歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

行田市・奥の山古墳 発掘調査現地説明会開催 10/12

2009年10月08日 | Weblog
 今年度の発掘調査現地説明会の開催が今月12日(月・祝)に行われると、県政ニュースおよび埼玉県立さきたま史跡の博物館より発表されています。
 平成21年11月から、古墳復原整備のための工事が始まり立ち入りができなくなるそうです。
 古墳を築いた約1500年前の地表面も発見されていますとのこと。奥の山古墳は、六世紀中ごろに造られたとされる全長70mの前方後円墳とされていましたが、1500年前となると500年、すなわち六世紀初頭ということになるのでしょうか。

 写真は昨年7月27日、奥の山古墳北側鉄砲山古墳トレンチ。

過去の情報・ニュース
  2008.10.25 奥の山古墳 発掘調査現地説明会開催予定
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和歌山県白浜町富田 要害山城(馬谷城)主郭跡に住居跡を確認

2009年10月08日 | Weblog
 町教委の発掘調査で中世の紀南で勢力を持っていた安宅(あたぎ)氏が築城したといわれる要害山(馬谷・うまんたに)城主郭跡から住居跡が確認された。
 礎石やくぎ、備前焼の破片など生活していた裏付けとなる遺物が多数出土した。
 町教委は、熊野水軍の一翼を担ったとされる安宅氏の関係する山城群を2005年度から調査し、国史跡指定に結びつけるためにその実像を解明しようとしている。要害山城は今回、初めて発掘した。町教委と富田坂クラブ会員など地元住民が約60㎡を調べたところ、一の曲輪と呼ばれる主郭から平面に切り取られた礎石が複数出土し、その近くで備前焼の破片がまとまって見つかった。青磁の破片も交ざっており、種類は不明だが古銭1枚も出土した。このほか、生活道具の茶臼の破片、建物の木材をつないでいたとみられるくぎ十数本(5~10cm)も出ている。
 要害山城跡は、熊野古道富田坂沿いの富田平野が見渡せる標高90mの山上にある。伝承では1494(明応3)年に安宅氏が家臣の吉田春季に築城させたといわれる。領地の北の境目にあり、合戦が絶えなかった隣接の山本氏との最前線に位置する基地だったとみられている。これまでの測量調査で長い畝状の防御用竪堀11本が見つかっている。
 11日(日)10時から現地説明会が行われる
[参考:紀伊新報]

備考:
和歌山県白浜町には要害山城と呼ばれる山城が2つある。
①西牟婁郡白浜町高瀬 (別名馬谷城) 築城・吉田春秀 時期・明応3年(1494)
②西牟婁郡白浜町堅田 築城・堅田善行 時期・元徳2年(1330)頃

日置川町にある・安宅氏の八幡山城跡から、富本銭(7世紀後半)が中世にも造られたことを示す模鋳銭が出土している。
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真岡市・真岡城 16世紀の建物跡などを確認

2009年10月08日 | Weblog
 市教委が7月から10月にかけて行った真岡小プール建設に伴う真岡城跡発掘調査で、16世紀の区画溝や掘っ立て柱建物など真岡城内の具体的な遺構が初めて発見された。
 真岡城は、芳賀氏の居城だが、築城年代には1362年、1532年、1577年の3説ある。
 芳賀氏は真岡城を構え、芳賀地方を支配。宇都宮氏の重鎮として、また親族として宇都宮氏を助けた。
 幅3m、長さ13m、深さ1・5mの区画溝1条と土塁や縦、横約5・4mの掘っ立て柱建物2棟、掘っ立て柱塀2条などの遺構が発見された。溝から出土した皿や土器などから、戦国時代の16世紀の遺構とみられる。
 縄文土器片や4世紀の竪穴住居、6世紀の溝も発見された。
 現地説明会が10日(土)午後1時半から行われる。
[参考:下野新聞]

過去のニュース・情報
  宇都宮市・岡本城跡 芳賀富高
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大垣市・桂谷古墳群 1号墳から石垣状の列石が見つかる

2009年10月08日 | Weblog
 大垣市教育委員会は6日、8月末から発掘を進めている桂谷(かつらだに)古墳群(同市上石津町牧田)の最も大きな1号墳(円墳、6世紀後半~7世紀初頭)が、直径17m、高さ約6mであり、その周囲で上下2段に分かれた石垣状の列石(上段80cm、下段60cm)を確認したと発表した。
 列石は区画や盛り土の流失防止などに築かれたらしい。同時に須恵器の破片も見つけた。
 隣の2号墳も一部を調査したところ、葺石の一部や周壕(幅約1m、深さ約40cm)も確認された。墳丘は直径約11m、高さ約2・5mあった。土層の状況から1号墳の後に築かれたことが分かった。
 牧田地区の二又、山村、村ノ尾、東山などの地域には多くの古墳が散在し「牧田古墳群」と呼ばれ、その中の「桂谷古墳群」は二又集落北側の山腹(標高86~110m)に位置し、10基の円墳からなる。
 桂谷古墳群の発掘調査は今回が初で、8月末から1号墳の規模を確認するために約28㎡で調査していた。
 現地説明会が、10日(土)午後1~3時に行われる。
[参考:毎日新聞、朝日新聞]



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大津市・滋賀里遺跡 河川跡から他地域の土器出を土確認、広範囲の交流を裏づけ

2009年10月08日 | Weblog
 大津市教委は7日までに、同市見世2の滋賀里遺跡(しがさと)で縄文時代後期(3000~4000年前)~古墳時代中期(5~6世紀)の河川跡が見つかり、その中から勾玉や石製模造品など祭祀に使ったとみられる遺物が大量に出土したと発表した。
 県内では産出されない石材で作られた石器や、北陸、東海地方の土器が出土し、周辺地域との活発な交流を裏付ける資料としている。
 滋賀里遺跡は48年に発掘調査が始まり、71年のJR湖西線の建設時にも大規模な調査が実施され、縄文、弥生時代の墓など多数の遺構が出土した。今回は宅地造成工事にあたり、2008年1~3月、今年が5月以降に計約1520㎡を調査したところ、東西に流れる川跡(長さ約20m、最大幅16・5m、深さ約1・8m)が確認され、周辺から石器や土器が多く見つかった。出土品は東西に延びる河川跡の南側から多く見つかった。川の左岸では、住居跡とみられる掘っ立て柱の柱穴12個も見つかり、集落が近くに存在したとみられる。
 縄文期から弥生期にかけての土師器や須恵器、石斧など石器の破片が、固まって大量に見つかった。土器には近江だけでなく北陸や尾張(名古屋市周辺)、大阪府の生駒山西麓で作られた土器の特徴を示しており、弥生時代後半には既に、広範囲の交流があったとみられる。遺跡では過去に、縄文時代晩期の指標となる「滋賀里式」の土器が出土している。
 弥生時代後期―古墳時代では、口縁部に波状の模様がある東海地方の特徴がある壺なども検出。
 古墳時代前期~中期(4~6世紀)では、丸底壺や、まじないのために顔料で赤く塗られた椀(直径5・5cm高さ2・5cm)や手ごね土器(直径4・5cm高さ4cm)などの小型土器が見つかり、川岸で祭祀が行われていた可能性があるという。さらに、祭祀に使われたとみられる有孔円盤(直径約2~3cm)▽勾玉(長さ約4cm、幅約1・5cm)▽剣形(長さ約4cm、幅約1・8cm)などの石製品も出土した。これらは祭器の鏡や勾玉、剣を模した滑石製の石製模造品とみられ、県内には産地がないため、別の地域から持ち込まれたとみられる。また、数珠状につなげて腕輪などに使ったとみられる大量の臼玉(同5mm)も見つかり、当時の人が河畔で豊穣などを祈ったと推定される。
 現地説明会が10日(土)午前10時半から現地説明会が開かれる。京阪石山坂本線・滋賀里駅の東南約200m。
[京都新聞、中日新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞]


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