慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

創価学会(収入、正本堂、日蓮正宗との決別)

2019年05月15日 | 宗教
お金にまつわる問題1

新宗教はお金儲けが目的か?
 ☆創価学会、新宗教が問題になる大きなことは「お金」
 ☆新宗教はお金儲けのためにあると考えている人もいる
 ☆入信しているときに多額の献金をしたことを激しく後悔している元信者もいる
 ☆創価学会をめぐるスキャンダルの多くもお金がからんでいる事が多い
 ☆創価学会は宗教法人である
 *宗教法人の場合、公益法人の一つとされているが、財政を公開する必要がない
 *宗教法人にかんする法律「宗教法人法」
 *宗教団体の財政は、団体の側が積極的に公開しなければ、外部の人間にはわからない
創価学会、年間所得は約181億万円
 ☆宗教法人の場合、収入は2つの種類に分かれる
 ①宗教活動から上がる収入である
 *賽銭や布施、寄進などで、その収入については課税されない
 ②宗教法人には、団体を維持するために事業を営むことが認められている
 *「収益事業」と呼ばれ、法人税が課される
 *税率は一般の法人税に比べて低く抑えられている
 *収益事業の収入は、その団体を維持するのに使われるのが前提になっている
 ☆創価学会が宗教活動から得ている収入の資料はない
 ☆創価学会収益事業、2003年に帝国データバンクが調べたもの
 *創価学会の収益事業による申告所得(利益)約181億円
 *主に『聖教新聞』の購読料
 *『聖教新聞』は、月極1934円(税込)、発行部数は公称で550万部
 ☆お金の面での創価学会の特徴
 *入会金もなければ、月々の会費もない
 *『聖教新聞』の購読が月々の会費の代わりになったようなもの
 ☆折伏して信者を増やす
 *『聖教新聞』の読者を増やすことが布教活動の一環とされた
 *会員のなかには、『聖教新聞』を何部も購読する人間もいる
 *周囲に『聖教新聞』を無料で配り、折伏のためにそれを活用しようとする
多額の寄付が「名誉」になる
 ☆戦後すぐの創価学会には、「財務部員制度」があった
 ☆財務部員は、今の価格で年間5万円程度を出す制度
 *財務部員は一種の名誉職と考えらた
 *部員は金色に縁取りされたバッジをつけることを許された
 ☆財務部員になれるのは、信仰でお金が儲かった、病気治癒の功徳を得たということ
 *会員のなかでの成功者である
 *ほかの会員たちにとって、財務部員は羨望の的だった
正本堂建設で355億円が集まる
 ☆大石寺に建物を寄進する資金を集めるために寄付金の募集がおこなわれた
 ☆目標額をはるかに上回る355億円(現在の貨幣価値千億円程度)集まった
 ☆寄付に加わったのは創価学会の会員だけではない
 *大石寺の僧侶とその家族、大石寺の講である法華講の講員たち
 ☆正本堂が完成するのは、寄付が集められた7年後の1972年である
 ☆創価学会の会員たちは、日蓮正宗寺院の寄進もおこなっていた
 *創価学会が日蓮正宗と決別するまでのあいだに356カ寺に及んだ
 ☆日蓮正宗は、創価学会と関係を持つまで、小さな宗派に過ぎなかった
 *日蓮正宗大きく発展し、創価学会の会員も出家して僧侶となった
正本堂は本門戒壇の大御本尊を安置するために建てられた
 ☆建築家横山氏の設計で、創価学会第3代会長池田大作が願主
 ☆大石寺第66世法主日達の代に着工し1972年に完成し法要が行われた
 ☆将来の広宣流布達成の象徴
 *「鶴が羽ばたく姿」をモチーフとした独創的なデザインの建物だった
 ☆建設資金は僧俗からの供養でまかなわれた
 ☆創価学会を破門した総本山67世法主日顕の時代、50億円かけて解体された
 ☆跡地には、宗旨建立750年の奉安堂が建てられた
創価学会が日蓮正宗と決別
 ☆大石寺に建物を寄進したり、日蓮正宗寺院の建立にお金を出す必要はなくなった
 *逆に言えば、創価学会は寄進をしたくないために、日蓮正宗と決別したとも言える
 ☆大石寺に建物を寄進するより、
 *創価学会の会館などを建設した方がいいというわけである
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『親が創価学会』








創価学会(収入、正本堂、日蓮正宗との決別)
(ネットより画像引用)

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遺族、前宮司、宗教学者も嘆く靖国の現状

2019年05月15日 | 宗教
靖国神社・天皇「ご親拝」なく消えるのか!

 ☆ある戦没者遺族は語る
 *「桜が開花したが、各戦場から英霊が集いたくても大鳥居をくぐると景色が変わっている」
 *御祭神が戸惑っている
 ☆われわれ遺族がいなくなったら、靖国は自然消滅するこではないかと嘆

きっかけは社会党の政治論争
 ☆靖国神社今年6月に創建150年を迎えるが、揺れている
 ☆平成の世は陛下のご親拝が一度もなかった
 *靖国神社には、幕末以降、国家に尊い一命を捧げた御霊246万余柱が祀られている
 ☆天皇のご親拝なく、靖国神社の存在意義も失われつつある
 ☆靖国神社は2代続けて宮司が任期途中で交代している
 ☆昭和天皇は敗戦直後と主権回復後は、計8回のご親拝をされている
 ☆天皇の靖国神社親拝しない理由、誤解している人も多い
 *”A級戦犯”合祀が天皇のご親拝を止めたのではない
 *昭和天皇に対し、当時の社会党が憲法20条を引き合いにだす
 (参拝をめぐる政治論争を仕掛けたから)
 *”A級戦犯”合祀は、それ以後の78年の秋の例大祭時
 ☆中曽根首相が10回目の参拝をする
 ☆中国が猛反発し、朝日新間がこれを煽った
 *政府は公式参拝は違憲ではないとの見解を出していた
 *しかし、中曽根氏は中国の意向を呑んでしまった
政治家も英霊を祀る心を忘れ
 ☆昭和天皇はそれでも晩年、靖国神社ご親拝を模索されていたとされる
 ☆88年殉職自衛官合祀担合訴訟の最高裁判決
 ☆国家と宗教は完全に分離される必要はないとの考え方に変わっていった
 ☆政治家や靖国神社関係者が、親拝の”環境づくり”に努力していれば
 *現在のような惨愴たる状況にはならなかった
 ☆靖国にかかわる人たちや遺族会、政治家
 *自分たちの利益や保身を考え、英霊は、二の次になっている現状
新宮司へ戦没者の遺族からの手紙
 ☆天皇陛下のご親拝をいただけなかったこと
 *陛下をお迎えする道をつけなかった歴代宮司の怠慢だと思います
 ☆明治天皇御創建のお社で、日本国のために命を捧げた御祭神
 *口がきけたらさぞ、お怒りになるでしょう
 ☆御鏡の前で邪心を捨て、英霊の声にじっと耳を傾けて下さい
 ☆靖国の奉職者はこれを読んだのか
兵士の最期の言葉は「お母さ―ん」と
 ☆靖国神社関連の書籍に目を通すと、
 *「靖国神社で会おう」「天皇陛下万歳!」といって死んでいったという話が多い
 ☆自決した軍人や戦死した兵士が最期に洩らす言葉のは多くは
 *「お母さ―ん」という叫び
 *「天皇陛下万歳!」と叫ぶ人は少なかったといわれる
 ☆小銃は「陛下のお下げ渡し」といわれていた
 *天皇陛下への敬慕や思いを秘めて戦いに赴いた兵士は、多かったはず
 ☆GHQが靖国神社破壊命令を出したが
 *カトリック教会関係者がマッカーサーに靖国の存続を要請したという話もある
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『THEMIS5月号』


靖国神社・天皇「ご親拝」なく消えるのか!
(『THEMIS5月号』記事より画像引用)


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5代目前田綱紀(加賀百万石を大飛躍させる)

2019年05月15日 | 歴史上の人物
80年間も藩主をした加賀藩5代目前田綱紀

 ☆将軍、三代・徳川家光から八代・徳川吉宗の時代に生きていた人
 ☆前田家を安全な位置に落ち着かせ、民からも慕われた綱紀
 *生涯が現役の藩主でした
 ☆約80年間も藩主の座にあったというのは稀な例
 ☆藩主が積極的にお金を使った
 *領内にお金が回り、藩が豊かになった

綱紀の誕生は、待望の男子として祝福された
 ☆綱紀の誕生は「待望の嫡男」、前田家では上を下への大騒ぎ
 ☆外様大名では最大勢力の前田家
 *跡継ぎなしというのは安心していられない
 ☆綱紀3歳のとき、父・光高が31歳の若さで亡くなる
 *前田家には、嫡男がいて、隠居の利常がいた
 ☆将軍家光から「祖父が孫を指導しろ」との命令がでた
 ☆加賀藩は改易を免れた
 *綱紀は、利常の元でやっていくことになる
武将と呼ばれる祖父から帝王教育
 ☆祖父の利常は、前田利家の子供
 *綱紀も武道を奨励する
 ☆綱紀は、12歳で、元服を果たして正四位下の位階を受けた
 ☆保科正之の娘を正室にもらう
 ☆藩主としての地位固めは順調に進んだん
 ☆結婚から8年して彼女が亡くなった
 *新たに正式な妻を迎えることはなかった
 ☆利常が亡くなった後
 *甥の保科正之を政治の模範として藩政に励む
前田綱紀の治世(生活保護)
 ☆農業方面のさまざまな制度を整え土地を整備した
 ☆飢饉の際に作った「御小屋」施設
 *生活に困っていた人々に米を支給
 *病人のための医者を配置していた
 ☆今で言えば生活保護制度
前田綱紀の治世(学問の奨励)
 ☆綱紀自身が学問好き
 *武芸や建築、文芸などありとあらゆる学問を奨励した
 ☆学問の奨励の中には、書物奉行もある
 *新たに設けた役職であり、古書を収集&保存
 ☆藩士たちも学問や芸術を好む気風となる
前田綱紀の政治的なバランス感覚
 ☆大藩であるが故に幕府に睨まれやすい
 ☆蓄財はしないという方針に徹していた
 *改築や調度品などに惜しみなくお金を使っています
 ☆学問奨励も散財するという面があったのかもしれない
前田綱紀ダンスもお上手!開発も順調に130万石突破
 ☆綱紀は舞の名手で、将軍の前で披露したこともある
 ☆徳川綱吉の時代
 *加賀藩は名実共に100万石を達成し、幕末には130万石超
 ☆御小屋も変わらず続けていた
 *「加賀にはホームレスがいない。素晴らしい政治だ」とこれまた絶賛された
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『武将ジャパンHP』


80年間も藩主をした加賀藩5代目前田綱紀
(『武将ジャパンHP』記事より画像引用)








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