歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

広島県庄原市・佐田峠(さただお)墳墓群 方形貼石墓と方形周溝墓を確認

2009年09月03日 | Weblog
 広島大考古研と庄原市教委は2日、同市宮内町の「佐田峠墳墓群」4、5号墓がそれぞれ、弥生時代中期(紀元前1世紀)築造とみられる「方形貼石墓」と「方形周溝墓」と確認したと発表した。同墳墓群では昨年8月に「四隅突出型墳丘墓」が見つかっており、3種類の墳丘墓が同じ場所で見つかるのは例がなく、変遷を示す貴重な遺跡という。
 四隅突出型の南東20mで確認した方形貼石墓は1辺約4.5m、高さ約0.5mで、溝に沿い四角に加工された石を並べた列石1列と貼石2列が確認された。さらに南東20mの周溝墓は墓穴とみられる跡(縦2m、横1・1m)があった。それぞれで土器片なども出土した。
 方形周溝墓は近畿、中国地方などで、方形貼石墓は丹後半島や山陰地方などで、四隅突出型墳丘墓は中国地方から北陸地方に分布する。
 現地説明会は6日午前10時から行われる。
[参考:中国新聞、読売新聞]

過去のニュース
 2008.8.29 佐田峠3号墓 弥生時代・約2000年前に築造の四隅突出型墳丘墓を確認

弥生期の2墳墓確認 庄原(中国新聞) - goo ニュース
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宮城県大崎市・北小松遺跡 約2500年前縄文時代晩期の人骨が出土

2009年09月03日 | Weblog
 県教育庁文化財保護課は3日、北小松遺跡(同市田尻)で、約2500年前の縄文時代晩期の遺構と遺物が発見されたと発表した。この中には人骨がほぼそのままの状態で残っている墓や木製品、骨角器など通常は腐って残らない遺物、また土偶も出土しており、当時の人々の暮らしぶりや埋葬方法を知るうえで非常に価値が高いとしている。
 北小松遺跡は大崎平野北辺の丘陵の縁にある沼辺に位置する縄文時代晩期を中心とした遺跡。以前から縄文土器や石器、骨格器などの遺物が多量に出土することで知られており、特に昭和30年代の開田工事の際には人骨が出土し注目された。今回の調査では、遺跡の中でも特に遺物量が多い中心部付近を発掘した。
 調査の結果、縄文晩期(約2,500年前)の遺物包含層から遺構と多くの遺物が発見された。
 遺構には掘っ立て柱の穴、土坑(穴)墓、集石遺構などがあり、中でも丘陵突端の斜面から、墓が16基と10体以上の人骨が残っていた。人骨がほぼそのまま残っているものもあった。
 墓は2形態あり、一つは両手を胸に、両ひざを折り曲げあおむけに屈葬した隅丸長方形の「屈葬墓」が8基。うち1基で30~40歳のほぼ完全な状態の人骨が見つかった。
 もう一つは円形の穴に埋め、浅鉢ないし深鉢をかぶせた直径50cm前後の「円形墓」で8基。屈葬墓は成人のみとみられるが、円形墓は子供も葬られているという。
 土偶は「遮光器土偶」のほかさまざまな形のものがあるが、完形品はなかった。
 遺物には、亀岡式土器はか多くの縄文土器や、石器(石鏃・石斧など)、土製品(土偶・耳かざりなど)、石製品(石棒・石刀・石皿など)があった。さらに、低湿地であるため、通常は腐って残らない竹を編んだかごに漆を塗って固めた籃胎(らんたい)漆器、骨角器、シカやサケなど鳥獣魚骨、貝類、木の枝なども見つかった。
 一般向けの現地説明会は5日午前10時半から開かれる。

[参考:2009.9.3朝日新聞、2009.9.4毎日新聞、宮城県教育庁文化財保護課HP]


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名古屋市守山区・中社古墳 円筒埴輪が並んだ状態で出土

2009年09月03日 | Weblog
 市教育委員会は2日、守山区上志段味の中社古墳の円部分の頂点部分から5本の円筒埴輪が並んだ状態で出土したと発表した。
 円筒埴輪は直径30~40cm、高さ約70cmで、側面にある三角の穴などから4世紀後半頃のものと推定され、県内で最古級と考えられるという。
 筒に付けられた突帯が等間隔であることや縦横の長さの比率など近畿地方の埴輪との共通点が多いので、畿内にあったとされるヤマト政権との関係が強かったと推測されると。
 現場は保全のため、今週末に埋め戻し、出土した円筒埴輪の一般公開はしないという。
[参考:読売新聞]

過去の情報・ニュース
2008.7.11 東大久手古墳 円筒埴輪が列を成して見つかる

2008.6.21 東谷山山頂 尾張戸神社古墳ほか 古墳の形・築造時期を確認
 市教委文化財保護室が今月中旬に初調査して、志段味古墳群のうち東谷山山頂にある 尾張戸神社古墳など古墳三基が古代の豪族「尾張氏」の墓である可能性が高まったとする。さらに、曖昧であった古墳の形と築造時期を確認した。
 尾張戸神社古墳は、直径30mの円墳。築造は四世紀半ば。
 中社と南社の両古墳は、長さ55-60mの前方後円墳。築造は四世紀後半。
 中社からは祭礼に使う円筒埴輪の破片も多数、見つかった。築造時期は埴輪の有無や、格式を高めるために積まれる葺石の形などから決めた。
 尾張戸と中社からは、ヤマト王権があった近畿地方で、主として四世紀だけに古墳の装飾に使われた硅石(けいせき)を発掘した。硅石は東谷山のすそ野にある白鳥塚 古墳からも見つかっているが、この地方の古墳では他に使われていない。
 尾張戸神社古墳上に今も立つ尾張戸神社は、尾張氏の祖先を祭神とし、日本書紀や古事記には尾張氏がヤマト王権に王妃を嫁がせたと記されている。
[参考:中日新聞]

<備考>
■志段味古墳群
 名古屋市の北東端・守山区上志段味に集中する前期~後期の大古墳群。
■白鳥塚古墳
 全長109mの前方後円墳。埴輪が見つかっていないことなどから4世紀後半の築造と考えられる。かつて墳丘斜面は葺石で覆われており、特に後円部の頂上部の葺石には白色珪石が使用されていたことから白鳥塚と名づけられるようになったと伝えられる。
■尾張戸神社
 東谷山山頂にあり、成務天皇5年、宮簀媛命による勧請と伝わる古社。尾張国造尾張氏の祖先を祀る。
ご祭神 天火明命(あめのほあかりのみこと)天香語山命(あめのかぐやまのみこと)建稲種命(たけいなだねのみこと) 
延喜式に「山田郡 尾張戸神社」とあり、また国内神名帳に「従二位尾張戸天神」の名が見られ、かつては熱田神宮に次ぐ大社であったという。
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