歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

西脇市・津万遺跡 平安末期の墓から化粧道具、烏帽子が出土

2009年11月18日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館が18日、西脇市津万の「津万遺跡」で平安時代末期から鎌倉時代の墓の中から、鏡や毛抜きなどの化粧道具一式と烏帽子が見つかったと発表した。化粧道具は県内では2例目、烏帽子は3例目。
 化粧道具がそろって見つかるのは稀で、当時の風俗を探る上で貴重な史料となりそうだ。
 周辺は平家一門が所有した荘園だったとされており、同博物館は管理を任された在地領主の女性の墓の可能性があるとしている。当時、女性の地位は高く在地領主も珍しくなかったという。
 化粧道具は棺には入れずに、縦166cm、横110cm、深さ20cmの土壙墓の隅で見つかった。骨はなかった。
 鉄製の鋏(はさみ)は長さ17cm、鉄製の毛抜きは長さ8・5cm、中国製の銅鏡は9cm四方の正方形だった。直径6cmの土師器小壺や青白磁の「合子」(直径5・7cm)もあった。
 壺には紅やおしろいを入れ、合子は紅などを使う際のパレットのような役割を果たしたらしい。同博物館は葬られた女性が生前に使用したとみており「対外的な儀礼で人前に出るときに化粧をしていたのでは」と推測している。
 烏帽子は13世紀ごろの木棺墓で、残存する棺の底板(縦144cm、横40cm、深さ30cm)の上に幅25cmの漆製品として確認された。人の歯の一部も残されていた。墓の隣に同じ時代の建物跡があることから、霊的支配を強めるためにこの土地の開発者か血縁者の成人男性が葬られたことが推測できる。
 23日午前10時から、現地説明会が開かれる。
[参考:共同通信、神戸新聞]




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木津川市・高麗寺跡 国が管理を裏付ける文字瓦が出土 21日に現地説明会

2009年11月18日 | Weblog
 木津川市教委は17日、7世紀初頭に渡来系氏族が創建した氏寺とされる高麗寺跡(同市山城町上狛)で、製作者の名前が刻まれた文字瓦が見つかったと発表した。
 恭仁宮式文字瓦と呼ばれ、略字を交えて刻印した「太万呂」「乙万呂」。同じ名前が刻まれた瓦が恭仁宮跡と平城宮跡でも見つかっている。制作者を特定することで管理していたとみられ、市教委は高麗寺が国営の寺院に極めて近い重要な寺だったことを裏付ける史料としている。
 このほか播磨で制作した唐草模様の瓦も出土。加古川市の古大内(ふるおうち)遺跡で見つかったものと同じ作り方という。
 いずれの瓦も12世紀末から13世紀初頭の土器とともに寺の排水溝跡から出土。市教委は高麗寺がこの時代に廃寺になったと結論付けた。
 1か月前のニュースでは、高麗寺から出土した「均整唐草文」の軒平瓦(長さ32cm)が古大内遺跡で生産され、運ばれてきたものと判断していたが、あらためて裏付けられた。
[参考:2009.11.16共同通信]

過去のニュース
  2009.10.15高麗寺跡 出土した瓦が古大内遺跡の瓦と版型が一致

飛鳥時代の寺院跡から文字瓦 制作者名刻み品質管理?(共同通信) - goo ニュース

■高麗寺の廃絶時期 碗の製作手法で特定、11月21日に現地説明会
 高麗寺が廃寺になった時期について、京都新聞よりあらたなニュースがあった。
(回廊外の排水)溝から出土した土器や瓦から、高麗寺が平安時代末期から鎌倉時代初期の間に廃絶したことが分かった。
 高麗寺はこれまで、文献や出土品から9世紀初頭に最後の瓦の葺き替え修理があったことが判明し、平安期に廃絶したとされていたが、明確な時期は不明だった。
 今回の調査では、溝内から見つかった大量の土器のうち、碗の製作手法が、12世紀末から13世紀初頭にかけてのものと一致。西回廊の瓦とともに出土していることから、同時期に回廊が倒壊し、溝の排水機能も失われ、寺が廃絶したとみている。
 調査を行った溝は、西回廊と平行して南北に走り、回廊内への雨水の浸入を防ぐ役割があったとみられる。長さ約40mあり、北に進むに従い細く浅くなり、最大で幅約3m、深さ約1・7mあった。過去の調査で見つかった西辺築地外の溝や南回廊の下を潜る地下水路と合わせ、境内の排水システムが明らかになった数少ない例という。
 現地説明会が21日午前10時と午後1時に開かれる。
[参考:2009.11.17京都新聞]

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