市教委は3日、歴史公園整備の事前調査として西北角の約1000㎡を発掘し、西尾城跡発掘調査の概要を発表した。
戦国時代に造られた外掘から、幅6・7m深さ2・5mの土盛りが見つかった。堀の中が障子の桟のように仕切られ障子堀とみられる。
障子堀は、県内では安城市・安祥城に次いで2例目の発見という。
現地説明会は、7日午前10時30分から開かれる。
[参考:2009.2.4 読売新聞]
西尾城は、承久3年(1221)鎌倉幕府の執権北条泰時(1183-1242)に仕える足利義氏(1189-1255)が承久の乱(1221)の戦功により三河の守護職となり築城したのが始まりで、西条城と名づけられたという。
足利義氏は西条城の東にも東条城を築城した。長男長氏(1211-1290)を西条城主とした。足利長氏は地名にちなみ吉良氏と称し、西条城は吉良氏14代の居城となった。
前出参考:障子堀
戦国時代に造られた外掘から、幅6・7m深さ2・5mの土盛りが見つかった。堀の中が障子の桟のように仕切られ障子堀とみられる。
障子堀は、県内では安城市・安祥城に次いで2例目の発見という。
現地説明会は、7日午前10時30分から開かれる。
[参考:2009.2.4 読売新聞]
西尾城は、承久3年(1221)鎌倉幕府の執権北条泰時(1183-1242)に仕える足利義氏(1189-1255)が承久の乱(1221)の戦功により三河の守護職となり築城したのが始まりで、西条城と名づけられたという。
足利義氏は西条城の東にも東条城を築城した。長男長氏(1211-1290)を西条城主とした。足利長氏は地名にちなみ吉良氏と称し、西条城は吉良氏14代の居城となった。
前出参考:障子堀