歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

橿原市・観音寺地区遺跡 縄文時代の樹海が出土

2009年02月27日 | Weblog
 市教委が27日、観音寺地区遺跡で縄文時代晩期(約2800年前)の樹木の根株30本分がまとまって見つかったと発表した。
 幹は直径1m近いものもあった。木は、洪水で一気に埋まり、地中でタイムカプセル状態で残った。
 また、川跡からは、直径1・8mのサークル状に杭(高さ20~80cm)を34本並べた遺構を確認。杭の間につるをからませて、「定置式漁法」の仕掛けと判明した。
[参考:産経新聞]
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韓国・江華・高麗宮城 初めて痕跡が現われる

2009年02月27日 | Weblog
 高麗正史に高麗が蒙古抗争期、江華島に開城宮城に次ぐ規模で作ったとされる「江華・高麗宮城(강화 고려 궁성)」が初めてその痕跡を表わした。
 財団法人民族文化遺産研究院は江華郡が計画する高麗宮跡復元計画の一環として、昨年12月26日から朝鮮後期外圭章閣址が位置する江華郡江華邑743-1,302-2番地一円の2千㎡に対する発掘調査を行い、高麗宮城の跡を捜し出したことを27日明らかにした。
 この一帯では高麗時代大規模建物があったことを推定させる大型石築壇と石列、塀墻が現れて、高麗時代中・後期青磁類と瓦類をはじめとする多くの高麗時代遺物が発見された。
 今まで、江華・高麗宮城は各種記録にその派手な記録を伝えるが、これという考古学的跡は発見されなかったという。
[参考:聯合ニュース]

●江華島(こうかとう)
 ソウル特別市の北西、南北休戦ライン近くにある島。仁川広域市に属する。
 1232年、江華島への遷都が行われ、このとき造営されたのが江華山城。1270年、高麗は江華島を放棄。開城に遷都した。

●年表 (蒙古による高麗侵略と元寇)
1227年のチンギス・ハーンの死去
1231年:モンゴルによる第一次高麗侵略が起こる。
1232年:高麗の武臣の崔瑀が、開京(開城)から江華島に遷都させる。
1233年:金の首都開封、モンゴルによって陥落。(翌年、金朝滅亡)
1270年:高麗・元宗は、蒙古から戻り旧都・開城に着いたが、三別抄が公私の財貨を持ち出し、百官の妻子を人質として連行し珍島に移ったが、その後に蒙古が進軍し焦土となり、結局江華島に戻ることができず、そのまま遷都せざらるを得なかった。
1271年:モンゴル、国号を「元」と改める。
1273年:元・高麗軍、三別抄を平定。元が耽羅(済州島)を領有する。
1274年:元・高麗軍による第一次日本「征討」(文永の役)
1281年:元・高麗軍による第二次日本「征討」(弘安の役)

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滋賀県西浅井町・塩津港遺跡 平安末期の精巧な船形木製品が出土

2009年02月27日 | Weblog
 塩津港遺跡で、平安末期の精巧な船形木製品が26日までに見つかった。
 船形木製品は長さ17・3cm、幅4cmで、一部に着色がある。平底で、船尾が切り落ちた特徴を持ち、船体には梁2本が前後に渡る。側壁部には木片で埋めた穴が等間隔に計10カ所ある。船首に削り跡と釘穴、前部梁に凹みがあり、旗や帆があった跡とみられる。
 神像5体が見つかった神社遺構の堀跡付近で発見した。同遺跡からはほかにも運送業者の大型起請文木簡が見つかっており、船形木製品も航行の安全祈願のため物資の運搬を担った人が奉納したとみられる。
県文化財保護協会によると、同時期の船形木製品は全国的にも珍しく、梁(はり)や帆などの構造が分かる作りも極めて異例という。
 室町期ごろに登場する構造船の形態を示しているが、200年ほど遡ってその姿を現している。
 平安末期以降の船や船形木製品の出土例は全国でも非常に少なく、船の進化過程は明確ではない。今回出土した船形木製品は写実性が高く、実船をモデルにしたとみられ、歴史を埋める1級の資料になりそうだとする。
[参考:京都新聞]

<過去の記事>
2008.11.11
平安時代の神像 5体出土

2007.10.5
塩津港遺跡で、平安時代末期「起請文」が書かれた木簡が大量に出土
 県文化財保護協会が5日、平安時代末期の神社遺構に関連する堀跡から、神への誓詞「起請文(きしょうもん)」が書かれた木簡が大量に出土したと発表した。木簡に記された起請文が確認されたのは初めて。うち1本は保延3(1137)年の年号があり国内最古の起請文で、他に長さが2.2mある国内最長の木簡も見つかった。12世紀半ば前後のもので、港で物資の運搬を担った人々が「荷物をなくさない」「盗人ではない」といった内容を神々に誓願。神社に奉納、掲示して村人にも周知したとみられる。
 ■塩津港遺跡とは
 琵琶湖の最北端にあり、古代から北陸と畿内を結ぶ湖上水運の重要港だった。平安中期の律令(りつりょう)の施行細則「延喜式」には「北陸からの物資は敦賀で陸揚げして塩津に運んだ後に湖上を渡り、平安京に献上する」と定められていた。
[参考:京都新聞]
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山口市(旧・小郡町) 奈良時代中期の河川の改修用?石板に「秦氏」「飾磨」が刻まれていた

2009年02月27日 | Weblog
 山口県内で1963年に出土した奈良時代中期(8世紀中頃)の小型石板に、古代の渡来系氏族名「秦」や「飾磨(しかま)」(現在の兵庫県姫路市)の地名などが、刻まれていたことがわかり、神戸大大学院・坂江渉講師(日本古代史)らの研究チームが26日、発表した。
 用途は不明だが、河川改修現場で使われた可能性があり、秦氏の活動を裏付ける貴重な遺物としている。
 石板は将棋の駒に似た五角形で、縦約23cm、横約15.9cm、厚さ約3cm、重さ約2・7kg。
表には「餝磨郡因達郷秦益人石(しかまぐん・いだてごう・はたのますひと・いし)」、裏には「此石者人□磨?石在」と線刻され、飾磨郡の秦益人という人物が持っていた石とみられる。
 集落の最小単位が「郷」になったのは740年(天平12年)以降で、字体も書風から同時期に書かれた文字と一致していた。
 上部に直径約1cmの穴があり、ひもなどを通して携行していたとみられる。側面には線状に削られた跡があり、砥石としても使用されたと考えられる。
 1963年に山口県吉敷郡小郡町(現山口市)の民家の敷地内で出土、現在は山口市の小郡文化資料館(山口市小郡下郷)が所蔵し展示している。
 出土地付近は聖武天皇が752年(天平勝宝4年)に建立した奈良・東大寺大仏に使われた銅の積み出し港とされる川があり、飾磨とともに同寺領の荘園だった。坂江講師は「朝廷の命を受けた飾磨郡の秦氏が、河川改修に派遣されたのでは」としている。
 朝鮮半島から渡来した秦氏は聖徳太子ら有力者を補佐して勢力を伸ばした。本拠の山背国(現在の京都市)で治水を手がけ、後の平安京遷都(794年)に大きな役割を果たしたとされる。
[参考:読売新聞、中国新聞、共同通信]

備考:
①続日本紀・天平2年(730)3月13日 「周防国熊毛郡にある牛嶋の西の汀と、同国吉敷郡の達理山から産出する銅を、治金精錬してみたところ、いずれも実用に堪えることがわかった。そこで周防国に命じて採鉱・冶金させ、隣りの長門の行なう鋳銭に充てさせた。」
②東大寺文書に「吉敷郡椹野(ふしの)庄」の名が見え、椹野川は銅を運ぶのに利用されている。椹野庄は小郡以南の地域という。
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京都府・温江遺跡 弥生時代の人面付き土器が出土

2009年02月27日 | Weblog
 府埋蔵文化財調査研究センターが26日、環濠集落跡の温江(あつえ)遺跡(京都府与謝野町)で、弥生時代前期(紀元前4世紀ごろ)の素焼きの人面付き土器が出土したと発表した。頭髪を後頭部で結ったような独特な形状をしており、穏やかでのっぺりとした当時の日本人の表情をしており、一見「ウルトラマン」のよう。
 土器は集落南側の溝(幅約2m、深さ約1・2m)から、壺や甕の破片とともに出土した。首から下の部分は欠落しており、中空で、長さ、幅は各7・6cm、奥行き7・1cm。頭部に櫛で結った髷があり、その上に簪(かんざし)のようなものを刺していたと見られる穴もあった。えらが張り、切れ長の目で鼻筋が通っており、両耳に貫通した小さな穴があけられており、後頭部右側には赤色顔料が残されている。農耕祭祀などに使われた可能性があるという。縄文人とは異なる当時の日本人の表情がうかがえる。
 土器は3月15日まで町立古墳公園はにわ資料館で展示される。
[参考:産経新聞、共同通信、京都新聞]
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