歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

和泉市・和泉寺跡 寺院を裏付ける人名瓦「坂合部連前」が出土

2009年11月27日 | Weblog
 和泉寺跡(同市府中町)で、奈良時代(8世前半紀)の人名が刻まれた瓦が府教育委員会の発掘調査で見つかっていたことが27日、分かった。
 寺を建立する際に寄進した貴族や、僧侶の名前とみられるという。和泉寺跡一帯ではこれまで、地元の人が瓦を採取したことなどから寺院の存在が推定されていたが、文献にも記録がなく幻の寺院とされていた。今回の調査で初めて存在が裏付けられることになった。古代の役所「和泉国府」推定地の東にある同寺は7世紀後半の創建で、一帯の中心的な寺院だったとみられる。和泉郡司の茅渟県主(ちぬのあがたぬし)氏が建立したとの説もあるが、文献に登場せず実態はわかっていない。
 調査では、瓦の破片が200点以上出土し、そのうち3点で文字が確認された。文字は、瓦を焼く前にくぎのような先端のとがったもので刻まれており、ひとつの瓦の破片(幅15cm、長さ17・5cm、厚さ2cm)には「坂合マ連前」と刻まれていた。ほかに「讃美」と「寺」の文字の一部が確認された。
 「坂合マ(=部)連前」(さかいべのむらじまえ)は、氏族の階級を示す「連」の文字があったことから、当時の都・平城京(奈良市)にいた中央貴族で坂合という名の氏族の可能性があるという。
 「讃美(もしくは善)」は僧侶の名とみられるという。
 ほかに屋根飾り「鴟尾」の破片1点が出土した。
 発掘現場一帯ではこれまでに、白鳳~奈良時代(7世紀後半~8世紀)の瓦が複数見つかっているが、発掘調査もほとんど行われておらず、実態が全く分かっていなかった。
 現地公開は28日、30日、12月1日のいずれも午後1時~3時。
[参考:読売新聞、産経新聞、大阪府HP]


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栃木県・上神主・茂原官衙遺跡 敷石遺構跡を確認 11/28現地説明会

2009年11月27日 | Weblog
 上三川町教委と宇都宮市教委は国指定史跡上神主・茂原官衙遺跡(7世紀後半~9世紀)の本年度の発掘調査で、敷石遺構跡を確認した。また田川に面する東側台地上に、新たに2棟の掘立柱建物跡を発見した。
 同遺跡保存整備基本構想に基づき、本年度は瓦葺建物跡と周辺遺構の約1千㎡を調査した。
 今回確認したのは、瓦葺建物跡の周囲を囲むような幅1mほどの敷石遺構跡。握り拳からつめ先ほどの大きさの石が敷かれたように見つかり、当時は通路的な役割を果たしていたとみられる。
 2棟の掘立柱建物跡は、コメなどを保管した正倉区域の田川に面する東側台地上で発掘した。柱の跡とされる約1・5m四方の柱の穴も確認した。
 28日午後1時半~午後3時に現地説明会が開かれる。
[参考:下野新聞]

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大垣市・昼飯大塚古墳 子ども用埴輪棺出土11/28現地説明会

2009年11月27日 | Weblog
 市教育委員会は26日、今年度から4年間で行う保存整備に先立つ発掘調査で、県内最大の前方後円墳・昼飯大塚古墳(同市昼飯町)の前方部1段目平坦面で、埴輪棺が見つかったことを発表した。子供用とみられ、石で囲まれていた。前方部西側と北側では葺石や埴輪列も確認された。埴輪棺(長さ1・2m、幅50cm)は、これまでくびれ部で見つかっていたが前方部では初めて。古墳に並べられていた埴輪を抜き取るなどして棺にしたもので、築造後に作られたという。2個体見つかり、いずれも周囲には固定したり、覆うための石があった。埴輪棺は地中に埋められていたとみられる。
 前方部西側では、葺石と直径約50cmの基底石が約9mにわたり一直線に続いているのが見つかり、西側の復元ラインが確定した。
 これまで分からなかった斜面の角度も明確になった。
 埴輪列も新たに7個体が見つかった。3段築成の墳丘のうち、2段目(中段)と3段目(上段)の葺石そして2段目平坦面に並べられた埴輪列が確認できたという。
 28日午前11時から現地説明会が開かれる。
[参考:毎日新聞、大垣市HP]
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岩手県金ケ崎町 鳥海柵遺跡は安倍氏が前九年合戦で築いた柵

2009年11月27日 | Weblog
 町教委は26日、同町西根にある鳥海柵遺跡(とのみのさくいせき)が安倍氏が前九年合戦(1051~62年)で築いた柵であったと発表した。
 町教委の本年度調査で、遺跡内の伝三の丸地区から東西16.3m、南北12.5mの大型の4面庇付き掘立柱建物跡が出土し、その北東部からは水晶の丸石が見つかった。地鎮祭などの儀式が行われた格式の高い建物だったことが分かった。
 これまでの調査結果を踏まえ、遺跡を安倍氏の柵と結論付けた。
 遺跡は安倍頼良の三男、宗任の拠点と伝えられている。堀や柵の遺構が軍事的構造で、出土品も前九年合戦時に重なることから、鳥海柵ではないかと有力視されていた。
 前九年合戦を記した「陸奥話記」(11世紀後期ころ作成)には、鳥海柵や厨川柵(現・盛岡市)など12柵(注1)が登場するが、いずれも場所が特定されていない。場所の特定は鳥海柵が初めて。
[参考:岩手日報、河北新報]

(注1)12柵: 厨川柵、嫗戸柵、比与鳥柵、鶴脛柵、黒澤尻柵、鳥海柵、瀬原柵、大麻生野柵、藤原業近柵、河崎柵、小松柵、石坂柵


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豊橋市・眼鏡下池北遺跡 5世紀後半の須恵器の杯が出土

2009年11月27日 | Weblog
 豊橋市教委が発掘調査を進めている眼鏡下池北遺跡(同市牛川町字東側)で、弥生、古墳時代の遺構が新たに見つかり、5世紀後半のものとみられる須恵器の杯が出土した。須恵器は6世紀以降の遺跡から多く発見されているが、それ以前の須恵器は製造が始まって間もないこともあって珍しいという。
 眼鏡下池北遺跡は、豊川水系眼鏡川によって開かれた段丘にある。これまでの調査で、縄文時代早期の土器、炉穴が多数見つかり、弥生時代の住居跡も発見されている。
 先月23日から約600㎡を発掘したところ、5世紀後半の小さな古墳3基(直径10数m)と弥生中期(紀元前後)の竪穴住居跡2か所(長さ約4m、幅約3m)が見つかった。
 見つかった須恵器は平べったいお碗のような形をしていて、直径12cmほどの大きさ。蓋はないが、ほぼ完全な形で残っている。
 また、竪穴住居跡からは弥生中期に特徴的な波状文の壺が壊れた状態で見つかった。
 28日午前10時30分から現地説明会が開かれる。
[参考:読売新聞、東日新聞]

備考: 記事の写真から見た須恵器の杯は、青灰色で高台がある。広がりのないストレートの付け高台のように見える。陶邑では、Ⅲ形式1段階以降に作品が見られる。となると、別の地域で作られたものか。

過去の関連ニュース・情報
2006.3.23 
 眼鏡下池北遺跡発掘調査で、縄文時代前期(約8000年前)の竪穴住居跡、煮炊き用炉穴、集石炉が見つかった。 特に炉穴は約40ヶ所が見つかっている。
 ほかに、弥生時代の土器や中世の陶器類が見つかっており、当遺跡が縄文時代早期を中心とした遺跡で、縄文~弥生、中世~近世の集落跡であることがわかった。
[参考:東日新聞]
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