京都市埋蔵文化財研究所が中世の土豪・革嶋(かわしま)氏の館跡(同市西京区川島玉頭町)で行った発掘調査で、9月に東南側で見つかった堀跡に続いて、南西側で堀や土塁が27日までに見つかった。
見つかったのは、堀跡(幅5m、深さ1・4m)と土塁跡で、室町時代から江戸時代にかけてのものとみられる。江戸中期の元禄15年(1702)頃の館跡の絵図「革嶋家文書」(重文)と位置が一致する。
堀跡の5m西側からは、堀に水を引き入れる役割を果たしていたとみられる水路跡も見つかった。館跡は、水路やほかの用水路に囲まれるように位置しており、水路に合わせて館の場所が決められた可能性がある。
[参考:京都新聞]
■過去のニュース・情報
2009.9.25 京都市西京区・革嶋館 南西部から堀や土塁跡が見つかる 江戸中期の絵図を裏付け
京都市埋蔵文化財研究所が8月末からの発掘調査で、中世の土豪・革嶋氏の居館跡とみられる堀跡が24日までに見つかった。江戸中期に描かれた絵図とほぼ同じ場所にあり、内側にも絵図にはない新たな堀が見つかった。
堀跡は7m間隔で2本見つかり、いずれも深さ2mで室町時代に掘られたとみられる。西側(幅5m、内堀?)は空堀で室町後期に埋められていた。コーナーの逆L字形を検出した東側(幅4・5m以上)は水堀で、江戸中期まで存続していた。調査地の西で昨年行われた試掘調査でも、堀跡が見つかっており、今回の調査と合わせ、居館の東西幅が47mと判明した。(注:現地公開資料の平面図の館跡の図から、南北幅は約75mと推測される)
革嶋氏は、鎌倉初期に移り住み、近衛家の代官(下司)として荘園管理を請負い、次第に土豪として勢力を広げた。江戸中期の革嶋城の様子は重要文化財の「革嶋家文書」の絵図に残る。今回、見つかった東側の堀は絵図の東南角とみられる。
市埋文研は、2つの堀が同時に存在したかは不明だが、応仁の乱の舞台になった地域でもあり、防御を固めていたとみている。
現地見学会が26日午前10時から行われる。(実施済み、約500名が参加)
■革嶋氏
清和源氏・佐竹氏の子孫。各種の代官を請負い有力な在地領主となる。本能寺の変で明智光秀に味方し、一時所領を失うが、江戸期に旧地に戻る。現在も医家として存続している。鎌倉-江戸時代の文書2459点は重要文化財に指定されている。
[参考:2009.9.25京都新聞、2009.10.26京都市埋蔵文化財研究所発行・革嶋館跡現地公開資料]
見つかったのは、堀跡(幅5m、深さ1・4m)と土塁跡で、室町時代から江戸時代にかけてのものとみられる。江戸中期の元禄15年(1702)頃の館跡の絵図「革嶋家文書」(重文)と位置が一致する。
堀跡の5m西側からは、堀に水を引き入れる役割を果たしていたとみられる水路跡も見つかった。館跡は、水路やほかの用水路に囲まれるように位置しており、水路に合わせて館の場所が決められた可能性がある。
[参考:京都新聞]
■過去のニュース・情報
2009.9.25 京都市西京区・革嶋館 南西部から堀や土塁跡が見つかる 江戸中期の絵図を裏付け
京都市埋蔵文化財研究所が8月末からの発掘調査で、中世の土豪・革嶋氏の居館跡とみられる堀跡が24日までに見つかった。江戸中期に描かれた絵図とほぼ同じ場所にあり、内側にも絵図にはない新たな堀が見つかった。
堀跡は7m間隔で2本見つかり、いずれも深さ2mで室町時代に掘られたとみられる。西側(幅5m、内堀?)は空堀で室町後期に埋められていた。コーナーの逆L字形を検出した東側(幅4・5m以上)は水堀で、江戸中期まで存続していた。調査地の西で昨年行われた試掘調査でも、堀跡が見つかっており、今回の調査と合わせ、居館の東西幅が47mと判明した。(注:現地公開資料の平面図の館跡の図から、南北幅は約75mと推測される)
革嶋氏は、鎌倉初期に移り住み、近衛家の代官(下司)として荘園管理を請負い、次第に土豪として勢力を広げた。江戸中期の革嶋城の様子は重要文化財の「革嶋家文書」の絵図に残る。今回、見つかった東側の堀は絵図の東南角とみられる。
市埋文研は、2つの堀が同時に存在したかは不明だが、応仁の乱の舞台になった地域でもあり、防御を固めていたとみている。
現地見学会が26日午前10時から行われる。(実施済み、約500名が参加)
■革嶋氏
清和源氏・佐竹氏の子孫。各種の代官を請負い有力な在地領主となる。本能寺の変で明智光秀に味方し、一時所領を失うが、江戸期に旧地に戻る。現在も医家として存続している。鎌倉-江戸時代の文書2459点は重要文化財に指定されている。
[参考:2009.9.25京都新聞、2009.10.26京都市埋蔵文化財研究所発行・革嶋館跡現地公開資料]