えが良くなるように改修工事だろうか。
あるいは、この建物は1974年のジャスコ秋田店オープン時からのものだから、築40年になる。だから、耐震補強とか抜本的なリニューアルとかだろうか。(にしては小規模なような気もする)

現在、フォーラスの西面は壁と搬入口しかないけれど、道路完成後はその道路に面するわけだから、こちら側にも出入口を設けるとかはしないんだろうか。してもあまり意味はないかもしれないけど。

※続きはこちら


●増える経過時間表示
最近、秋田市中心市街地の交差点の歩行者用信号機の一部が、更新されている。
こういうの
秋田市中心部の大きな通りでは、10年ほど前、LED式信号機が量産化されて間もない頃に、一斉に更新されている。当時は、電球式と同じ分厚いボディのもので、通りごとにメーカーを変えて設置されていた。

2月頃から3月にかけて、その一部が、赤・青のそれぞれの残り時間をカウントダウンする(「経過時間表示」と呼ぶ)薄型の信号機に更新された。
秋田市では、仲小路などのごく一部には前から設置されていたが、これで一挙に増えた。
ただし、すべての交差点・すべての信号機が更新されたわけではない。写真を掲載しているように、斜め横断用の信号機だけが更新されたり、待ち時間が長いあるいは道幅が広い道を横断する側だけが更新されたり、最低限にとどめているようにも感じる。(それで充分だと思う)
厚いの・薄いの・厚いの
中心市街地を歩く人たちが、少しでも快適に安全に通行できるようにという配慮なのかもしれない。
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異動/訃報

2014-03-24 23:27:50 | 秋田のいろいろ
年度末の異動シーズン。
今年の秋田県の公立学校の人事異動は、23日・日曜日に発表された(同日13時から記者会見が行われた)。※昨年の記事

土日に異動の発表が行われるとは異例のようにも感じる。過去にあっただろうか?
内示は20日だろう。翌21日は祝日、22日は土曜日といずれも閉庁日だし、年度末で後の日程がつかえているなどの理由で、24日以降にはできなくて、日曜に行ったのだろうか。

そのためか、放送時間が少ない日曜のローカルニュースでは、報道しない局もあった(少なくともNHKとABS)。
新聞掲載は、例年通り翌日24日・月曜。(魁の夕刊があった当時は、発表日の夕刊に掲載されていた。仮に今夕刊があっても、日曜は夕刊はなし。どうしていただろう)

今日の秋田魁新報は、1面の記事(例年より小さいような気がする)と3面の解説と11~15面に名簿を掲載。
今年度から、定年退職者の再任用が始まり、高等学校13人など計22人が再任用された。昔でも、高校では定年退職した先生が授業を教えていたことがあったけど、あれは非常勤講師だったんだね。

現在の角館高校と角館南高校が統合して開校する新しい角館高校は、現在の角館南の校長が就任。現・角館校長は退職。
全日制の教頭2名は、いずれも高校教育課主任指導主事から起用。定時制の教頭は秋田高校教諭が就任。現在の各学校の教頭は他校へ異動(校長昇任を含む)してしまう。

現在両校に勤務していて、引き続き新・角館高校所属となる先生も、異動扱いとなり、名簿に掲載された。
全日制の「教諭」では現・角館から23名、角館南から16名が異動した。そのうち、現・角館高校から異動する先生の表記方法。

魁では、新任校・現任校どちらも「角館」と表記するので「角館 角館 氏名」という、事情を知らない人はわけが分からないことになっている。

一方、朝日新聞の別刷り「教員異動特報」
朝日。文字は小さめで、新聞本文とは違う書体
こちらは統合後の角館高校を「角館(新)」と表記しており、これのほうが分かりやすい。(それでも統合を知らない人は悩むか)

ちなみに名簿の記載順は、魁は職名順(校長→副校長・教頭→教諭など上から)にそれぞれ高校→中学校→小学校の順なのに対し、朝日では小学校→中学校→高校の学校種順(魁と逆の順)でそれぞれの中で職名順になっているのがおもしろい。




23日付秋田魁新報に、秋田市の2人の女性が亡くなったことを伝える記事がそれぞれ出ていた。訃報記事というより、ニュースのような扱いで。
・社会面「八橋人形最後の伝承者、77歳 道川トモさんが死去」
秋田市中央部・八橋(やばせ)地区の工芸品で200年以上前から作られているという土人形 「八橋人形」がある。
京都伏見の人形師が来て伝えたそうで、初めは華やかなものだったのが、明治後期からは落ち着いた色彩と土の量感を感じられるようなものに変化していった。
八橋の天神信仰にちなむ天神様の人形が代表的で、「おでんつぁん」として親しまれてきた。(参考:秋田市観光サイト アキタッチ)
※「おでんつぁん」は意味としては「天神さん」なんだろうけど、語源は「お殿さん」なんだろうか?

その最後の作者が22日に亡くなった。
「道川家では代々、八橋人形を制作。トモさんは母親が亡くなってから20年以上、最後の職人」「体調の悪化で約2年前から人形を作っていない」とのこと。

【2014年10月30日追記】10月23日付朝日新聞秋田版で、国民文化祭に連動した展示会と後継について報道されていた。
「八橋地区には明治の頃まで(略・八橋人形を)制作、販売する店が軒を連ねたという。」
「戦後には道川家、遠藤家、高松家の3軒のみとなり、1980年代後半には道川トモさんだけに。」

「約20年前、当時の県民芸協会長らが、後継者を育てようと半年間の養成講座を開いた。(略)主婦10人が道川さんの指導を受けたが、結局、後継者は出なかった。」
「25年ほど前、道川さんに2年間、弟子入りし、店に作品を並べてもらえるまでになったが、破門されてしまった。」女性もいて、「先生は職人気質で、(略)他の仕事と掛け持ちの私を認めてくれなかった。」と話す。

没後、素焼きの人形や型は残っていて、親交のあった人が整理・保管しているので、八橋人形の復活は可能で、絵付け体験が行われているという。

【2015年6月25日追記】2015年に12名の有志により「八橋人形伝承の会」が発足し、6月24日から道川さんの親族の家を「八橋人形伝承館」とした工房で活動を開始した。遺族の了承を受けて90種類の型と800体の製作途中の人形を引き受け、週3回活動する。(2015年6月25日付秋田魁新報社説および秋田市地域面より)

【2018年11月21日追記】その後、2019年の年賀郵便切手・82円(くじ付き/なしとも)の絵柄に、八橋人形の亥がデザインされた。順調に復活が進み、秋田県外にも認知されつつあるようだ。
(以上追記)



・秋田市地域面「98歳の「看板娘」逝く 温かいもてなし、入浴客に愛される 「新屋温泉」高橋社長の母・マツさん」
秋田市南西部・新屋の公立美大や秋田西中のそばに、「福祉健康新屋温泉」がある。製材所の敷地内にある温泉で、塩分(とヨウ素もだっけ?)が多くて茶色いお湯と製材所らしく木材をふんだんに使った建物が特徴。
製材所の先代社長が、ここでは温泉など出ないと言われながらも1996年に見事に掘り当てたものの亡くなり、三男が後を継いで2003年に温泉施設を開業した。

その先代社長夫人が、10日に老衰で亡くなった。
1916年に五城目町の呉服屋の長女として生まれ、大曲女学校(現・大曲高)卒後、20歳で結婚。
温泉開業後は、「2012年に体調を崩すまで」「毎日、玄関に立」ち、お客に「いらっしゃいませ」「ありがとうございました。またおいでくださいませ」と声を掛けるなど、「看板娘」として親しまれた。

僕も何度か行ったことがあるが、たしかにおばあさんが玄関の奥のほうにいらして、声を掛けてくれた。
ここ数年は行っていないので、しばらくお目にかかっていなかったし、体調を崩されたのも知らなかったが、そんなお歳だったのか。
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バスダイヤ変更点2014

2014-03-23 23:45:15 | 秋田の地理
先日の神田線の新系統開設に続いて、中央交通路線バスの4月からの変更について。

まず、「路線名、バス停名称変更のお知らせ」。
これは、秋田組合総合病院が「秋田厚生医療センター」に名称変更することに伴うもの。
路線名(系統番号111)「新国道・土崎経由組合病院線」が「新国道・土崎経由秋田厚生医療センター線」に、停留所名「組合病院前」が「秋田厚生医療センター前」に変更。
路線名が変わるのは、告知では新国道・土崎経由(飯田街道、高専前経由)だけ。組合病院に行くバスは、サンパーク経由将軍野線や土崎駅発着の短距離路線(神田線の派生扱いだけど、「神田」は通らないので違和感がある)もあるが、それらは名称に「組合病院」が入っていないから変わらないということか。


あと2つは「運行系統の廃止、新設及び経路変更について」と「平成26年4月1日バスダイヤ改正について」で、神田線の天徳寺バイパス経由開設も含む。
他に20路線ほどで、改廃を含むダイヤ改正が実施される。ただし、5分とか10分程度の時刻移動だけのものも含まれる。
※今回も、変更点を時刻表に赤で注記してPDFでホームページにアップしてくれるのは親切。
※いずれにしてもご利用の際は充分な確認を!

改廃を含む路線を書き出して、考察してみる。
※見間違い、見落とし、勘違いがあるかもしれません。利用の際は各自、公式な時刻表等で確認してください。
●路線廃止
土崎循環線
2010年10月に運行を開始した「土崎循環線」が、早くも廃止されてしまう。
土崎駅前-自衛隊前-組合病院-秋田高専前-北部市民サービスセンター-土崎駅前(サンパーク団地も通るが、方向によって通過順が異なる。運行開始時点では、北部市民サービスセンターは未開設だったので経由しなかった)
という経路で、土崎駅を起点に自衛隊を先に通るのが内回り(160系統)、組合病院を起点に自衛隊前を先に通るのが外回り(161系統)。

運行開始時点では、各方向それぞれ平日は4~5本、土日は2~3本が運行されていた。
しかし、いつの間にか土日は運行されなくなり、現在は平日に3本ずつ運行されている。(内回りは土崎駅発9時10分、11時30分、15時25分。外回りは組合病院発9時40分、14時00分、16時00分)

ダイヤから分かるように、いずれも1周して始発点に戻って運行が終わりで、ぐるぐる回るわけではない。だから、言葉の意味として「循環線」は不適切(過剰な表現)で、「環状線」が適当だっただろう。
内回り/外回りというのが取っ付きにくい。「自衛隊・組合病院方面」などとすべきだったと思う
運行開始時はマスコミでも報道され、中央交通側も満を持して運行に踏み切ったように思われた。(北部市民サービスセンター開所を控えていたという事情もあっただろう)
しかし、当初から運行本数は少なく、また既存路線をつないだだけの経路のようにも思われ、実際には利用しづらいようにも感じた。組合病院や土崎駅に行くなら、他路線で充分間に合うという人が多いはず。
また、中央交通側も、積極的な宣伝や充分な営業戦略を練らなかったようにも感じた。やる気になれば、高専の登下校時間帯に合わせるとか、飯島やセリオン方面へ延長するとか、いろいろできたはず。
廃止されるべくして、廃止されたと言っていいだろう。

廃止の代替として、神田土崎線の土崎駅-秋田厚生医療センターの区間便(200系統)において、同数の3往復が増発される。ただし、時間帯は神田線と循環線で近接していたものもあるため、違う時間に移されるものもある。
土崎駅発9時40分、14時55分、15時40分、医療センター発12時00分、14時10分、15時50分となる。

南大通り経由大川反車庫行き(141系統)
広小路ではなく、南大通りを通って竿燈大通り~県庁方面へ行く路線。秋田駅から中通総合病院等への通院患者のアクセスを狙ったものと思われる。
比較的新しい路線で、市営バス移管後に新設されたはず。当初から平日朝に片道(駅発)だけの運行だった。2011年4月には、2本だったのが1本(8時00分発)だけになっていた。

その後、昨年4月からは、従来広小路/中央通り経由だった城南中学校または牛島小学校経由日赤病院線(市営バス当時の上北手線荒巻・古野行きを短縮したもの)が、全便南大通り経由に変わっていた。また、秋田市中心市街地循環バスも走るようになった。
したがって、以前よりは南大通りを通るバスが格段に増えたことになり、1本だけの車庫行きは役目を終えたと判断したのだろう。

ただ、日赤病院線の時刻は変わらないようなので、秋田駅発は7時20分の次は8時50分までない(循環バスも始発前)。中通総合病院の外来受付は8時なので、それに間に合わせて行く患者さんには、ちょうどいい時間のバスがなくなってしまうことになる。

いるかどうか分からないけど、南大通り→竿燈大通り~県庁方面の利用者については、1日1本だけの駅東線が20分前にあり、引き続き利用できる。

御所野線(県庁経由502、長崎屋経由503)
秋田駅西口から有楽町・牛島(旧道)を経由して御所野方面へ向かう路線は、複数の経路が存在して複雑。
そのうちの1系統が廃止される。告知では「御所野線」という広大というか大雑把な路線名だが、時刻表検索では「仁井田旧道・四ツ小屋経由御所野線」となっている。
駅から来て、旧道から国道13号線に出て大野口を過ぎて切上(きりあげ)の三叉路から仁井田集落の旧道へ再び入り、切上、目長田(めながた)入口などを抜け、「四ツ小屋入口」交差点で13号線を横切って元空港道路・県道9号線、四ツ小屋駅前を経て、イオンモールが終点。

現在は、平日のみ2往復(駅発9時15分、17時30分。イオン発10時05分、18時10分)が運行されている。
「御所野線」や「仁井田」バス停といった、集落(大字)名ズバリの名称があったり、そもそもあの辺りが仁井田の“本村”だったはず。だから、個人的には中央交通の仁井田方面の路線としては基幹の系統のような印象が漠然とあったが、わずか2本だったとは知らなかった。
今は国道の向かい側の御野場側のほうが人口が多そうだし、バス路線もそちらへシフトするのだろう。夕方の便は、代替として御野場経由が増発される(後述)。

なお、仁井田の旧道では「愛宕下橋経由雄和線」も運行されているので、切上以降からバス停がなくなるわけではない。(有楽町~牛島東一丁目方面の便はなくなる)
その愛宕下橋経由雄和線も、後述の通り一部減便される。

路線・系統そのものが廃止されるのは、以上。

●経路変更・新屋日赤線(730)
元々は秋田駅東口-日赤病院-御所野学院-中央シルバーエリア-御野場-新屋高校-西部市民サービスセンター(新屋案内所)という経路だったが、移管後の2010年4月から日赤病院-新屋間に短縮。
現在は平日のみの運行で、西部市民サービスセンター発が7時30分と14時35分。日赤発は13時55分。

これが、4月から新屋高校に立ち寄らなくなる。
といっても、元から日赤方面からの通学には使えない時間だし、新屋駅前-高校の間は別に路線がある。今まで高校に寄っていたのが不思議で、経路変更は妥当ではないだろうか。

●その他減便・増便等
・新国道・臨港署経由土崎線(114)減便とセリオン線(115)増便
かつての臨海バイパス経由土崎線の廃止代替として、新国道を通ってきて土崎地区で旧道へ入らずにそこだけ臨海バイパスを通る(臨港署付近)系統がある。
現在は、平日の朝と夕に2往復あるが、このうち夕方が廃止。
下りの正面表示。「土崎」とは表示されない(けど分かるし、妥当でしょう)
代替として、新国道経由セリオン線が同じ時間で増発。
臨港署の辺りではその時間のバスがなくなってしまうけれど、1本隣がバス通りの旧道だから、あまり問題はないのかも。

わだ線減便
平日のみ運行の「わだ線(500、501)」牛島・横山経由和田駅行きのうち、大川反車庫発17時25分(駅17時45分)が廃止。
これにより、上下とも3本ずつの運行になり、下り最終は14時03分に繰り上がる。
和田までだったらJRのほうが早くて本数が多くて、便利だから、利用者は限定的なのか。(コインバスの人は困るけど)

・代替として仁井田・御所野線(510、511)増便
上記、夕方の御所野線やわだ線の減便の代わりに、(牛島・御野場団地経由)仁井田・御所野線が増便。
平日に下り2本(16~17時台)、上り18時台1本が増発され、秋田駅西口では17時15分(御所野線代替)、17時35分(既存)、17時45分(わだ線代替)と高頻度で運行される。

神田土崎線、茨島牛島環状線、臨海経由新屋西線で土日の全便廃止
土日ダイヤでの減便が見受けられ、土日は1本も運行されなくなる路線・系統が増える。
まず、神田土崎線。神田線の始祖は、秋田駅と土崎駅を神田経由で結んでいた。土崎行きは、20年ほど前までは1時間に1本あったが、外旭川地区の発展とその先の利用減少を受けてか、外旭川で折り返すものが多くなった。
現在は、平日に秋田駅7時05分発、土崎駅発7時50分、14時35分発。土日はそれぞれ7時15分発/7時50分発だけ。(201系統)
この土日の1往復が廃止される。

現ダイヤでは、駅発7時00分と30分に旭野団地線が運行されているし、駅行きは4分前に旭野団地線があって、土日にしては多すぎる。
外旭川~土崎駅にしても、土日の朝にこんな経路の路線に乗る人なんていなさそうだし、考えてみればなんで今まで残っていたのか不思議。(外旭川病院の通院、附属小学校の通学需要があったかもしれないが、今はどちらも土曜もお休み)

ただ、この調子では、元祖神田線である土崎駅発着系統そのものが消滅しかねない。
※上記の通り、近接したダイヤがあるためか、代替運行はなし。冒頭の通り、時刻表上は神田土崎線の一部として扱われるものの、あまり共通点はない土崎駅-厚生医療センターの短距離便は土日も運行継続。

ほかには茨島牛島環状線。市営バス当時よりも減って、現在は、平日は大町回り(600。旧称・大橋回り)、牛島回り(601)が朝と夕方にそれぞれ1本ずつ運行。
土日は、同じ時刻で大町回りだけが運行されているが、4月からはこれも土日運休になる。

もう1つは系統の廃止。新屋西の中に、川尻・市立病院西口を通らずに臨海バイパス(国道13号線)を通る系統「臨海経由新屋西線(724)」が、市営バス当時からわずかにあった。(「臨海経由」の名称とは関係ないが、勝平地区では、なぜか朝日町ではなく船場町を経由する=新屋西線としてはこちらが本来の経路なのだが)
現在は、新屋発が朝に毎日(平日7時40分、土日7時50分)、秋田駅発17時35分が平日のみ運行されているが、4月からは土日の上りが廃止。同時刻の川尻経由(720系統)になる。
平日ならともかく、土日に臨海経由を利用する人なんてたかが知れていそうだから、妥当か。

・その他減便
土日の新国道経由土崎線で、秋田駅-飯島北(北部市民サービスセンターを経由しない110系統)の何本かが廃止。
廃止されるのは、下りでは、秋田駅10時~16時の毎時10分発と19時40分発の8本。上りでは、飯島北7時30分、12、14、16時の15分発の4本。
下り10時~16時は、10分前と10分後(つまり00分と20分)に便があるので、廃止により20分間隔となる。19時は20分の次が20時00分で40分も開いてしまう。上りは、7時20分と40分に追分線が、それ以外は直前の08分に五城目線がある。
秋田市内では利用者数が多い新国道経由だが、ダイヤが等間隔でなく無駄な便があるように感じるものもあり、その整理の意味はあるだろう。土日は利用が少ないのだろうが、減らしすぎると…

元々中央交通の路線だった、牛島経由大野線は、減便されて現在は平日3.5往復、土日2往復運転。
4月からは土日の朝の下りと午後の上りが廃止。土日は15時台の下りと9時台の上りの1往復になる。

愛宕下橋経由雄和線(580)は、土日午後の1往復が減便。時刻移動もあって、駅発15時45分、雄和発9時00分の1往復になる。


南高校発 柳原経由御野場団地線と二ツ屋福島線
平日に1本増減。要は南高校16時30分発の経由の振り替え。
二ツ屋線(牛島旧道経由。571系統)から柳原・イオン秋田中央店前経由(541系統)になる。

市営バス当時は、南高校始発の秋田駅行きが、牛島経由、柳原経由ともそれなりに運行されていて、下校時刻には5分間隔や同時刻発の所もあった。
近年はかなり減らされ、2011年10月の改正では、1本だけあった柳原経由が廃止されて、16時30分の牛島経由だけになっていた。
その1本の経由が変わって、南高校発の柳原経由が復活・牛島経由が消滅する。
【28日追記】牛島経由から柳原経由に振り替えられる理由を考えてみた。牛島経由の前後に近接したダイヤはない(10分程度空いている)。
考えられるのは、南高校前バス停で待機する時の状況だろうか。南高の旧校舎時代は、下校時間帯は両経由とも高校構内に入って待機し、国道へ出ていた。牛島経由では、国道の反対車線へ右折して出る形になり、車の流れが途切れるのを待つ時間がかかったものだった。
南高が新校舎になってからは、構内バス停の配置が変わったのでどうしているか不明だが、この国道へ出るのをスムーズにするために経由を変更するのかもしれない。
あるいは、国道の路上バス停(大住団地線用)から発車するとしても、バスベイがない国道上で待機するのは邪魔になるため、構内に入って待機できる柳原経由にするのかもしれない。(以上追記)

また、現在は、御野場団地16時10分→南高校前16時17分という、柳原経由駅行きが運行されている。告知用時刻表では、減便される旨は表示されていないが、時刻表からはなくなっている。
御野場から駅へは、御所野から来る牛島経由が2分後に続行しているので、統合する形で廃止だろうか?

【遅ればせながら2015年8月10日追記】改正後も御野場発柳原経由駅行きも引き続き運行されている。
したがって、御野場団地では16時10分発柳原経由(始発)、12分発牛島経由駅行き(御所野発)、その次は17時07分。
南高校では16時17分発柳原経由(御野場発)、30分発柳原経由(始発)、39分発牛島経由(大住団地線)という、相変わらず偏ったダイヤになっている。(以上追記)

柳原経由御野場団地線と牛島経由御野場団地線
さらに柳原経由御野場団地線では、御野場17時50分発駅行きが廃止。(柳原経由としては最終)
5分後に牛島経由が続行しているため統合だろう。

牛島経由御野場団地線でも、土日11~12時台の1往復が減便。ここは10分間隔で柳原経由の御野場団地線があるので、そちらに統合の形か。

前も書いたけれど、市営バスが中央交通に移管された時に謳われたメリットの1つが、「両者で近接してたダイヤが調整され、効率化(適正化)される」ということだった。
しかし、移管から10年経っても、解消されていない(つまり自社内で競合している)所がまだ多いのだ。以前取り上げた大学病院方面は今回も解消されないようだし。

こういう重複ダイヤ解消によって、困るお客はさほどいないだろうし、運行経費は単純に半減できるはず。(片道だけ走って戻りは回送とかだと無駄だろうけど)
中央交通は、もっと本気になってこうした効率化に取り組めば、多少は経営状態が良くなるのではないかと、素人目には映るのだが…


・なぜか増便
理由が思いつかないけれど、なぜか増便されるものも。
手形山崎・大学病院経由松崎団地線(331、332)で、土日10時42分発長崎屋経由車庫行きが増発。
なんで?

以上が、ダイヤ改正の概要。


以下は、個人的な妄想です。
新しくできる「天徳寺バイパス経由」の神田・旭野団地線。その途中停留所はまだ明らかになっていないので、予想してみる。
現在の経路と共存して運行され、両経路で数百メートル離れていることもあり、混乱を避けるためにも現経路と同じバス停名にはならない(できない)と考える。

現経路の当該区間のバス停は、
水口(みのくち)-斎場入口-梶の目(かじのめ)-笹岡入口-神田-吉学寺(きちがくじ)入口
1.5キロに6つ。都市部・住宅地としては平均的か。
梶の目と笹岡入口の間が100メートルちょっとしかなく、近すぎる気もするが、道路の線形、かつてあった笹岡線の分岐点であること、運賃境界であることなどからやむを得ないのだろう。

新経路は1.4キロだから、バス停は5つか6つだろうか。
先に道路ができてしまっているので、線形、歩道との状態(高さや街路樹)の制約があって、場所の選定は難しいかもしれない。だから場所は予想しません。

では、名称は?
この区間には、「○○前」というバス停になりそうな施設などはほとんどない。
じゃあ、地名から取るかということになるが、住居表示未実施の所を突き抜けて道路が通っていることもあり、所在地名の選択肢もあまり多くない。
天徳寺側から、字大畑-字水口-字八幡田(はちまんでん)-外旭川八幡田一丁目/字梶ノ目-外旭川八柳二丁目/字松崎
という地名を通過するが、水口や梶ノ目などは現経路で既に使っているから、使わないほうが無難だろう。

ところで、「堂ノ沢県庁線」という路線がある。現在は、秋田駅と新国道西側の自動車会館前を結んでいるが、昔は、新国道と線路を越えて外旭川まで来ていた。
八柳側から来て梶の目までは神田線と同じ道を走り、そこから西へ曲がって斎場前(入口)-八幡田と走っていたはず。(斎場前は、神田線とは別の位置にあったと思われる)
この「八幡田」はバス停名に使えそう。“復活”なるか?

そんなわけで、新区間のバス停をこんなふうに予想します。カッコ内は第2、第3候補。(現経路と同じ名称も候補に加えました)
外旭川大畑(水口、釜ノ町入口)-外旭川消防出張所前(斎場入口、八幡田)-八幡田一丁目-神田入口(外旭川小学校入口)-北都銀行外旭川支店前(吉学寺入口)

消防署辺りまでがちょっと苦しい(距離のわりに適当な名前がない)かな。
「八幡田」は住居表示実施済みの一丁目のほうを優先し、「神田入口」は“神田”線の由来である字神田に敬意を表して。
どうなるでしょうか?

【25日追記】おそらく25日に、中央交通ホームページの告知に、バス停名が何食わぬ顔で追記されていたので、“答え合わせ”。
新規区間に設置されるのは4つ。名称は、天徳寺側から
天徳寺通り-水口入口-八幡田一丁目-八幡田二丁目
となった。
ドンピシャは八幡田一丁目だけでした。

外れた新名称に対して、個人的意見。
天徳寺通り:「○○通り」は弘南バスは昔から好んでいて、中央交通でも最近は「大町通り」など採用例がある。
だが、「通り」とは「線」である。バス路線も「線」であり、バス停はその線の中での「点」である。バス路線という「線」の中の「点」であるべきバス停に、「線」である通りの名称を付けるのは、ふさわしくないと考える。
バス停の名前を聞いて場所がピンポイントでイメージできるほうがベターだと思うので、「○○通り」という名称はあまり好きでない。隣の「天徳寺前」とも少々紛らわしい。

水口入口:これはおかしい。だって、バス停のある場所が既に「水口(外旭川字水口)」なんだから。
「従来ルートの「水口」バス停の入口」という意味かもしれないが、苦しい。

八幡田二丁目:バスが通る道路には面していないが、そこから数十メートル入れば、たしかに「八幡田二丁目」ではある。一丁目バス停と揃えて格好はつくかもしれない。
悪くはないと思うけれど、こここそ「神田入口」じゃないかな。水口入口はあるのに、神田入口がないのでは、神田線じゃなくなってしまうような気がしてしまう。
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雪の春分の日

2014-03-22 23:19:36 | 秋田の季節・風景
南のほうでは桜が咲き始めた一方、北海道の根室や青森の太平洋側では大雪となったお彼岸。弘前でも70センチも積もったそうだ。
秋田市は、幸いに大きな影響はなし。この時期恒例の雪がうっすら積もって・融けてを繰り返している。
今週初めの千秋公園西側。日陰に雪が残るだけだった
15日にゼロになった積雪が、20日深夜から増えて、春分の日・21日の朝は真っ白になった。最大4センチに達し、夜にはゼロに戻った。
最高気温は3.9度ながら午前中は1度以下で、真冬のような寒い中でのお墓参り。墓石に水をかけるよりも、上に積もった雪を払いのけることが必要だった。
 
上の2つの写真は、別々のお寺です

 
屋根からの落雪を背負った狛犬さん/昨年から残るフジの実(豆)に雪
【24日追記】地温が高いせいか、春の雪は融けやすい。春分の日の雪も、すぐになくなった。

「国民の祝日に関する法律(祝日法)」第二条では、春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ。 」こととしている。秋分の日は「祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ。」。
※祝日法でいう春分の日の意義と、仏教の彼岸会の意義は違うから、春分の日に墓参して先祖をしのんではいけないということではない。

だけど、北国の春分の日は、まだ春が浅いというか冬同然で、生物なんて出ていない。雪の中からお墓を掘り出すような土地もある。
また、秋田では、前回触れた「万灯火」などのような春彼岸独特(秋にはない)の先祖をしのぶ風習がある所もある。
個人的にも、秋の彼岸以来のお墓参りであり(秋田では正月に墓参はあまりしない)、冬の終わりのこれから春になるタイミングで先祖のことを思うのは、お盆や秋彼岸とは、また違った心境になる。
北国では、春分の日もまた、先祖をうやまう日なのかもしれない。
ただし、あと1月後には秋田でも桜が咲いているはずだし、春は遠くもない。



最後に、同じく前回の「だんし」。(前回の記事末尾に追記したのでご覧ください【23日追記】23日の新聞で新たな情報が判明。さらに追記しました)
間違い呼ばわりして、とても申し訳ないことをしてしまいました。そんな呼び方があったとは、知らなかった!

前回も触れたけれど、全国的には彼岸といえば、ぼたもち/おはぎ。
ぼたもちとおはぎの違いについては諸説あるが、「春は牡丹からぼたもち、秋は萩からおはぎ」であり、「ぼたもちがやや大きめ、おはぎはやや小さめ」という違いがあるというのは、それなりにコンセンサスが得られているはず。

ただ、秋田市内のお菓子屋さんやスーパーで売られているものは、春なのに「おはぎ」という品名のものも少なくなかった。

さらに、たけや製パンでは、なんと「おはぎ」と「ぼたもち」両方を今回の彼岸で製造販売していた。店によっては片方しか置いていないが、マックスバリュ茨島店では両方並んでいた。
たしかにぼたもちのほうが1回りは大きかった。おはぎはなんとか1口でも食べられそうだが、ぼたもちは無理なサイズ。あんこやきなこの状態は見た限り、差はなし。
おはぎは4個1パック、ぼたもちは3個1パックで、値段はほぼ同じだった。
【2018年3月23日追記】2018年春彼岸でも状況は変わらず。「おはぎ(4個入りまたは3種×2個ずつ)」を置く店が圧倒的多数。マックスバリュ茨島店では、おはぎとぼたもち両方販売。

【23日追記】ちょうど23日付朝日新聞「天声人語」で、ぼたもちとおはぎを取り上げていた。
春はぼた餅、秋はおはぎは「よく聞く説ながら、どう呼ぶのが正解と決まったものでもないようだ」。「ほかにも、もち米主体をぼた餅、うるち米主体をおはぎ」という説もあるそうだ。
「春におはぎと称しても菓子屋さんの不勉強とは限らない」としている。(以上追記)

ところで、明日のサザエさんでは、「お彼岸の味」という話が放送される。磯野家のご先祖が38個食べて殿様から褒美をもらったという、恒例のおはぎ(ぼたもちではない)の話だろうか? はたまた別の食べ物か?
【23日追記】「お彼岸の味」は3話目で作品ナンバー7088、牟田桂子脚本。
ぼたもちの話だったが、サザエが「新作ぼたもち」を創作する(マシュマロやカステラ入りとか)といった、目新しい展開。
原作4コマから取り入れたエピソードは、定番の甘味処でサザエが奥の席に通される話(サザエの口が大きいため、ぼたもちが小さく見えてしまうのを嫌った店主が窓際の席から遠ざけた)。ほかに波平が金持ちの奥様を霊園行きのバスへ乗せてしまう話や、読経に来た僧侶が酔っ払う話もあったが、これらは元はお盆のエピソードだったか?

作中では、すべて「ぼたもち」で統一されていた。冒頭でぼたもちとおはぎについてワカメに聞かれた波平が、両者の由来が花の名であることを説明し、両者は「呼び方が違うだけ」だとした。(大きさについては言及なし)
先祖の磯野藻屑源素太皆と思われる、ぼたもちが好きな人物も登場(もちろん声は茶風林)するが、「彼岸に38個食べた」話は出なかった。(上記の通り、38個食べたのは「おはぎ」であるためか?)

※2015年春彼岸のおはぎについて、この記事後半にて。
※2015年春のサザエさんでは、彼岸ネタはなし。
※2016年3月20日放送のサザエさんでは、作品ナンバー7415「ぼたもちの人(脚本・中園勇也)」が放送。2014年と同じく、ぼたもちとおはぎは名前が違うだけと説明され、磯野藻屑源素太皆が登場。
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彼岸だんし?

2014-03-20 00:12:08 | 秋田のいろいろ
春の彼岸に入った。
秋田では、お盆ほど独特の風習はないかと思う。思い浮かぶのは、
・万灯火(まとび)
秋田県北部の中央部寄りの山間部・北秋田市合川や上小阿仁村辺りで行われる行事。
大文字焼きのような、火で文字を作るもので、迎え火みたいなもの。(地域によってはお盆にも行う)

・木で作った造花
秋田県北部では、木で花を作って、春彼岸に墓前に供えるそうだ。割り箸のような棒に、薄く削った木で花弁を付け、鮮やかに着色するもの。
春が遅くて生花が手に入らなかったことが起源なんだろう。
毎年2月頃になると、大館だったか鷹巣だったかで、お年寄りの団体が作る作業をしている風景が報道される。
【2016年3月20日追記】2016年2月17日時点では、大館市のスーパー・いとくでは、造花が既に売られていた。

【22日追記】
テレビのニュースによれば、内陸北部の鹿角市には「オジナオバナ」という彼岸の風習があるとのこと。
万灯火のように明かりを灯したり、ワラで作った小屋を燃やしたり(秋田市の楢山かまくらにどことなく似ている)するらしい。
【25日さらに追記】「オジナオバナ」は「おじいさん、おばあさん」という意味で、すなわち「祖先」を表しているとのこと。


秋田市周辺では、生花やぼたもち(春はぼたもち、秋はおはぎと区別するとか)をお墓に供えるという、ごく一般的なやり方が主流だと思う。
雪深い年や場所では、雪の中からお墓を掘るという作業が必要なこともあるけれど。


2011年の秋彼岸に、たけや製パンが「彼岸だんご」なるものを販売しているのを知った。工藤パンなど他社でもおはぎ・ぼたもちとともに、あんこが入って白い(または緑色)団子を彼岸用に作っているのだった。
今年の春彼岸も、スーパーにはいろいろな彼岸菓子が並んでいる。彼岸だんごは、たけやのものは見ていないが、岩手の白石食品(シライシパン)の彼岸だんごがあった。白と緑がセットで、表面に粉がまぶされていた。

他には、上新粉で作った1口サイズの白い餅をあんこの中に入れた、いわゆる「しんこ餅(秋田限定の呼び方?)」があった。
スーパーでは白玉粉を特設売り場で売っていることもあるので、こういうタイプの餅を供える場合もあるのだろう。
とあるしんこ餅
能代市の「セキトのしんこ」、秋田市千秋公園の「あやめだんご」と同じようなもの。

【22日追記】
秋田の「しんこ餅」とは、餅とあんこの組み合わせではあるが、「赤福」のような「あんころ餅」とは少々違う。
餅はつるんとしていて粘りは若干少なく、あんこがやや液状で量が多いのが特徴か。「あんこの中に餅が浸かっている」ような感じ。


この餅は、秋田県内陸部にある業者の商品。
たけやのような大手メーカーでも、自前の店を構えるお菓子屋さんでもなく、小売店に卸すための商品を専門に作る比較的小規模の会社のようだ。
秋田にはこういう所がいくつかあって、その商品がスーパーでよく売られている。

で、この商品を買ったのは、商品名にびっくりしたから。
「彼岸」はいいけど右側のラベル

「だんし(餡)」?!

「だんご」じゃなく、「だん”し”」!
談志師匠を連想してしまった。
あるいは、ご先祖を敬う「彼岸男子」か?

某大手スーパーで買ったのだが、店頭の値札にも、レシートにも、
「ダンシあん」

局所的な方言とか、だんごとは別にそういう食べ物があるとかいうわけではなさそうで、単なるラベルの入力間違いではないかと思う。(もし、そういう言葉や食品が実在するのなら、教えてください)
スーパーさんにしてみれば、商品に「だんし」と表示されている以上、POPやPOSも「ダンシ」と入力せざるを得なかったのだろう。

【20日追記】コメントで教えていただいたように「だんし」という食べ物(呼び名)が存在するとのこと。詳細は後で調べてみますが、とりあえず「だんご」を間違えて「だんし」にしたのではないことが分かったので、訂正致します。(当記事の文面は勘違いしていた初回アップ時のまま残します)末尾の追記もご覧ください。

今日、店頭に並んでいた商品も、やはり「だんし」表記だったそうだ。
狙ってやっているのか?

味のほうは、若干甘さがくどい気もするが、後味は悪くなく、餅の具合も良好。


ドンキー・ホテーお歩道橋ジズム経験、に続く、おもしろ表示でした。

【22日追記】「だんし」について改めて。※ネットでざっと調べた情報です。誤り等があれば、ご指摘ください。
ネットで「だんし」と検索すると「男子」や「談志」も含んでしまうので、「彼岸 "だんし"」などで検索。
秋田の方言で「~です」などの丁寧な語尾として「~だんし(だんす)」を使う地域もあり、例えば仙北市では「定住応援情報 えぐきてけだんし(=よく来ていただきました=ようこそ)」というホームページを開設していて、そんなのも検索に引っかかってしまった。

まず、秋田県以外では、彼岸あるいは餅・だんごと関係した「だんし」は見当たらず、秋田独自の呼称だと思われる。由来は不明だが、「団子」の読み方違いか?

秋田県農林水産部農山村振興課「美しき水の郷あきた」ホームページ内の「美食・秋田の食文化」の「節句、春彼岸のお供え」の中に「春彼岸のお供え・だんし‥彼岸には、先祖の霊に花やだんごや餅を供える習わしがある。 」として、やや大きめのだんごにあんこをからませた写真が出ている。
余談だが、「おやき(米から作るもので、信州のとは別物)」も「春の彼岸のお供えや子供たちのおやつとして人気がある。 」そうだ。

「聞き書「秋田の食事」日本の食生活全集 5 」という書籍(藤田秀司 他編、1986年農文協)の目次がネットで見られたが、「県北米代川流域の食」 の項目だけに「だんし」が出ている。
ネットで調べると、県北部・大館市の製粉所が地元の風習として紹介してるし、自宅や実家で作るという方々も、大館近辺の方が多い感じ。
ただし、今回購入した「だんし」は内陸南部・大仙市大曲製造。
我が家はそちら方面にはほとんどゆかりがないとはいえ、恥ずかしいことにまったく知らなかった。

いろいろな方々のブログ等を拝見すると、「『だんしもち』と呼び、墓参に持って行って供えた」「彼岸の期間中毎朝作る家もある」「つぶあんやきなこ、ゴマをまぶすものもある」。だんごの形状は「まん丸」のほか「白玉だんごを大きくしたような、扁平で中央部が凹んだ」ものもある。

以上をまとめると、「だんし」とは単なる餅菓子の一種の呼び名ではなく、「彼岸に仏前・墓前に備える餅菓子」というニュアンスがある、というかニュアンスが強いように感じた。

辞書風に定義づければ、
「秋田県内陸北部などにおいて、米粉で作っただんごにあんこなどをかけた餅菓子の呼び名。主に彼岸の供え物」といったところか。(合ってますでしょうか?)
スーパーの彼岸の特設売り場に白玉粉が置かれるのも、小さな「白玉だんご」を作るためでなく、この「だんし」を作る需要に応えてのものかもしれない。

【23日さらに追記】タイミングよく、23日付秋田魁新報「にちよう遊学空間」面(16面)の連載「あきた風土民俗考(秋田県民俗学会副会長・齊藤壽胤=さいとうじゅいん)」の「50 団子と野老」が紹介されていて、非常に参考になった。
県内では彼岸に作る団子を一般に「ダンス(ダンシ)」といい、黄粉をまぶしたり、餡をかけたりする。素(白)団子は少ない。」「彼岸の墓参りでは、団子が欠かせない供物とされている。」とあり、やはりだんしは「彼岸の」だんごという意味合いが高そう。「だんす」とも呼ばれるのか。
葬儀でも団子を供える地域があるようで、それは素団子で、場所によっては麦粉を使うらしい。

由利本荘市の深沢(旧大内町で、羽越本線と日本海の間の山側の集落のようだ。日沿道大内ジャンクション南側の国道105号線が交差する辺り)では「彼岸の入り日には小豆をまぶした団子、中日にはぼた餅、過ぎ日(終日)には豆の粉をかけた団子を先祖に手向けるという。」。【関連があるかは不明だが、大内の産直で売られていた彼岸のお菓子
秋田市にわりと近いところでも団子を供える風習はあり、ぼたもちと共存しているのか。
※秋田市周辺でも「だんし」「だんす」とは呼ばなくても、だんごを供える場所や家庭はそれなりにあるようだ。

また、横手市谷地新田では「春の彼岸中に団子が凍れば稲が不作になる」とされ、能代市鳥形では死者に最初に供える「早団子」は「長寿で死んだ人のものは色が黒くなり、若い人は白いままだと」いわれた。それを後から墓に供えて長寿や咳止めの薬として「奪い合って食べる風習もあった」とか。団子に単なる供え物以上の霊力を見出しているようだ。

タイトルにある「野老」は「ところ」と読み、ヤマノイモ科のつる性多年草。江戸時代の紀行家・菅江真澄が湯沢で彼岸に供えたり食べたりしたのを記録しており、能代市上母体では「野老の細長い根ひげを紐として、先祖があの世に戻る時に土産に団子を背負っていくため」に「墓に団子と、山から掘ってきた野老を供える」そうだ。


「だんし」を通して風習とはさまざまあると感心すると同時に、せめて記録として後世に伝えていかないとならないと痛感させられた。

【9月23日追記】2014年の秋彼岸では、「だんし」を売っているのを見なかった。
春に売られていた店でも、おはぎメインで他にはまんじゅうやたけやの彼岸だんご程度。白玉粉などを特設コーナーで売っていた店はあり、家庭では作るところもあるのかもしれないが、一般的には「だんし」は春彼岸限定の風習なのだろうか。
【2015年3月25日追記】2015年春彼岸には「だんし」を見かけた。おはぎについてはこの記事にて。
※2016年春にも見かけたが、扱う店は以前より減ったような。イオンリテール秋田中央店では、毎年継続して販売。
さらに、2016年3月20日付秋田魁新報 週刊NIE欄の4コマ漫画「きりタン君」605話(こうまそうすけ絵・作)でも取り上げられた。「あんをからめたおもちのこと」「県北でよく作る」と説明され、「だんしなだけに男子が作るのよ」と、主人公が作らされるというオチ(実際にはそのような風習はないはず)。材料の袋には「もち粉」と書かれていた。
※2017年秋彼岸では、秋田市内店舗では見かけず。どちらかといえば春彼岸のものなんだろうか。
※2018年春彼岸、2019年春彼岸のイオン秋田中央店では、写真と同じものが売られた。

【2020年8月21日追記】
文化庁文化財部伝統文化課が2013年に発行した「平成二四年度・変容の危機にある無形の民俗文化財の記録作成の推進事業 阿仁地方の万灯火」に、同地域の春彼岸の風習が記述され、「春彼岸の墓参りの供物といえば「ダンシ」である。」として登場。
「直径三〜四センチほどに丸め、中央をへこましたものを作り、小豆餡やキナコ、ゴマなどをまぶしたものである。」として、大きめの白玉団子にしんこ餅のようにあんこがからまった写真も掲載。
また、「旧阿仁町の根子などでは、小豆餡を中に入れた大きめのものを作る。中に餡を入れると「ダンゴ」という」。
ダンシは小皿に2~3個盛って、仏壇、神棚、床の間などに供える。昔は重箱に大量に作り、親戚、無縁仏、六地蔵などにも供えたとのこと。
ほかに、雪深い地域なので、生花が手に入らなかった地域なので、木製の造花を供えるのは知っていたが、「花ダンゴ」といって色付けてさまざまな形(星や鳥等々)にしただんごを、ミズキの枝に刺して、墓に持っていく風習もあるとのこと。
春彼岸だけの行事である万灯火の記録なので、秋彼岸の言及は少ないが、阿仁では秋彼岸には墓参をしない地域もあるとのこと。農繁期であることも理由の1つらしい。

2005年「五城目町史デジタルデータ」にも、春彼岸はダンシを作って墓参りするとある。秋彼岸は「春と変わりない」だけ記載。
【2020年9月14日付のコメントで、大館など県北部の彼岸餅事情を教えていただいたので、参照。】
※2020年秋彼岸に北秋田市鷹巣や大館の餅事情を見た

【2021年8月15日追記】彼岸でなく8月お盆だが、山形県庄内地方では、「水餅」と言って、ついた餅を水に入れたものに、あんこや納豆をまぶして食べたり供えたりするとのこと。スーパーでも販売される。だんしに通ずるものがあるかもしれない。
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神田線に新系統

2014-03-18 23:56:42 | 秋田の地理
今日18日付で中央交通のホームページに、4月からの路線バスの変更(主に秋田市内)に関する、3つの告知がアップされた。
近年は秋に大規模な改正があって、4月は時刻の移動程度の小規模なものだったが、今回はそれなりに変更点が多い印象を受けた。中規模ってとこでしょうか。

いくつかの路線や系統の廃止、減便もあるが、それは後日改めて
※軽微な時間の移動もあります。利用される方はご確認を。

この記事では、「神田旭野線」に新しく新設されるという系統「天徳寺バイパス経由」について。
※「旭野」という地名などはないのだから、「神田・旭野“団地”線」と呼ぶべきだと思う。【19日追記】いや。後述のようにこの路線の変遷を知る者としては、神田土崎線と区別せずひっくるめて「神田線」と呼ぶのがいちばんふさわしいと思う。そのため、当ブログでは原則として「神田線」と呼称し、区別が必要なときは「旭野団地(方面)発着の神田線」などと呼ぶようにしているつもりです。

公式サイトによれば、
206系統 秋田駅西口~天徳寺バイパス~外旭川市営住宅前
207系統 秋田駅西口~天徳寺バイパス~秋田厚生医療センター前
秋田組合総合病院から改称
の2つが新設。

現在の旭野団地線と起終点は同じなので、途中の経路が変わるということらしいが、路線図も途中バス停も告知されておらず、大雑把すぎてよく分からない。
以下は憶測です。

まず「天徳寺バイパス」というのを僕は知らない。
「広報あきた」1996年8月9日付1391号に「明田外旭川線 天徳寺バイパスが8月9日に開通します」というのが出ていて、分かった。
な~んだ。県道233号線、いわゆる「天徳寺通り」のことか。

したがって、現在、狭くてくねくねした道(バイパスに対して旧道)を走っている、
(天徳寺前)-水口(みのくち)-斎場入口-梶の目(かじのめ)-笹岡入口-神田-吉学寺(きちがくじ)入口-(八柳二丁目)
の区間が新経路に代わると思われる。
Googleマップより予想図。青が現経路。赤が予想される新経路
現経路は約1.5キロ、新経路は約1.4キロ。新旧経路でもっとも離れた地点は、笹岡入口付近で直線で250メートルほどか。

両端とも、新旧経路が三叉路状に分岐・合流している。
ストリートビューより天徳寺側の分岐点。下りバスは右折するが、新経路では直進することになる

新しい時刻表を見ると、総運行本数や行き先の別(市営住宅か病院)の変動はない模様。
4月以降も、基本は現行の旧道の経路(市営住宅止まり202系統、病院発着203系統)で、昼間と夜間の時間帯だけ、現経路と新経路を交互に運行(新経路分は現経路のダイヤを振り替え)する形になる。
新経路になるのは、(いずれも始発時刻)
平日下りは9~12、16、19~21時台の各1本。(最終便の21時30分は現経路)計8本。
平日上りは、9~12、17時台、最終の19時台の各1本。計6本。
土日下りは、10~14、16、19、20時台各1本。計8本。
土日上りは、11~16時台の各1本。計6本。
土崎駅発着や県庁経由臨海営業所直通便は現経路のまま。
【24日追記】行き先・始発は、平日17時台、土日16時台だけが207系統秋田厚生医療センター(市営住宅経由)で、他はすべて206系統の外旭川市営住宅。(昼間は市営住宅行きと市住経由病院行きが交互に運行されているから、自動的にそうなるのか)

新経路では所要時間は3分短縮される。(天徳寺前~市営住宅が10分から7分に)


神田線は、外旭川村が秋田市に編入された1954年に運行が始まったはず。今年でちょうど60年か。
外旭川地区の宅地化が進み、昭和50年代には八柳二区発着(現在の八柳三丁目? 運行系統としては廃止)、卸売市場経由・発着(現在は廃止)、さらに旭野団地発着が登場して神田線の主流となり、オリジナルの土崎まで行く系統が激減したりと変化があった。1985年頃には、すわ町~桜町の間で新しくできた市道に経路が変わった(原の町と保戸野八丁停留所を移設)こともあった。しかし、神田周辺で狭い道を通ることは変わらなかった。
梶の目付近。歩道は片側にしかなく、とても狭い(2004年撮影)

笹岡入口に停車する136号車(2004年撮影)
秋田市内のバス路線でも有数の狭い道だし、小学校の前も通るし、積雪時はさらに狭まる。【22日補足】秋田ではもっと狭いバス路線もいくつもあるが、一般車両の交通量の多さとバスの本数の多さを考慮すれば、神田線のルートは相当なものだと思われる。
1996年まではそこしか道がなかったから仕方ないが、新しい道ができて20年近くもそのままだった。
(再掲)
しかし、積雪が増えた時や、この地域恒例の住民総出の除雪作業の日は、バイパスを迂回していたこともあり(その際は、フリー乗降制度になっていた)、“実績“はあった。

今はバイパスと線路の間にも多くの家が立ち並び、新しい道路にバス停があったほうが便利な住民も多そう。(現経路では、裏がすぐ田んぼや山の箇所もあり、沿線人口は頭打ちかもしれない)

時間帯を限って一部だけの経路変更であり、歩くのが大変な人や時は乗車機会が減ることになるものの、歓迎していいことかもしれない。あと、どこにバス停を置くかが問題。※その後、公式ページにバス停名が追記された。この記事末尾参照。
【19日追記】さらに、現在は笹岡入口で運賃が変わる(上がる)。秋田駅からでは笹岡入口までが290円、次の神田から340円と50円も値上がりするのだが、新経路ではこの境界がどこになるか。


ちなみに、「神田線」の由来は、外旭川字神田。小字名が路線の名になるのは珍しい。実は、現在の「神田」バス停は字梶ノ目に所在し、神田地域は路線から100メートルほど離れている。※バス停名は「梶“の”目」表記だが、地名としては「字梶“ノ”目」
新経路では、さらに遠くを走ることになり、“神田”線じゃなくなる気もしてしまうが、それでも神田線は神田線だろう。
上り「神田」停留所(2004年撮影)
旧タイプの接近表示と上屋があり、市営バスらしさを留めている。奥が外旭川小学校。電話ボックスは現在は撤去された。

少々奥まった位置に立つ上り「水口」停留所(2002年撮影)
こちらも以前はバスロケがあり、利用者の多さをうかがわせる。向かいの味のある蔵は、現在も健在だが少々改装されてしまった。
【22日補足】「奥まった位置」と表記したが、正確には、分岐する脇道寄りにポールが立っている感じ。ここだけ脇道よりはやや広く、ちょうどバスが入り込める程度の空間ができていて、ある意味「バスベイ(バス停のための道路の切り欠き)」的な役割があるようだ。

前から言っているように、秋田のバス路線は、新しい道路ができても古い道をそのまま走っていることが多い。
時間短縮や定時性向上、事故防止、バス空白域解消や新たな需要の開拓につながるはずだから、経路の見直しをするべきだと思っている。神田線の新系統開設が、その弾みになればいい。
中型バス限定の神田線だが、新しい経路なら大型バスでも問題ない(道幅としては神田周辺の旧道区間だけがボトルネックだったはず)。神田線の需要を考えれば、大型バスが走るのも夢ではないかもしれない。

そいうえば小学生の頃、社会科見学で市営バスの大型貸切バスで卸売市場へ行った。当時はその道しかなかったから、神田線の現経路を走った。
すると、梶の目辺りだろうか、開いていた窓から沿道の木の枝が車内に入って、葉っぱが飛び散ったことがあった。
今の経路でも、大型バスも、通れることは通れるようだ。

※この後、ダイヤ改正の度に、旧道経由が減便・バイパス経由が増便し、徐々にシフト。2019年10月からは全便がバイパス経由になり、旧道を通っていた旭野団地以外の各系統(土崎駅行き、県庁・臨海営業所行き、東口行き)も廃止されたため、旧道経由はなくなった。
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増税後のバス運賃

2014-03-17 23:20:05 | 秋田のいろいろ
消費税率の5%から8%への引き上げまで、あと2週間。
基本的には、すべての商品やサービスの値段が3%分高くなるわけだ。(そうでないとすれば、企業努力で抑えてくれているか、その相当分の量や質が減らされているか、はたまた便乗値上げしているか)【18日追記】新聞の月額購読料は上乗せされるが、コンビニや駅での一部売りは据え置くところもある。月額のほうが割安でなのは分かるけれど、月額購読者にとっては、一部売りだけ増税の影響がないというのは、なんとなくすっきりしない。

しかし、公共交通機関の運賃・料金は、一律3%分上がるとは限らない。
5%相当の税込みの現行運賃が既に10円刻みで、それに3%分を上乗せすることになるので、端数が出たりしてどうしても公平に一律には上げられない。
国土交通省でも、現行運賃の108/105のアップを原則に、企業としてトータルで8%分の消費税をもらうようにしなさい(つまり、個々の運賃は8%でなくてもやむを得ない)という方針を出しているようだ。

以前、1円刻みになる鉄道の運賃を予測したけれど、明らかになった新運賃は、結局はケースバイケースで、利用区間ごとの運賃表を見ないと分からないものだった。
つまりは運行会社の決定次第で、利用区間によって得したり損したり、客としては不公平が発生してしまう。


では、地方の路線バスはどうなるか。
青森市企業局交通部(青森市営バス)では、昨年のうちから改定案を明らかにしていた。現行運賃170円以下の区間は据え置きで、以降、段階的に10円、20円…と現行を値上げするものだった。

3月に入り、それ以外の状況も分かってきた。
国土交通省東北運輸局が4日付で「消費税率引上げに伴う乗合バス事業者の上限運賃・料金の変更認可について」として、管内各社の改定率をまとめている。
普通運賃の値上げ率をざっと見てみる。きっちり「108/105」の値上げの場合なら、2.857%になる。
青森市営バスは2.845なので、かなり忠実に(誠実に?)値上げしたのがうかがえる。とはいえ、短区間ばかり乗る人はまったく増税の影響を受けないわけで、長距離だけ乗る人には不公平感は生じる。

値上げ率が低いのは、仙台市交通局2.550、ジェイアールバス東北の福島1.424、岩手2.501、青森2.318など。
高いところでは3.0を越えるものも3社あり、岩手県交通3.114、岩手県北自動車3.012、山交バス(山形交通)3.004と、いずれも県庁所在地も走る比較的大きなバス会社。

我が秋田県はどうかというと、秋北バス2.904、羽後交通2.930、秋田中央交通2.976と、わりと高め。青森の弘南バスは2.798。
各社内トータル(平均しての)での値上げ率だから、それぞれの初乗り運賃額の差や長距離路線が多いなど、個々の事情が影響しているはずで、この数字だけでの判断もできないでしょうけど。
【18日追記】弘南バスが低めの数字なのは、青森市営バスと競合する区間においては、市営バスと同じ料金体系に抑えていることが影響しているのかもしれない。


さらに、各バス会社のホームページで、具体的な値上げ方法が告知されている。
羽後交通が7日、秋田中央交通が13日、弘南バスが14日に掲載された。
2009年7月の中央交通の自社の都合による値上げの時は、前日まで値上げ額が分からなかったのに比べると、進歩した。

簡単に一部を比較。表示は「現行運賃:+値上げ額」。※100円バス等例外あり
青森市営(現行初乗り130円) ~170円:据え置き ~520円:+10円 ~870:+20円
弘南バス(現行初乗り160円) ~520円:+10円 ~870円:+20円
羽後交通(現行初乗り150円) ~520円:+10円 ~870円:+20円
中央交通(現行初乗り160円)  160円:+10円 170円:据え置き  ~520円:+10円 ~870円:+20円
まとめてみれば、何のことはない。520円と870円を境に10円、20円上乗せが基本ということか。
バス会社の都合による値上げの場合、「距離に対する運賃額」が変わるので、値上げ前に同じ運賃の区間であっても、そこが値上げ後も同額に値上がるとは限らない(バス停間の距離はまちまちなので)。今回は、距離に対する運賃には手を付けずそのままで、それに増税分が単純に上乗せされる形だから、こういうことになるんだろう。分かりやすいといえば分かりやすい。

その中で特異なのが、秋田中央交通の現行170円区間。同社ではここだけが据え置きになるようだ。したがって「180円」という運賃区間がなくなる。
公式サイト「現行運賃と変更後の運賃の比較早見表」より
ミスプリントじゃないでしょうねぇ?
初乗り区間が拡大(延長)される」と解釈することもできるから、それが狙いか?

秋田駅西口から大町通り~大町五丁目/通町二区~すわ町、秋田駅東口から広面宮田、北都銀行前から東部ガス前~牛島駅入口/卸センター前、通町から旭南二丁目~川元小川町などが170円区間。


秋田市では、中心市街地循環バス「ぐるる」や高齢者コインバス事業は、100円で据え置き。弘前の100円バスの各路線も100円のまま。
利用しやすさを狙ってキリのいい100円に設定したのだろうから、据え置くのも分かるし、利用者としてはありがたい。
でも、100円でバスを使えない人(路線や年齢によって)にとっては、運賃の差が拡大し、不公平感が拡大することになる。

弘前の場合、弘前駅→大学病院~市役所・弘前公園前が、一般路線バスで200円になる。同じルートを通る土手町循環100円バスは、もちろん100円なので、倍の料金差が生じることになる。
※弘南バスでは「買物回数券」に相当するものがないので、昼の時間帯だけ走る100円バスによって、その代替をしていると考えることもできなくないか。

これまでの調子では、予定通り2015年10月には税率を10%に上げてしまうのだろう。それでもなお、100円で行くだろうか。
特に秋田市のぐるるやコインバスでは、100円で足りない分は税金から補填されている形なのだろうし、適正な受益者負担の意味から利用者(乗客)にもう少し多く負担させることも、致し方ないようにも思う。


今回の値上げでは、定期券の値上げ率を抑える所が多いようだ。いずれにしても、遠くないうちにまた10%に値上げさせられるのだろうけれど。
4月以降に利用の際は、よく確認しましょう。

【18日追記】このほか、例えば静岡のしずてつジャストライン(静岡鉄道のバス部門)は、また違った値上げ方法。
値上げ率は2.855%。初乗りの現行160円~現行350円区間までを10円値上げし、360円以上の区間は据え置く。(中心部の100円区間も据え置き)
上記の秋田や青森とは正反対に、高いほうで運賃を値上げしないというやり方だ。
値上げのやり方に対する乗客の心情としては、人それぞれだし、そもそもバス会社側のやり方もそれぞれということか。
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去りゆく列車たち

2014-03-16 20:34:36 | 秋田のいろいろ
15日のJRグループのダイヤ改正(概要等は以前の記事)を前に、秋田では3つの大きな変化があった。
寝台特急「あけぼの」の定期運行終了、秋田新幹線におけるE3系電車の引退(完全E6系化)、秋田県内での485系電車による定期列車の消滅(=秋田発着特急「いなほ」のE653系化)
である。
※この記事では、最終列車の写真等は掲載しませんのであしからず。

誤解がないようにしておきたいのは、
・「あけぼの」は今後も臨時列車としては運転される(いずれにしても先は長くないとは思うが…)
・E3系は山形新幹線では引き続き使われ、秋田新幹線用だった一部が転用される
・さらに、秋田新幹線用だったE3系の一部は、そのままの塗装(「こまち」の表示は撤去)で、東北新幹線盛岡以南においてE5系と連結して「やまびこ」「なすの」として改正後も営業運転している(秋田から仙台へ転属ということか?)
・「いなほ」で秋田まで来るものはすべてE653系化されるが、酒田止まりでは485系の列車も残る
ということ。

秋田でのJRのPR、一般人と報道の盛り上がりは、あけぼのとE3系が圧倒的。あけぼの≒E3系>>>>>485系か。(マスコミは、E3系よりあけぼののほうが優勢か)
大館の駅弁「鶏めし」製造元の花善は、あけぼのの写真入りの掛け紙に替え、以前行っていた車内販売を復活(鷹ノ巣→弘前間)した。秋田の関根屋でも釜めし(掛け紙写真の機関車はEF81ではなく、上野側を担当していたEF64でもなく、EF65形。福島回りだった頃の写真ということか?)を出したり、JRもグッズ(ストラップ類から本荘のごてんまり、さらにはA寝台個室で配られるアメニティセットを限定200個1300円等)や写真集を発売したりした。
あけぼのとE3系の最終列車では、秋田駅ホームでセレモニーも行われた。
「日本海」の時よりもかなり盛大なのは、東京との結びつきの深さ(つまり東京志向)なのか、あけぼのがなくなれば、東京と東北を結ぶ寝台列車がすべてなくなるためか。

青森では、大鰐温泉-石川間の弘南鉄道大鰐線と交差する地点(弘南鉄道が上)において、下りあけぼの通過時に、その上に弘南鉄道のラッセル車を走らせるイベントを行ったとのこと。(先週だか先々週も試みたが、あけぼのの遅延で実現せず)


しかし、485系が秋田に来なくなることについては、鉄道愛好家以外はほとんど気にかけていない。
これは、酒田以南では引き続き485系が残ることや、485系といっても塗装変更やリニューアルで原型と違ってしまっていること、車両が新潟支社の管轄であることが原因かもしれない。
個人的な思い入れでは、485系>E3系>>あけぼの くらいだけど、去りゆくものを静かに送ることにして、見に行ったりはしないことにした。(ほんとうは面倒だったからです)


ネット上の情報によれば、秋田へ来た最後の485系「いなほ」である5号→14号は、リニューアル車(3000番台)の「R28」編成。※秋田新幹線のE3系R編成とは別の、いわば“同姓同名”
2005年の脱線事故で廃車となったR24編成の代替として、新潟で余っていた車両と青森にいた車両を転属させて組成された、最後のR編成。
国鉄色のT18編成でも使うかと思っていたが、いちばん新しい(組成順として)編成を使ったのは意図的なのか、偶然なのか。

ただ、その正面LEDのヘッドマークが、点灯していなかったそうだ。
新潟のR編成では、2011年のR21編成もそうだった。(片側の先頭車のマークが、白い紙状のもので塞がれていた)
R28編成では、
2013年8月に撮影したR28編成
R28編成は、既に昨年8月の段階で両端とも消灯していた。(側面は正常に点灯)
正面の列車名がなくてもあまり困らないかもしれないが、本来あるものが半年以上もないままなのは、いただけない。

秋田総合車両センター(旧・土崎工場)の昨秋の一般公開では、いなほに使われていた485系電車の「T11」「T14」編成が展示されており、間もなく解体されるらしかった。
先週の奥羽本線の車窓から
工場の敷地では、床下機器を取り外された485系が解体を待っている。


「あけぼの」にさほど思い入れがないといっても、やはり報道は気になってしまう。
2月頃から、秋田のローカルニュースや新聞では、いくつものレポートや連載が行われた。
さらに、14日発の最終列車は上りの青森駅発車をテレビ朝日が、秋田駅発着(10分ほど遅れた)をNHKが、15日の下りの大館発着は日本テレビ系(よみうりテレビ「ウェークアップ!ぷらす」)が、それぞれ全国放送で生中継したらしい。どれも見てないですが。


新聞やテレビのレポートからいくつか。
上り最終列車で秋田から酒田まで担当した運転士は、秋田運輸区の日景さん(54)という方だったそうだ。
この方を、朝日新聞秋田版、読売新聞秋田版、NHK秋田放送局が取り上げていた。
朝日は、連載「さよなら東京夜行 あけぼの 秋田とつないだ43年」のうち、3月9日付「4号車(=4回目)ぽっぽや ラストラン 29年の集大成 赤い機関者 操る職人」。読売は連載「青い夢 あけぼの」の3月6日付「(5)感慨胸にラストラン」。
NHKは3月5日初回放送のミニ番組「コトノハ」の「第34章 “大好きな 列車です”」。(「ニュースこまち」内等で何度か再放送あり、ネットでも視聴可)

朝日によれば、日景運転士は、北秋田市出身で大館工業高校卒後国鉄入り。
「弘前市で機関車整備を4年ほど担当した後、「あけぼの」の運転士になった。」そうだが、それだと運転士歴31年、あけぼの運転29年、54歳というのと辻褄が合わない気もするが…
秋田運輸区であけぼのを運転する「最古参の1人」。3媒体とも電車より複雑な操作が求められる機関車牽引の客車列車で、さらに寝ている人を起こさないよう慎重な運転を心がけていることを伝えていた。
NHK「ニュースこまち」によれば秋田運輸区所属の運転士110人のうち、機関車を運転できるのは50人。後進の育成を進めていて、昨年は新たに4人が運転できるようになったとのこと。
あけぼのが臨時列車化されれば、定期列車で機関車を使う列車はJR東日本秋田支社管内からなくなるはず(貨物列車はJR貨物担当なので別)だけど、臨時・団体列車や工事用の資材を運ぶ列車(貨物とは別扱い)などのために、機関車を運転できる人は確保しておかないといけない。


車掌も取り上げられた。秋田魁新報社会面の連載「さよなら夜行列車 寝台特急「あけぼの」廃止」の14日付「下・車掌」。
まず、元車掌の笹元さん(72)という方。国鉄秋田車掌区に赴任した1977年から秋田新幹線開業の1997年まで、首都圏方面の夜行列車に乗務していた。1997年には、上り「こまち」の開業一番列車にも乗務したとのこと。※笹本さんはこの後、2017年のこまち20周年時には、花束贈呈をされた。

「夜行の中で、あけぼのはステータスが高かった。政治家や芸能人も多く、ホテルマンのような気持ちでお客さんに接した。」が、急行「津軽」では、親しく接したほうが「喜ばれた」。
昔は秋田からの夜行列車が多く、「上野の乗務員宿泊所に、秋田車掌区の車掌だけで20人近く泊まっていたこともあった」。(今は「こまち」の車掌として、秋田からそれなりに東京に行っているでしょうけど)

笹元さんは、「昼の特急などの車内放送で(略)車窓から見える名所旧跡を紹介する「名物車掌」として知られた。」
あけぼのでも「今朝の関東平野は、まさにあけぼの、美しい朝焼けでございます」「列車のネーミングにふさわしく、東の空が明るく見えてまいりました」などと放送したという。
それを読んで思い出した。
たしか1993年の急行「津軽」の定期運行としての最終列車の車掌もこの方だったような気がする。当時のテレビで取り上げていた。
さらに、その頃、僕が特急「こまくさ」に乗った時の車掌もたぶんこの方だった。時期は春で、「本日は車窓から、新緑の中に咲くフジやキリの花がご覧いただけます。新緑の色はJR東日本のシンボルカラーでもあります」といったアナウンスをしていて、珍しい車掌さんだなと印象に残っている。

そして、14日の上り最終列車の車掌は堀野さん(57)。(複数乗務のはずだから、他にもいたのだろう)
「19歳で接客担当の「列車ボーイ」から始まったあけぼの勤務」で、(一時期あけぼのから離れた後)28歳から車掌として乗ってきたそうだ。
昔は「列車ボーイ」なんてのがいたとは、初めて知った。(青函連絡船に「ボーイ」さんがいたのは聞いていたが)
詳しくは分からないが、「乗務掛、乗務係」「車掌補」とも呼ばれた車掌の1つ手前の職種だそうで、1970年代中頃まで存在【2016年6月3日補足・正式には1976年10月で廃止。以後しばらくはOBが乗務した場合もあったとのこと】したらしい。(ということはこの方は最末期の列車ボーイだったのだろう)
案内、朝夕の寝台整備(ベッドメイキングと撤収・解体。3段式では上のベッドをたたまないと頭がつかえて座れない)、ドアの開閉(当時は手動式)などを行っていたようだ。客車1~3両に1人の割合で配置されていたそうで、今思えば、なんて効率が悪く、人件費がかかっただろうと思ってしまうが、当時はそんな時代だったのだろう。

ブルートレインの車掌といえば、子どもの頃(1980年代初め)に読んだ学研や小学館の「ものしり百科」の類によれば、ブルートレインには、車掌長、乗客専務車掌2名、さらに朝刊などを輸送していた荷物車に荷扱専務車掌が乗っているということだった。

【17日追記】読売秋田版の連載でも、1日付「(1)寝台特急 最後の合図」で堀野車掌を、3日付「(3)朝の名物アナウンス」で笹元さんを取り上げ、魁とほぼ同じ内容。
すなわち、JR側から各マスコミに働きかけて(売り込んで)実現したのかもしれない。NHKでは、最近では珍しく、走行中の機関車の運転台での撮影(しかも夜間)を行っていたし(もちろん、安全上照明は使えないから、暗い中で増感しての撮影らしく、ざらざらして画質は良くない)。
昨今問題になっている、R研究所のS細胞の疑惑では、疑惑発覚前には女性研究者の研究とは直接関係ない部分(割烹着だとか室内の装飾だとかW大学の学生時代の話だとか)が必要以上にクローズアップされていた。それは、マスコミが興味本位で飛びついたということではあるが、一方でR研究所やW大学側が、マスコミに積極的に取り上げるよう働きかけていたという話もある。マスコミが自分で情報を探すのではなく、当事者の言いなりで取材・報道していたという側面もあるのだ。
そんなことをちょっと連想してしまった。※あけぼのとS細胞は何ら関係はありませんよ

新たに分かったことは、堀野車掌のあけぼの乗務は「月4回ほどのペース」。最終列車は車掌2人乗務ということ。
笹元さんの名調子ではほかに「春はあけぼのと申しますけれども、この列車にふさわしい朝焼けが東の空に見えてまいりました」。1960年国鉄入り、1977年からあけぼのの車掌。「文学好きで、万葉集や古今和歌集を取り入れる車内放送を思いつく。」
名調子から「乗客ら1000組以上の結婚式で司会を依頼された。」
秋田新幹線の「開業約1年半後、定年を数年後に控え、車掌職から退く。」
(以上追記)


戻って朝日の連載記事にひとこと。
一般紙地方版としては、けっこうな頻度で鉄道の記事を書く、朝日新聞秋田総局O記者によるものだったと思ったが、気になるというか適切ではなさそうな表現があった。
そういえば、昨日・今日の紙面にはO記者の記事がなかったはず。乗車レポートでも執筆中か?
ちなみに、東京で秋田版の紙面構成を担当する記者(そういう業務もあるのか)にも鉄道好きの人がいて、あけぼのに乗ったら雪で途中で運転打ち切りになり、そのレポートが載ったこともあった。

まず、「酒田駅に到着すると、次の運転手に交代する。」という文。
一般に、鉄道を運転する人のことは「運転士」と呼ぶのが正式。この連載でも、他は「運転士」で統一されていたが、この1か所だけ「運転手」になってしまっていた。見落としか。

もう1つ。添えられた写真の1つに、運転席に座った運転士が、前方を指さしているものがあった。
そのキャプションは「運転席から「出発進行」の合図を出す運転士」。
これがおかしいというか、意味が分からない。
運転士が、出発進行の合図を出すことなど、あり得ない。自動車に置き換えれば、「運転席に座ったドライバーが、信号機が青になった合図を出す」のはあり得ない(というか意味不明)のと同じこと。

「出発進行」というのは、「出発」という名称の信号機が、「進行」状態=青信号になったという意味。
運転士は、「信号が青になったよ」ということを確認するために、信号を指差して「出発進行」と喚呼するのだ。指差喚呼は自分で確認するためであって、それを誰かに伝えるのが目的ではない。
運転士に信号を青に変える権限などないし、誰かに青になったという合図を送る必要もない。

正しくは、「運転席から「出発進行」の確認をする」とかじゃないだろうか。


そして、ひどいのが、昨日15日付の秋田魁新報社会面。と思ったら、今日の26面の下に「訂正」が出ていた。
実は、今回ばかりは魁に指摘してやったのだ。JRや他の読者からも指摘があったのかもしれないし、それを受けての訂正だったのだろう。
毎度言いますが、記者が間違ったとしても、上司や校閲を行う人さえ見落としてしまうのが情けない。

15日31面では、大きくあけぼのラストランを取り上げていて、男女2名による署名記事。
その中に、「先頭電源車の車体に掲げられた「あけぼの」のヘッドマークは」「最後尾の寝台車の光が見えなくなるまで」という言い回しがある。これは何なんだ!

まず、「先頭電源車」。このような言葉は存在しないし、誤用でも聞いたことがない。まったくの造語だ。
前後の文脈あるいは常識的に判断すれば、列車の先頭でひっぱる機関車を指していると思われる。
あけぼのの場合「電気機関車」ではあるが、「電源車」ではない。電源車といえば、電気を供給する(送り出す)側のニュアンスだが、電気機関車はむしろ、架線から電源の供給を受ける側である。
現代では機関車の存在が稀少だとしても、新聞記者なら「機関車」という言葉くらい知らないのだろうか。じゃあ、この記者たちは「蒸気機関車」のことは何と表現するのだろうか?

しかも、同じ記事中のインタビュー部分では「機関車がブルーの車体をけん引する姿」という言葉があるし、隣の上野発車を伝える囲み記事(共同通信からの配信か?)では「青色の電気機関車「EF64形」が」と妙にマニアックに伝えている。


もう1つは「最後尾の寝台車」。
これは少々解説が必要で、新聞記者が知らなくても仕方ない気もするが、だとしても勉強不足ではあろう。
ブルートレインでは、客車内の冷暖房や照明に使う電力は、ディーゼル発電機で発電してまかなっている。架線もしくは機関車から供給を受けるのではない。
あけぼのに使われる24系客車では、「電源車」もしくは「電源荷物車」というのが1両連結され、列車全体の電力供給を担っている。ホームや踏切でブルートレインが通過する時、大きなエンジン音を轟かせる窓の少ない車両が、先頭(機関車の直後)か最後尾に連結されているのを見たことがないでしょうか。
電源車には、乗客が立ち入ることはできないし、ベッドがないから「寝台車」ではない。(寝台列車に欠かせない車両であるから、広い意味では寝台車の一種と言えなくもないか?)
再掲)下りあけぼの。機関車の直後が電源車
新聞記事にある上りあけぼのでは、電源車が最後尾となる。
したがって、ホームから出発していく上りあけぼのを見送るに当たって、「最後尾の寝台車」ということ自体がウソになってしまう。
あるいは、「電源車を除いた寝台車としての最後尾」という意味だとしても、それだと電源車に遮られてしまって「光が見えなくなるまで」以前の問題。

訂正文では、「先頭電源車」を「先頭機関車」に、「最後尾の寝台車」を「最後尾の電源車」に訂正するとのこと。これなら文句はないが、文章としては回りくどいかも(←結局文句を言ってる)。
日本では機関車は先頭に付くのが原則。あえて「“先頭”機関車」なんていうと、特別に重連(2両目にも機関車がいる)だったり、後補機(後ろから押す機関車)が付いたのかという誤った推理をしてしまう鉄道好きもいるかもしれない。
「最後尾の電源車」は、要は「遠ざかる列車が見えなくなるまで見送った」ということを伝えたい文脈なんだから、それではくどい。単に「列車の明かりが見えなくなるまで」で良かったのではないでしょうか。

ともかく、最終運転が無事に終わったのは良かった。E3系については、後日、間接的な話題を少々



関連で2つ。
快速深浦
今改正では、五能線から奥羽本線青森方面へ直通する快速「深浦」も廃止された。
東奥日報によれば「半世紀近くにわたり古里の名前を冠して走り続けた列車が姿を消すことに住民は「寂しい」と惜しむ。 」そうだ。
14日の下り最終列車では、始発の深浦駅で地元の町づくり応援隊「いいべ!ふかうら」のメンバーが、「ありがとう」などと書かれた横断幕を持って見送りをしたとのこと。

去りゆく名優
14日、俳優の宇津井健さんが亡くなった。1931年生まれ82歳だったので、永井一郎さんと同じ年に生まれて同じ年に亡くなったことになる。
報道では、代表作として「赤い」シリーズや「渡る世間は鬼ばかり」がよく挙げられているようだ。僕は「赤い」は知らないし、「渡る世間は鬼ばかり」は藤岡琢也さんの後任ということで違和感があり過ぎて、しっくりこなかった。

個人的には宇津井さんといえば、テレビ朝日で1988年から1995年まで放送された「さすらい刑事旅情編」。(「はぐれ刑事純情派」と半年ずつ交互に放送。終了後もよく再放送されていたが、最近の秋田朝日放送ははぐれ刑事ばかりで、さすらい刑事はやらない)

鉄道警察隊をテーマにしたもので、ちょうど1987年の国鉄分割民営化で「鉄道公安職員(鉄道公安官)」から各都道府県警察の鉄警隊に制度・組織が変わったタイミングで始まったのだろう。
2000年に若くして亡くなった三浦洋一さん演じる「香取達男」が主役かと思っていたが、主役は宇津井さん演じる香取の上司「高杉俊介」だったそうだ。(タイトルにある「さすらい」をするのは、高杉警部よりも香取刑事が圧倒的に多かったけど)

「さすらい刑事旅情編」には、残念ながら「あけぼの」が登場することはなかった(少なくともタイトルでは)が、「北斗星」はよく出ていた。
「香取ぃ。今夜の北斗星で、札幌へ向かってくれ」という宇津井さんのセリフが、よくあったようなイメージがある(実際にはなかったかもしれませんが)。

あと、「宇津井健氏は神経痛(うついけんしはしんけいつう)」という回文も、宇津井さんあってのものであった。
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高校合格特集

2014-03-13 23:58:48 | 秋田のいろいろ
昨日、秋田県内の公立高校の一般選抜の合格発表が行われた。
秋田では高校入試においても、昨年記事にしたような、全国どこでも同じではなさそうな“風習”がいくつかあり、今年も続いている。
昨年も触れたように、以前は合格者の氏名がテレビや新聞で流れていたので、受験生の家族以外も含めた一種のイベントのような雰囲気があったのかもしれない。番号だけがひっそりと発表される今でも、その名残が秋田魁新報にある。

今日の魁は32面構成で、そのうち13~18面が「高校合格特集」に割かれていた。
13面が表紙
たしか数年前までは別刷り(タブロイド版?)だった気がする。さらにさかのぼれば、合格者名簿の別刷りといっしょになっていたのかもしれない。
「高校合格特集」の中身は、13面が「表紙」、最後の18面が2つの高校の部活動の紹介。残りの大部分(4面)が「県内高校紹介」。
14・15面
今回の合格発表とは関係のない私立高校(県内には5校しかない)を含めたすべての高校に、7センチ×9センチほどの枠を割り振って、高校の紹介をしている。
※中卒者が入学する国立秋田高専や秋田公立美術大学附属高等学院は掲載されないが、両校は制度上「高等学校」ではないためだろう。
【14日追記】一方で、高等学校の扱いではあるものの、中卒者の募集を行わない完全中高一貫校である秋田市立御所野学院は掲載されている。同校には、中学・高校それぞれに校長が置かれ、電話番号も異なるが、紙面のデータではどちらも高校のものが掲載されている。「2年」生の生徒会長のメッセージには「新入生の皆さんと充実した高校生活を送れることを楽しみにしています。」とあるが、これは必然的に内部進学者に向けたものになる。
「高校“合格”特集」としてはどこか辻褄が合わない掲載内容になってしまっているが、御所野学院でも開校当初は高校からの入学者も受け入れていたため、その当時を引きずってしまっているのだろう。学院側、新聞社側とも、記載内容や方法に一考の余地がありそう。(以上追記)

内容は、校訓、校章、校長氏名、所在地、電話番号、創立年、そして生徒会長の顔写真とメッセージ。
校長氏名が出ているものの、退職や異動で入学時には別の人に変わっている場合があって無意味に思えるけれど、生徒会長の名と顔を出して校長を載せないわけにもいかないでしょうからね。
統合で4月に新しく開校する角館高校は、校長氏名は記載なし。所在地は統合後当面校舎が置かれる角館南の所在地、電話番号は現・角館高校のものを記載(4月以降も使われるようだ)。生徒会長メッセージは、現在の(統合前の)角館、角館南両高校の生徒会長が半分ずつ使っていて、きゅうくつだし文章が短い。


気になったのが、創立年。凡例には「創立や開校年(前身を含む最もさかのぼった年次)」とある。
見てみると、秋田明徳館高校は1942年とあり、前身の秋田東高校よりもさらに前身の「私立秋田夜間中学校、秋田県立秋田中学校に附設」された年になっているようだ。
秋田中央高校は大正時代の土崎港町立実科高等女学校 、明桜高校は秋田短期大学附属高等学校までさかのぼっている。(開校時の校名はWikipediaより)

ところが、男鹿海洋高校は2004年、大館国際情報学院高校は2005年、秋田北鷹高校は2011年、能代松陽高校は2013年、横手清陵学院高校は2004年、湯沢翔北高校は2011年、そして角館高校は2014年となっている。
つまり、近年の統廃合で誕生した(する)県立高校は、前身校は無視して、統合時をもって新規開校として扱っていることになる。これでは「伝統を捨てた」ことになる。

過去のしがらみを捨ててということかもしれないが、統合時によく言われる「統合前の各学校の伝統を活かして云々」とは真逆のことに感じる。しかも、角館高校では校章や校歌は統合前の両校のものが残るというのに。
魁は「前身を含む最もさかのぼった年次」を求めたはずなのに、揃って伝統を捨てたということは、各学校でなく県教委の方針なんだろう。

卒業生あるいは地域住民からすれば、いい気持ちはしないんじゃないだろうか。


紙面に戻って。
記事としては学校紹介に大部分が割かれる特集だが、もっと大きな面積を占めるのが、広告。学校紹介の面も含む各面の半分が広告になっている。これがこの特集の本当の狙いだろう。(上の写真も参照)
表紙の13面では、秋田銀行と北都銀行が仲良く半々。14~17面の学校紹介の下は学生服の店を中心に、書店、生花店、大館の美容室、大館の食べ放題の店など。
最終18面は、魁系列の秋田放送と秋田テレビが仲良く半々だが、秋田テレビは「ヤクルトVS巨人戦」、秋田放送は「小椋佳 歌談の会」と、なぜかいずれも6月28日に行われる自社企画事業の宣伝。

学生服店の広告の中で、西武秋田店とともにいちばん大きいのが、秋田市大町の「辻兵(つじひょう)商事株式会社」。
秋田経済界を代表する辻グループの企業で、現在はイー・ホテルの1階の片隅に店を構えている。(1本向こうの茶町通りに別に事務所もある)
かつては、イーホテル向かいの秋田ニューシティ(ダイエー秋田店が入っていたビル)の中に店があった。(ニューシティ自体が、辻グループのもの)
今回の広告では、
「秋田ニューシティ跡地向かい」
「跡地向かい」ってのが、なにか哀しい。自らの過去の栄光にすがっているようで。

産業会館が解体されて何十年も経つのに「産業会館跡地」と呼ばれるのと同じことで、昔を知る人にはそれで通じるが、建物があったことを知らない人には通じにくい。
単に「イーホテル1階」で通じると思うけど。
ついでに地図も、道の太さが同じで、一方通行の向きが記されていない(「一方通行」の文字だけ)など、分かりにくい。あの一方通行路は逆走車がけっこういるんだよね。
※2年後の2016年の特集号の辻兵の広告も、この時とほぼ同じ。

2020年の高校合格特集について。



ついでに、魁の記事から。
3月12日付の秋田市地域面の「冷静な避難呼び掛け 臨港署 土崎港で初の訓練 大津波警報を想定」という記事。
東日本大震災の日に合わせて、秋田臨港警察署が「大地震と津波を想定した避難誘導訓練を初めて実施した。」そうで、「地域住民ら約150人が参加し、(略)秋田港湾公園から津波避難ビルのホテルルートイン秋田土崎まで避難した。」とのこと。

その様子を伝える部分。
「地震の発生後、パトカーはサイレンを鳴らしながら無線で大津波警報の発令とホテルへの避難を呼び掛けた。」
この「無線で(略)呼び掛けた」というのが、僕には理解できない。

目の前に、避難すべき(避難させるべき)人がいるというのに、無線を使って呼びかけるの?
じゃあ、その人たちにはウーウーというサイレンしか聞こえなかったことになる。
その無線を受信する人は誰?
【15日追記】「防災行政無線」というのは存在するが、それは警察が直接使用することはできないし、そもそも秋田市には装置が設置されていない。

憶測だが、「パトカーに車載されたマイクとスピーカーを使って避難を呼びかけた」ことをなぜか「無線で」としてしまったのではないだろうか。
何度も言っているけれど、記者が間違って書いてしまったとしても、上司や整理部の人が気づけないのだろうか。
コメント (3)
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ドアボタンを比較

2014-03-12 23:24:30 | 旅行記
この記事この記事に続く、電車の半自動ドアボタンの話。

まず、秋田地区の701系電車に従来から設置されているボタン。
以前、車内側の「ドア」表示灯の文字が、細めの丸ゴシック体ではなく、太い角ゴシック体のものが存在するはずとしていたけれど。
これ
「N103」編成だった。
 太い「ドア」と多数派の細い「ドア」※ボディの色の違いは撮影条件の違いによるものです
N101~N106編成は、他の編成より1年ほど遅れて製造され、搭載機器が若干異なる。
さらに、N102~N104は一時期仙台に転出して再度秋田に戻ってきた経歴がある。(余談だがN105は秋田→仙台→秋田→仙台、N106は秋田→仙台と異動)
このような時期や所属の違いで発生した差だろう。
【30日追記】ずっと秋田にいる「N101」編成も太文字だった。製造時からの差異ということになりそう。【2018年7月31日補足】100番台と同時期製造の、盛岡や仙台の701系も太文字。


秋田以外のドアボタン。
半自動対応の車両が増えたこともあり、首都圏周辺においても始発駅などでは半自動扱いが実施されている。
東京駅では東海道本線普通列車において2013年8月19日から実施(時間帯限定)しているそうだ。
2月に訪れた、反対側の始発駅・熱海駅でも半自動扱いを実施していた。ホームのLED式発車標では「一部始発列車で車内空調を快適にご使用いただくため」実施すると説明していた。

見たところ、客が近くに乗っているのに開けっ放しのドアも少なくはないが、予想以上に「自分で開けて乗って」「乗ったら自分で閉める」ことが乗客に浸透していた。
どっちみち発車1分前には、すべてのドアが開いてしまうため、半自動による保温効果は限定的なのだが。

国府津車両センター所属のE231系電車「K-13」編成のモハE231-1554。2004年製造。
701系とよく似た車内側ドア周り(よく見ると違いはけっこうあるけど)
ドアボタンの位置も701系と同じようだが、ドアボタン自体は、
701系とは違うけれど、似ていて見覚えがある
男鹿線のキハ40系で半自動改造されたものに設置されているのと、同じボタンだと思う。
701系のものとは、ボタンのある面の角度が異なり、外向きになっている。降りる時に「閉」を押しやすいようにだろうか?
若干薄くスリムになった感じもする。
「ドア」ランプは少し大きくなり、外側と同様に黒地に赤文字で点灯する。ボタンの出っ張りはほとんどなくなり、ボタンはほんの少し大きいようだ。
ボディの色は、701系ではややベージュがかっていたが、こちらはほぼ純白。内装の色に合わせたのか?(キハ40では合っていないことになる)表面の光沢感、質感がやや違う(こちらのほうがツヤがない)気がする。

ボタンの上に貼られた注意書きのシールは、秋田地区701系で新タイプボタンに更新された車両に貼られているのと同じ文面・レイアウトではあるが、書体は異なる。

E231系のドアチャイムは、701系やキハ40系とは違う、柔らかな音色。
ドアの動作との関係も異なり、チャイムが鳴り始めて少ししてからドアが動き始める。701系の2両編成(鳴ってから動く)ほど遅くなく、男鹿線のキハ40系(鳴るのと動くのが同時)ほど早くもないという感じ。
(鳴っている途中に逆のボタン操作をしたらどうなるかは不明)
【2018年10月11日補足】秋田地区のキハ40系のドアボタンは、701系(旧タイプ)よりもバネの力が強いらしく、押し続けていると指が少々疲れる。また、男鹿線で半自動化かつワンマン対応改造された車でも、ドアチャイムが鳴らないものもある。施工時期や工場の違いはなかなか複雑。


E231系をモデルチェンジしたE233系では、仙台で既に導入されていた、ランプ周囲が光る新しいタイプのドアボタンに変更。
中央線快速の豊田車両センターT21編成・モハE233-421。2007年製造
後付けの秋田の701系とは違い、きれいに丸いボタンが設置されている。
縁取りが黄色でなくオレンジ色。中央線のラインカラーに合わせたわけではなく、東海道本線向けの3000番台でも同じようだ。
日に焼けて退色したのか、少しくすんでいるようにも見え、あまり目立たない気がする。
車内側はLEDだけで、色の縁取りはないはず。
【2020年8月18日追記】上の車外ボタンは、ボタンそのものの形状やアイコンも秋田の701系とは違う。これと同じものが、後年、仙台や秋田地区でも採用された


JR東海エリアへ飛んで、静岡電車区の313系2000番台。2006年から導入。
前2両が313系
東海道本線で運用されるが、2両または3両編成が基本でオールロングシートであることなど、701系電車と共通する点も少なくない。(ただしワンマン運転には対応せず、連結して5両とか6両で走ることが多い)※2000番台以外では、2人/4人掛けシートやワンマン対応のものもある
313系2000番台が701系と大きく異なるのは、(東海道本線の線路状態の良さもあるのかもしれないが、)加速性能と乗り心地の良さが両立されていること。【16日補足】701系も加速性能は悪くないが、乗り心地があまり良くない。
普通列車用車両としては最高レベルではないかと、個人的には思う。(これで座席や運用編成数が適切であれば言うことはないのだが…)

この電車にもドアボタンがある。使っていないようだけど。
矢印がドアボタン

車内側
東日本の「ドア」表示灯に相当するものは、それぞれのボタンの上に四角いランプがあり、使える時は両方ともオレンジ色に点灯する。

車内から見たドア周り
車内側の設置位置の高さは、東日本より低くて良い。
ただし、取っ手より外側に、角度を付けずに、開/閉が左右に並んで設置されているので、降り際に「閉」を押すには難易度が高そう。
車内からドアに向かって右側にボタンがあるドアと、左側にあるドアが混在するのも、ややこしい。
JR西日本の車両でもほぼ同じボタンを見たことがあるが、実用的ではない配置だと思う。

JR東海でも、2010年頃からはJR東日本のものに似た、新タイプのドアボタンを導入しているそうだ。地方路線で運用される313系1300番台やキハ25形では、ボタンに縁取りを付けている。東日本では黄色やオレンジ色だが、東海では「あける」を緑、「しめる」を赤で縁取っている。LEDが点灯しなくても直感的にどのボタンを押せば分かって良さそうではあるが、赤と緑の識別がしづらい人もいるから、その配慮としてはどうなんだろうか。



色の違いは別として、現状では、ボタンを大きくして縁を色付けたり点灯させたりして目立たせるやり方が主流のようだ。
タッチパネルが普及したといっても、ドアボタンのような不特定多数が使い、瞬時に単純な操作が求められる場面では、物理的なスイッチのほうが確実で安全で長持ちするだろう。
これ以上、ドアボタンが進化・改良されることはないのかもしれないが、進化するとすればどんなボタンになるだろうか。

【5月14日追記・画像追加】最初の記事で少し触れた、弘南鉄道で後付け改造で設置されたドアボタン。
再掲)大鰐線7000系電車(弘南線の7000系も同じはず)
「ドアスイッチ」というラベルが貼られている。
表面はゴムの質感で、その下が硬いボタン本体。感触は701系の従来のものよりはずっと固くなく、押しやすい。使える時は(たしか赤に)点灯する。車内側も同じボタン(閉めるボタンと2つ縦に並ぶ)。
【5月17日さらに画像追加】
弘南鉄道7000系の車内側ボタン。ドアが開けられる状態
開閉のうち、使える側だけが点灯するようだ。両方点灯してしまうJR各社のものより分かりやすい。【その後2017年頃から、JR東日本仙台支社では、開く側だけを点灯し、閉めるボタンは押している間(瞬間)だけ点灯するように変更された。】
左側ではあるものの、角度をつけて設置しているので、降り際に閉めやすい。

【6月11日追記】テレビ朝日「世界の車窓から」に映っていた、ポルトガルの普通列車も半自動式ドアだった。
まだ新しそうな車両で、JR東日本のものとよく似た黄色で縁取りされた丸いボタンが1つだけ、両開きのドアそのものに設置されていた。LEDが点灯するかどうか、車外側はどうなっているかは不明。
【10月5日追記】イギリス・ロンドンの地下鉄の新しそうな電車にも、丸いドアボタンが、車内外ともドアそのものに付いていた。(テレビで見た途中駅では、ドアボタンを使わずに自動開閉していた)
コメント (3)
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卒業式の歌

2014-03-11 23:55:51 | その他もろもろ
今日で東日本大震災から3年。
3年前ほどではないが、今年も秋田は春はまだ遠く感じる天候だった。
心情は1年前と同じ。まだまだ避難生活を余儀なくされる人がたくさんいたり、原発事故の後始末もできていないのに、オリンピックだ原発再稼働だなんて言っていいのだろうか。



卒業式(卒業証書授与式)シーズン。
卒業式で歌う歌といえば、どんなものが思い浮かぶでしょう?
正統派は「蛍の光」と「仰げば尊し」だけど、今は少数派か。
最近は1991年に埼玉県秩父市立影森中学校の先生たちが作った合唱曲「旅立ちの日に」など、新しい曲が好まれているらしい。


僕の場合、振り返ってみれば「仰げば尊し」は歌ったことがないはず。(高校の記憶が抜け落ちてしまっているけど、たぶん…)
歌ったのは、以下のような曲。
幼稚園の卒園式では「おもいでのアルバム(作詞:増子とし、作曲:本多鐵麿)」。
NHK「みんなのうた」でも放送された「♪いつのことだか 思いだしてごらん あんなことこんなこと あったでしょう」。

曲の発表は古く、1959(昭和34)年とのこと。作詞者、作曲者とも、保育園や幼稚園の園長。作詞者はクリスチャン(キリスト教系の園というわけではない?)だったといい、作曲者はお寺の住職だから仏教系の園だったのだろう。
当初は細々と歌われていたのかもしれないが、「みんなのうた」で1981(昭和56年)から2年連続で放送されて、広まったようだ。その頃には作曲者は既に他界されていた。僕が幼稚園を卒園したのは、まさにその放送直後だった。
※1981年版はダーク・ダックス、1982年版は芹洋子が歌う。どちらも編曲は服部克久だがアレンジは異なる。アニメーションは同じ。両バージョンとも1983年以降現在まで何度も再放送されている(今年はなし)。

「おもいでのアルバム」は長い歌で、7番まである。プロローグ(♪いつのことだか)・春・夏・秋・冬・冬・エピローグ(♪1年中を)という構成。
5番と6番で2回「♪冬のことです」が出てくる。5番は「♪もみの木飾ってメリークリスマス」とクリスマスを祝う情景、6番は「♪寒い雪の日にあったかい部屋で」と冬の日常風景が歌われている。
当初は、6番はなかったそうだ。キリスト教系ではない園にも配慮して、6番が後から作られたという。作詞作曲者が現場を知る関係者ならではの配慮だ。
でも、実際のところキリスト教系以外の園でもクリスマス行事はやっているのではないだろうか。(僕はキリスト教系幼稚園で七五三をやったし…)

みんなのうたでは、時間の都合(いわゆる「尺」)からか1番、2番(春)、7番だけが歌われていた。(鈴木康彦によるアニメーションは、3~6番の歌詞にもちなんだものもダイジェスト的に出てくる。サンタクロースの鼻がでかく、衣装が若干おかしいのが印象にある)
僕の幼稚園でも、園児に全部覚えさせるのは難しいから、どこか端折っていたかもしれない。
ちなみに、「みんなのうた」を含めてよく知られた歌詞では2~6番の歌い出しは「♪○のことです」だが、レコード会社の違いか「♪○のころ(頃)です」という歌詞になっている場合もあるらしい。

最近は「大きくなっても(作詞作曲:柚 梨太郎)」という歌が人気だそうだ。


僕が小学生の真っ最中だった1985年には、「みんなのうた」で「ありがとう さようなら」という曲が放送された。(僕の記憶では「ありがとう・さようなら」と中黒が入っていたはずだが、みんなのうたの公式ページでは半角スペース)ちょうど今月、Eテレで再放送されている。

作詞:井出隆夫(「にこにこぷん」作者・挿入歌作詞)、作曲:福田和禾子(「北風小僧の寒太郎」等多数)と、いかにも当時のNHKらしいコンビの作品。1984年から始まった教育テレビのチョーさんの「たんけんぼくのまち」のテーマ曲もこのコンビ。
歌は、男女デュエットで中井貴一、吉田直子(東京放送児童合唱団)。中井貴一とは、今のNHKとしては「サラメシ」でご活躍のあの中井さんで、当時23歳。
映像は、木造校舎内外のスチール写真を中心とした実写。合成でサッカーボールが飛んでくる(画面上を移動するだけ?)のが、インパクトがあった。

卒業に当たって先生やともだちに「ありがとう さようなら」を伝えるだけのシンプルな内容だが、それは卒業生の気持ちの本質でもあり、いい歌だと思う。言っていることは「仰げば尊し」とほぼ同じか。
これを卒業式で歌った小学校もあるようだ。


この頃から、歌ではなく「呼びかけ」というものを行う学校も出てきたと思われる。
「僕たち」「私たちは」「この学校を卒業します」などと、児童が声を合わせて(あるいは部分的に一人で)発声し、ストーリーを語っていくもの。陣内智則のコントにも出てくる。


僕の小学校の卒業式では、呼びかけはなく(卒業式以外のイベントではやったことがあった)、「卒業式の歌(オペレッタ演奏会形式による)」というのを歌った。これは、知る人ぞ知る卒業式ソング。
以下この曲名は「卒業式の歌」と表記します。(以下参考:「Excite Bit・15分強! 全員参加の壮大な『卒業式の歌』って?」http://www.excite.co.jp/News/bit/E1237218955213.html)

構成・作詞:小林純一、作曲・編曲:西崎嘉太郎で、20年ほど前に刊行された教育研究社「卒業の歌 ピアノ伴奏集」に載っていたそうだ。その後、「行事の歌 ピアノ伴奏集」にも掲載されたが、どちらも絶版になっているとのこと。(作られたのは、それよりさらに以前。昭和40年代には存在したようだ)
ネットで見ると、全国的に卒業式で歌ったという思い出をけっこう見かけ、今年も歌っている学校がちらほら存在する。歌詞とメロディは覚えていても無味乾燥なタイトルで、記憶にない人も多いようだ。
秋田市立では、昭和末期において少なくとも2つの小学校では歌っていた。
【2015年3月7日追記】秋田のローカルタレント石垣正和氏が、卒業式の思い出として、小学校で歌ったことを話していた。ということは、石垣さんの出身地である羽後町の小学校で、昭和40年代(?)には歌われていたのだろう。【2015年9月11日追記】石垣さんは1962年3月25日生まれだとか。となると、小学校卒業は1973=昭和48年度(1974年3月)。

「オペレッタ形式」は訳せば「歌劇」ということになるか。実際には、踊りや振付はなく、ピアノ伴奏による合唱形式。
特徴的なのは、歌詞もメロディも違う複数の曲を組み合わせて構成されており、卒業式に出席する全員が歌う場面があることだろう。
ざっとこんな構成。
プロローグ(全員)「♪うららかに 春の光が降ってくる」
1~3年生「♪仲良く遊んでくださった 6年生のお兄さん」
4・5年生「♪良い日この日 あなたがたは この学校をご卒業」
先生(と父兄・来賓)「♪君たちよ 光は空に満ちている」
卒業生「♪春夏迎える数 六たび」~「仰げば尊し」1番
エピローグ(全員)「♪美しく 春の光が降ってくる」~蛍の光(1番を歌唱後、ハミング)
卒業式の出席者がそれぞれ卒業生を歌で送り、それに卒業生が応える内容。(在校生のパートの後にも、卒業生が「♪ありがとう君たち」「♪さよなら君たち」と応える短いフレーズがある)
さらに仰げば尊しも蛍の光も含まれていて、この歌1つで卒業式で歌うべき歌(国歌、校歌は別として)が済んでしまうのです!
ただし、プロローグ・エピローグ以外はどれも2番まであり、長い。上記参考リンクには、通しで歌うと15分以上かかるとある。

僕の小学校では、在校生で卒業式に参列するのは、たしか4年生以上だけだった。低学年はお休み。【16日補足】3年生以下の総称としては「下学年」かな。
たしか僕が5年生の時に、学校としても初めてこの「卒業式の歌」を歌うことになったようで、その年は、ほぼ譜面通りにそのまま歌った。ただし、低学年がいないため、1~3年生のパートを4年生が、4・5年生のパートを5年生だけが歌うように振り替えた。(最後の蛍の光はなかったかも)

すると、子どもでも分かる問題点が、いくつか発生した。
・低学年のパートを4年生が歌うのは、若干無理がある
・先生のパートになると、とたんに声量が小さくなり、しらけてしまう(1人大声で歌っていた先生もいたけれど)
・内包される「仰げば尊し」の歌詞全般のほか、「六年の学業を終えて」「春夏迎える数(かず) 六度(むたび)」など、小学生には難解だったり、「運動場(→グラウンド)」「この講堂(→式場は体育館)」など実態とそぐわない歌詞がある
・各パートも、また全体的にも、長すぎる

そんな反省点を踏まえて、僕たちが卒業した翌年度は、次のように改善された。
・「1~3年生」「先生」のパートをカット
・在校生は「4・5年生」のパートだけ(つまり譜面の表記通り)で、1番のみ
・「卒業生」のパートをカットし、「巣立ちの歌(作詞:村野四郎、作曲:岩河三郎)」に差し替え
・以上により、大幅な時間短縮を実現
つまり、元々の「卒業式の歌」から残ったのは、プロローグとエピローグ、4・5年生のパートだけということになる。エピローグの割り振りも若干変更された。
「仰げば尊し」を含む卒業生のパートは見る影もなくカットされ、これはもう学校オリジナルの構成といってもいいかもしれない。

それでも、音楽の先生によるピアノ伴奏がたいへんそうだったし、プロローグとエピローグの「♪桜よ かおれ」が秋田では時期的に早くてふさわしくないとも感じる。
エピローグの最後では、「♪お幸せに」「♪さよならさよなら ごきげんよう(淀川さんと小堺さんみたいだけど)」と、卒業生以外の参列者と卒業生が別れの言葉を掛けあってクライマックスを迎えるが、ここは旅立ちにふさわしいいい雰囲気。【12日追記】プロローグとエピローグの「♪良い日よ 良い日よ 良い日よ 良い日よ 良い日今日は」はちょっとしつこい。


「卒業式の歌」は、全国的に散発的に歌う学校が存在する(もしくは存在した)。特に昭和40~50年代には盛んだったようで、熊本、島根、福井、長野などではわりとメジャーだったような情報もある。
僕の小学校のように、部分的なカットや歌詞の差し替え(学校に合わせた“替え歌”など)、さらに呼びかけの挿入が行われることも少なくないようだ。
僕の小学校のように、初めて歌ったのが昭和末期というのは、遅いほうだろう。今思えば、その前後の年に音楽専科だった先生が退職されたり、別の音楽の先生が担任を外れて教務主任になり、さらに教頭・校長が代わったりといった異動があったので、そんなことが関係していたのかもしれない。
卒業式で歌った歌でいちばん印象に残るのが、小学校での「卒業式の歌」だった。

【2024年11月10日追記】2024年11月10日放送のテレビ朝日「ナニコレ珍百景」で、ゲストの伊集院光(1967年、東京都荒川区出身)が、自分の学校では歌ったが、他校では誰も知らない歌があったとして、「卒業式の歌」の下学年パートと先生パートを歌ってみせた。自分のラジオ番組で話したところ、全国から5件ほど、知っているという声が寄せられたとのこと。ナニコレの字幕では「おそらく「卒業式の歌(オペレッタ演奏会形式による)」」と補足あり。


中学校では、送る側は「蛍の光」、卒業生は「巣立ちの歌」。
「巣立ちの歌」は「♪花の色 雲の影」が歌い出しで、1965年の作。当時(昭和末期~平成初期)ではわりとメジャーだったはず。
小学校でも歌ったので代わり映えしなかったのと、比較的淡々とした歌詞で、あまり強い印象に残らない曲かもしれない(悪くはないけれど)。

上記の通り、高校の卒業式はまったく記憶にない。
2年生の時の担任が「うちの高校の卒業式は『お涙ちょうだい』ではない式で、こういうのも悪くない」と言っていた記憶はあるので、淡々としたシンプルな式だったのだろう。
以上、思い出話でした。(尻切れとんぼ)
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