tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

プロポーズ大作戦

2007-06-20 19:53:23 | old good things

昔といっても、もう20年前のことだ。そのころは、まだ日本でも少しは他人に対しての関心が少しでもあって、「小さな親切、大きなお世話」という言葉がまかり通っていた。この言葉の言わんとするところは、善意でしてあげる小さな親切は、他人にとって見れば大きなお世話で迷惑以外の何者でもないということ。こんな言葉が流行るぐらいだから、当時は少しは他人に対する関心が少しはあったんジャマイカ。いまは、こんな言葉はトウの昔に死語となってしまった。他人との係わり合いが非常に希薄の世の中になってしまったのだ。
ということで、今回は書き出しがうまく書けたので安心して暴走できる。今日は大きなお世話をしまくるつもりだ。
6月になったとたん、ぼくのブログのとあるページのアクセス数が急増したことを前に書いた。実は、そのページのアクセスが止まらない。たぶん、結婚式の披露宴に使う音楽をネットで探しているのだろうと推測している。そんな季節なのだろう。

結婚式が恋愛の最大のイベントなら、プロポーズはその前哨戦とすることができる。どれだけ付き合いが長くても、お互いに心が通い合ってても、プロポーズの時はドキドキものだ。もっとも、その前のお付き合いをお願いする愛の告白もドキドキものだが。
電車オトコのエルメスは、オトコの言葉を待った。勇気がなくて、なかなか言い出せない電車オトコを励ましながら・・・・・・。二人でこの関門を乗り越えた時に本当の幸福が訪れるのだ。たしか、シチュエーションは夜の公園の駐車場で車の中だったかな?
映画ではプロポーズのシーンが結構出てくる。
ソムリエに頼んで、シャンパンのグラスに婚約指輪を入れてもらったのはスーパーマンだ。結局、シャンパンを恋人のメリー・ジェーンに飲んではもらえなかったが・・・・・・・。でも、これが王道だ。映画ではよく使われる手だ。
そして、ウディ・アレン監督の世界中がアイラブユーでは、エドワード・ノートン演じるHoldenがドリュー・バリモア演じるSkylarに婚約指輪をプレゼントする際に、レストランのウェイターにたのんで、パフェに指輪をのっけてもらう。だが、ちょっと目を放した隙にドリュー・バリモアはそのダイヤのリングを食べてしまうのだ。8000ドルの1.5カラットの指輪。高級アクセサリー店ハリー・ウィンストンで買ったから8000ドルもしたんだ。内科の医者の親戚の店で買えば6000ドルらしいのだが・・・・・・。この映画、ニューヨークの超リッチな弁護士一家を中心とする人々の恋愛模様を、四季を通じて綴ったミュージカル・コメディだ。ニューヨーク・パリ・ヴェネツィアを舞台に、お金持ちの大家族の、ひとりひとりの恋の行方を描いている。

Everyone Says I Love You
The great big mosquito when he sting you
The fly when he gets stuck on the fly paper too says
I Love You

ちなみにプロポーズされたい場所のベストスリーは、第1位 レストラン、第2位 海、第3位 夜景がきれいなところだそうだ。
この際、おしゃれなレストランで、シャンパン・グラスに婚約指輪を入れて、酒の力も借りながら言っちゃうというのはどうだろう。
「アイ・ラブ・ユー!!」
そして、ぼくが考える最強のプロポーズ言葉
「毎月お小遣いあげるから、養 っ て !!」
ただし、これを言って彼女からビンタを張られたら、彼女とは縁がなかったものと思って諦めてください。


風のささやき

2007-06-19 20:01:43 | old good things

「ねえ、私を愛してる?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつかもっと先によ。」
「もちろん結婚したい。」
「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」
「言い忘れてたんだ。」
「子供は何人欲しい?」
「3人」
「男? 女?」
「女が2人に男が1人。」
彼女はコーヒーで口の中のパンを噛み下してからじっと僕の顔を見た。
「嘘つき!」と彼女は言った。
しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。
~「風の歌を聴け」より~

映画"プルートで朝食を" 最後に聞くダスティ・スプリングフィールドが歌う”風のささやき the windmills of your mind” はぐっと心にしみた。もともとこの曲は、スティーブ・マックイーン主演の「華麗なる賭け The Thomas Crown Affairs」の中で使われた主題曲。名匠ミシェル・ルグランによる主題歌は、ノエル・ハリスンが歌いアカデミー主題歌賞を獲得した。
映画ではマックイーンが操縦するグライダーが風の中で舞うシーンに使われている。何故この曲のメロディーにこんなに郷愁を感じるのかわからないけど、とにかく口ずさんでも聴いていても泣ける。

The windmills of Your Mind

Like a circle in a spiral, like a wheel within a wheel,
Never ending or beginning on an ever spinning reel,
Like a snowball down a mountain or a carnival balloon
Like a carousel that's turning running rings around the moon,
Like a clock whose hands are sweeping past the minutes of its face,
And the world is like an apple whirling silently in space,
Like the circles that you find in the windmills of your mind.

丸いリンゴのような世界と静かに廻る 心の風車を見つけた


郵便配達は二度ベルを鳴らす

2007-06-18 19:56:57 | cinema

まずはタイトル。「郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす/THE POSTMAN ALWAYS RINGS TWICE」と、きちんと原題のalwaysを訳したタイトルの文庫も出ていたと思うが、映画の邦題は「郵便配達は二度ベルを鳴らす」だ。
原作者のジェイムズ・M・ケインは、この作品のタイトルは、この作品が13もの出版社から出版を断られており、断りの手紙を届ける郵便配達が2度ベルを鳴らしてやってくることから名づけたとしている。そして、14番目の手紙がベストセラーの架け橋となったのだ。やっぱり、あきらめちゃいけない。

"The title is something of a non sequitur; nowhere in the novel does a postman character appear, nor is one even alluded to. When asked for an explanation, Cain stated that the manuscript had been rejected by 13 publishers prior to being accepted for publication on his 14th attempt, so that when the publisher asked him what he wanted the work to be entitled he drew on this experience and suggested The Postman Always Rings Twice." http://en.wikipedia.org/wiki/The_Postman_Always_Rings_Twice

原作が出たのは1934年。1929年の大恐慌以来、アメリカは不況のまっただ中にあり、失業者や浮浪者が溢れていた。この映画の主人公も失業者の流れ者である。不倫、殺人、詐欺がテーマの過激なこの小説は絶賛を浴び、ベストセラーの一冊となった。しかし、道徳観の欠如した物語は当時の観客にはあまりにも衝撃的だったため、小説はしばらくは映画化されずにいた。

この小説は4度、映画化されている。フランスで1939年にピエール・シュナル監督が、『Le Dernier tournant』のタイトルで最初の映画化を行った。そして、 1942年に、イタリア人監督ルキノ・ヴィスコンティが、映画化権を得ずに『OSSESSIONE(邦題は『郵便配達は二度ベルを鳴らす』)』のタイトルで映画化。このヴィスコンティの処女作は高い評価を得たものの、アメリカでは上映されなかった。
ハリウッドで映画化されたのは、1946年版(ラナ・ターナー主演)と1981年版(ジャック・ニコルソンとジェシカ・ラング主演、ボブ・ラフェルソン監督)の2本だ。1946年版では、ケアリー・ウィルソンが製作者となり、物語を一般受けしやすいように全体の調子をあげて原作の過激な性と暴力描写は大幅に抑えさせた。監督には職人監督のテイ・ガーネットが起用され、ヒロインであるコーラの官能の度合いを薄めさせ、彼女の着る服を白一色に統一させた。その悪女コーラ役には、当時25歳のラナ・ターナーを抜擢。原作では粗雑、下品、大酒飲みで、妻に暴力をふるう男として描かれているコーラの夫ニックは映画版では大幅に変更され、原作のイメージからは程遠い人物に設定された。

1941年版では、ラナ・ターナーが最初に登場するシーンで、真っ白なショートパンツをはき、太股を大胆に晒している。主人公がひと目で魅惑されてしまうシーンだから相応の魅力的な女優が必要だが、ラナ・ターナーの美しさは際立っていた。一方、1981年版ではジェシカ・ラングが身体を張った演技で、ジェシカ・ラングの太もものSEXYさに衝撃を受けた作品だった。
時代の変遷は、セリフの過激度も変えた。1941年版では”fuck”あるいは”fucking”という言葉は1度も出てこないが、1981年版では2回出てくる。映画がより刺激的になったというか、観客の感性が麻痺してきたというべきであろうか。

なお、有名どころの映画のセリフに出てくる回数を比較してみた。調べた範囲では、どうも1970年を境に、”FUCK”なる言葉が使われるようになり、近年に至ってはそのふぁっきんぐな言葉なしにはふぁっきんぐな会話が成り立たないほどになっているようだ。

『暴力脱獄』 cool hand luke (1967) 0回
『明日に向かって撃て』  butch cassidy and the sundance kid (1969) 0回
『マッシュ』 mash (1970) 1回
『ラスト・ショー』 the last picture show (1971) 1回
『時計じかけのオレンジ』 a clockwork orange (1971) 2回
『フレンチ・コネクション』 the french connection (1971) 5回
『ゴッドファーザー』 the godfather (1972) 0回
『エクソシスト』 the exorcist (1973) 10回
『スティング』 the Sting (1973) 0回
『ディパーテッド』 the departed (2006) 258回


落ちていった

2007-06-17 16:31:00 | プチ放浪 都会編
彼の母親は重い認知症で、いまは、隣県の施設にいた。この施設では、患者の衣類は家族が洗濯するのが決まりだった。そこで、家族と別居中の彼は、週末ごとに母親のお見舞いがてら、洗濯しに通っていた。認知症の母親の症状は、その日その日で変化した。先日訪れた時は、母親は彼のことがわからなかったようだった。彼が何を話しかけても、「はい」とか、「ええ」としか答えない。何かをしてあげても、「お世話様です」と頭を下げるのみだった。彼は、たまらずに、「おふくろ、俺だよ。ヒロユキ!」と呼びかけてみたものの、無表情に「どうも」と返事をするのみだった。彼は、いたたまれなくなって、母親の着替えを抱えて病院の洗濯室へ駆け込む。
1週間分の母親の着替えを洗濯していたら、涙があふれそうになってきた。そのとき、洗濯室にいたよそのおばあさんが、彼に声をかけてきた。そのおばあさんとは、よく洗濯室で顔をあわせていたのだった。
「いつも、大変ね。いいのよ、泣いたって」
おばあさんの言葉に彼は黙って頭を下げた。気がつくと涙がぼとぼと洗濯機の中に落ちていった。

マラソンマン(1976)

2007-06-16 16:47:35 | cinema

1967年の映画『俺たちに明日はない』を発端として、アメリカではアメリカン・ニューシネマと呼ばれる反体制的な若者を描く作品群が1970年代半ばまでいくつか製作された。英語では”New Hollywood”がこれを指す。ダスティ・ホフマン主演のこの映画は、その中の1本だ。場面の切り替えに効果音を先行させる手法は、当時の映像の編集テクニックを思い出させて懐かしい。しかし、現在のスピード感あふれるダイナミックな場面切り替えに比べれば、このような編集テクニックは一昔前の感が強い。

例えば、絶望とも言えるリスクに見合った十数億に値するダイアモンドと、安定した平凡な生活とどちらかを選べと言われたら、あなたはどちらを選択するのだろうか?
ほとんどのフィクションにおいては、リスクを背負って挑戦する方を選ぶのだろう。その方がドラマチックだからだ。
両方の掌からあふれるほどの数のダイアモンド。この映画では、そのひとつぶさえ所有しようとしなかった。高額の宝石よりもなによりも、個人の生活が大事。そんな価値観で、映画が描かれている。ストイックなマラソンのトレーニングを通して、個人の安定した生活が象徴されている。もちろん、そんな選択は現実の世界でもあり得ないだろう。だからこそ、ありえない選択に対して観客は「不条理」の世界をいろいろ考える。この頃の映画は、こんな不思議な余韻を残すものが多い。そして、観客達は映画の底に沈んだわけのわからない「不条理」があることを、暗黙の内に求めるのが条理だった。
ナチの残党とユダヤ人。業を背負った人間達を、当時の懐かしい名優たちが演じている。ダイアモンドの為にユダヤ人だらけの通りを歩くナチの残党。それを指さして「白い天使よ!人殺しよ!」と叫びながら追いかける老婆。なんという怖い映画だろう。子供の頃見た時は、ドキドキするようなサスペンスだと思ったが、今改めて見ると非常に結構重い印象を受ける。

この映画が作られた当時のアメリカでは、政府のベトナム戦争への軍事的介入を目の当たりにすることで、アメリカ国民の自国への信頼感が音を立てて崩れていった時代だ。何よりアメリカ社会に影響を与えていたのは、人種差別問題やベトナム戦争批判などに始まる世論の分裂、黒人暴動や大学紛争などの運動の拡大と激化と、頻発する要人の暗殺であった。 南部のみならず、北部大都市を背景とした人種差別の根深さや泥沼化したベトナム戦争を背景に、 社会の亀裂や対立は険悪になっていた。 こうした問題を招いた元凶は、政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影している。
特徴的なのは、反体制的な人物が体制に敢然と闘いを挑む、もしくは刹那的な出来事に情熱を傾けるなどするのだが、最後には体制側に圧殺されるか、あるいは個人の無力さを思い知らされるといった内容であることだ。すなわち、それまでの勧善懲悪とは一線を置き、不幸な結末が一連の作品の特徴と言える。これは当時の鬱屈した世相を反映していると同時に、映画だけでなく小説や演劇の世界でも流行しつつあったサルトルが提唱した実存主義を理論的な背景とする「不条理」が根底にあるとされている。

話は変わるが、剣道も含めて日本古来の格闘技に「守・破・離」の教えがある。武術を学ぶ心得を説くものだ。最初に基本を学びそれを大事にして、次のステップで、それまで学んだことをバラバラにする。基本をうち破ることで飛躍的な成長が可能なのだ。そして離脱。すべてを超越することにより、神の領域に近付くことができるのだ。従来の概念を打ち破ろうとするアメリカン・ニューシネマは、「破」の時期であったような気がする。そして、我々は大家が仕掛ける不条理の世界に理解した振りをせざるをえなかったのかもしれない。当時、「理解できない」とか「面白くない」と公言するのは、何もわかっていない、あるいは、何も考えない人間であると公表するようなものだった。日本でも、最近、わけのわからない映画が出るようになった。30年遅れてようやく「破」の時期が到来したとすべきなのだろうか。わかったふりをするのは簡単だが、みんなで拒否することも大切だ。面白くなければ迎合せずに口を閉ざすが良い。