広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

太平川・才八橋工事 '23.6

2023-06-08 21:00:53 | 
秋田市楢山地区の東端、秋田南中学校裏手の太平川に架かる、奥羽本線(秋田新幹線)の橋のすぐ上流で、河川付け替え工事とそれに伴う「才八橋」の架け替え工事が行われている。
2022年8月の後、行かないでしまっていた。今回は2023年4月始め~6月始めにかけて(期間中大きな変化なし)の状況。

才八橋は、上流側から新しい橋・古い橋・仮橋の順。
2022年8月は、新しい橋は橋自体はほぼできていたが両岸に道路が接続していなかった。Googleマップストリートビューを見ると、2022年10月時点でも未接続。
古い橋は、本体は撤去され、岸とつながる橋台周辺の骨組みのような部分だけが残り、それも間もなく撤去されようとしていた。仮橋はその役目を果たしていた。

現在は、
北岸(東通館ノ越)
中央が古い橋のあった位置で、跡形もなくなっている。
そして、左の新しい橋に道路が接続されたばかりか、供用が始まっていた。ニュースにならなかったと思うが、渡り初め式などもなかったのだろうか。銘板は「令和4年3月完成」とあり、道が繋がっていない時期。車道も歩道も、従来以上で充分な幅で、車道には破線のセンターラインが引かれたが、歩道は上流側のみ(旧橋も上流側のみで、わりと広かった)。
右の仮橋は役目を終えて封鎖。

南岸(楢山太田町)
川の流路が、以前の南隣に付け替えられた。前回は大雨の直後でもあり、ぐちゃぐちゃで、ポンプで排水されるなどしてよく分からなかった。
現在は、旧橋跡より上流側では、旧流路だった北側が橋のレベルまで埋め立てられている(それによって新橋と道路が接続された)。土が露出しているものの、見た目はすっかり「北岸」で、ここが川だったとは分からない。

新しい才八橋の上流側。右奥は「明田富士山」
新しい橋のすぐ上流・北側の旧流路跡には、「樋門」というのだろうか水が流入してきそうなゲートが造られた。以前もこの位置にあったがもっと簡素な見た目だった。
土が見えている部分が、旧流路跡


今後撤去されるであろう仮橋。川が蛇行しているため、仮橋の下流側では真横から見ることができる。
仮橋下流。左が北岸
仮橋下流側は、流路付け替えは未着工のようで、旧流路が埋め立てられずに淀んでいるような箇所がある。
古い護岸の残骸のような物が。これより左が旧流路?

両岸から橋への取付道路。
南岸
南岸の道路は、旧橋時代から小さなカーブはあった。
新しい橋では、橋に入ってすぐのポイントで、橋自体が左に少しカーブしている。


突き当りで丁字路となる北岸。
下流側から
上の写真奥(上流側)、旧流路跡を埋めた部分が広く、道路は狭い。
上流側から。白い車の位置が橋
「工事予告」看板が出ていた。
新しい橋の北岸・上流側のこの区間(100メートルもない)が、「取付道路工事のため」2023年6月26日から8月10日まで、「終日全面通行止」とのこと。
この部分を拡張でもするのだろうか。

看板には「お急ぎの場合は迂回して、ご通行願います。」と書いてあるけれど、全面通行止めなのだから、お急ぎでなくたって、迂回必須なのでは?
それに、ここを車で迂回しようにも、迂回路はかなり遠回りになってしまうはず【9日補足・迂回路は例示されていないが、踏切と、すれ違いが大変なさらに狭い住宅地経由が、距離としては最短か】。
【9日追記・通行止めになるのは秋田市道だが、秋田県発注の河川工事の一環として行われるため、秋田市ホームページの工事情報には掲載されないようだ(別のページや広報等では告知されるかもしれない)。秋田県は例によって工事情報公開に消極的だから、ひっそりと通行止めされることになってしまいそう。】

今年度分の河川改修工事全体としては、2023年12月7日までの工期となっているが、例によってまだまだ続きそう。またいつか続く。
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井川橋と井川橋

2022-08-19 19:40:10 | 
2020年9月のアップしそびれていた記事。秋田県南秋田郡井川町(いかわまち)の話題。
井川町は、秋田市の北の潟上市の北、八郎潟(八郎湖)に面する自治体。
秋田市から国道7号で向かうと、井川町に入る直前の、潟上市飯田川飯塚で国道285号が分岐し、それぞれ井川町に入る。7号は引き続き、JR奥羽本線と並走するように西側(八郎潟)側を、285号は東側を進む。
285号沿いには、井川町を代表する大規模な公園「日本国花苑」があり、そこを過ぎると田んぼと住宅が交じる風景。国花苑の先で、橋を渡る。
南側

北側
グレーのトラス橋。上部が盛り上がっていない「平行弦トラス」。
長い橋という印象はなく、トラスが連ならない1つだけだが、最近の単純な桁橋と違って、存在感がある。また、道路と川の交わる角度の都合なのか、トラスが道路に対して斜めの配置になっているようで、ちょっと個性的。

東側歩道から北方向。正面奥は森山
橋の下の川は、こんな川。
東・上流方向
橋に比べると小さい川。

この橋の名前は、
「井川橋」
実はこの下の川の名前が「井川」。

つまり、井川町の町名の由来は、この河川なのだと思う。恥ずかしながら、この時まで川の存在すら知らなかったのですが…
ちなみに、元は「上井河村」「下井河村」(いずれも「いがわ」と濁るらしい)が合併して、1955(昭和30)年に井川村が発足、1974年に井川町となった。

橋の名前としては、「井川に架かる橋」の意味かもしれないし、285号では井川町でおそらく唯一、そうでなくても最大の橋だから「井川町にある橋」なのかもしれない。


国道285号は、県管理の国道。
「秋田県 橋梁長寿命化修繕計画(2019年1月秋田県建設部道路課)」によれば、1982年竣工、橋長70.0メートル。2027年度に修繕予定。

井川は二級河川だから、やはり県管轄。
「馬場目川水系井川」となっているようだが、馬場目川とは直接つながっていない。八郎潟干拓以前はつながっていたのかもしれない。【23日追記・八郎潟も河川の一部ととらえて、一体的に馬場目川水系としているようだ。】
井川町ホームページには「(町は)出羽丘陵に源を発し八郎潟残存湖に注ぐ井川(全長11.6km)に沿って拓けている。」とある


井川は東から西へ流れ、井川町はそれに合わせた横長の町。
285号の井川橋は、河口から3.6キロほど。そこから西には、川沿いに集落が続いているため、橋が多い。JR奥羽本線や国道7号「浜井川橋」もあるが、ほとんどが井川町道の小さな橋。
その1つが、浜井川橋の1つ上流に架かる。立地的に、昔は主要道路だったのかもしれない。河口から約2キロ。
下流らしく、幅いっぱいに流れ、水量は多め
川の名前はもちろん、
「井川」

そして、橋の名は、
「いかわばし」
※橋名板で「~はし」でなく濁る「~ばし」なのが珍しい。しもおもかげばしきゃらばしもそうだった。

なんとこちらも「井川橋」!

「井川町橋梁橋梁長寿命化修繕計画(2020年3月井川町産業課)」によれば、町道「今戸飯田川線」に架かり、橋長30.0メートル、幅員6.6メートルで、1964年架設。2010年に改修工事は終わっており、高欄(欄干)も更新されている。


同じ自治体の中の同じ河川に、同名の橋が存在する。異橋同名。
管理者が異なり、距離も離れているとはいえ、取り違えや混乱が起きてしまわないか、気になる。「町道の」「国道の」と“枕詞”を付ければいいのだろうけれど…

現役の橋は、町道のほうが古いが、それ以前に架け替えた可能性はある。だとしても、町道のほうが歴史がありそう。
国道の井川橋を造る時、県なり国なりが気付けなかったのか、あるいは町から申し出て違う名前にしてもらうとか、できなかったのだろうか。

同様に、秋田市下新城笠岡の新城川に、県道秋田市道にそれぞれ「笠岡橋」が存在した事例もあった。現在は河川付け替え工事により、市道の橋が廃止された。ほかに、一般道と高速道路の間なんかでありそう。【23日追記・秋田自動車道の橋も「井川橋」とのこと。】
時折問題提起する政治家がいる(けれどなかなか解消されない)、二重行政とか縦割り行政の結果の1つではないだろうか。全国にたくさんあるのかもしれない。

井川町のバス停の話題
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太平川・才八橋工事 '22.8

2022-08-15 19:52:56 | 
2020年9月に、太平川・才八橋付近の河川工事を取り上げた。秋田市の楢山地区の東端、秋田南中学校裏手の、奥羽本線(秋田新幹線)の橋のすぐ上流。
河川管理者の秋田県による、洪水対策として河川を付け替える工事だが、その影響で市道の才八橋も位置が変わってしまうので架け替えられる。
前回アップ後、2021年までは数度現地へ行って、大きな変化はないように見ていた。最後に行ったのが2021年10月で、その後、行かないでしまっていた。

秋田市の広報で、お盆明けからこの工事による交通規制が始まる(後述)ことを知って、重い腰を上げてきた。
(再掲)才八橋(赤い○)周辺のGoogleマップ航空写真。左が下流方向
工事は、才八橋で北に蛇行している太平川を、すぐ南側へ付け替えて、直線化するらしい。
橋の架け替えとしては、旧橋の下流に仮橋を架け、工事初期から供用中。旧橋は撤去されるも、北側(東通館ノ越)はちょっとだけ残して、プレハブ小屋と仮設トイレが置かれていた。新しい橋は、旧橋の上流に架かるらしかった。仮橋は、新旧流路両方の土地にまたがって架かるため、新・旧両橋よりも長いことになる
ここ数年は、新しい流路を掘って造りつつ、新しい橋が橋脚からでき上がっていた。
広報に出ていたのは、「旧才八橋の撤去工事」なので、残っていた北側がまもなく撤去されるはず。

では、2022年8月の現状。
南側(楢山太田町)から。左が仮橋

北側から。左が新しい橋の橋台、右が旧橋の残骸、さらに右が仮橋
新しい才八橋は、すでに橋桁が架けられ、高欄(欄干)も設置。路面舗装はまだのようだが「床版」は敷かれていて、そこに旧橋の残骸から移設されたのかプレハブが置かれる。
橋単独ではおおむね完成か
ただし、南岸では橋台と地面に大きな段差があり、北岸橋台は旧流路跡に面した絶壁と、今は橋だけできた状態。新城川の付け替え工事でも、こんな感じに橋だけ先に造っていたようで、そのほうがやりやすいのだろう。

仮橋北寄りから上流方向
旧橋の下は旧流路。水が流れなくなった。
残っていた旧橋からは、路面・床版や高欄などが撤去され、橋桁の骨組みだけみたいな状態。
左から新・旧・仮の才八橋

そして、新流路に水が流れていた。
仮橋から上流。この時点では大雨が一息ついて、ほぼ通常の水量
上の写真左奥で、川がせき止められたようになっているのは後述。
左に振って北側橋台
新しい橋のすぐ下流に、平らな土地ができている。やがて道路がつながって、旧橋が撤去されると、最終的にはこれが新しい流路の右岸堤防ということになるのだろうか。
2020年9月の状況
↑この時点では、新流路造成中で、橋は橋脚のみ。護岸は凹凸が目立っていたが、今は上に土がかけられたようで、特に北岸は露出していない。

上流から
上記の「川がせき止められたようになっている」部分は、写真奥、橋脚手前の赤い↓。そこにホースが入っていて、おそらく新流路へ水を出している。
上の写真では手前側↓でも、川をせき止めている。つまり、この区画は通常の水量では水がたまらないはずだから、先日からの記録的大雨で、新流路からあふれてたまったのか。
また、上流側の川幅と新橋の幅からすると、この区間も最終的には新流路の一部になるのではないだろうか。工事の都合で、仮に陸地化するのかも。

旧橋撤去工事の規制予告看板
8月16日から9月6日まで終日片側交互通行。

こんな具合に、ゆっくりとではあるが、着々と工事が進んでいる。いずれまた続く
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旧・新川橋'22.3

2022-04-04 22:54:21 | 
【5日記事タイトル変更・初回アップ時「旧・新川橋の今」だったタイトルを、「旧・新川橋'22.3」に変更しました。】
あまりお伝えできずにいてしまっていた、新川橋の話。※最後は2021年2月
秋田市の川尻と新屋(勝平・割山)との間の、秋田運河(旧雄物川)に架かる、秋田市道 川尻新屋線「新川橋」。
1963(昭和38)年に造られた(当時は県道)トラス橋(一部桁橋)の、上流側すぐ隣に、新たな桁橋が架けられ、2021年3月27日から供用されている。ちょうど1年経った。

新しい橋の川尻側

新橋完成後の工事の流れとしては、先代の橋の撤去・解体をすることになるが、増水など川の季節変化に合わせて施工する必要があるそうで、進みは遅いのが通例。
2022年11月30日まで。「上部工」だから、橋脚など下部工はこの後行なうようだ

現時点でも、上の写真の通り、トラスがそのまま残っている。のだが…
先代橋の川尻側たもと
橋の桁の部分が、とてもスカスカしている。自家用車で通ると見えないかもしれない。
かつて「道路」というか「床」だった部分がそっくりなくなっていて、橋桁そのものがむき出しになっている。
上の写真右手前にあるコンクリートの塊が、親柱。親柱の左側にすぐ歩道、そして車道があったのだが、今では桁との間に距離ができて、ぽつんとたたずんでいる。

以前も書いたが、新川橋の構造は、長さのすべてがトラス橋ではなかったようだ。
橋脚は、川の真ん中ではなく、川尻寄りに1つだけ。川尻側の岸(橋台)から橋脚までは、トラスがない桁橋だと思われる。橋脚から勝平側橋台までが、トラス橋。したがって、上写真は桁橋部分。
川尻側橋台を真横から
橋桁がむき出しなると、それが水色~青色なのがやけに目立つ。道路があった状態でも、横のほうから見れば、水色であるのは確認できた。
上写真で、桁の橋台近くに、四角いものがある。
銘板
「1963年9月 秋田県建造」「建示(1955)二等橋」「製作 汽車製造株式会社」
いちばん下の数字と記号の羅列は、鋼材の種類のようなもの、「二等橋」は当時あった耐えられる重さの基準のようで、県道・市道は二等橋が基本だった。
メーカーの「汽車製造株式会社」。蒸気機関車から新幹線0系電車まで製造した大手鉄道車両メーカーで、ほかにも橋梁なども手がけていたとのこと。1972年に川崎重工業に吸収合併された。

川中央方向へ進んで、橋脚。
ここから先・勝平側がトラス橋
トラス橋部分も、道路が撤去されて、桁がむき出し。
現役当時↓は、歩道のアスファルトの中にトラスが埋もれており、トラスの下辺は見えなかったのが、今は露出。
(再掲)現役当時。左が今の新川橋

橋脚とトラスの接続部

勝平側は橋台にトラスが接続
桁の色は、川尻側の桁橋が水色、勝平側のトラス橋部分は濃くて青。日当たりによる色あせや、途中の塗り直し作業の違いだろうか。下流側から見た限り、勝平側には銘板はなかった。

旧橋は、道路がなくなって、身軽なったわけでもなく…
トラスの上辺の一部に足場が組まれている
緑色の新たな橋桁のようなものが、勝平側からトラスの半分ほどの辺りまで置かれている。
勝平側から。かなり大きく長い
また、桁橋部分や橋脚の接続部のすき間にも、小さな緑色の鉄材らしきものが置かれていた。

ここから素人の憶測。
橋というものは、橋全体でバランスを保って、その重さに耐える構造のはず。解体する時、テキトーな場所をバキッと壊したら、そのバランスが崩れて、全部が一気に崩落してしまうことさえ、ありそうな気がする。
だから、丁寧に道路を撤去しているのかと思ったが、あえてまた重いものを載せてしまうとは?

調べたら「架設桁工法」という橋の解体方法(架橋でも使う?)があるようだ。緑のが架設桁か。
橋のもともとのトラスや桁が担っていた重さを、架設桁が受け持つことで、解体の安全性を高めたという感じかな。橋の下に、支えの仮の橋脚などを造る必要がなくなるメリットもあるようだ。
川尻側上流側から。雪融けで若干水量が多いかな
この後、いつかはトラスも姿を消してしまう。
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“すずらん橋”消滅?

2022-03-23 23:12:32 | 
秋田市の川反の風景をご存知のみなさま。この写真は、旭川に架かるどの橋か、お分かりですか?
下流側から

大町三丁目と大町四丁目の間の市道の「三丁目橋」。橋から西へ向かう一方通行で、川反の一角をなす歓楽街・すずらん通りの入口でもある。
遠景の写真でも、見覚えのある三丁目橋と違うと思われるかもしれない。

秋田市では、ここ何年もかけて、老朽化した市道の橋を順次、段階的に長寿命化する改修工事を行っている。
架け替えるのではなく、構造はそのままに、徹底的に見た目も中身もきれいにするといったところ。
工事前後では、塗装の色が変わったり、まれに高欄(欄干、手すり)など部分的に新品に交換されたりはするが、基本的には以前の橋がそのままきれいになったと感じられるものだった。保戸野・千秋の「新中島橋」では、昔ながらの低くて外向きに反り返った高欄が残った。


2021年度は、三丁目橋がその改修の対象となり、このほど工事が終わった(看板表記の工期は18日までで撤去済み)のだが、過去に工事された他の橋に例がないほど、以前と違う橋になった。
以前の姿は…
(再掲)2009年。上流側・北都銀行本店前にあった歩道橋から
長さ24.5メートル、幅5.5メートル、中央部が外側にせり出したバルコニーがあるという構造は、例によって変わらず。

まず変わったのが、道路の下の部分=橋桁の見た目。
以前は、桁の上(外側)に【24日分かりにくい言い回しを修正】桁そのものを隠すように、外側に白い正方形のパネル(色合いなど後述の親柱と同じか?)が貼られていたようだ。2009年の写真ではだいぶ汚れている。
工事後
今回の工事で、パネルが撤去されて、金属の桁がむき出しになったようで、少し軽く薄くなったように見える。桁は薄い小豆色のような塗装。何かの配管が張り巡らされているのが、かなり目立つが、今まではパネルで隠されていたのか。

高欄は、以前は角張ったこげ茶色のものだった。高さは充分あって問題ないはずだが、今回、似てはいるが、やや丸みを帯びてメタリック感のあるものに交換された。

親柱と橋名板。
3月初め撮影
↑工事で高欄が外されている。その外側に囲いはあるので川には落ちないが、無人で人が通れる状態なのに、これでは、ちょっと心もとないかも。

桁のパネルと同色と思われる、等間隔に横線が入った白い親柱。西側は純粋な直方体で、橋名板は川に対して垂直向きなのに対し、東側は橋名板のある面が斜めにカットされた四角柱。接続する道路形状に合わせているようだ。
橋名板は手書きと思われる毛筆の縦書きで、上写真の左岸上流側が「三丁目橋」、下流側が「旭川」、右岸上流側が「平成二年三月竣工」、下流側が「さんちょうめはし」。


それらが今は…
親柱は形はそのまま(同一の物かは不明)で、黒くなった。横方向に細かく不規則な横線と凹凸がある。
橋名板は別物【24日追記・石→金属】になり、色合いで親柱と一体化して見える。表面が白く粉をふいたように見えるところがあるのは、まだなじんでいないためか。

文字は、「三丁目橋」「さんちょうめはし」だったところは、
 
どちらも「三丁目橋 Sanchome Bridge」。
「旭川」は、
「旭川 Asahi Riv.」
そして竣工年月は、
「平成二年三月竣工」日本語のみ

横書きに変わって、英字入り。秋田市の橋名板で、英字が併記されるのって初めてではないだろうか。(横書きは先例多数)
ひらがな表記がなくなってしまったが、それはいいのだろうか。漢字やローマ字は読めなくても、ひらがなは読めるという人だっているのに。

日本語は行書体系の活字。フォント名はシステムグラフィの「GMA行書B」。
聞かないフォントだけど、どこかで見た気もする(「丁」のハネかたとか)。こういう公共の表示で使われるのかも。
でも、横書きに変更しながら、毛筆体にするというセンスは、個人的には理解できない。ユニバーサルデザインのフォントでも良かったのでは。


橋の上にも、変化がたくさん。
(再掲)2014年

工事後
まず路面。
以前は、車道部分は普通のアスファルト舗装。歩道とするには狭すぎる路肩は、ピンク系のタイルが敷かれていた。
工事後は、車道がやや狭く・路肩がやや広くなった。【24日追記・車道幅は橋の西側に立つ「すずらん通り」ゲートの幅に合わせてあるようで、合理性はある。】
路肩はピンクのカラー舗装で、車道は石畳っぽく見せたカラー舗装。最近の秋田市はレンガ風カラー舗装がお好きで、この近くの川反通りでも今年度工事が行われたが、石畳スタイルは初めて見た。
別に、バルコニー部分は、白っぽい石畳風舗装がされている(下に写真あり)。
まあ、見た目としては悪くないけど、こうまでする意味は…

中央部のバルコニー。
以前は、道路との境界を示すかのように、円柱の上部がドーム状になった、白っぽい車止めが、片側に5個ずつ並んでいた。
工事後
工事後はそれがなくなり、ベンチが1つずつ置かれた。
車止めだとつまづいたり、雪に埋もれることもあったかもしれないし、カラー舗装でも境界が分かるという判断もあったかもしれない。
座って川を眺めるのなら、ベンチはもっと外側(川側)にあればいいが、それだと境界区分の役目にはならない。でも、ここだと道路側に足を投げ出して座った人(酔っぱらいなど)が、車にひかれたり、ほかの通行人を引っ掛けて転ばせたりしないかも心配。
また、両側とも、バルコニー(=橋)のど真ん中ではなく、やや左岸(上の写真では右)側に寄った位置にあるのが不思議。ちょうどベンチの西端(=後述の照明の立つ位置)が橋の真ん中だと思われる。
【24日補足・三丁目橋の2つ下流で、少し新しい五丁目橋(車歩道ともずっと広い)にもバルコニーがあり、当初からベンチがある。】


変化はあと2つ。
(再掲)西側から
「さんちょうめはし」の橋名板あった親柱の上に、両面電気時計が設置されていたのがなくなった。
時計はセイコー製で、文字盤は12・3・6・9だけのローマ数字。夜間は内側から光る。
止まっているのを何度も見たし、JRでも地域によっては駅の時計を撤去する時代。別に駅・バス停でも公園でもない、小さな道路の橋に、時計を設置し続けるのは、今は意味が低いことは理解できる。個人的にはまれに役に立ったこともあったのだけど、なくなってもしかたないだろう。

そして最後。橋の中央両側にあったものが、別物に変わってしまった。
(再掲)左右はお盆の精霊流し
特徴的な形の街灯・照明が、ありふれたシルバーのものに変わってしまった。LED化などはあるのだろうが、これが三丁目橋のいちばんのシンボルと言えるものであったので、惜しい。
以前の照明は、1基につき4灯の花形の灯具がぶら下がっていた。「すずらん通り」にちなんで、スズランの花がモチーフ。
照明、時計とも、柱は抹茶のような緑色。僕は、三丁目橋には「白と緑」のイメージがあったのだが、親柱・桁と照明・時計の影響だったようだ。


全体を通してみると、架けられた時期がバブル最盛期であったことを裏付ける、まさにバブリーな橋であったかもしれない。今の姿が、これからさらに何十年も使い続ける三丁目橋にふさわしいとは思う。
一方、三丁目橋が架け替えられた当時は、すずらんの照明や新しい橋への期待(先代の橋は太鼓橋の欠陥構造物だった)から「別称「すずらん橋」とも呼ばれ」たらしい。(秋田県広報誌「あきた」336号1990年5月1日)僕は聞いたことはないけれど。
ここが秋田市を代表する街・川反の一角であり、「すずらん橋」とさえ呼ばれていたのなら、スズランを跡形もなく消し去ってしまっていいのかとも思う。
石畳舗装をするくらいならば、路面にスズランの柄を入れるとか、高欄や親柱・橋名板にスズランのレリーフなどを付けるとか、そういう形でスズランを残すこともできたのではないだろうか。


【4月8日追記】4月8日付 秋田魁新報 秋田市地域面に「スズラン形の街灯ひっそり消えゆく」が掲載。ネット版限定記事としては3月下旬からアップされていた。
商店会が設置管理する、道路部分のスズラン形街灯が、老朽化でなくなった(※)こととともに、三丁目橋にも触れていた。秋田市道路維持課のコメントとして「さまざまなメーカーに新しくスズラン形の街灯が設置できないか問い合わせたが、良い返事は得られなかった。今後の維持管理費を考え」て、汎用品としたとあり、秋田市としては、いちおう努力はしたようだ(街灯がダメなら銘板とか路面とか高欄とか、思い至らなかったのか)。

※商店会の街灯は、故障と落下等のおそれがあり、2021年末にシンプルなLED街灯に交換。ただし、点灯しない状態の、部分的にスズランの形を留めるものが6つ残っているとのことで、紙面の「姿を消した(なくなった)」は若干、気が早いかも。
沿道の店舗の中には、LED化で明るくなったと歓迎する声、特に感想はないとの声もあり、地元の人たちがそれでいいのならば、もういいのかもしれない。
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新中島橋の貝

2021-04-25 23:08:13 | 
秋田市中央地域の東側、保戸野金砂町と千秋中島町の間の旭川に架かる市道「新中島橋」。
秋田工業高校と秋田北高校の間の橋、奥羽本線の旭川橋梁の1つ下流の橋と言えば、通じる人も多いはず。

新中島橋に対して「旧中島橋」などがあるわけではない。おそらく、昔「新中島町」があったので、それが由来なのか。あるいは江戸時代に旭川が付け替えられた一帯なので、その関係もあるのか。由来についてはこれ以上追求しないでおきます。
※たもとには旭川の水位観測所があり、少し下流にはお城への抜け穴伝説がある。
ただし、秋田市内には新中島橋とは無関係の「中島橋」がある。このずっと上流、仁別。旭川に、支流の仁別川が合流する直前の橋で、バス停の名前になっている。仁別字中島という地名。
さらに別の「新中島橋」もある。正しくは「仁井田新中島橋」で、その名の通り仁井田字新中島所在。古川かな。

旭川の新中島橋へ戻って。
秋田市の資料によれば、1968年架設、橋長40.8メートル、幅員5.5メートル。ただし現地の銘板では「昭和44年3月竣工」と1年ずれている。

1970年代架橋が多い市道の橋の中では、やや古い部類。
秋田市道の橋で毎年少しずつ行われている改修工事では、早期に対象となり、2017年頃までにリニューアルされた。
秋田市のこの工事では、高欄(欄干)などは改修以前と同じ物を使い回すのが原則になっているようで、新中島橋も以前のままきれいになった。
改修後の新中島橋。奥の丘は千秋公園の北の丸
※今回の写真は2018~2020年に撮影したものですが、現在も変わっていないはずです。
立派な親柱があるのは、このサイズの橋にしては珍しい。改修前は表面が汚れて割れてボロボロだったのが、真っ白になった。
高欄は低めで、橋の外側に向かって反り返ったデザイン。雪が積もるなどすれば、落っこちそうで少々怖い。現在の国の基準では、このタイプの高欄は認められないはず(改修で交換されるかと予想したのに)。
親柱、高欄とも1960年代の橋ならではのものと言えよう。

もう1つ、古い橋らしいのが、路面。
こんなの
アスファルト舗装ではなく、コンクリート。それも表面に無数の小石が埋めこまれたもの。
この分野について知識がないけれど、道路ではあまりないタイプだと思う。コンクリートって砂を混ぜるのだと思うけど、代わりに小石を混ぜたの?? 裸足で歩いたら気持ちいいか痛いか。

この路面も、改修前後で変わっていないのだが、上の写真に、石じゃないものが埋まっているのにお気づきでしょうか。
白くて大きいもの

貝殻?
白に、薄く黒っぽい横縞が入った、二枚貝のようだ。
小石に混入していたのだろう。海の石を持ってきたってこと? 海の砂をコンクリートに混ぜると、塩分で耐久性に問題があると聞いたことがあるけど? よく分かりません。
10円玉と比較
ヒビが入り、一部穴が空いているが、現状でも貝殻だと認識できる
石よりは柔らかい貝殻が車に踏んづけられ、酸性気味の雨や雪に50年もさらされているのに、原型を保っているのがすごい。周囲の石よりは若干、背が低い(より深く埋まっている)ので、荷重があまりかかっていないのかもしれない。

それなりに車が通行し、橋の両側はカーブと坂で見通しがよくないので、貝殻を探す時は気をつけて。
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新川橋の隣の水中

2021-02-15 21:02:29 | 
秋田運河に架かる「新川橋」の架け替え工事が進んでいる。
昨年秋(この記事その続き)と比べると、確実に進んではいるのだろうけれど、目立った変化はなく、供用開始はもう少し先=2021年度のどこかになるだろう。【18日追記】15日の秋田建設工業新聞サイトにちょうど出ていて、「来月に供用を開始する予定」つまり2021年3月。間に合う?
【19日追記】秋田市の月間行事予定によれば、3月20日11時から「新川橋供用開始式典」が川尻側で行われる。
【3月12日追記】秋田市の週間予定によれば、供用開始は3月27日の予定。式典と1週間差があるとは珍しい。
現状。勝平側から。左の下流側が新しい橋。接続部は未舗装
今回は新しい橋のことではない、かといって現行の橋のことでもない。

現橋の上流側の歩道からの眺め。
運河は奥右から。左からの旭川と合流
旭川合流点直下には、渡し舟跡があり、中洲には春先にウミネコが集結していた。今はカモ類すらいないようだった。
さらにその下流、写真手前、橋のすぐ上流。
川尻側から

上の写真で見えるものを、真上の橋から

川中央付近
流路方向に飛び石のようなもの並んだものが、川尻側岸寄りから中洲直下にかけて、3セットほど見えた。飛び石ではなく、丸太を埋めた「杭」のようなもののようだ。頭はギリギリ水上に出ないくらい。
ズーム
日本の河川は、冬に水量がいちばん少なくなるそうだ。ここも水位が低下して、かつ晴天だったので、川の中がよく見えたのだろう。秋田運河の水はいつも濁っていて、水中を見たこと自体初めて。
ウミネコの記事で、中洲と別に枝が集まった浮島のようなものができていたが、それは流木などでなく、この杭に枝が引っかかっていたのかもしれない。
(再掲)手前に浮島。この時は水中は何も見えない
杭の正体。勘のいい方、もしくは前の記事を熟読いただいた方なら、察しがつくでしょうか。

現橋より前の新川橋の橋脚(の名残)に違いない!
勝平側の水中にもあるかもしれないが、そちらは水深があって見えないのかもしれない。

以前の繰り返しになるが、新川橋は1892(明治25)年に初代の木橋が架橋。今のトラス橋は1963(昭和38)年にできている。
初代は秋田運河ができておらず、雄物川本流に架かっていた。地形図を重ねると、現在の橋のすぐ上流側にあり、河川敷が広かったので今より長い橋だった。1937年に雄物川放水路と秋田運河が完成。
木橋の耐久性も考えると、初代の橋が昭和まで使われ続けたのではなく、少なくとも運河化の時にも1度架け替えたのではないかと推測していた。つまり、今のトラス橋は、2代目ではなく少なくとも3代目。
川尻側から。電線の下付近が旧橋
水中に見える橋脚は、いかにも木橋のそれ。位置的には明治の初代の橋と重なる。ひょっとしたら初代のもので、勝平得之の版画に描かれた橋脚だったりするかも… でも、版画で描かれていて確認できる橋脚は、1か所につき4本ささっていて、その回りに支えの丸太が付いており、今回の跡とは一致しない。いつのものなんだろう。

こういうふうに水中に、撤去された橋の橋脚だけ残ることはままあると聞く。雄物川放水路の雄物新橋の横にもあるそうだ。
旧新川橋の橋脚跡は、一般には知られていないが、河川管理者(県)や船で通る人(いるのかな?)などは知っているのだろう。歴史、土木学などの分野における資料価値としてはどんなもんなんだろう。

一部だけとはいえ、3世代の新川橋が上流から下流に向かって隣り合って並んでいる。
新しい新川橋が共用されれば、トラス橋は撤去されてしまうわけで、少なくとも今のように歩道の真下に橋脚を見ることはできなくなる。
それ以前にトラス橋撤去工事時にジャマになり、木橋の橋脚まで撤去されてしまったりする可能性もあるかも。反対にトラス橋も橋脚だけは残って、引き続き3世代並ぶ可能性もあるか。

※新川橋の続きは2022年4月
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新川橋架替2

2020-10-28 00:01:25 | 
前回の続きで、秋田市の秋田運河(旧雄物川)に架かる「新川橋」の架け替え。
前回最後のように、今は新しい橋自体はもうできてしまったけれど、それに至る過程を簡単に。
2018年5月。左岸(勝平側)から
両岸から鉄板で囲まれた「島」状のものが造られ、クレーンなどが入っていた。
上の写真、手前側の島の先端部を見下ろすと、
深い穴の中に柱?(右側底のはしごに人がいる)

2018年9月
橋脚ができていた。穴の中は橋脚の基礎だったようだ。
向こう、川尻側はまだ囲まれたままだけど、
中に橋脚ができつつあった

勝平側の岸から
2つ上の写真の橋脚より岸側にも、橋脚のようなものができていた。岸と接続する「橋台」。
Googleマップ航空写真より。下が勝平
道路からは分かりづらいが、勝平の岸は、運河の中に“岬”のように突き出した部分から橋が伸びていた。
新しい橋も同じようになるらしく、工事のためにいったん掘り返して、橋台を造ったのだと思う。
2019年2月。埋め戻された

同じく2019年2月
橋脚が2つともでき、向こう川尻側の橋台も完成。工事用の島はなくなり、これで足回り(?)はでき上がったようだ。

なかなか行く機会がなくて、
2019年11月
もう橋桁が組み上がっていた。

旧橋から手が届きそうな距離(届きません。落ちます)
少し写っているが、前回の通り、今の新川橋の橋名板(川名板?)では、秋田運河や旧雄物川でなく「雄物川」とされている。

この後、1年弱の間に橋桁の上に路面ができて、舗装などもされて、今に至る。
現在。新旧新川橋の競演
新しい橋のほうが、路面はわずかに高い。
新しい橋を外側から。今だけのアングル
今のところ、新しい橋の路上に特別な装飾などは見当たらず、シンプルになりそう。よく見るタイプの照明と高欄だが、高欄は光沢感のあるメタリックな塗装で珍しい。

全体の流れとしては、20年前の秋田大橋の架け替えと、よく似ていたと思う。


ところで、両岸の道路との線形のこと。
川尻側。国道7号・若葉町交差点から
若葉町交差点からはやや左に現橋が見える。左(東・上流側)に緩くカーブして橋に入る。
新しい橋はその右側だから、今よりは直線に近くなりそう。
勝平側
※写真左の建物は舗装会社だが、新しい橋の路面工事は、同社を含む共同企業体が落札している。
勝平側には、無名のY字路がある。橋を渡ってくると左右というより、直進と左へ分岐する。
今は直進するのが自然な動線だし、道も広い。新屋西線のルート。でも、その直進路ができたのは1985年頃(その少し前から道はできていたものの、実質行き止まりだったようだ)。

それまでは、今でいう左側の狭い道しかなく、それが県道であり、旧羽州街道であった。
旧道側から。橋方向からこちらへ来る時は、信号に関係なく左折できるが、歩行者は横断する場所がない
川尻側よりもきついカーブで橋とつながっていたことになる。

前回の通り、今の橋より前の新川橋もあったから、それとの架け替え時の結果なのか、あるいは運河ができる前、渡し舟があった頃の名残りなのかもしれない。
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」で、明治末期と現在の地形図を重ねてみた。
モノクロが明治。線が描かれた部分が当時の川(運河になる前の雄物川)
黄色い線が今の新川橋のルート。白いのが初代新川橋で、赤で印を付けたのが、その橋の両端。
昔は川幅が今より広かったが、橋がとても長かった。今の倍近い。【11月5日追記】「秋田市文化財イラストマップ秋田市八橋・川尻地区編」によれば、「全長288m」。地図で読むより長かったようで、現橋97.85、新橋98メートルと比べると、実にほぼ3倍。
たもとは、川尻側はあまり変わらず、今の新川橋バス停の辺り。勝平側では、今のY字路を越えてパチンコ屋の前くらいまで橋だった。川本体というより河川敷が広かったようだ。【28日補足・つまり上の写真のY字路辺りはまだ河川敷で、道路よりやや右に橋が伸びていた。】
初代新川橋の位置は、今の新川橋のわずかに上流側。川尻側から来ると、今よりも少しきつい左カーブだった。当時は臨海バイパスなどなく、若葉町交差点部分で交わる道はなかった(東側には池らしきものがある)が、その箇所で道路が少し角度を変えて、そこから橋まで一直線。
一方、勝平側ではまっすぐに羽州街道(今のナイス付近)へつながっていた。
運河築造前後の資料が分からないので、また違うかもしれないけれど、いろいろな経緯があって、今の道路形状になったのでしょう。
新しい橋の勝平側では、交差点の構造も変えないといけなくなることだろう。となると、供用はもう少しかかるかな。

続き、以前の新川橋に関する話はこちら
コメント (3)
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新川橋架替

2020-10-27 00:55:07 | 
現在、秋田市内では才八橋のほかにも、架け替えが行われている橋がある。2017年度辺りから工事が始まっていたのだが、取り上げそびれてしまっていた。

その橋は、
「新川橋」

以前は県道65号だったが、今は秋田市道で、国道7号「若葉町」交差点南の川尻地区と、新屋のいわゆる勝平地区を結ぶ。
秋田運河(旧雄物川)に旭川が合流した直下で、橋上流の中洲にウミネコが集結すること、新川橋ができる前にこの付近に「芝の渡し(新川の渡し)」と呼ばれる渡し船があったことを取り上げた。

1892(明治25)年に初代新川橋が架かって、渡しが廃止。その当時は、秋田運河・雄物川放水路がまだなかったので、この川が雄物川本流だった。
秋田市の版画家・勝平得之が、初代であろう新川橋を描いている。「秋田十二景 新川ばし」で、1936(昭和11)年作。木製の橋の下で、岸で漁や釣りをしている。
運河・放水路は、その翌年1937年完成。

熱心に探したわけではないが、現在の橋の以前の新川橋については、得之の版画以外には、諸元や写真といった資料を知らない。
後述する新聞記事見出しからは、現橋が、新川橋として初めての鉄橋(鋼鉄製の橋という意味)と受け取れる。ただ、運河化によって川幅や周辺道路は変わっていると思われるし、木橋の耐用年数を考えても、現橋の前の木橋は、明治時代の初代とは違う2代目だったのではないだろうか。

ということで、たぶん3代目ではないかと考える現在の新川橋。県道だった時代で秋田県が架橋したはず。
現在の管理者である秋田市のサイト(ページ番号1007309)で、諸元を掲載してくれている(秋田県庁ならやらないでしょう)。
それによれば、市道 川尻新屋線、1963(昭和38)年架設、橋長97.85メートル、幅員12.5メートル(歩道を含むかは不明)。【2021年2月18日追記】2月15日付秋田建設工業新聞によれば、「橋長97.85m、トラス部の幅員が14.58m」。
上記の通り、今の橋は架橋時から「秋田運河」もしくは「旧雄物川」に架かる橋なわけだが、橋名板では「雄物川」とされている。そういう慣例なんだろうか(運河の他の橋は未確認)。
勝平側・上流側から

勝平側。離れてズームすると、トラスの丸みが出て雰囲気が変わる
種類としては、下路式のトラス橋。※以下、橋の構造については、素人の受け売りです。
トラスは1つ(1径間)だけ。トラスの形状としては「曲弦ワーレントラス」か。
戦前製の先代秋田大橋木曽三川の橋のような、重厚なトラスではなく細身。

この橋とつながる勝平地区の反対側、雄物川放水路のほう(こちらは今も県道)には雄物新橋が架かる。雄物新橋も、現在の橋は1963年竣工。雄物新橋のほうが長く、複数の形が異なるトラスが使われているが、大きなトラスの形状は新川橋とそっくり。設計・製造・工事を2橋でまとめたのかもしれない。

現在は、新川橋も雄物新橋も、トラスはクリーム色。子どもの頃(昭和末~平成初期?)は色が違った。雄物新橋はオレンジ色っぽい赤だったはず。新川橋も今とは違う気がするが、あいまい。

秋田運河は堤防の道がなく、ギリギリまで建物が多いので、外側から新川橋の姿を見られる場所は限られる。私有地や危険な箇所もあるし。
右岸(川尻側)上流から
写真では影と、新しい橋の脚も写りこんでいて分かりづらいのだが、橋脚の配置が意外だった。
橋脚は1本だけだが、橋の中央でなく、川尻寄りにある。その上がトラスの根本という感じ。
つまり、トラスは勝平側の岸の「橋台」と、橋脚で支えていて、橋脚から川尻側の橋台の間は桁橋ということなんだろうか。97.85メートル全部がトラス橋という構造ではないのだと思う。
単に設計施工上有利だったのか、本荘の由利橋のように下を船が通ることを考慮したのか。
【30日画像追加】左岸上流側から


新川橋を通る道は、今は幹線道路とは呼べなくなったかもしれないが、市民生活には重要な橋。
路線バスは新屋西線と川尻割山線が通り、歩いて行き来する人も多い。雄物新橋と違って歩道も狭くはない。

さかのぼれば、新川橋の重要度はさらに増す。
初代、運河化以前は、秋田市内では新川橋が唯一の雄物川を渡る橋だったはず。
運河化されて勝平地区が「島」になってから長らくは、新川橋、雄物新橋、新屋水門だけが、外とつながる道だったはず(もしかしたら戦後すぐ頃は違ったのかもしれない??)。
1961年から1981年までは、勝平(割山)に秋田空港があった。秋田市街地と空港の行き来に、新川橋が欠かせなかったことだろう。
上で少し触れた新聞見出し。1962年5月9日の秋田魁新報夕刊に「秋田空港へ舗装道路/川尻ー空港/新川橋も鉄橋に」。
つまり、今の新川橋(と雄物新橋も同様なのだろう)に架け替えられた大きな目的が、秋田空港のアクセス道路だったようだ。

1969年に、秋田運河2本目の港大橋(1976年に車線が増えて新港大橋になったようだ)が開通するが、向浜側なので勝平とはほぼ関係ない。
1980年代中盤以降、放水路河口に雄物大橋、運河に勝平新橋が開通。今は臨海大橋もできて、新川橋の負担はいくらかは減ったものの、身近で重要な橋には変わりない。

そんなわけで、老朽化した新川橋を架替えることになったのだろう。
新しい橋は、仮橋なしで旧(現)橋のすぐ下流側に造る方式(当初の計画では仮橋と聞いた気がする)。秋田大橋も、旧橋のすぐ下流側に今の橋が架かったので、手順としては同じ。

新しい新川橋は、橋長98メートル、有効幅員14.6メートル。【2021年2月18日追記】2月15日付秋田建設工業新聞によれば、「橋長110.3m、幅員16m(車道W9m、歩道W3.5m×両側)」と、だいぶ違う。
現橋は川尻新町~新屋豊町間だが、新しい橋は川尻若葉町~新屋天秤野になるそうだ。これは、橋が架かる道路が町の境目だったためか。

ちなみに由利橋は、旧橋175.6メートル、現橋190.5メートル。仮橋を使って、以前とほぼ同位置のはずなのに、なぜか伸びた。
仮橋なしの秋田大橋は、旧578.4メートル、現583.6メートル。どのケースも、近年架けられた新しい橋のほうが若干長くなる。
これは、技術に限界があった昔は、極力短くて済む2点間に架けようと検討した結果なのだと思う。今の技術ならどうってことないことや、取り付け道路の線形の都合があるかも。

前置きが長くなってしまいました。取り上げないでいる間に工事は進み、1か月ほど前・9月下旬時点では、
勝平側
新しい橋がもうできている!
川尻側
この時点では路面の舗装は途中。高欄(欄干)、照明など設置済み。秋田の海沿いの橋定番の、冬の強風を防ぐ板もある。橋名板はまだないかな。
下流側・勝平新橋から
新しい新川橋は、トラスなどない、ただの桁橋。現在の技術をもってすれば、秋田大橋だって桁橋にできたのだから。
桁は水色(秋田大橋に似ているが、あちらは緑が強く、こちらは水色に近い)。橋脚は等間隔に2本。
工事看板
この時点での工事看板は、今年11月までに終わるものだが、既存の道路とつなぐ工事は手つかずだから、供用はまだ先だろう。と言っている間に、また進んでしまいそうだけど。
今の新川橋を通行できるのも、長くはないだろうし、この橋がなくなれば、秋田市内からトラス橋がまたなくなることになる。運河下流の秋田臨海鉄道の橋も、鉄道自体が廃止されようとしているし。残るトラス橋は、勝平新橋やJR羽越本線・雄物川橋梁、雄物川上流寄りの雄和地区にちらほら程度。

これまでの工事の状況など、後日
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太平川・才八橋工事

2020-09-13 17:01:49 | 
アップしそびれていた話題。【2020年10月27日カテゴリー変更。アップ当初は「秋田の地理」としていたのを「橋」に移しました。】
秋田駅から南へ1キロ強、秋田南中学校の裏から羽越本線と奥羽本線(秋田新幹線)を越えてすぐの辺り。地名としては楢山の東端。「明田富士山」や一つ森公園のふもとを流れる太平川に「才八橋(さいはちばし)」というのが架かっている。
おそらく秋田駅からいちばん近い、太平川の橋かと思うが、場所も橋もマイナー。「才八」の由来は不明。

その才八橋と周辺で工事が行われている。
太平川は、秋田市平野部で蛇行が多く、才八橋付近でもカーブしている。洪水対策のため川の付け替えが行われ、そのために才八橋も架け替えるということのようだ。
太平川は県管理なので秋田県による工事で、それに連動する橋架け替えなので、市道だが県発注。新城川ほど大規模ではないものの、同じ感じだと思うが、例によって県による情報発信が少ない。
Googleマップ航空写真に加筆。太平川は右から左へ流れる。赤い丸が才八橋
才八橋のところで北へ湾曲した川を、南側(左岸・一ツ森公園側)をまっすぐ通る流路に付け替えるということらしい。奥羽線の橋付近はそのままの模様。

一連の工事は2018年6月頃に始まったらしく、まずは(旧)才八橋のすぐ下流側に仮橋が架けられた。
この一帯は、曲がった川、迫った山、線路に囲まれた土地が住宅地になっていて、その中を狭くて曲がりくねった道が伸びている。川を渡るには才八橋が実質唯一のルートなので、通る車はそこそこある。
2018年10月右岸側から。右のクレーンの位置で仮橋建設中
旧才八橋は、周りの道路に比べれば広く、上流側だけに歩道があった。※橋の前後は歩道なし、見通し不良で、歩行者は歩きづらい。
旧橋は、高欄(欄干)はガードレール代用の簡素なもの。
秋田市の資料によれば市道「太田沢本線」で、1975年架橋の鋼橋、長さ45.0メートル、幅10.0メートル。思ったより新しい。
才八橋右岸。橋から来ると突き当りの丁字路

明朝体の橋名板
道路の線形の都合か、右岸接続部が面取りされたような構造になっていた。橋名板は変わった位置(面取り部に当たる、橋本体の外側)に付いていた。
左岸側。ひらがなは「さいはちばし」と橋が濁音

川が移ることになる左岸側は、この時点で既に工事の関係で接続部に手が入っていたようだ。
ちょうどこの頃、2018年9月で才八橋を渡る築地経由の小型バス路線が廃止されている。
着工前の才八橋は、左岸側で歩道が少し広くなっており、渡り終えた橋とつながる道路で一転してとても狭くなっていた。その狭くなる直前の場所(橋の上ではない)に下り側「才八橋」バス停が置かれていた。なお、上り側はもう少し先のほうにあった。

以上が、看板によれば、「迂回路・仮橋工事を行っています」「流域治水対策河川工事」として2019年2月までの工事。
現地訪問を丸1年、放ったらかしていた。2019年10月には、
仮橋が供用されているが、右岸に旧橋の残骸
旧橋のうち、右岸の岸から最初の橋脚までの部分は、橋桁が残されていた。もちろん封鎖されているが、微妙な長さの橋が残り、ツタがからまった「止まれ」標識も残っているのが哀しい。
いずれこの部分は川でなくなるはずだから、今、川の中で橋脚撤去工事をするより、水がなくなってからやったほうが安上がりなのかもしれない。あるいはこの部分を撤去してしまうと、誤進入・転落防止の工事が手間になるからかもしれない。さらに、残した橋自体にも使いみちがあった。最後に出てきます。
仮橋左岸から
仮橋も、上流側にのみ歩道。相変わらずガードレール高欄(仮橋ではよくある)で、渡る分には以前の橋とほとんど違いがないかも。歩道はわずかに狭くなったが、車道との境にもガードレールができて安心。
上の写真右側、上流側の仮橋の中間付近に、コンクリートが見えている。おそらくここが、旧橋のたもと(橋台ってやつ?)。それより手前側(=旧橋時代は陸地だった部分)が工事現場風。当時は分からなかったが、この部分が新しい川になる。
仮橋は、新旧流路をまたぐことになるので、旧橋より長く、新しい橋は仮橋よりは短くなるのだろうか。
橋台と手前側が新しい川になる部分

仮橋から上流方向。奥の丘が明田富士山
旧橋の上流側は、新たに手が入って整地されている。新しい川の堤防か?
その整地された旧橋左岸上流側の岸辺の土地は、少し前の時点では何もなく、草木が多少生えた程度。ただ、旧橋詰の道路際(下りバス停付近)に、塀の残骸のようなものがあった。1994年までの航空写真を確認すると、この土地に細長くて赤い屋根の建物が4~5棟建っていて、1999年には空き地になっていた。昔は何かがあったようだ。

再び右岸から
上写真左・旧橋のすぐ上流の対岸に、真新しいコンクリートとクレーンが見える。コンクリートは土中に埋もれているが、新しい橋の橋脚っぽい。新しい橋は、旧橋の跡でなく、その上流側に架かるのだろうか。これも付け替え・旧流路の後処理などの都合なんだろうか。
この時点での工事看板。旧橋上から仮橋側に向けて設置
ここまでが、2020年1月31日までの「橋梁下部工工事を行っています」「流域治水対策河川工事」。

その次はあやうく1年空いてしまいそうになって、今年・2020年7月に訪問。
旧橋、仮橋には目立った変化なし。新流路予定地は工事が進んでいた。
右岸側に2020年7月31日まで「橋を作る為の工事用道路を製作しています。」「大規模特定河川工事」という看板があった。
左岸側は2020年10月30日まで「橋を作る為の護岸工事を行ってます」「大規模特定河川工事」。「~行って“い”ます」でないのがなれなれしい。
昨年度までは流域治水対策河川工事で、今年度は大規模特定河川工事。一連の工事のはずなのに、違うのが分からない。いずれも「橋」に言及しており、河川付け替えより、まずは橋を架け替えるのが目的のように感じてしまう。
仮橋から。左端が切断された旧橋の残骸先端
クレーンがいなくなり、旧橋の左岸側橋台も撤去。昨年埋もれていた新しい橋脚が、掘られて下まで見えている。
仮橋をさらに進めば、間近に見られる。
新しい右岸となる護岸ブロックの設置が始まっていた
渡り終えて左岸から振り返って、
旧橋の上にはプレハブ小屋と仮設トイレ。その使い方もあったか!
新しい川の姿が分かるようになってきた。こうなると見ておもしろい。
右岸に戻って、
明田富士山ふもと側から下流方向
さらにその後、9月時点では、上の写真でブルーシートだった新左岸にも、ブロックが設置されつつあった。雨水が流れる(あるいは今の本流から少量流れこむ)のか、工事が休みでも排水ポンプが動いていた。

最近たまにある強烈な大雨が降ると、あふれそうになる太平川。まだ何年もかかりそうだが、この工事によりある程度は改善され、流域住民も多少は安心できるようになるのかもしれない。そして税金を投じる工事である。
毎度の繰り返しだが、秋田県は、工事の状況、それ以前に工事をしていることそのものを、もっと積極的に周知というより宣伝してはどうだろう。県政への理解が深まると思うだが…

以上、着工から2年間をざっとまとめました。いつかまた続きます。→次は2022年8月
あと、才八橋周辺の昔のことを少し調べたら、それも興味深かった。それから秋田市では、もう1つ橋の架け替えが進んでいる
※川や橋以外の周辺の話題はこの記事とさらにその続きにて。
コメント (4)
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手形陸橋全面開通3

2019-12-15 00:52:12 | 
11月17日に全面開通した、秋田市の手形陸橋の続き・補足。(直近の記事
開通当初は、まだ未完成に思われる点があった。その後、
・親柱の橋名板類の下に、何か(揮毫者名?)の表示板を埋められそうなくぼみがある。
→現時点で変わらず。

・歩道外側のパネルに、メモ書き入りの養生テープが複数貼られたまま。
→11月30日~12月4日頃の間に撤去済み。

・本体とらせん階段下り口との接続部側面にすき間があり、ロープを張って対応。
→11月30日~12月4日頃の間に、既存の2本並行の手すりをL字型に延長。ロープ撤去。
西側線路側。これで問題はなくなった
ただ、細かい点を指摘させてもらうと…
ネジ穴や接続部に傷というか改造された痕跡【15日補足・写真左が既存部、右側に延長している】
おそらく、開通時には手すり末端にあったキャップのような部品を取り外し、そこに新しくL字型の手すりをつなげている。その作業の跡。
こうなるということは、部品手配が遅れたのではなく、設計ミス(すき間の存在を忘れていた)ではないだろうか。
上の写真と同じ西側線路側

東側の線路側

西側の線路と反対側

東側の線路と反対側
増設された手すりとらせん階段との間のすき間が、4か所でそろっていない。
東の線路側は、らせん階段と延長分が数センチ重なっていて、すき間がないのに対し、西の線路反対側では数センチすき間が生じている。
別段危険な状態でもないし、らせん階段だから微調整が難しいのかもしれないが、そうだとしても、すき間の差が激しすぎるのではないか。やはり、完成後にあわてて追加したため、こうなったのでは?

・らせん階段踏面が、セメントだけのような、物足りない感じ。しかも、西側には縁(角)に赤い帯があるのに、東側では何もなくグレー一色。
→11月29日までに東側にも赤帯を設置(上の写真参照)。東西で見かけは統一された。
しかし、踏面自体はそのままで、降雨や雪融け後、水が完全には流れずに残ってしまっている。こんな階段ってあるっけ?
踏面中央部が水鏡になっており、うっすらと水がたまっている
やっぱり中途半端に思える。水が流れるように傾斜をつけるとか、滑り止めの部材(「===」みたいなの)を付けるべきではないだろうか。
【18日追記・その後、18日までに東西とも階段の赤帯が撤去された! さらに動きがありそう。この記事前半にて。】

変化はここまで。
以下、追加の話題。
前回、東側らせん階段では、外側向きの高欄の上に、網状の金属板が新たに設置されたとした。
(再掲)改修前の東側らせん階段

現在の東側らせん階段
ご覧の通り、網が設置されたのはらせんのごく一部であった。いちばん上付近・陸橋上から降りてすぐの部分だけ。
どういう目的の網なんだろう。
階段から周囲の家をのぞかれないような目隠しかと思ったが、
網だから透けて見える
仮に目隠しだとしても、もう1つ下にもあったほうがいい。身を乗り出したり物を投げたりさせないためならば、線路側にも・西側にも必要だろうし。日除けや風除けが必要なほどでもないだろうし。謎。


手形陸橋のすぐ東側には、「手形山崎」バス停があり、さらにすぐ「手形山崎町」交差点がある。
秋田駅西口から陸橋を渡って来た下り側バス停は、交差点で左折する路線と直進する路線があり、直進する路線は車線変更が大変そう。
一方、これから陸橋へ向かう、西口方面上り側バス停。
現在の上り側。奥の信号が手形山崎町
以前は市営バス設置の元2代目バス接近表示付きが設置されていたが、陸橋の工事に先立って撤去・ダルマ型にされていた。地中化された電線のトランスボックスの所にあり、Googleストリートビューによれば2012年10月、2015年8月にはこの状態であった。
上の写真の逆・交差点側から陸橋方向を見ると、
奥がバス停。手前は?
手前の柱は、警察管轄の交通状況の感知器のもの。その根本周辺の歩道が、薄れているが白線で囲まれている。これは何?

実は、全面開通の直前(というか開通翌日の11月18日も)は、ここにバス停があった。※後日再撮影しようと待っていたら、移動されてしまったので、ボケた写真を掲載します。
分かりにくいですが、右が感知器の柱
点字ブロックもちゃんとここにあり、開通後にポールと点字ブロックが移動した。
上の写真で、柱に「バス待合場所」という表示が出ている(現在は撤去)。といっても、上屋やベンチがあったわけではなく、あの白線の枠のことを指していたと思われる。
秋田では他にそのような事例はなく、ここだけ。
手形陸橋から手形山崎町に向かって、下り坂で勢いがついたまま、スピードを充分に落とさずに進んでくる自転車があったと思われる。ちょうどその位置にこのバス停があるため、乗客がバラバラに待っていては危ないので、立つ場所を指定していたのではないだろうか。(でも、その理由なら移設後もあってもいいか…)

バス停が感知器柱そばにあったのは、おそらく、手形陸橋が北側の橋を通行止めにして南側の橋で対面通行していた2017年春以降だったと思われる。道路の線形や追い越し、脇道の出入りを踏まえると、トランスボックスの位置では危険だったはず。一方で、仮の位置では交差点にやや近く、それはそれで多少危ない(秋大方面から右折して来たバスは、右折後すぐにバス停に寄せないといけない等)ので、開通後は元に戻したのか。【15日追記】工事中は車道の交差点→旧バス停前後(バス停部分を除く)の歩道寄り車線の路面には、斜め線が標示されていた(安全地帯?)はずで、一般車が停車中のバスを追い越さない構造にしていたようだ。
【15日画像追加】秋大側から右折してきたバスを旧バス停付近から撮影。交差点→旧バス停は短距離で余裕がない


最後に西側。
北寄りの脇道から
西側の「千秋城下町」交差点よりも手前に、狭い道が直角ではない角度で交わっている。信号機はないが、陸橋の通りと行き来する車はちらほらいる。
対向車のすき間をぬって歩行者などお構いなしに強引に出入りする車、角度が緩い側から減速不充分で狭い道に入る車、鋭角側からは無精して正規の動線を守らない車等があり、怖い。
そんな場所に、上の写真のような逆L字型の柱が立っている。横断歩道ありの道路標識が下のほうにあるだけ。
つい先日までは、
ストリートビューより
「中央線変移区間」の案内があった。
2010年まで行われていた、時間帯により1車線通行か2車線通行かが切り替わる「リバーシブルレーン(中央線変移)」のもの。ここから左折しても、時間帯に関わらず中央車線へは入れさせないようにしていたことになる。
リバーシブルレーン廃止後も、さらに2017年からの片側1線ずつになっても、右折【15日訂正】左折のみや外側車線のみ通行することについては間違っていないので、そのまま残されていたようだ。
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手形陸橋2・螺旋

2019-11-19 23:33:11 | 
前回に続いて、全面開通した秋田市の秋田県道28号のオーバーパス「手形陸橋」。
2年間通れなかった北側の歩道には、南側歩道にはない特徴的なものがあった。中央部・線路際両側に1つずつある、らせん階段である。(西端には、南北とも普通の階段はある。)
手形陸橋の下には線路だけでなく市道も通っているが、それらから陸橋は遠い。歩行者だけでも利用しやすいように、らせん階段が設置されているのだろう。
もともとはらせんではない普通の階段だったらしく、1991年の3車線化の時に初めてらせん階段になったようだ。

今回の工事により、そのらせん階段がどうなるか、事前に説明はなかった。工事途中の今春になると、らせんが板で覆われて階段部分の工事が始まった。橋本体とともにリニューアルされ、存続することになった。
9月下旬に西側の上部から板が外され、新たならせん階段が姿を現した。
供用開始前の西側らせん階段。黒光りしている

東側から西側を見る
形状・サイズやらせんの巻き具合は、おそらく従前とまったく同一。
色は従来はこげ茶色だったのが、橋本体に合わせて黒にかなり近い茶色。てっぺんの円形の屋根の内側は、以前より濃い肌色。
(再掲)工事前
細い銀色パイプの手すりや、目隠しの腰板の配置(基本は細い手すりより下側だけが覆われるが、東側の民家側だけ手すりより上も覆われている)も変わらず。
一方、
金網みたいなのが
東側の民家側には腰板にプラスして、階段本体の柵より上【12月15日補足・階段最上部のみだった。末尾の続き参照】に、細かい穴が開いた金網風の金属板が設置された。従来からの腰板と合わせて、民家への配慮だろうか。照明は従来は電球とか水銀灯だったが、LEDになったようだ。

踏面には、融雪装置の温度・水分センサーらしきものが埋めこまれていたので、積雪・凍結時も安心できそう(以前はどうだった?)。
西側らせん階段下り口。右下すぐが線路
陸橋本体から出っ張った、階段手前の平らな部分は、明るいグレーの正方形の大きめのタイルが敷かれている。点字ブロックは、そこまでは誘導している(従来は歩道には一切ブロックがなかった)。

従来どおりらせん階段も使えてよかったと思いつつ、上り下りしてみたところ、いくつかの違和感が。
まず、上の写真をよく見ると、完成したばかりの道路には不釣り合いなものが。
ロープがぐるぐる
陸橋本体の柵と、らせん階段の柵の間にすき間が生じてしまい、危険なのでロープを張ったようだ。東西両方とも、線路側と陸橋端側両方がすべてこうなっている。
(再掲)以前の状態
改修前とは柵が別物だが、らせん階段側の柵を陸橋本体まで延長するような構造だった。
すき間を埋める手配が間に合わなかったのか、設計ミスか? これは明らかな違和感。

あとはなんとなく違和感。上り下りすると、よくある階段とは違うような物足りないような感じ。
西側らせん階段
西側はまあこんなもん?

東側
違いにお気づきだろうか。各段の足を載せる踏面というのか踏み板というのか、その端が違う。西側では暗い赤色の帯が入っているのに対し、東側にはなくグレー一色。
以前のこの階段は全面カラータイルだったけど、今のような単色の階段では、角が分かりやすいように色を付けたり、滑り止めを設置したりするのが普通のはず。西の赤い帯は色だけで滑り止めではなさそうだし、東には一切ないのは、屋外の道路の階段としては物足りないのではないか。

さらに、西はグレーのシートというか板というかを上張りしている感じがするが、東はセメントそのままではないだろうか。上の写真では亀裂が入っている。亀裂自体は技術的に問題ないのかもしれないが、見栄えとしてはできたばかりがこれで、このままというのは…

開通時に、らせん階段が完成するまでには至らず、暫定的に供用し、今後残りの作業を行う。ということであると願いたい。【今後の経過は追記します・11月29日には東側にも赤帯が付いていた。すき間のロープは変わらず。/12月4日で階段踏面は変わらず。12月4日にはロープがなくなり、そのすき間部分まで、既存の手すりが延長されていた。写真はこの記事末尾のリンクから】
陸橋本体でも、
「←パネル」
メモ書き入り養生テープがいくつか残っている。はがしてね。【追記・11月29日現在そのまま。12月4日にはなくなっていた。】


最後に、
陸橋の上から東方向
陸橋東端では、歩道と車道の間の柵の構造が、南北とも同じ長さだけ、他と異なる仕様。
他は橋の欄干(高欄)らしきものなのに、東端だけ、細いガードパイプ。

外から見ると、なんとなく理由が分かる。
外側から。バスがいる所が境目
手形陸橋東側は、地面から徐々に高くなっていく。橋の高い部分は、橋脚の上に橋桁を載せる造りだが、地際の低い部分ではその構造でなく、盛り土の斜面のような構造らしい。
上の写真の北側では下の道路との境部分が、柵などでなく壁になっている。南側では柵。

取り付け方法は、東端限定のパイプ柵は脚を路面に埋めこんでいるが、高欄は路面表面にボルトで固定している。
橋だと地面がないから欄干にするしかないが、盛り土だと埋めることができるためパイプ柵にした。そしてそのパイプ柵のほうが安いから、わずかな距離だけどあえて違う構造にした。ということかな???
親柱は盛り土の地面際、パイプ柵の端にある。
西側は崖状の部分に橋がつながる形なので、東のような盛り土は不要なので、端まで高欄で、そこに親柱。

補足など続きはこちら
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手形陸橋全面開通1

2019-11-18 23:46:09 | 
秋田駅の北でJR奥羽本線の東西を結ぶ、秋田県道28号のオーバーパス「手形陸橋」が、ついに片側2車線×2=4車線&両側歩道で全面開通した。
周辺の道路に設置されている看板
これまで何度か取り上げていた(直近は今年5月)ように、1966年(1965年度との報道も)に2車線・歩道は北側のみで開通。1991年に3車線に拡幅(当初はリバーシブルレーン)されていた。

その後、2017年春には、南側に拡幅して車線増設と南側の歩道設置がされたが、北側の橋が老朽化したため、いったん北側を通行止めにしてリニューアル工事が行われていた。
北側橋桁の下。全体にきれいになった
このほど北側の橋が完成し、やっと4車線化と両側の歩道が通れるようになった。
橋の前後の道路と合わせて長さ540メートルで、幅を8メートル拡げて25メートル、総事業費68億6千万円【19日補足・裁判所の建て替えが仮庁舎も含めて60億円。それと比べると高くはないかも…】。1996年着工。2002年3月開通予定だったのが、用地買収などで17年遅れた。最初の開通からは53年か。

11月16日に100人が参加して完成式を挙行。知事や秋田市長も参加し、テープカットとくす玉割りが、開通直前の北側車道部分で行われたようだ。供用開始は、冒頭の看板のように11月17日・日曜日朝5時。
東側「手形山崎町」交差点から。右半分が今回開通

西側「千秋城下町」交差点付近から
2017年に開通した南半分と同一の設計になっており、ほとんど左右(南北)対称。路面のアスファルトの色は、2年しか経っていないものの違っている。

手形陸橋は、秋田市の自動車交通の要衝で、朝夕は渋滞する。
今回の4車線化で、渋滞軽減が期待される話もあるが、実際のところ陸橋の前後は2または3車線のままなので、それほどでもないという声もある。
片側1車線での工事期間中よりは、当然スムーズになっただろうけど。あと、工事中は線形が無理なこともあったのだろうが、逆走車がたまにいた【19日補足・片側2車線と勘違いして、対向車線に入ってしまう】とか。

北側歩道
市街地の手形陸橋は、自転車も、高齢者も通り、小学校の通学路でもあるだけに、南北両側に広い歩道ができたことは喜ばしい。ただ、両側の脇道から出入りする車が怖い場合がある。運転者のモラルではあるが、道路形状が50年以上昔の考え(計画)に基づいていることもあるのかもしれない。改善の余地があるかも。
歩道の路面は、リニューアル前はカラータイル敷きだったが、単純なアスファルト舗装(南側と同じ)になった。今後のメンテナンスも考慮すれば、これで妥当だ。
【2022年10月16日追記】この後、2022年10月に、通学路安全対策事業とかとして、北側歩道の歩行者部分と自転車部分を色分けするカラー舗装工事が行われた(この記事中ほどに写真あり)。南側歩道は無着色のまま。


以下、こまごまと。
両方向とも、陸橋に入って間もない(線路真上よりも手前)辺りの照明の柱に、小さな青くて四角い標識が設置された。いちおう案内標識「方面及び方向」風だけど、正式なものとは若干違うような。
北側・東行き車線「太平↑ 明田→」

南側・西行き車線「中通↑ 保戸野→」
陸橋通過後の交差点での直進・右折に合わせた車線を、早めに示していることになる。右折車に早めに車線変更させることで、直進方向を少しでもスムーズに流すために設置したのだろう。【22日補足・右側車線を漫然と走り続けて直進できなくなる(それによる渋滞や事故)ことの防止の意味もあろう。】
ただ、東行きでは左折して秋田大学方面へ行くことに触れていないのは不親切かもしれないし、太平、明田、保戸野といった地名のチョイスも微妙。間違ってはいないが、よその人には分からないかもしれないし、秋大病院は? 横金線は? 新国道は? と迷わせるかもしれない。


開通直前の手形側
開通直前に、歩道と車道の間の柵の東西末端に、カバーで覆われた物体が設置された。南側でも同様。これは何?

完成式には、「橋名板の文字を揮毫した」という市立明徳小学校の児童2名も招かれていた。それが設置されたのが、
ここだった
川に架かる大きめの橋でよくある「親柱」だ。シンプルだけど大きな石で、最近の橋にしては豪華。
今の感覚ではオーバーパスとしてとらえてしまうが、「手形陸『橋』」の名の通り、手形陸橋も橋であって、その流儀にのっとった表示がされているのか。(だから、この記事を久しぶりに「橋」カテゴリとしました)

橋名板は、上の写真の「手形陸橋」が北側西端。北側東端が、
「てがたりっきょう」 

南側東端が、
「令和元年十一月完成」
南側西端は「奥羽本線」。

2人のうち6年生の人が「手形陸橋」と「奥羽本線」、4年生の人が「てがたりっきょう」と「令和元年十一月完成」を書いたとのこと。
ある意味安心したのが、「令」の下を、楷書の原則通りに「マ」で書いてくれていること。時流に乗って「卩」でなくてよかった!
それぞれの橋名板の下に、小さく横長に、石の色が変わっている部分がある。ここに揮毫した人の名前でも表示するのかもしれない。【追記・11月29日現在変わらず】

さて、4枚の橋名板の配置のこと。全国的には、道路の起点から見て左側に漢字の橋名…などと、どの位置にどの橋名板を取り付けるか、慣習的に決まっているところが多いそうだ。
手形陸橋の場合は、その原則とはひらがなと完成年月の位置が入れ替わっている。これでは、南側を通る人の視点では「手形陸橋」も「てがたりっきょう」も読めないわけで、絶対の規則ではないとはいえ少々おかしい。
試しに他の秋田県道の橋をストリートビューで確認してみたら、他の橋も原則どおりではない(法則なし?)。秋田県庁ではそれでいいことになっているのかな。

こんな立派な親柱を設置するくらいなら、車からもはっきり分かるように、白地に青文字・英語併記の案内標識(秋田大橋とかにあるヤツ)も設置してはどうでしょう。

親柱の写真で分かる通り、親柱の側面にはモノクロのイラストが描かれた板が張り付けられている。
すべての親柱に、車道向きと歩道向きの裏表に設置されており、東側と西側で内容が異なる。【2020年1月10日訂正・イラストの図柄の違いについては、この記事冒頭参照】
いずれも「贈 (株)板橋組・(株)沢木組」とのプレートがあり、施工業者(線路の真上以外の部分)からの贈り物ということのようだ。
西側
左上から時計回りに、千秋公園の「与次郎伝説」がモチーフと思われるキツネと飛脚、「千秋花火」と思われる打ち上げ花火、太平山三吉神社の梵天(ぼんでん)、秋田新幹線E6系と思われる鉄道車両の正面、千秋公園のものと思われるハス。
東側
稲穂、竿燈、秋田蕗、太平山と5弁の花。

ケチを付けるようで申し訳ないが、いくつか指摘させてもらう。【2020年1月10日訂正・東西については勘違いしていたので、一部訂正します。しかし、それでもなお方角と図柄の違和感は残ります。】
まず、どうして西側に梵天、東側に竿燈なのだろう。それぞれの行事の会場からすれば、逆であるべきだ。千秋公園関係は千秋公園側の西に集めているのに。とすれば、秋田蕗もどちらかといえば西が近い。

細かい点では、東側の花が何の花か不明。
秋田蕗といっしょにいる女性と思われる人物の服装がヘン。秋田蕗は「かすり」姿で刈り取りをするのが定着していて、それがモチーフっぽいが、これでは七分袖Vネックの上に、肩紐の太いエプロン姿のようだ。あとフキの葉の縁や葉脈が、ちょっとキモチワルイ(こんなふうに描かれる場合もあるが、個人的には違うと思う)。

西側。エリアなかいち完成後、にわかにもてはやされるようになった与次郎伝説は、キツネが飛脚として活躍した話。この絵では、キツネと人間の飛脚が描かれている。
なかいちのマスコットキャラクターでは、キツネがそのまま飛脚になっているからそういう話かと思いこんでいた。でも、これを見れば、キツネが人間に化けた上で飛脚になったってことなの?(そのほうが、バレにくくて自然ではあるか)
E6系の真正面とは、描きにくく伝わりにくい難しい題材だ。どうして側面にしなかったのか。ハスの葉も葉脈がキモチワルイ。
そして梵天。「安全祈願」とあえて文字を入れてあるのは、手形陸橋の安全祈願と掛けてあるのか。
梵天の飾りと本体のバランスや細部がけっこう違うような気もするが、以前の北側歩道路面には、鏡餅のような似ても似つかない不格好な梵天が描かれていたのを思えば…

長くなったので、今回はここまで。手形陸橋北側歩道といえば欠かせない(?)らせん階段のことなど続く
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新・由利橋/バス

2018-06-03 23:35:01 | 
由利本荘市中心部の子吉川に架かる、市道の「由利橋(正式にはゆりはし、通称ゆりきょう)」が、2013年1月に新しくなった。
当ブログでは、旧橋時代から架橋途中まで記事にしていた(最後の記事に各記事へのリンクあり)
先日、急ぎ足&曇り空ながら、やっと初めて渡ったので、簡単に紹介。
【2019年2月16日訂正】以下、橋桁を支持する塔から伸びる黒いものを一部で「ワイヤー」と表記してしまっていますが、「ケーブル」と呼んだほうがより適切のようなので訂正します。以下読み替え願います。
石脇側下流から撮影。対岸に鳥海山
新しい由利橋は、主塔から斜めに張ったワイヤーを直接橋桁につないでささえる「斜張橋」。厳密には吊り橋とは異なる方式。
由利橋は、塔が橋の中央からずれた位置にあり、両岸でワイヤーの角度・長さが異なり、左右非対称なのが特徴。
子吉川で盛んなボート競技の邪魔にならないようにとの配慮で、塔は石脇(秋田市寄り)側に寄っている。本荘市街地側のワイヤーのほうが長い。
高さ50メートルの主塔には「由利タワー」の愛称が付けられ(どのくらい浸透している?)、夜はライトアップされる。
橋の長さは190.5メートル(旧橋175.6メートル)で、現在の技術では、一般的な「桁橋」にもできるのに、わざわざ斜張橋にしたことについては、地元で否定的な声もあった。【2020年10月26日追記・考えてみれば、由利橋は仮橋を架けて架けかえたのだから、旧橋とほぼ同じ位置に現橋が架かっているはず。それなのに、10メートル以上も長くなっているのが不思議。接続部分の構造とか、路面が盛り上がって長くなったとかだろうか。】

実際の橋に接した感想は、思ったより全体的にはほっそりとスリムに感じるものの、主塔がかなり存在感を出しているなということ。
完成予想図では、ケーブルは白かったはずだけど、実際には黒いのも、少し印象を変えさせられた。
石脇側上流から
橋のすぐ近くで見ると、左右非対称であることはあまり感じない。

以前の橋は車道もそうだけど、歩道は特に狭く、川面が見えて怖くもあった。
今は広々

 主塔とワイヤー

歩道に白い箱
6本×4方向のワイヤーは、橋桁側では、歩道の車道寄りに接続されているので、間近に見ることができる。接続部分は箱状になっていて路面よりも少し高く、柵状のもので囲われているが、ケーブル自体は歩行者が手を伸ばせば触れられそう。当たり前だけど、ワイヤーはとても太い。接続部はさらに強固な構造で、いかつい。
接続部の箱のあるところは、その分、歩道が狭い。広い歩道だからあまり問題はなさそうだけど、色とか形状をもう少し工夫すれば、デザイン的に良かったかも。白い箱は現時点では汚れはなかったが、年月が経っても保てるだろうか。

由利橋南側の市街地の通り
橋にまっすぐの道から見ると、ワイヤーが重なって目立たず、主塔だけがそびえ立つ、独特な風景。

由利橋に関する次の記事


ところで、上の写真の後ろ姿の羽後交通の路線バス。
寸詰まりの三菱エアロミディ「379」
この車、かつては、
(再掲)上の写真の拡幅前・旧橋時代
由利本荘市(本荘地域)循環バス専用塗装「ごてんまり号」だった。

最近まで勘違いしていたのだけど、「ごてんまり号」は循環バスの路線の愛称ではなく、車両の愛称だったらしい。
最近、中古の日野ポンチョ「12-58」が、新たなごてんまり号として導入され(この記事中ほど参照)、379は羽後交通の一般路線塗装になった。
塗装が変わっても、正面の小さな三菱のスリーダイヤマークは残ったけれど、赤い線と重なって分かりづらい。
「ノンステップバス」表記もない、典型的な羽後交通塗装だけど、窓とボディのバランスが独特の車種だから、どこか雰囲気が違う。けど、バンパーが黒くなったためか、ごてんまり号時代ほど、細長くは見えない。

本荘地域の循環バスは、2015年10月に再編が行われ、これまでごてんまり号1台が片方向2路線を運行していたのが、双方向の1路線になったらしい。
ごてんまり号はうち片方を担当し、もう一方は、新たな青い塗装の日野リエッセが専用車両(愛称なし)。
上の再掲写真は、ポンパル(グランドホテル側)から由利橋たもとを左折して桶屋町へ来たシーンだが、現在は青い車両が走るルート。ごてんまり号は逆向き。なお、時刻表上は、この付近で両方向がすれ違う。

この日は、ポンチョがお休みで、代わりに379が、かつての専属路線を代走。
ダッシュボードに「本日は、ごてんまり号の代替車両で運行中です」とかいう紙を掲出していた。
379は、おそらく青の代走や、本荘周辺の一般路線も走っているのだろう。さすがに急行で秋田市内には来ないでしょう。

新・ごてんまり号のポンチョ1258は、秋田市のぐるるの新車と同じ、長いボディ2ドアタイプながら、羽後交通標準の前乗り前降りで中ドアは締め切りとのこと。
ポンチョといえば、羽後岩谷駅前の道の駅おおうちにて。
白ナンバーのポンチョ
旧・大内町エリアの由利本荘市コミュニティバス。道の駅の駐車場の一角で待機する時間がある。
このポンチョは70センチ短い、長さ6.3メートルの1ドアショートタイプ。バランス的にこちらのほうがかわいらしくて、ポンチョに似合っているかも。
後部
桜と思しき花が散らばるピンク色の塗装。なんで桜なのかは知らない(旧大内町の花はサツキだった)。
もう1台、青系統のポンチョ(花の部分は不明)も一瞬、見かけた。
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伽羅橋

2016-09-27 23:27:44 | 
秋田県立美術館に展示されている藤田嗣治(レオナール・フジタ)の大壁画「秋田の行事」。
その画面中央左に、小さな橋が描かれている。異なる季節のさまざまな行事を1枚にまとめた絵の中で、場面転換というか区切りを示す役割を果たしているのだとか。

その橋は、実在の橋をモデルとしている。
秋田市内にある「香爐木(こうろぎ・香炉木)橋」という木製の橋だそう。別名「伽羅(きゃら)橋」とも呼ばれ、今は新しく架け替えられたという話もある。※名前の由来には諸説あるようですが、ここでは割愛します。

見たことがなかったので、現地へ行ってみた。今年の早春のことなので今さらのアップですが…
場所は、秋田市北部の中央部寄り、寺内地区の高清水の丘を抜ける旧国道から、西方向の脇に入った道。
以前、坂の向こうに海が見える道を紹介したが、その2本中央部寄りに当たる道で、旧国道からは秋田城跡歴史資料館入口の500メートルほど手前を曲がる。

今は建物配置などで見落としそうな狭い道だけど、古四王(こしおう)神社の参道とまっすぐにつながる道なので、由緒ある道のようだ。むしろこっちが旧街道か。道路の周辺には大ケヤキや湧き水もある。
進むと住宅が途切れて斜面が迫って草木が多くなり、下り坂になる。海は見えないけれど、2本隣の道と似たシチュエーション。やはり夜は通りたくない道。
なお、現在の町名では、この道が寺内大小路(北側)と寺内神屋敷の境界。
左が神屋敷・右が大小路
下り坂はやがて上り坂に転じる。その“谷底”に、橋のようなものが。

これこそが、描かれている橋のモデル。代替わりしたけど。

橋というよりも、道路に手すりだけ付けたようにも見えるが、なるほど、下には小さな川と言えるかどうかも微妙だけど、水は流れている。量は少ないけれど、水はきれい。
地図を見ても川の名前などは付いていないが、高清水の山中(?)に源を発しここまで来て、ここを過ぎて間もなく別の同じくらいの流れと合流して、国道7号線(臨海バイパス)をくぐり、秋田運河(旧雄物川)に流れこんでいる(そしてすぐに秋田港へ注ぐ)。ということは、いちおう「雄物川水系」に含まれるの??
上流側

下流側。この先遠くないところに臨海バイパスがあるとは思えない環境

橋で一般的なように、「親柱」には、その名称や竣工年が記されている。川の名前はない。
それによれば名前は、
逆光と風化で読みづらいけど「伽羅橋」?
反対側は、
「きゃらばし」
ひらがな書きでは「とおりまちはし」「ゆりはし」などと、「~ばし」や「~きょう」ではなく、「~はし」と表記するが通例のようだが、ここは珍しく「~ばし」。(下面影橋もそうだった)

竣工年は、
「昭和十五年」。月は表記なし
1940年か。
うまく撮影できなかったが、反対側には「皇紀二千六百年」とあった。1940年は神武天皇即位から2600年。その記念の意味もあって架け替えたのだろうか。

となると、かなり古い橋ということになる。
以前、飯島の天ノ袋橋をアップした時、秋田市が行った「橋りょう点検」の結果を調べた。
それによれば、いちばん古いのは太平八田の「八田三号橋」で1935年架橋(ただし現在は下が川ではなくなり、安全上は無問題らしい)、その次が1955年の天ノ袋橋だった。じゃあ、伽羅橋は対象外?

やはりこれは「橋」ではないのではないだろうか。
はっきりと確認はできなかったが、道路の下にトンネルを掘って水を通しているようだ。その上の道に手すりを付けたという、第一印象そのままが実態なのかもしれない。


「秋田の行事」は、1937年完成。
したがって、それからすぐに橋(手すり?)が新しくされてしまったことになる。
また、現状としては、橋に「伽羅橋」とあるのだから、それを正式名称としてとらえるべきで、「香爐木橋」を別名とせざるを得ないだろう。
ちなみに、当時のここ一帯は南秋田郡「寺内町」。1941年に、土崎港町などとともに秋田市に編入されることになる。

反対側から来た道を振り返る
橋の“対岸”は、北側は引き続き寺内大小路、南側は寺内後城に変わる。
寺内大小路側の丘には階段がついていて、上が墓地(後城側も低い墓地)になっている。そこには、江戸時代の紀行家で、秋田県内をくまなく歩いた菅江真澄(すがえますみ)の墓があるとの標柱がある。
おじゃましてみたが、他のお墓に混じって、ちょっと立派なくらいのものだった。
【28日補足】菅江真澄の著作の中で、この橋の由来に触れたものがあるらしい。

上り坂の道を進むと、再び住宅が増えてくる。海が見えた道とも合流。そして、旧国道に戻る。
出た場所は、「寿光園入口」バス停のそば、住所では土崎港南一丁目で、イオン土崎港店や中央高校の裏側が近い。知らない世界から、一気に現実にワープしたような感覚。
古四王神社付近から土崎港南付近へ徒歩または自転車で移動する場合、旧国道よりも通行しやすい道かもしれない。旧国道はカーブが多く、車の通行も多いが、こちらは気にならないので。ただし、アップダウンと夜間の暗さは別として。距離は伽羅橋経由のほうがわずかに長く、1キロくらい。

橋は替わってしまっても、周辺の環境も含めて、どことなく絵の世界に通じるものを今も残しているような、伽羅橋であった。
【28日補足】現地には、説明板のようなものは特に見当たらなかった。その点でも、昔と変わらない(橋は替わってますが)風景がそのまま、静かにひっそりと残るであろう場所に感じられた。

この付近のさらに別の道の風景
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