歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

明日香村・飛鳥寺 中金堂の礎石が葛城産と判明

2009年02月19日 | Weblog
 蘇我馬子の発願で6世紀末に建立された飛鳥寺の創建当初のものとされる中金堂の礎石が、大阪・奈良府県境の葛城山付近に分布する石であることが、県立橿原考古学研究所の奥田尚共同研究員(地質岩石学)の調査でわかった。
 飛鳥地方で産出する石を使わず、わざわざ約15kmも離れた山から石を持ち込んでいたことになる。日本書紀には、馬子が推古天皇に「葛城が蘇我氏の本拠」と主張した記述があり、関連が注目される。
 礎石は直径約90cm。現在の本堂の南側に三つ並ぶ。昨年、石を構成する鉱物として、粒状の黒雲母や柱状の角閃石が目立つことに気づき、葛城山付近のものではないかとみて調査。いずれも「葛城石英閃緑岩」と判断した。
 同寺講堂の礎石には飛鳥地方の石が使われており、周囲の川原寺や橘寺でも葛城石が確認された例はないことから、「馬子は、寺を創建する時には、祖先の地が葛城だと思っていたから、本尊を安置する中金堂の礎石にその地のものを使ったのだろう」とする。
[参考:2009.2.16読売新聞]

日本書紀 推古天皇三二年(624)十月癸卯朔。冬十月癸卯朔、大臣(注1)遣阿曇連。〈闕名〉阿倍臣摩侶、二臣、令奏于天皇曰、葛城縣者、元臣之本居也。故因其縣為姓名。是以冀之、常得其縣、以欲為臣之封縣。於是、天皇詔曰、今朕則自蘇我出之。大臣亦為朕舅也。故大臣之言、夜言矣夜不明、日言矣日不晩、何辞不用。然今朕之世。頓失是縣、後君曰。愚痴婦人、臨天下以頓亡其縣。豈独朕不賢耶。大臣亦不忠。是後葉之悪名。則不聴。
 (注1) 蘇我馬子
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福知山市・向野古墳群 上下2段の埋葬施設を持つ円墳を発掘

2009年02月19日 | Weblog
 向野古墳群(同市南羽合)の最も北側にあたる区域で発掘調査をしていた市教育委員会は18日、上下2段に埋葬施設を持つ円墳など計13基の古墳を確認したと発表した。直径5-16・5mの円墳が密集していた。それぞれ5世紀末から6世紀前半にかけてのもの。
 須恵器や鉄鏃など副葬品約30点も見つかった。内部構造から箱形木棺や割竹形木棺などが使われたとみられ、多様な埋葬形態も確認できたという。
 このうちの32号墳は直径約10m、高さ約2・2mの円墳で、木棺などの埋葬施設(主体部)の真上にも埋葬施設があった。棺が同じ向きに置かれていたとみられ、遺物の須恵器の形から、埋葬年代は近くて親子など密接な関係者が葬られた可能性が高いとしている。須恵器や鉄鏃のほか、のみ、短刀などが出土したが、埋葬者などを示すものはなかった。福知山市教委は、この地域の豪族の墓とみている。一つの古墳に、上下2段に埋葬するケースは非常に珍しいという。
 通常は方位を揃えて造られる主体部が、今回発掘した古墳は方位よりも地形に沿って造られていた。
 今回の発掘を含めて、向野古墳群全体では計38基になる。谷筋の狭い土地、ながら、50年ほどの短期間にこれだけの古墳が築かれた理由などは、今後の研究課題とする。
 現地説明会が21日午後1時から行われる。雨天決行。
[参考: 両丹日日新聞、京都新聞]
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向日市・元稲荷古墳 後方部でも敷石が見つかり墳丘表面全体を石で覆う

2009年02月19日 | Weblog
 市埋蔵文化財センターが18日、全国最古級の前方後方墳とされる古墳時代前期(3世紀後半)の元稲荷古墳(向日市向日町北山)で、後方部の平坦面や外周から敷石が見つかったことを発表した。同古墳では、階段状の前方部の斜面でも敷石が見つかっており、築造当時は墳丘の表面全体が石で覆われていたらしい。同時代の大型古墳では、外周部で敷石が確認されたのは初めて。
 大掛かりな造りにすることで、被葬者の権力を誇示したのではと推測。邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳など、同時代の古墳の成り立ちを考える上でも貴重な資料となりそう。
 墳丘北側の後方部計約60㎡を調査。敷石は、3段の階段状になっている平坦面(幅約1・6m)や外周で幅約1mの帯状で出土した。
 昭和45年の調査では、前方部でも敷石が確認されている。
墳丘の北端も確認され、元稲荷古墳の全長は約92mで、箸墓古墳の約3分の1の規模だったことが確認された。
 また、縁に独特の丸みを持つ讃岐産の祭儀用土器の破片約30点も出土。被葬者と讃岐地方との関連をうかがわせた。
 四国新聞社によると、土器の破片は、3段構成の後方部北側の1段目から約30点出土し、壺の口部分が多く見つかった。壺は胴が丸く、口の縁の断面がくの字状に膨らんでいる讃岐地方特有の形状という。土器は、埴輪などを置くとされる頂上部分にあったとみられ、首長を葬る儀礼の際に土器が1段目に落ちたと考えられる。
 被葬者が讃岐地方の有力者と深い政治的なつながりがあったことが分かるとする。
 現地説明会は21日午後1時から。
[参考:産経新聞、四国新聞、毎日新聞]

元稲荷古墳
向日丘陵先端部の尾根上に築かれた前方後方墳、全長92m 後方部3段、前方部2段築成、
築造は3世紀後半で乙訓地域では最も古い古墳と考えられている。陪冢を2基擁している。
埴輪は、前方部から特殊器台型と壺型などが出土している。


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大宰府条坊から、大きな建物跡2棟が出土

2009年02月19日 | Weblog
 太宰府市教委は18日、同市朱雀2丁目の西鉄二日市操車場跡(大宰府政庁跡から南へ約1kmの地点)で、奈良時代中期(8世紀半ば)の大きな建物跡2棟が出土したと発表した。
 同操車場跡では、昨年も今回の倍ほどの広さの建物跡2棟が見つかっており、市教委は大規模な建物が複数まとまってあることなどから、これらを古代の役所「官衙」跡と断定。ただ長くても50年ほどしか使われなかったとみられ、「大和朝廷の『遠の朝廷((とおのみかど)』と呼ばれた大宰府を再整備する過程で、一時的に使われた施設ではないか」としている。
 現地説明会が21日午前10時から開催される。
[参考:西日本新聞]
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高槻市・安満遺跡 赤い漆塗りの櫛の破片が出土

2009年02月19日 | Weblog
 高槻市教委は17日、弥生時代の環濠集落遺跡「安満(あま)遺跡」(同市八丁畷町)から、同時代前期(約2500年前)の赤い漆塗りの櫛片や弥生土器などを発見したと発表した。出土品は、遺跡が近畿地方でも中核的な集落だったことを示し、価値が高いという。
 奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡などで出土した櫛と形状が似ており、同じ工房で作られた可能性もあるという。
 破片は櫛の持ち手部分で、縦2・4cm、横2・6cm。黒漆の上に赤漆をかけた精巧な作りで、つややかな漆が膜状に残っていた。木か竹に塗ったとみられる。櫛の歯の部分は朽ちてなくなっていた。同様の櫛は、奈良県のほか、三重県・納所(のうそ)遺跡などで出土した例があるという。
 このほか、穂摘具、石鏃などの石器や、壺などの土器、加工した跡が残る木材など約1万点の遺物が出土した。石器は琵琶湖一帯や、四国・阿波(徳島県)などからもたらされたものとみられ、市教委は「広範囲な地域間交流が明らかになった」としている。
 安満遺跡は東西1・5km、南北0・6km。京都大農場の建設に伴って1928年に発見され、68年の府教委の調査で集落を巡る二重の環濠が出土していた。
 現地説明会が22日午前11時、午後1時、午後2時からの3回開催される。雨天中止。問合せは市立埋蔵文化財調査センター。
[参考:毎日新聞、読売新聞]
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