歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

瀬戸市・音玄窯跡、門前B窯跡 中世(13世紀)の瀬戸窯跡を発掘調査

2009年02月11日 | Weblog
 瀬戸市が昨年に事業を凍結した「せと赤津工業団地」予定地で窯跡の発掘調査が行われ、いずれも13世紀の山茶碗の窯跡が2カ所発見されていたことが分かった。中世における瀬戸窯の中心地での全面的な発掘調査は初めてで、当時の窯業について貴重な資料となりそうだ。
 工業団地造成に伴い、市文化振興財団が2007年7月から08年5月まで計4000㎡を調査した。2ヶ所の窯跡とは、「音玄(おとげ)窯跡」と「門前B窯跡」で、いずれも斜面を利用して築いた穴窯が見つかった。無釉の山茶碗を作っていたとみられる。
 音玄窯跡では、3基の窯を発見。うち1号窯は13世紀半ばに山茶碗窯として使われた後、200年近くたった15世紀前半に補修し、釉薬のかかった高級品を焼く古瀬戸窯として使われたとみられる。中世で窯を再利用した例は珍しいという。
 門前B窯跡では、鎌倉時代から南北朝時代(13世紀前半~14世紀中葉)の窖窯(あながま)5基を発見。窯によって年代は違うが、全体で約100年間に及ぶ長い期間営まれたことが特徴。
 2つの窯跡からは、山茶碗の皿や古瀬戸の天目茶碗や灰釉平碗など大量の遺物も出土した。
 市文化振興財団の担当者は、昨年5月ごろに現地説明会予定していたが、誘致事業が遅れ、さらに凍結されてタイミングを逃したと話している。
[参考:中日新聞、瀬戸市HP→最新発掘調査情報 ]

山茶碗
 一般的には、無釉の陶器であり、東海地域に特有の中世食膳具と表現されている。
さらに詳細に、あるいは最近の研究成果を踏まえて新たな見解を記す資料があるので参照してみた。
●瀬戸市HPの『瀬戸焼の歴史』
 瀬戸市域における窯業生産の始まりは、10世紀後半代とされ、灰釉陶器を焼成した窖窯(あながま)が市域の南部の幡山(はたやま)地区で発見されている。11世紀中頃になると、灰釉陶器は器の種類が減少し大小の碗や片口鉢を主体とする生産に移行し、さらに11世紀の終わり頃になると、東海地方の灰釉陶器の生産者はほぼ一斉に施釉技法を放棄し、無釉の碗・皿・鉢類を主体とするいわゆる山茶碗生産に転換する。瀬戸窯においても例外ではなく、専らこの山茶碗を生産した窖窯が市域全域に約200基ほど存在し、室町時代にかけて生産を行っている。
 瀬戸窯の山茶碗には、形状が異なる二系統の山茶碗が存在し、一つは、猿投窯や常滑窯などに普遍的にみられる胎土の粗い尾張型山茶碗と、もう一つは東濃窯を中心に広範にみられる均質胎土の東濃型山茶碗である。
 これら山茶碗の需要層は、消費遺跡の大半が愛知・岐阜・三重・静岡といった東海地方一円に集中していることから、一般庶民にまで供給された極めて在地性の強いやきものであったと考えられている。 (文は要約)
●『山茶碗の用途をめぐって』(武部真木)
 生産期間を12~15世紀、用途は調理する「道具」と「食器」的な要素の両者が未分化な状態、「碗型態の道具」である。(詳細は資料がインターネットで公開されているので是非参照方。) 

コメント: 応仁の乱(1466-67)の際、東軍に属して敗れた美濃国異安八郡今須城主長江利景(永井民部少輔)が品野の地に逃れたとされる。文明14年(1482)利景は今村城主松原広長と戦い勝利を収め、瀬戸市一帯を手中にするとある。このあたりの頃に、山茶碗は姿を消して行く。関連があるのか、ないのか興味のわくところ。
[参考:長江利景]

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韮崎市・隠岐殿遺跡

2009年02月11日 | Weblog

隠岐殿遺跡出土品(韮崎市)。 「発掘された日本列島2011」(江戸東京博物館)にて2011.6.14撮影

 市教委は7日、隠岐殿遺跡(同市中田町中条)で発掘調査現地を専門家や報道陣に公開した。
 同遺跡は新府城の北東約500mの畑から出土した戦国時代後期の遺構で、新府城主だった武田勝頼(1546-1582)の家臣の館跡ではないかとみられている。

 公開したのは発掘した約800㎡の遺構全体と出土品の一部。市教委によると、礎石や地面に直接穴を掘って柱を立てた跡、青磁や白磁、染め付けといった輸入陶磁器の破片など約1000点が出土しており、所有者は身分の高い人物とみられる。
 青磁器には動物や植物が描かれ、破片の湾曲から推定される大きさが直径40-50cmほどになる大皿も出土。建物が焼失したことを裏付ける青磁の釉薬が溶けた痕跡や、焼けた柱の跡、黒い碁石や硯の一部、茶道に使う天目茶碗、抹茶を入れる棗(なつめ)などの焼き物も見つかっている。天目茶碗はほぼ完全な形で出土している。
[参考:2/8山梨日日新聞]

備考:
●遺跡の発掘当初には、家臣クラスの屋敷などが少なくとも3棟はあったと推測されるとしていた。[参考:2/5山梨日日新聞、2/6読売新聞] しかし、遺跡名はまだなかった。今回、隠岐殿遺跡と命名されている。この遺跡が隠岐殿と呼ばれた人物の屋敷跡と想定してのことか。
●隠岐殿: 真田信尹(のぶただ、1543-1632)が隠岐守を名乗っていた。真田幸隆(幸綱、1513-1574)の四男信昌のこと。加津野昌世の養子となり、加津野氏を継ぐ。武田勝頼に仕えて槍奉行を務めた。武田家滅亡後に真田姓に復姓し、名を信尹に改める。
 山梨県北巨摩郡須玉町大蔵にも真田隠岐守館跡があるが、こちらは武田家滅亡後大分経ってから知行され移ったと考えられる。
●棗: 点茶用茶入の一種。形がナツメの果実に似る。大・中・小の三種があり、多くは漆塗。[参考:「広辞苑」岩波書店]
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神戸市・雲井遺跡 弥生中期の鋳型が出土

2009年02月11日 | Weblog
 神戸市教委は10日、同市中央区三宮にある「雲井遺跡」で、弥生時代中期前半の武器形青銅器を作った鋳型の一部や、管玉、勾玉の工房跡が見つかったと発表した。
 鋳型は深さ1・5mの地層から見つかった。シルト岩製か粘板岩製で、縦11cm、横7cm、高さ4・2cm。祭祀に使われた銅剣か銅戈の先端部のものと見られる。後に砥石に転用されて表面はすり減っており、実際に高温の銅を流して鋳造した形跡はなかった。近畿では、尼崎市や大阪府東大阪市などに続き5例目。
 また、弥生中期の円形竪穴建物(直径5・2m)の跡から、作りかけの管玉や勾玉、碧玉の破片、玉作りの道具の結晶片岩も出土し、玉作り工房跡と判明した
いずれも当時の最先端技術で、権力者が率いる大規模な村落があったと見られ、2000年以上前にも三宮が繁栄していたことが明らかになったとする。
 雲井遺跡はJR三ノ宮駅北東約300mにあり、今回の調査は計約6800㎡。市教委はこれまでに、縄文時代の遺構や、弥生、古墳時代の村跡を確認。第2次世界大戦時の焼夷弾や防空壕)跡も発見されるなど古代から現代までの遺物が見つかっている。
 14日午後2時~4時から現地説明会が開かれる。
[参考:読売新聞、神戸新聞]
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インド・アジャンタ石窟 壁画保存へ調査団派遣…東京文化財研究所

2009年02月11日 | Weblog
 東京文化財研究所は12日、インド中西部にある世界文化遺産「アジャンタ石窟群」の仏教壁画を保存・修復するため、調査チームを現地に派遣する。
 同研究所は、バーミヤン(アフガニスタン)と敦煌(中国)の壁画の保存・修復を手がけており、今回の調査により、法隆寺金堂を含めたアジア全域の壁画の影響関係の解明につながると期待している。調査期間は2年。
[参考:読売新聞]
アジャンタ石窟の壁画保存へ調査団派遣…東京文化財研究所(読売新聞) - goo ニュース
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