武田じゅうめい 愛と誠と正義

色即是空とは、すべての存在は虚無であると知る。
旗印は日本愛、 日本人には日の丸が足りない

いじめについて、じゅうめいが発言

2006年11月14日 | 人生の意味

いじめ問題に触れなければならないだろうか。
この問題は複雑怪奇なのか単純ととらえるのか、切り口が迷うところである。
ただ、テレビが現職警官による郵便局連続強盗事件(13日午後逮捕)を巧妙に逃げているのを見るにつけ、私はこの問題から逃げるわけにはいかない。


朝日新聞の世論調査によると、学校時代にいじめを認識していた人たちが平均で62%、それが30代、20代へと若くなるにつれて70%へと上昇するのだそうな。事は深刻である。

日本も含めた世界の歴史、人類史は戦争の歴史といってもよい。より具体的には殺し合い、殺戮の歴史である。
人間には欲望がある。生存本能がある。他者、特に弱い者を傷つける(いじめる)ことによって、自己の優位性を誇示したり、生き物としての生存本能を満たす作業をしているのかもしれない。特に、集団生活における個と個のぶつかりあいというよりは、弱き者が食いちぎられていくような、より下等動物の生存本能に近いような獣あるいは畜生のような根っ子が存在するのだろうか。


猿に見られるマウン
ティング行動を見る。
この行動は同じ猿グループの上下関係、つまり秩序を保つために存在するシステムである。言ってみれば猿社会の掟である。 これをすることによって猿社会は秩序が保たれる。 また同時に雄のボス猿がグループ内の秩序を保つために、目を光らせていることが猿の行動学で報告されている。人間も猿と同じであるから目を光らせなければならない。


人間界に、昔からいじめは存在した。江戸時代の教えは、弱い者をいじめるのは人間の恥あるいは卑怯者として共同社会から非難された。
また父権や村社会が強かったために大人が目を光らせて、そういう子供のいじめを監視していた。それに違反すれば、こっぴどい罰を受けるか、村社会の鼻つまみ者として生存できなかったのである。


しかるに、現代はそういう村社会は崩壊し、個人の自由というよりは、個人のわがままの上に社会が成立するようになった。
学校教師も一人の弱い人間であるから、ポリシーを持っている先生であっても一人では限界がある。
体罰を許容するわけではないが、いわゆる恐い先生がいない学校にいじめが発生するそうな。



さすれば、解決法は有りや無しや? 答えは有る。 
いじめだけを簡単に無くすならば有る。 その方法は、徹底的に、取り締まりを行うことである。
場合によっては、公権力を使って取り締まりを行い、いじめをする者には厳罰を加えることである。
あやふやな責任逃れや言い逃れを許さない体制を作ることである。


もっとも公務員の世界は、奈良市役所や他の役所でも発覚したが、5年間で10日位しか出勤しなくても、誰も何も言わない役人体質であるから、役人に任せては事なかれ主義で前へ進まない。
時間が経って嵐が過ぎるのを待つだけであろう。
それならば、政府主導で民間企業が中心になった<指導教官>を各学校に配置したらどうだろうか。
警備会社が一番手っ取り早いかもしれないね。


こういう意見を言うと、反発が山のように来るんだろうね。 
人間なんて所詮はパンツをはいた猿である。 無知の知。 
デデンデン


 





コメント
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