■2009.2.8 蒲郡市教委が2月26日から始めていた、上ノ郷城跡の第3次発掘調査で後の天守閣に当たる主要な建物の柱穴が多数出土した。見つかった柱穴は5段に区別されている城郭の最上段にあり、1.5間(約2m70cm)間隔に並び、建物の位置関係がはっきりと分かる。ほかの建物との連絡通路とみられる場所には幅約60cm、長さ約3mにわたって、大きさが10cmほどの石が敷き並べられ、建物の入り口付近に縦1m、横1・5mほど土砂をたたき処理した場所もあった。
柱穴の周囲には排水に使われたとみられる区画溝があり、北端からは柱の基礎に使ったと思われる大きな石がたくさん見つかった。ほかに、大壺の破片や土師器の小皿、盃などの出土品があった。[参考:2009.2.8東日新聞]
■2009.2.18上ノ郷城跡の第3次発掘調査で、徳川家康軍のものとみられる鉄砲の弾(たま)1個が見つかった。東三河では戦国後期の弾が長篠城跡や設楽城跡から見つかっているが、鉄砲伝来間もない時期のものは珍しいという。
弾は、遺構面から10cmほどの深さの位置で発見され直径13cm、重さ20g。砂型から鋳出したことを物語る筋が1本通っていた。全体が真っ白な錆びに覆われており、鉛分の純度が高い。
同城の主の鵜殿氏が今川方だったことから、勢力拡大で東進していた徳川家康に攻められ、陥落したのが1562(永禄5)年。種子島に鉄砲が伝来したのが、天文12年(1543)8月だから、わずか19年後に使用されたことになる。[参考:東日新聞]
柱穴の周囲には排水に使われたとみられる区画溝があり、北端からは柱の基礎に使ったと思われる大きな石がたくさん見つかった。ほかに、大壺の破片や土師器の小皿、盃などの出土品があった。[参考:2009.2.8東日新聞]
■2009.2.18上ノ郷城跡の第3次発掘調査で、徳川家康軍のものとみられる鉄砲の弾(たま)1個が見つかった。東三河では戦国後期の弾が長篠城跡や設楽城跡から見つかっているが、鉄砲伝来間もない時期のものは珍しいという。
弾は、遺構面から10cmほどの深さの位置で発見され直径13cm、重さ20g。砂型から鋳出したことを物語る筋が1本通っていた。全体が真っ白な錆びに覆われており、鉛分の純度が高い。
同城の主の鵜殿氏が今川方だったことから、勢力拡大で東進していた徳川家康に攻められ、陥落したのが1562(永禄5)年。種子島に鉄砲が伝来したのが、天文12年(1543)8月だから、わずか19年後に使用されたことになる。[参考:東日新聞]