慶喜

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頭脳明晰ながら愚将・慶喜の誤算

2021年09月20日 | 歴史
🌸頭脳明晰ながら愚将・慶喜の誤算

 ☆「徳川慶喜」に君主として足りなかったもの

「徳川慶喜」稀代の歴史主義者

 ☆困ったときだけ人を頼り、周囲の信頼を失った愚将
 ☆徳川十五代将軍慶喜は、歴史主義者であった
 ☆慶喜は御三家の一で、水戸徳川家に誕生した
 *九代藩主斉昭の七男として生まれた
 *父・斉昭による徹底したスパルタ教育
 *慶喜は、将軍家の家族=御三卿一橋家を相続した
 ☆慶喜12代将軍家慶の後継に推された
 *世継ぎである家祥(いえさき)より期待されていた
 (家祥は幼少期に重い疱瘡を患っていた)
 *将軍家慶は世子の変更をすることなく他界
 *13代将軍に家祥改め、家定(いえさだ)が就任した

14代将軍に慶喜を推た一橋派
 ☆徳川家定の就任に危機感を抱いた老中阿部等一橋派を推す
 ☆彦根藩主・井伊直弼が大老に任じられ、“南紀派”へ軍配があがる
 *家定の死後14代将軍に南紀派が推す家茂就任
 ☆井伊による“安政の大獄”が断行され、井伊の暗殺された
 *慶喜は、朝廷や外様大名の力で「将軍後見職」となった
 *幕府は、禁門の変から、第一次長州征伐まで慶喜主導で動いた
 ☆慶喜の二次長州征伐
 *戦局は慶喜の予想に反して幕府方の惨敗
 *将軍家茂は大坂城で病没する
 ☆慶喜は終戦にこぎつけ、15代将軍に就任した
 *慶喜ほど臣下に嫌われ、誤解された将軍もいなかった
 *将軍の家族という不安定な地位
 ☆慶喜は、家禄も家臣も幕府の借りもので、頼る力を持たされていない
 *他国から、慶喜の幕府は一国の政府としては認められない状況

慶喜の誤算
 ☆将軍慶喜は幕府の軍制と財政の改革=「大綱変革」を断行した
 *目指すは、ナポレオン3世のフランス
 *必要な600万ドルにのぼる対仏借款を計画
 *見返りに、フランスに対日貿易の独占権を与える案
 *“旗本八万騎”には、軍事費とその領民を拠出させる
 *徹底的にフランス式の近代戦を修得させた
 *幕府は活力を取りもどしつつあった
 ☆慶喜は突然、大政奉還の挙、自ら将軍の座を降りた
 *慶喜の明敏な頭脳は、このまま時間が経過して
 *新政府が創出されたならば自らがその代表として
 *国政のトップに返り咲けるとの計算があった
 ☆慶喜は、早い決着を求めて鳥羽・伏見の戦いに打って出た
 *敗れた慶喜は、あっさりと恭順の意を表して謹慎
 ☆自らが描いたのとは異なった明治維新を迎える
 ☆この間、多くの家臣が慶喜の身代わりとなって暗殺された
 ☆慶喜は将軍の座をおりてからも、46年の長い余生を送った
 ☆慶喜の行動をを曲りなりにも肯定すると
 ☆慶喜は、稀代の歴史主義者であったとしか見えない
                    (敬称略)
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⛳出典、「現代ビジネス」




頭脳明晰ながら愚将・慶喜の誤算
(「現代ビジネス」記事より画像引用)

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