歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

出雲市・出雲国府跡 1200年前の漆紙の行政文書が出土、「日置真梶」の名前が記される

2009年10月15日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターが15日、国史跡・出雲国府跡(松江市大草町)で、奈良-平安時代の公文書と書状の一部とみられる漆紙文書が8月に出土したと発表した。戸籍から抜き出した男性の名前など、片面に文字を書いただけの文書の断片3点で、西日本の国府跡からの出土は珍しいという。
 文書は国府政庁跡の約100mにあった穴から、土器片や獣骨などと一緒に出土。文書には奈良、平安時代にまたがる年号「延暦」(782~805年)のほか、当時の出雲地方に多い「日置(へき)」と推定される姓に続き、名の「真梶(まかじ)」、「首鮒」などの墨書跡が赤外線写真で判明した。当時は、容器に入れた漆の乾燥を防ぐため、紙で蓋をしていた。この蓋に、使い古した文書を使用することが多く、この文書に漆がしみこみ、腐食しなかった場合、漆紙文書として発掘調査などで見つかるケースがまれにある。全国約100カ所で出土しているが、多くは表裏に文字が書かれているという。今回は片面だけに書かれており、贅沢な使い方という。
[参考:産経新聞、共同通信]
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富山市・富山城址 大手門石垣を初確認

2009年10月15日 | Weblog
 富山市教委が昨年5月から今年9月まで行った富山城跡の調査で、江戸時代の富山城の正門にあたる「大手門」の石垣の一部が発見された。これまで古地図上でのみ知られていた大手門の存在が初めて確認され、正確な位置や規模が明らかになった。
 石垣が見つかったのは地下約90cm。計4カ所で発見され、最も大きなものは東西約3・2m、高さ約2mに4段分の石垣があった。石を水平にそろえる「布積み」という積み方で、「万治年間富山旧市街図」(県立図書館蔵)などの古文書から、富山藩初期の1660年ごろに築かれたと大手門の石垣と分かった。鉄錆が付着するなどの石の形状から、堀に面した土台部分と考えられる。
 今回の発見が、古文書の正確性や富山城下の復元研究に大きな成果が得られるとしている。
 石垣の一部は10月10日から11月8日まで開催される、同市郷土博物館の速報展「“まちなか”地下1mの富山城・城下町」で公開される。
[参考:毎日新聞、富山市文化財センターHP]

過去のニュース・情報
  2009.7.11富山市・富山城址 戦国期(16世紀中頃)の井戸跡が見つかる
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行田市・奥の山古墳 10/12発掘調査現地説明会開催 レーダー探査により未盗掘石室の存在を確認

2009年10月15日 | Weblog
 10月12日に一般市民を対象にした奥の山古墳の現地説明会が開催され、延べ871人が訪れた。
 説明会以前、10月12日付毎日新聞のニュースでは、
①埴輪の破片が数千点出土し、その特徴から6世紀中ごろとされる造営時期が古くなる可能性があるという。(約1500年前の造営)
②全長さ70mという大きさよりひと回り小さく(注1)、前方部と後円部の接するくびれが現在の見かけより5、6m狭まってウエストの締まった形状をしていることが分かった。
③墳丘が他にない急峻な形状であることが改めて確認され、特別な地位にあった埋葬者であることが推定される。
などの情報が報じられた。
 さらに、現地説明会当日には新たな情報が明らかになり、それが埼玉新聞のニュースで報じられた。

 国指定史跡・埼玉古墳群の南端に位置する奥の山古墳に未盗掘とみられる石室が存在することが12日、明らかになった。
 発掘調査を行った県立さきたま史跡の博物館によると、同古墳群で石室が正式に確認されたのは1968(昭和43)年に国宝・金錯銘鉄剣が見つかった稲荷山古墳以来という。
 石室が見つかったのは全長約70m(注1)の前方後円墳のうち直径43m、高さ約7mの後円部分の墳丘。東北大学と共同でレーダー探査を行ったところ、墳丘地表面から深さ3mほどの位置に二つの影があることが分かり、2m×4mほどの部屋があると確認された。通常、石室には鏡や馬具、武具などが埋葬されており、金錯銘鉄剣も稲荷山古墳の二つの石室のうち、未盗掘だった一方の石室から出土している。
 「石室が二つ存在する」と「地中に長さ1mほどの棒状の影が映った」との見方もあり、関係者の間では鉄剣など副葬品への期待も高まっている。文化庁は調査する場合、空調などが整った状態で行うようにと指導。
 同古墳で11月から行われる古墳復原整備は、主に外観整備が中心。石室を掘り起こすには、資金面や、地権者との調整などの準備にかなりの時間が必要なことから、現時点で石室を調査する予定はなく、現状のまま保存する方針。
 そのほか、古墳と内堀の間に幅約1mの犬走り状の平坦面があり、墳丘を築造したことも紹介された。
[参考:10.14埼玉新聞、10.12毎日新聞]

過去のニュース・情報
 2009.10.8 奥の山古墳 発掘調査現地説明会開催 10/12
 2008.10.18 奥の山古墳 発掘調査現地説明会の開催予定
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福島県湯川村・桜町遺跡 弥生時代後期の3種類の周溝墓、木製農耕具が見つかる 

2009年10月15日 | Weblog
 福島県教委は14日、桜町遺跡(湯川村)の発掘調査で、形状の異なる3種類の周溝墓を発見したと発表した。
 弥生時代後期(2~3世紀)の遺跡から複数の形状の異なる周溝墓が見つかる例は国内でも少ないという。
 本年度は約1万2000㎡を対象に発掘が行われ、弥生時代の竪穴住居跡3カ所と周溝墓12基などを発見した。
 第1次調査(2004年度)では周溝墓7基すべてが四辺のある「方形」だったが、今回は「前方後方形」や「前方後円形」が見つかった。周溝墓の変遷を考える上で貴重な資料になるという。
 弥生後期の井戸跡や貯蔵施設の土坑から、くわの先端部やすきなどの木製農耕具も出土。東北では中在家南遺跡(仙台市若林区)で弥生中期の木製農耕具が見つかっているが、後期のものは珍しいという。県内では初という。
 ほかに、縁の部分に段差があるのが特徴の土器も出土した。土器は北陸地方で見られるもので、会津地方と北陸の交流があったことがうかがわれるという。竪穴の住居跡や井戸跡なども見つかっており、弥生時代の会津地域の集落のあり方を考える上で貴重な遺跡とする
 現地説明会が17日午後1時半から行われる。
[参考:河北新報、読売新聞
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木津川市・高麗寺跡 出土した瓦が古大内遺跡(加古川市)の瓦と版型が一致

2009年10月15日 | Weblog
 市教委の調査で14日、国史跡「高麗寺跡」で奈良時代中~後期(8世紀後半)の瓦が出土し、兵庫・播磨地方で製造された可能性が高いことが分かった。
 当時、播磨は瓦の主産地で国の管理下にあり、同種の瓦は平城京跡でも出土している。高麗寺が、一時都が置かれた恭仁京の整備に伴い国家直営の大寺として、聖武天皇の命令で播磨から瓦が運ばれたのではないかとしている。
 瓦は、表面に文様のある軒平瓦と軒丸瓦で、今年1月と昭和60~63年の発掘で、高麗寺の塔や金堂跡などから出土した。その後の詳細な調査により、軒平瓦(長さ32cm)は「均整唐草文」、軒丸瓦(直径13cm)は「単弁十三弁蓮華文」という文様だったことが確認された。瓦は、いずれも古大内(ふろうち)遺跡(加古川市)の瓦と版型が一致。軒平瓦の裏には、生乾きの瓦を2本の棒の上に置いて乾かす古大内遺跡特有の製法を示す窪みがあり、市教委は奈良時代に古大内遺跡で生産されて運ばれてきたと判断した。
 この文様の瓦は、古大内遺跡から多数出土し、奈良時代半ば~後期にかけて播磨地方で生産されていた。
 高麗寺跡は天平12年(740)~16年(744)に聖武天皇が都を置いた恭仁京の中心部から南西約3kmの場所に位置している。聖武天皇は天平13年(741)に恭仁宮から国分寺造営の詔を発し、その後、全国各地に国分寺や国分尼寺が建てられた。
 こうした経緯や瓦の製造時期などから、飛鳥時代に渡来系氏族の氏寺として創建された高麗寺が、恭仁京時代には都の膝元で大寺となり、修理が進められたのではないかとしている。
[参考:産経新聞]

過去のニュース・情報
 2009.2.24木津川市・高麗寺 講堂基壇の外装は極めて珍しい三重構造
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