国立海洋文化財研究所は今年6月、忠南泰安郡近興面馬島(태안 마도)海域で水中発掘調査を実施した結果、昔の2隻の沈没船を発見して、「馬島1号船」(長さ10.8m、中央幅3.7m)と命名された高麗船舶から、積載された色々な種類の穀物、陶磁器、竹製品など1,400点以上の遺物を引き揚げたと4日発表した。
今回の調査では船舶の船積み、出港日時、発信地、受信者そして貨物の種類と数量などを記録した木簡と竹簡64点を収集した。 このうち竹に文を書いた高麗時代の竹簡が初めて発見された。
これらの遺物と木簡、竹簡内容を総合してみると、現在引き揚げ中である沈没船舶は1207年冬以後1208年初めにかけて海南・羅州・長興一帯で穀物類、塩辛類、陶磁器などを積載した後、開京にいる官職者に送り届けるため航海中に、今の馬島近隣海域で座礁したと判断された。
木簡と竹簡には、貨物の船積み日と見える丁卯10月および12月28日、戊辰正月および2月19日などの干支の日付が確認され、したがって船舶は戊辰年2月19日以後出港した模様であるとした。また、貨物の発信地は竹山県海南、会津県羅州、遂寧県長興などの名が現れた。
これら荷物の受信者名簿には「大将軍」のような官職とともに、氏名が具体的に現れた。
また、これら木簡・竹簡には地方から開京に送られた各種貨物の名前も確認された。稲(租、白米)、粟、蕎麦、豆、末醤(麹)のような穀物類をはじめとして鯖、蟹などの塩辛類が確認され、この他にもキビ、魚骨、イワシ塩辛、竹の板、石炭なども含まれた。
これら各貨物には「石、斗、缸(壺)」などの単位と、「壹ㆍ貳ㆍ參ㆍ肆ㆍ伍・拾・廿」などの旧漢字の数量で表示されていた。
竹簡では、「大将軍金純永宅上田出租壱石」(大将軍金純永宅に田から出た租(稲)1石を差し上げる)と文書が書かれたものが注目される。金純永は高麗史(注1)と高麗史概要によれば1199年将軍に昇進し,1242年製作された金仲亀墓誌銘でも神宗(1144-1204、在位1198-1203)時代に「将軍」を過ごした事実が確認される。さらに、今回の竹簡資料を見ると、金純永は当時執権者の崔忠獻 (최충헌、1149-1219)の下で、1199年以後大将軍に昇進したと推定される。
これまで金純永の行跡を考慮すると、竹簡や木簡に見える丁卯あるいは戊辰年は各々1207年と1208年に該当する。したがって研究所は、今回の「馬島1号船」は1208年に出港したと判断した。
一方、今回の調査で引き揚げた高麗青磁中には宝物級と評価される「青磁象嵌瓢形酒煎子」(청자 상감 표주박 모양 주전자、注2)が含まれている。この青磁は承盤(台皿)および2個の透刻座台と一緒に発見された。
[参考:聯合ニュース]
(注1) 高麗史概要 神宗靖孝大王 己未二年(1199) 八月の条に、「崔忠獻殺黃州牧守金俊琚、(略)俊琚妻父將金純永告忠獻 忠獻、(略)」と出てくる。
(注2)「青磁象嵌瓢形酒煎子」と書いたが、酒煎子は水注と表記されるかもしれない。もちろん、1208年以前の作品である。頸と注口が海底から海水中に覗いていたため、茶色っぽくなってしまっている。胴から把手にかけては、そのままに近い色が残っている。注口が少し欠けている。大きさについては記されていないので不明だが、30数cmと推定される。3本の紐を撚り合わせた形の把手が非常に印象的である。この形状の把手は12世紀中ごろの作品とみられる青磁象嵌葡陶童子文銅彩注子(청자상감포도동자문동채주)の把手とよく似ている。胴には大きな円の中に、1つの折枝牡丹文(あるいは花が小さいので草花文かもしれない)が白黒の象嵌で描かれている。とても素晴らしい作品である。
今回の調査では船舶の船積み、出港日時、発信地、受信者そして貨物の種類と数量などを記録した木簡と竹簡64点を収集した。 このうち竹に文を書いた高麗時代の竹簡が初めて発見された。
これらの遺物と木簡、竹簡内容を総合してみると、現在引き揚げ中である沈没船舶は1207年冬以後1208年初めにかけて海南・羅州・長興一帯で穀物類、塩辛類、陶磁器などを積載した後、開京にいる官職者に送り届けるため航海中に、今の馬島近隣海域で座礁したと判断された。
木簡と竹簡には、貨物の船積み日と見える丁卯10月および12月28日、戊辰正月および2月19日などの干支の日付が確認され、したがって船舶は戊辰年2月19日以後出港した模様であるとした。また、貨物の発信地は竹山県海南、会津県羅州、遂寧県長興などの名が現れた。
これら荷物の受信者名簿には「大将軍」のような官職とともに、氏名が具体的に現れた。
また、これら木簡・竹簡には地方から開京に送られた各種貨物の名前も確認された。稲(租、白米)、粟、蕎麦、豆、末醤(麹)のような穀物類をはじめとして鯖、蟹などの塩辛類が確認され、この他にもキビ、魚骨、イワシ塩辛、竹の板、石炭なども含まれた。
これら各貨物には「石、斗、缸(壺)」などの単位と、「壹ㆍ貳ㆍ參ㆍ肆ㆍ伍・拾・廿」などの旧漢字の数量で表示されていた。
竹簡では、「大将軍金純永宅上田出租壱石」(大将軍金純永宅に田から出た租(稲)1石を差し上げる)と文書が書かれたものが注目される。金純永は高麗史(注1)と高麗史概要によれば1199年将軍に昇進し,1242年製作された金仲亀墓誌銘でも神宗(1144-1204、在位1198-1203)時代に「将軍」を過ごした事実が確認される。さらに、今回の竹簡資料を見ると、金純永は当時執権者の崔忠獻 (최충헌、1149-1219)の下で、1199年以後大将軍に昇進したと推定される。
これまで金純永の行跡を考慮すると、竹簡や木簡に見える丁卯あるいは戊辰年は各々1207年と1208年に該当する。したがって研究所は、今回の「馬島1号船」は1208年に出港したと判断した。
一方、今回の調査で引き揚げた高麗青磁中には宝物級と評価される「青磁象嵌瓢形酒煎子」(청자 상감 표주박 모양 주전자、注2)が含まれている。この青磁は承盤(台皿)および2個の透刻座台と一緒に発見された。
[参考:聯合ニュース]
(注1) 高麗史概要 神宗靖孝大王 己未二年(1199) 八月の条に、「崔忠獻殺黃州牧守金俊琚、(略)俊琚妻父將金純永告忠獻 忠獻、(略)」と出てくる。
(注2)「青磁象嵌瓢形酒煎子」と書いたが、酒煎子は水注と表記されるかもしれない。もちろん、1208年以前の作品である。頸と注口が海底から海水中に覗いていたため、茶色っぽくなってしまっている。胴から把手にかけては、そのままに近い色が残っている。注口が少し欠けている。大きさについては記されていないので不明だが、30数cmと推定される。3本の紐を撚り合わせた形の把手が非常に印象的である。この形状の把手は12世紀中ごろの作品とみられる青磁象嵌葡陶童子文銅彩注子(청자상감포도동자문동채주)の把手とよく似ている。胴には大きな円の中に、1つの折枝牡丹文(あるいは花が小さいので草花文かもしれない)が白黒の象嵌で描かれている。とても素晴らしい作品である。