歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良県高取町・薩摩遺跡 15mの木樋と防水用パッキンが出土

2009年11月25日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所が25日、奈良~平安時代(8~12世紀)の灌漑用ため池跡が見つかった薩摩遺跡で、9世紀ごろの取水施設「木樋」が全長約15mにわたって出土したと発表した。当時の形状がほぼそのまま残り、木樋を覆う堤の構造も判明。古代の取水施設は、国内最古のため池「狭山池」(大阪府大阪狭山市)でしか見つかっていない。
 木樋はため池の水を堤の外に出す設備で、新旧4代が出土。池の底に土が積もるにしたがって上方に付け替え、ため池を400~500年間使い続けたとみられる。
 また、全長15mの木樋は3代目で、スギの丸太をU字形に刳り抜き、幅50cm、厚さ30cm。上部には木製の蓋も被せられていた。6mと9mの2本の木樋を繋ぎ、繋ぎ目などにはスギの皮を巻き、水漏れを防ぐパッキンの役目をさせていた。
 ため池は東西約40m、南北90m以上。谷川の水をせき止め、田畑に配水する水の量を調整していたとみられる。堤は高さ1.2m、幅35m、長さ14mを確認した。
 現地説明会は28日午前11~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞]

過去のニュース
  2009.2.26 奈良県高取町・薩摩遺跡 「紀路」の道路遺構が出土
  2008.12.20 奈良県高取町 薩摩遺跡 ため池跡を発見
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益田市・堂ノ上遺跡 1400年前の古墳から金メッキのイヤリングが出土

2009年11月25日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターは25日、標高約30mの台地にある堂ノ上(どうのうえ)遺跡(同市久城町)で直径約10mの円墳1基を確認し、横穴式石室から金メッキがほぼ完全な形で残るイヤリング(耳環)が出土したと発表した。
 古墳時代後期(1400年前)のものとみられ、石室(長さ4m、幅1・4m)の中から2個の耳環や鉄製ナイフ、須恵器の壺が出土した。うち、1個の耳環は直径約2cmで、金メッキが良好に残っていた。県内では数例で珍しい。
 同遺跡では、弥生時代後期(1700~1900年前)の竪穴住居10棟も出土。うち5棟は、炭が残り、焼け落ちたとみられる。最大は直径約9mで県内最大級。高床倉庫とみられる掘立柱建物跡は8棟あり、1棟は壁に合わせて細長く掘った溝に柱を並べる布掘り建物。石見地方で初めて見つかった。
 28日午後1時半から、現地説明会が開かれる。
[参考:山陰中央新報、読売新聞]

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 益田市・堂ノ上遺跡 焼失建物跡に弥生土器 鎮火にまつわる祭祀か
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ソウル松坡区・風納土城 最古の住居跡発掘

2009年11月25日 | Weblog
 韓国国立文化財研究所は25日、風納洞(풍납동)未来村地区第6次発掘調査の結果、漢城百済時代(B.C.18~A.D.475)の住居跡8棟をはじめとする計94基に達する遺構を確認したことを発表した。
 百済が漢城(ソウル)を首都とした時期の都城である風納土城内部で、今までに確認された中で最も古い住居跡が発掘されたことで、百済初期の住居様相を把握できる貴重な資料という。
 「ラ-2号」と命名したこの住居跡は、紀元前後頃漢江流域を中心に韓半島中部地方で見える典型的な住居跡で、平面様式の呂字形、あるいは凸字形住居跡と類似して方形平面の大きい部屋に出入口がある。風納洞式無文土器(풍납동식 무문토기)と称する硬質無文土器(경질무문토기)を主に使い、長卵形土器(장란형 토기)のような煮沸土器が使われる前段階に築造されたことが明らかになった。
 また、今回確認した住居跡中比較的早い段階に属する「タ-6号」住居跡では、硬質無文土器と楽浪系土器が出土し、その周辺では中国製青磁彫刻刀発見されたことにより、当時活発な対外交流があったとみられる。
 さらに、保存容器として使われた硬質無文土器4点が出土した住居跡、土で作った柱装飾品約20点と周辺からまだ報告されたことがない銭文軒丸瓦(전문 수막새)が出土した住居跡があった。
[参考:聨合ニュース]

過去のニュース 
 風納土城
 無文土器
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慶南昌寧郡松硯洞15号墳に殉葬された伽耶女性人骨から人体を復元

2009年11月25日 | Weblog
 国立伽耶文化財研究所が慶南昌寧郡昌寧邑松峴洞15号墳でイヤリングをつけた1千500年前の人骨を発掘し公開したのは2007年12月20日だった。
 「伽耶人復元研究」は文化財庁責任運営機関研究課題に選ばれて2008年7月に開始された。
 プロジェクトは伽耶文化財研究所主管の下、国立文化財研究所保存科学研究室、カトリック医科大学カトリック応用解剖研究所、忠清文化財研究院、韓国考古科学研究所が共同研究として合流した。
 復元研究過程で、殉葬者4人中唯一イヤリングを着けたまま発見された人骨は女性であり、しかも16才あるいは16.5才で亡くなったとことがわかった。また、この女性のふくらはぎと向こう脛の骨と歯の分析を通じて、ひざまずくことが多かった侍女と推定した。
 108個の複製した骨で人体を組み立ててみると身長は151.5㎝となり、人体を復元した後の身長は153.3㎝であった。
 伽耶文化財研究所は25日、国立故宮博物館でこの1千500年前の伽耶女性を、伽耶服装を着用し、頭は真ん中で髪を分け、右手は握手するように前に差し出し、左側1ヶ所にだけ金のイヤリングを着けた姿で公開した。
[参考:聨合ニュース]

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■2007.12.22昌寧・松峴洞古墳 1500年前の伽耶人の骨発掘
 国立伽耶文化財研究所は20日、慶尚南道昌寧の松峴洞伽耶古墳群(注1、송현동 가야 고분군)第15号古墳で金銅冠の破片、金耳輪、金の指輪、金の玉などの豪華な装身具と馬具類、土器類などの副葬品と殉葬された4体の人骨を発掘したことを発表した。調査団は、新羅の典型的な金冠形式である「出」字模様の金銅冠彫刻と墳墓の築造形式などから、新羅の影響を大きく受けた非火伽耶の王陵級墳墓と推定した。墳墓の内部は盗掘が著しく、被葬者の人骨は残っていなかったが、殉葬された人物が埋葬された墳墓入口には骨や土器などが残っていた。このうち身長140cm程度と推定される人骨は、左耳に直径2cmの金製の耳飾りを付けていた。
 22日に現地説明会が開かれた。
(注1)松峴洞古墳群
 これまでに、直径が20mを超える大型古墳2基、中型古墳2基、小型石槨墓6基、祭儀と関係する埋納遺構2基、墓地造成と係わる周辺施設などが確認されている。
 2004‾2006年に 6・7号墳を本格発掘調査して舟模様のクスノキ製木棺と 800点以上の遺物を発掘した。
 特に金銅冠と、これまで発見された例がなかった鋸歯模様の金の指輪からみて、隣接する校洞古墳群と同様に王陵級墓と確認することができた。それだけでなく、完全な状態で残っている殉葬者1体の遺体(注2)は金耳輪(直径 2cm)を着けた状態のまま確認され、大きい注目を引いた。他に国立慶州博物館に所有されている土器の動物文様の柄が刻まれた土器の破片が高杯などの他の土器とともに出土した。
 15号墳は横口式石室構造(長さ 856cm 幅 170cm 高さ 225cm)で北に横口部が出ていて、 底と天井、そして壁面まで灰漆をして内部を締め切った特徴を持っている。ただし、横口式石室に対しては竪穴式石室であるとの主張もある。
(注2)石室内部北壁で発見された殉葬者4体のうち北壁面と並んで横になった人骨は 20-30代の成人女性で身長は 135cmほどでしかなかった。
[参考:2007.12.22~23 聨合ニュース、朝鮮日報]

(注3)松峴洞の「峴」は日本のJIS第一水準漢字になく、表題などで止むを得ず「硯」を使用している場合がある。
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橿原市・藤原京 2001年出土木簡に「軽坊」の地名を示す墨書

2009年11月25日 | Weblog
 藤原京跡で2001年に出土した木簡の削り屑に藤原京の地名を示す「軽坊(かるのぼう)」の墨書があったことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。古代幹線道の下ツ道と阿倍山田道が交わる同市石川町の丈六交差点付近は「軽の衢(ちまた)」と呼ばれ、「軽坊」はその周囲とみられる。同研究所は「藤原京の地名が判明したのは3例目で重要な成果」としている。
 削り屑は、長さ約6cm、幅約2cm。飛鳥藤原第115次調査(2001年4~10月)で藤原宮の正門「朱雀門」の約300m南(注1)から出土した。藤原京の地名は、続日本紀に「林坊」、平城京跡で出土した木簡に「左京小治町」と記されていたが、藤原京跡から出土した遺物で判明したのは初めて。
 同研究所藤原宮跡資料室(同市木之本町)で、ほかに出土した木簡19点とともに12月7日まで展示している。
(注1) 出土地: 朱雀大路と七条大路の交差場所のすぐ北東で藤原京左京七条一坊西南坪。
(注2) 年代: 参考にした文献「飛鳥・藤原京発掘調査出土木簡概報(16)」では、「出土した木簡群は、大宝元~2年(701~702)を中心として、一部は7世紀末を含む年代で、また衛門府に関わる遺物であろう」と推測している」
[参考: 読売新聞、飛鳥・藤原京発掘調査出土木簡概報(16)(奈良文化財研究所2002.12.5発行)]

軽坊(軽の衢)推定地


木簡出土地

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