蘇我馬子の発願で6世紀末に建立された飛鳥寺の創建当初のものとされる中金堂の礎石が、大阪・奈良府県境の葛城山付近に分布する石であることが、県立橿原考古学研究所の奥田尚共同研究員(地質岩石学)の調査でわかった。
飛鳥地方で産出する石を使わず、わざわざ約15kmも離れた山から石を持ち込んでいたことになる。日本書紀には、馬子が推古天皇に「葛城が蘇我氏の本拠」と主張した記述があり、関連が注目される。
礎石は直径約90cm。現在の本堂の南側に三つ並ぶ。昨年、石を構成する鉱物として、粒状の黒雲母や柱状の角閃石が目立つことに気づき、葛城山付近のものではないかとみて調査。いずれも「葛城石英閃緑岩」と判断した。
同寺講堂の礎石には飛鳥地方の石が使われており、周囲の川原寺や橘寺でも葛城石が確認された例はないことから、「馬子は、寺を創建する時には、祖先の地が葛城だと思っていたから、本尊を安置する中金堂の礎石にその地のものを使ったのだろう」とする。
[参考:2009.2.16読売新聞]
日本書紀 推古天皇三二年(624)十月癸卯朔。冬十月癸卯朔、大臣(注1)遣阿曇連。〈闕名〉阿倍臣摩侶、二臣、令奏于天皇曰、葛城縣者、元臣之本居也。故因其縣為姓名。是以冀之、常得其縣、以欲為臣之封縣。於是、天皇詔曰、今朕則自蘇我出之。大臣亦為朕舅也。故大臣之言、夜言矣夜不明、日言矣日不晩、何辞不用。然今朕之世。頓失是縣、後君曰。愚痴婦人、臨天下以頓亡其縣。豈独朕不賢耶。大臣亦不忠。是後葉之悪名。則不聴。
(注1) 蘇我馬子
飛鳥地方で産出する石を使わず、わざわざ約15kmも離れた山から石を持ち込んでいたことになる。日本書紀には、馬子が推古天皇に「葛城が蘇我氏の本拠」と主張した記述があり、関連が注目される。
礎石は直径約90cm。現在の本堂の南側に三つ並ぶ。昨年、石を構成する鉱物として、粒状の黒雲母や柱状の角閃石が目立つことに気づき、葛城山付近のものではないかとみて調査。いずれも「葛城石英閃緑岩」と判断した。
同寺講堂の礎石には飛鳥地方の石が使われており、周囲の川原寺や橘寺でも葛城石が確認された例はないことから、「馬子は、寺を創建する時には、祖先の地が葛城だと思っていたから、本尊を安置する中金堂の礎石にその地のものを使ったのだろう」とする。
[参考:2009.2.16読売新聞]
日本書紀 推古天皇三二年(624)十月癸卯朔。冬十月癸卯朔、大臣(注1)遣阿曇連。〈闕名〉阿倍臣摩侶、二臣、令奏于天皇曰、葛城縣者、元臣之本居也。故因其縣為姓名。是以冀之、常得其縣、以欲為臣之封縣。於是、天皇詔曰、今朕則自蘇我出之。大臣亦為朕舅也。故大臣之言、夜言矣夜不明、日言矣日不晩、何辞不用。然今朕之世。頓失是縣、後君曰。愚痴婦人、臨天下以頓亡其縣。豈独朕不賢耶。大臣亦不忠。是後葉之悪名。則不聴。
(注1) 蘇我馬子