瀬戸市が昨年に事業を凍結した「せと赤津工業団地」予定地で窯跡の発掘調査が行われ、いずれも13世紀の山茶碗の窯跡が2カ所発見されていたことが分かった。中世における瀬戸窯の中心地での全面的な発掘調査は初めてで、当時の窯業について貴重な資料となりそうだ。
工業団地造成に伴い、市文化振興財団が2007年7月から08年5月まで計4000㎡を調査した。2ヶ所の窯跡とは、「音玄(おとげ)窯跡」と「門前B窯跡」で、いずれも斜面を利用して築いた穴窯が見つかった。無釉の山茶碗を作っていたとみられる。
音玄窯跡では、3基の窯を発見。うち1号窯は13世紀半ばに山茶碗窯として使われた後、200年近くたった15世紀前半に補修し、釉薬のかかった高級品を焼く古瀬戸窯として使われたとみられる。中世で窯を再利用した例は珍しいという。
門前B窯跡では、鎌倉時代から南北朝時代(13世紀前半~14世紀中葉)の窖窯(あながま)5基を発見。窯によって年代は違うが、全体で約100年間に及ぶ長い期間営まれたことが特徴。
2つの窯跡からは、山茶碗の皿や古瀬戸の天目茶碗や灰釉平碗など大量の遺物も出土した。
市文化振興財団の担当者は、昨年5月ごろに現地説明会予定していたが、誘致事業が遅れ、さらに凍結されてタイミングを逃したと話している。
[参考:中日新聞、瀬戸市HP→最新発掘調査情報 ]
山茶碗
一般的には、無釉の陶器であり、東海地域に特有の中世食膳具と表現されている。
さらに詳細に、あるいは最近の研究成果を踏まえて新たな見解を記す資料があるので参照してみた。
●瀬戸市HPの『瀬戸焼の歴史』
瀬戸市域における窯業生産の始まりは、10世紀後半代とされ、灰釉陶器を焼成した窖窯(あながま)が市域の南部の幡山(はたやま)地区で発見されている。11世紀中頃になると、灰釉陶器は器の種類が減少し大小の碗や片口鉢を主体とする生産に移行し、さらに11世紀の終わり頃になると、東海地方の灰釉陶器の生産者はほぼ一斉に施釉技法を放棄し、無釉の碗・皿・鉢類を主体とするいわゆる山茶碗生産に転換する。瀬戸窯においても例外ではなく、専らこの山茶碗を生産した窖窯が市域全域に約200基ほど存在し、室町時代にかけて生産を行っている。
瀬戸窯の山茶碗には、形状が異なる二系統の山茶碗が存在し、一つは、猿投窯や常滑窯などに普遍的にみられる胎土の粗い尾張型山茶碗と、もう一つは東濃窯を中心に広範にみられる均質胎土の東濃型山茶碗である。
これら山茶碗の需要層は、消費遺跡の大半が愛知・岐阜・三重・静岡といった東海地方一円に集中していることから、一般庶民にまで供給された極めて在地性の強いやきものであったと考えられている。 (文は要約)
●『山茶碗の用途をめぐって』(武部真木)
生産期間を12~15世紀、用途は調理する「道具」と「食器」的な要素の両者が未分化な状態、「碗型態の道具」である。(詳細は資料がインターネットで公開されているので是非参照方。)
コメント: 応仁の乱(1466-67)の際、東軍に属して敗れた美濃国異安八郡今須城主長江利景(永井民部少輔)が品野の地に逃れたとされる。文明14年(1482)利景は今村城主松原広長と戦い勝利を収め、瀬戸市一帯を手中にするとある。このあたりの頃に、山茶碗は姿を消して行く。関連があるのか、ないのか興味のわくところ。
[参考:長江利景]
工業団地造成に伴い、市文化振興財団が2007年7月から08年5月まで計4000㎡を調査した。2ヶ所の窯跡とは、「音玄(おとげ)窯跡」と「門前B窯跡」で、いずれも斜面を利用して築いた穴窯が見つかった。無釉の山茶碗を作っていたとみられる。
音玄窯跡では、3基の窯を発見。うち1号窯は13世紀半ばに山茶碗窯として使われた後、200年近くたった15世紀前半に補修し、釉薬のかかった高級品を焼く古瀬戸窯として使われたとみられる。中世で窯を再利用した例は珍しいという。
門前B窯跡では、鎌倉時代から南北朝時代(13世紀前半~14世紀中葉)の窖窯(あながま)5基を発見。窯によって年代は違うが、全体で約100年間に及ぶ長い期間営まれたことが特徴。
2つの窯跡からは、山茶碗の皿や古瀬戸の天目茶碗や灰釉平碗など大量の遺物も出土した。
市文化振興財団の担当者は、昨年5月ごろに現地説明会予定していたが、誘致事業が遅れ、さらに凍結されてタイミングを逃したと話している。
[参考:中日新聞、瀬戸市HP→最新発掘調査情報 ]
山茶碗
一般的には、無釉の陶器であり、東海地域に特有の中世食膳具と表現されている。
さらに詳細に、あるいは最近の研究成果を踏まえて新たな見解を記す資料があるので参照してみた。
●瀬戸市HPの『瀬戸焼の歴史』
瀬戸市域における窯業生産の始まりは、10世紀後半代とされ、灰釉陶器を焼成した窖窯(あながま)が市域の南部の幡山(はたやま)地区で発見されている。11世紀中頃になると、灰釉陶器は器の種類が減少し大小の碗や片口鉢を主体とする生産に移行し、さらに11世紀の終わり頃になると、東海地方の灰釉陶器の生産者はほぼ一斉に施釉技法を放棄し、無釉の碗・皿・鉢類を主体とするいわゆる山茶碗生産に転換する。瀬戸窯においても例外ではなく、専らこの山茶碗を生産した窖窯が市域全域に約200基ほど存在し、室町時代にかけて生産を行っている。
瀬戸窯の山茶碗には、形状が異なる二系統の山茶碗が存在し、一つは、猿投窯や常滑窯などに普遍的にみられる胎土の粗い尾張型山茶碗と、もう一つは東濃窯を中心に広範にみられる均質胎土の東濃型山茶碗である。
これら山茶碗の需要層は、消費遺跡の大半が愛知・岐阜・三重・静岡といった東海地方一円に集中していることから、一般庶民にまで供給された極めて在地性の強いやきものであったと考えられている。 (文は要約)
●『山茶碗の用途をめぐって』(武部真木)
生産期間を12~15世紀、用途は調理する「道具」と「食器」的な要素の両者が未分化な状態、「碗型態の道具」である。(詳細は資料がインターネットで公開されているので是非参照方。)
コメント: 応仁の乱(1466-67)の際、東軍に属して敗れた美濃国異安八郡今須城主長江利景(永井民部少輔)が品野の地に逃れたとされる。文明14年(1482)利景は今村城主松原広長と戦い勝利を収め、瀬戸市一帯を手中にするとある。このあたりの頃に、山茶碗は姿を消して行く。関連があるのか、ないのか興味のわくところ。
[参考:長江利景]