tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

ヴァイブレータ

2007-06-15 20:29:13 | cinema

「頭の中の声」。こんな大上段で構えた書き出しで、この映画のことを書けば、きっと失敗する。そういう「頭の中の声」を振り切って、文章を続けることとする。
彼女は、ルポラーター。文章を扱う人間だ。往々にして、文章を書く人たちは、文章を考える時に頭の中で独り言を言っている。それが考えるということ。その独り言は「文字」ではなく「声」だ。頭の中の原稿用紙に文字を書いているんじゃなく、頭の中の自分に向かって話しかけている。少なくとも、ぼくの場合は、脳内での作業は「音声」よりの情報操作だ。
そして、たまに頭の中の声が、妙に覚めた客観的な発言をする。ちょうど、この映画のようにだ。

例えば、英会話。相手への質問が、音となって頭に浮かぶ。これも自動的に浮かんでくるのではなく、自分自身に語りかけ、文章が成立したところで、ようやく口から音声として出て行く。だから、言葉の途中にうろ覚えの単語があると思考が途絶える。あの単語の発音はなんだったかと・・・・・・。

この映画は、神経を病みかけた女が、元不良のトラックの運ちゃんと旅をする典型的なロードムービーだ。しかし女は、しゃにむに自分自身に問いつづけ、他者とつながりを求めつづけている。
残雪の白い景色が続くなか、男は無線のスイッチを入れ、他のトラッカーたちと交信を始める。女はボイスコンバータを使って無線の声と交信しようとするが、突然、それまで聞こえなかった“声”が一気に彼女を襲う。どうしていいかわからず、女は泣きながら「気持ち悪い。吐く」と苦しそうに訴える。男はうろたえ、トラックをガソリンスタンドに停める。女は駆け出し、口に指を突っこんで吐こうとするが、どうしても吐けない。前はあんなにうまく吐けていたのに。助けようと駆け寄る男を拒絶しながら、「気持ち悪い、気持ち悪い」と繰り返し男を叩く。やっとのことで嘔吐し、その場に崩れ落ちる。

「ヴァイブレータ」はトラックの振動を指していることを知り、まったく別のものを考えていた自分に恥じた。”食べはき”はしないが、朝起きた時はすっきりしていて「さすが良い酒は残らない」と思っていると、電車に乗った途端、最悪に。寝ちゃあ吐き、寝ちゃあ吐きを繰り返すのはいつものことだ。映画でも出てくるが、CQには諸説あり「Call to Quarters」の略とか「Come Quick」の略とか・・・・・・「Seek You」ってのはきれいだね。
♪だれでもない わたしから あなたへのことば
「この人が優しいのは感情じゃなくて本能だよ。感情が無くとも優しくする。柔らかい物には優しく触る。桃にそっと触るのとおなじこと。動物みたいなもんだ。本能、本能。でも桃傷んでてても気にしない奴とかさ・・・・・・いい男じゃん、こいつ」

・・・・・・言われてみたいかも。


人魚姫伝説(2)

2007-06-14 20:21:41 | プチ放浪 海沿い編

ネットを調べると、「何故、人魚には女性しかいないのか?」という説明から、「古来からの人魚に関する多くの記録を総合すると、(1)頭や肌が白い。(2)頭に赤くて長い髪がある。(3)体は魚の形で長い。(4)九州北部、日本海沿岸で多く発見されている。等の特徴があげられ、実は人魚のの正体はリュウグウノツカイという深海魚と考えられる」という内容を記述したホームページが多い。
人魚に女性しかいないのは、沖縄などの南の海でジュゴンを人魚として捉えていたためとする説である。ジュゴンのオスには、メスと同様に脇の下に小指ほどの乳首があり、下腹部には外性器のワレメがある。すなわち、〝素人目〟にはオスのジュゴンでもメスにしか見えないらしい。だから、オス・メス関係なく海洋民族のオトコどもはジュゴンを捕まえればやっちまうって説だ。ただ、これは沖縄などの南の方での話だ。ジュゴンが出没しない地方でも伝説になるような話ではない。
つぎに、リュウグウノツカイ。人魚伝説の最も古い記録は、「日本書記」(720年)にあり、このほか、「古今著聞集」「甲子夜話」「六物新誌」などに記録があるとされる。
この中で「日本書記」に出てくる文章は
推古天皇二七年(619)四月壬寅《四》◆廿七年夏四月己亥朔壬寅。近江國言。於蒲生河有物。其形如人。
推古天皇二七年(619)七月◆秋七月。攝津國有漁父。沈罟於堀江。有物入罟。其形如兒。非魚。不知所名。
たったこれだけ・・・・・・。「推古天皇の27年(618)4月4日、近江国蒲生河に人のような形の物がいた、続けて同年7月には、摂津国の漁師の網に、子供のような、魚でも人でもない、名も知れぬ物がかかった」という記述である。似たような話が『山海経』でも出てくるが、ここで言う「人魚」とは、河に住む生き物なのだからオオサンショウウオの一種と考えるのが普通じゃないか?

鎌倉時代中期の説話集『古今著聞集』巻第二十「伊勢國別保の浦人人魚を獲て前刑部少輔忠盛に献上の事」には、人魚についてのもっと具体的な記述がある。

「伊勢国別保といふ所へ前刑部少輔忠盛朝臣下りけるに 
或日大なる魚の頭は人のやうにてありながら 歯はこまかにて魚にたがわず 
口さし出てて猿に似たりけり 
身はよのつねの魚にてありけるを三喉ひきいだしたりけるを
二人してになひたりけるが 尾なほ土に多くひかれけり 
人の近くよりければ 高くをめくこえ人のごとし 
又涙をながすも 人にかわらず 驚きあざみて
二喉をば忠盛朝臣の許へもて行き 一喉をば浦人にかへしてければ 
浦人皆切り食ひてけり されどもあへてことなし その味殊によかりけるとぞ 
人魚といふなるはこれていのものなるにや」
これって、アザラシとか、オットセイとか、イルカとかシャチとか小型のクジラ?古文に強い方、翻訳してください。ってか、浦人はここでも人魚を喰ってるのかよ。

先の、(1)頭や肌が白い、(2)頭に赤くて長い髪がある、(3)体は魚の形で長い、の特徴は、ようやく「甲子夜話」で出てくる。(長いので原文の引用は略)
以上を総合すると、それぞれの書物で、「人魚」との遭遇を書いているが、同じ種類の人魚には遭遇していないんジャマイカ。民話とか、伝説とかそういった話は、まったく違った話がいつのまにか融合して、尾ひれがついて、手足が生えていつのまにか一人歩きするものだ。
ということで、今から1000年後の人々は、ネットに埋もれた古いブログデータを引っ張り出して言うのかもしれない。
「この時代の日本人は、めったに遭遇がかなわないゴマアザラシを捕らえて食べちゃうんだ!・・・・・・普通、食べるか?」

今回はオチがない。だからオチつかない。なんちゃって・・・・・・。
(おわり)


人魚姫伝説(1)

2007-06-13 20:34:09 | プチ放浪 海沿い編

キラキラ光る波間に浮かんで、水中マスク越しに海底をのぞきこむ。黒い小魚が集団で隊列を組んだランダムウォークをしているその向こうに、砂地に同化したつもりのエイがひそんでいる。
フィンを静かにあおって、エイが体を半分潜り込ませた砂を巻き上げる。
体を現したエイは、何故見つかったのかと、あわてて胸びれを波打つように動かして逃げていく。

<お前ら、エイのあそこは人間とそっくりなんだぞ。よく見ておけよ>
関西出身の友人に言われて、ぼくは水槽のガラスに沿って水面に向かって泳ぐエイの体盤の裏側をじっくり見た。が、なにがなんだかよくわからなかった。学生の卒業旅行の頃の話。だから、だいぶ前のことだ。
先日、中島らも原作の映画「寝ずの番」を観たら、エイの話が出てきてこの話を思い出した。映画は、独特な語り口で上方落語界の人間模様をお通夜を通して描いた洒落気たっぷりの物語だ。学生時代の主人公の橋七は、なにが悲しいのか初体験の相手に海を泳ぐエイを選ぶ。エイのあそこが女性のあそこの感触に似ているかららしいのだ。漁船をチャーターして瀬戸内海へ漁にでかけ、ようやく釣り上げたアカエイとコトに及ぶ。無事に筆おろしを終えた橋七を、一部始終を見ていた船長が祝ってくれたという話だ。
中島らも(1952年4月3日 - 2004年7月26日)も、兵庫県尼崎市出身だ。一方、箱根よりも東で育ったぼくは、このエイのあそこに関する話を聞いたことがなかった。だから、このエイの話は関西を中心に定着しているのかと思いネットで調べてみたら、どうやらこの話は全国区のようだった。

こんな書き出しで、この文章は一ヶ月以上、ハードディスクに放置されたまま、まったく進まなかった。なんせ、エイで初体験! これほどの火の玉のような大ネタの後で、なにをオチとして文章を書けるというのだ。モチロン、中島らも氏がオトコとエイの話として取り上げたのなら、玉砕を承知でいっそのことタブーに果敢に挑戦して、女性とエイの組み合わせで書こうかとも考えた。しかし、書いたら最後、いつも私のブログに遊びに来てくれるジョセフィーヌがそれきり来なくなってしまうかも知れないので恐くて書けなかった。何で女性に女性の代用が必要だとその時に思ったのか今ひとつよくわからないのだが。
オチが思い付かなければ、文章をまとめる上で禁断の手を使う最後の方法がある。「エイなんて、でエイッきらいだ!」ってやるやつ。おいそこ、書く前にオチをばらさないように。
しかも、エイについて調べてみたら、その話にはまるで展開がない。日本ではエイを食べないと思っていたが、調べたら全国くまなく食べているようだ。カマボコにしてもうまいらしい。縄文時代の貝塚からも出土し、昔から食用として利用されてきたとのことだ。知らないのは私だけだった。
しからば、獣姦に話をもっていって・・・・・・。まあ、エイの場合は魚だから魚姦ということになるが。
ネットで調べてみたら、海洋民族である我々を反映して、人魚伝説(八百比丘尼(やおびくに))は全国津々浦々にあった。
「人魚を捕らえて!食べちゃったら!不老不死になって!自殺しちゃった!?」
あまりにも調べた人魚伝説が意外な展開を見せたので、文章が新聞のTV欄のようになってしまった。この伝説を知らなかったのも私だけのような気もするが。
ここでポイントは、めったに遭遇がかなわない人魚を捕らえて食べちゃうところである。・・・・・・普通、食べるか?
まあ、背に腹は変えられない。海洋民族たるもの、人魚は半分は魚なんだから、食べちゃうぐらいでオドロいちゃいけない。ところが、人魚を食べると不老不死になっちまうのである。しかも、そのオチが、「まわりの人がどんどん年老いて死んでいくのに耐えられずに自殺してしまうのである」
この民話は、得体の知れないものを食べちゃダメという教訓と、不老不死になっても結局は死んじゃうという宇宙の真理を表しておりとても奥が深い。・・・・・・というかまったく理解できない。
(続きは明日)


マーサの幸せレシピ

2007-06-12 20:30:00 | cinema

あの厳格なドイツ人がこんなイタリアンテイストの映画をつくったんだと思ったら、脚本も担当した監督のサンドラ・ネットルベックはTV出身の若い女性監督だった・・・・・・orz。どうりで、完ぺき主義をもってフランス料理店を切り盛りする、キャリアウーマン的な女性シェフが出てくるのもうなづける。ただ、料理に「うとい」オレっちにしてみれば、シェフが女性でも男性でもどちらでも良いこと。愛なんてこもってなくても、年季の技と心がこもっていりゃ何でもいいやと思ってしまうけど・・・・・・。(なんでもいいやってのは、投げやりなんじゃなくてEverything is OKって意味ッス)
気に食わない客がいたら、「てめえ、江戸前のすしを食うなんて10年はええよ(早いよ)。おととい来やがれってんだ」でいいと思うんだけどね。
でも、オーナー兼、料理人の個人経営の店ならいざしらず、雇われシェフだったらそうも言ってられないのかね。愛がどうたらこうたら要求する客の方が間違っているような気がするけど・・・・・・。
この反論に、こどもを使うってのは、卑怯なやり方だ。子供は正直だから、簡単な料理でも愛情がこもっていれば食べるなんて、それは大人が勝手に考えた一方的な幻影ぢゃないの?だって、ウチの子は すし(100円じゃないヤツ)>>>パスタ類>>>愛情こもった焼き魚。ただ、これ、どういうわけだか、年齢とともに好みの順番が逆転していく。もう、毎日でも焼き魚でいいス。なんせヘルシーだし。

なんてね。こざかしいことを言って文句付けてみても、良い映画は良い。この女性監督、やはり自分の脚本で「サージェント・ペッパー ぼくの友だち」を後年に撮っている。ともに、だれかに教えてあげたいと思えるような心が温まる映画。映画も完璧ぢゃなくても、愛が詰まってればいいってことッス。


ダイリキを大盛りで。ヨロシク♪

2007-06-11 19:57:36 | 日記

2年に一度、いや、3年に一度のことだ。単身赴任のオヤジどもに付き合って、深夜まで飲む。終電はとっくの昔に終わっているから、タクシーを飛ばしてうちに帰る。ただし、タクシーは自宅から最寄の駅で降りる。そこには、私の愛車、アマンダが待っているからだ。
といっても、私には自転車に女性の名前をつける趣味はない。この名前は、この文章を書くに当たって、少し前に便宜的につけた名前だ。というのも、自転車に名前があったほうが、文章を書きやすいからだ。世の中には自動車やパソコンに女性の名前をつけてかわいがる変な趣味のおっさんがいる。しかし、私には、決してそのような変な趣味はない。まして、自転車だったら名前をつけるにしても、もっと文学的にロシナンテなどという名前にするであろう。
ともかく、タクシーで自宅にまっすぐ帰ればいいものを、地球温暖化をいつも念頭において生活している私は、少しでも二酸化炭素を減らすため、その日の朝、駅前に停めておいた愛車キャロラインを転がして家路についた。
ところがこの日は、駅裏で、いつも通りがかる度に気になっていたカフェバーの窓の灯りに誘われてその店の扉を開けたのだった。
店の中は、カウンター席が8席、壁際にロマンスシートとでも言うのだろうか、2人が膝をくっつけ会って座るような小さなテーブルと、2脚のイスがセットになったテーブルが5つばかり並んでいる。こんな店によくあるようなテーブルサッカーゲームや、ジュークボックスは見当たらず、壁にはハワイかどこかの海べりの絵、夕日にヤシの木がシルエットになっているそんな絵がはられている。
店の名前はcocomo。まさに絵に描いたような名前の店だった。
もう、日付が変わって土曜日の深夜。こんな時間にいた客は、ビールのグラスを前にした正体不明の若い女だけだった。
「いらっしゃい」
40歳前半であろう、昔サーファーだったことを想像させるマスターに注文を促され、メニューを一通り見たうえで注文する。
「ダイリキを大盛りでね♪」
さすがにマスターは苦労人なのだろう。「ダイキリですね」と、さりげなくかわして注文を確認する。
敵はなかなか腕が立つと読んだ。”ダイリキ”を注文し、出てきたのがダイキリだったら、こんなもん頼んでない。私が頼んだのは”ダイリキ”だ。なんてイチャモン付けたら、一杯ぐらいはただで飲ましてくれるかもしれない。命拾いしたなcocomoのマスターよ。いや、私はただで飲みたい訳ではない。文章書きのしがないサガで”ダイリキ”をおしゃれなカフェバーで注文したら、何が出てくるのか確かめずにはいられない気持ちを抑えることができなかっただけなのだ。

それにしても”ダイリキ”という言葉には、そこはかとない不思議な響きがある。オリジナルのカクテルの”ダイキリ”は、元々キューバにはダイキリという名の鉱山が存在しており、そこで働いていたアメリカ人の技師たちが、灼熱の地で清涼感を求めてキューバの特産物であるライムなどを使って作ったのが始まりとされている。このダイキリの一文字を入れ替えただけで、なにかマッチョな男くさいイメージがふつふつと湧き上がってくるのだ。たった一文字を入れ替えただけでこれほどの情感を醸し出す例は、他に少ない。
以前、都内のカフェバーで”マガルリータ”や ”ブラッディ・マーリ”を頼んだことがあったが、”ダイリキ”ほどのインパクトはない。これに匹敵するのを無理やり考えると”モコスミュール”とか”スロー・テーキラ”ぐらいのものだろうか。しかし、ちょっと変な発音としか取られないような気がしてならない。
このように、一文字だけを入れ替えることによって生み出されるそこはかとない脱力感はよく使われている手法で、それはカクテルの範疇だけに収まるものではない。
例えば、Adidas, Lacose, Ralph Louren,  Burbarry, Babby phat...など。ていうか、商標を一字だけ変えると微妙な言葉というよりかなりの大問題だ。
ということで、3時には閉店するというこの店を出たのは朝の5時を回っていた。白々と明けていく朝もやの中を、私はベロンベロンになりながら、愛車ケイトを押して家まで帰った。翌日、店で妙にはしゃぎまくっていたのを覚えているが、マスターがどんな顔だったか、また、一人いた若い正体不明のオンナがどんな女だったかぜんぜん思い出せないでいた。
ジンビームのボトルをキープしたことだけ覚えているが、その店には恐くてなかなか行けそうもない。もし、メニューに”ダイリキ”が新たに加えられていたとしたら、私はそんな店には行きたくない。