歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

臼杵市・木所遺跡 1200年前後の掘立柱建物跡などが出土

2009年02月28日 | Weblog
 臼杵市教委は3月1日午後1時半から、同市野津町烏嶽で発掘調査した木所遺跡の現地説明会を開く。同遺跡からは旧石器時代、縄文、鎌倉、室町時代などの遺構・遺物が確認されている。
 臼杵市教委は26日、同市野津町烏嶽にある木所遺跡の発掘調査結果を公表した。国宝臼杵石仏(同市深田)周辺の遺跡が機能していた時期と同じ、12世紀末―13世紀初めごろ、同所には河川の通行を管理するような施設となる掘立柱建物4棟の跡が見つかった。石仏が造られた時代の野津地域と臼杵地域の動きを探る上で重要な手掛かりとする。
 このほか、同所に旧石器時代まで川があったが、鎌倉時代までの間に埋められてしまったことも分かった。
 3月1日午後1時半から、現地説明会が行われる。雨天決行。


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宮城県・宮沢遺跡、鶴ノ丸遺跡 平安時代の「のろし」跡発見

2009年02月28日 | Weblog
 宮城県の宮沢遺跡(大崎市)と鶴ノ丸遺跡(栗原市)で出土した平安時代前半の遺構が、当時、通信手段とされたのろし「烽(とぶひ)」を上げた跡とみられることが分かった。
 「烽」は日本書紀に記されるなど、存在はわかっているが、実際に使われた遺構は確認されていないという。
 遺構は、直径約3~5m、深さ約1~2mのすり鉢状のくぼみで、宮沢遺跡で2基、鶴ノ丸遺跡で3基あった。いずれも見晴らしのよい丘の上にあり、8世紀末~9世紀後半ごろのものと見られている。両遺跡は、蝦夷(えみし)に対する朝廷側の拠点「城柵」やその近くにある。
[参考:読売新聞]
平安時代の「のろし」跡発見、宮城県の2遺跡から(読売新聞) - goo ニュース

 『日本書紀』 継体八年三月、伴跛、城を子呑・帯沙に築き、烽候・邸閣を置きて日本に備う。
 『日本書紀』 天智三年(664年) 是歳、對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等に、防(さきもり)と烽(すすみ)とを置く。又筑紫に、大堤(おほつつみ)を築(つ)きて水を貯へしむ。名けて水城と日ふ。
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京都市・清水寺 坂上田村麻呂の坐像を99年ぶりに公開

2009年02月28日 | Weblog
 清水寺で28日、平安時代の征夷大将軍として知られ、寺の創建者とされる坂上田村麻呂(758~811)を祀る重要文化財「開山堂(田村堂)」の開帳法要があった。
 現在の開山堂は江戸時代初頭に再建されたもので、田村麻呂千百年遠忌の1910年以降、非公開としてきた。
 来年が田村麻呂の1200年忌にあたることから、今年の西国三十三所観音霊場の「本尊開帳」に合わせて、寺の本尊「十一面千手千眼観世音菩薩」が公開されるのに合わせ1年前倒しで公開された。
 堂内の漆塗りの厨子(重文)には、秘仏とされる衣冠束帯姿の田村麻呂公坐像(高さ78cm)と、高子夫人坐像(同80cm)を安置。像がいつ作られたかは不明。
 この日は午前11時から法要が営まれ、導師を務める森清範貫主や僧侶8人が参列し、僧侶が堂内に置かれた漆塗りの厨子(重文)の扉を開けた。秘仏の田村麻呂と高子夫人の座像を前に、森貫主は「田村麻呂ゆかりの田村堂を開帳して、広く大衆が結願(けちがん)してほしい」との趣旨の表白を読み上げた。
 一般公開は3月1日~5月31日で、拝観時間は午前9時~午後4時。
[参考:京都新聞、毎日新聞、読売新聞、共同通信]
99年ぶり坂上田村麻呂の坐像…京都清水寺開山堂で開帳(読売新聞) - goo ニュース

備考:
三善高子(みよしのたかこ、生没年不明)
 坂上田村麻呂室、父は三善清継とする。三善高子の名は、『清水寺縁起』に出て来るのみである。
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国分寺市・武蔵国分寺跡 「講堂」の基壇に瓦積の外装

2009年02月28日 | Weblog
 武蔵国分寺跡の調査で、「講堂」の基壇に瓦積みと呼ばれる外装が施されていたことが分かった。
 「講堂」は創建時には、長さ約28.8m、奥行き約16.8mの建物が建てられた。その後、本尊をまつる「金堂」と同規模に再建されたことも改めて確認されたという。
 28日午前10時と午後2時からの2回、現地で説明会が開かれる。
[参考:朝日新聞]

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石岡市・瓦塚窯跡遺跡 5基の窯跡と創建期の瓦片が出土

2009年02月28日 | Weblog
 石岡市部原の「瓦塚窯跡遺跡」(県指定文化財)で、谷を挟んだ南北地域から計5基の窯跡が確認された。特に、南側の窯跡の灰原からは天平13年(741)に建立された国分寺の創建期まで、約50年ほど遡る軒平瓦と軒丸瓦片が出土。窯跡は八世紀後半から九世紀中ごろにかけて、国分寺の補修用の瓦が焼成されていたとする従来の定説を覆し、創建期から本格的に操業が行われていたことが判明した。
 窯跡の範囲は谷の北側にあると考えられていたが、今年度調査で南側から窯跡2基が確認され、遺跡の範囲が広がった。
 国分寺の瓦は、瓦塚のほか風返瓦窯(旧石岡市)、松山瓦窯(旧千代田町)、柏崎瓦窯(旧出島村)の4カ所で生産されていた。瓦塚遺跡はこれまでの調査で、北側で窯跡23基が確認されており、全体像が確認されれば、県内最大とみられていた「松山瓦窯跡」(旧千代田町)をしのぐ瓦窯遺跡となる可能性が高いとする。
 現地説明会は28日と3月1日。両日とも1日6回に行われる。
[参考:茨城新聞、毎日新聞]

瓦塚遺跡
 常陸国府(現在の石岡市内)に常陸国分寺と常陸国分尼寺が建てられたが、その屋根瓦を作り供給するための瓦工場だったとされる。1968年に山林を開墾中に7基の窯跡が発見された。「地下式有段登窯」で、灰原からは布目瓦など多くの遺物が出土した。
 これまでに23基の窯跡が確認されていたが、今回あらたに5基の窯跡が出土したので、28基の窯跡が出土したことになる。

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