歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

太宰府市・大宰府条坊跡 新羅・佐波理製の匙が出土

2009年11月06日 | Weblog
 太宰府市教委は5日、政庁から南に延びる「朱雀大路」の東側(同市朱雀3の西鉄二日市操車場跡地)で、新羅で作られたとみられる佐波理(さはり)製の匙(さじ)と容器の破片が出土したと発表した。南東約90mの地点では大規模な建物跡も出土しており、市教委は重要な区域だったことを示す新たな手がかりになるとみて分析を進めている。
 佐波理は銅と錫の合金で、7~8世紀に朝鮮半島で作られた食器などに使われた。出土した匙は全長7・6cmで、匙面や柄は大半が欠けていた。本来は全長24~26cmとみられる。奈良の正倉院所蔵の匙と似ていることなどから、8世紀に新羅から伝わり、使われていたとみられる。
 容器破片は鋺などの食器の底部分とみられ、長さ4・9cm、幅2・6cm。厚さは0・35~0・43mmしかなく、轆轤(ろくろ)を使った跡も確認された。県内で佐波理製の匙が見つかったのは、福岡市南区の三宅廃寺跡に次いで2例目という。
 佐波理製の食器は当時、高級品とされていたことから、都から派遣された役人が使っていた可能性もあり、建物跡が役所などの公的施設だったことを示す重要な手がかりになるとしている。
 現地説明会が7日午後1時半から開かれる。14~23日には市文化ふれあい館で出土品を展示する。
[参考:読売新聞、西日本新聞]

過去の関連ニュース
 2009.2.19 大宰府条坊から、大きな建物跡2棟が出土
 2008.10.9 大宰府市都府楼南5丁目条坊跡 古代道 馬と人の通行区分跡か
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多賀城市・多賀城跡 苑地跡とみられる護岸施設や創建時の木の柵を確認 現地説明会11/7開催

2009年11月06日 | Weblog
 11月3日の読売新聞朝刊で比較的大きく、「多賀城 創建時ぐるり木の柵」と記事を採り上げていた。その2日後に毎日新聞では「護岸施設を確認」と報じた。
 宮城県多賀城跡調査研究所のサイトで現地説明会開催のお知らせ、そして宮城県教育庁のサイトでは記者発表資料として詳細が出ていたので、簡単にまとめてみた。

■多賀城跡第81次発掘調査
調査箇所: 多賀城市市川字城前地内
 ① 政庁跡南の鴻ノ池地区(政庁の南方250m、政庁中軸線から西へ約50m)
  これまでに、調査区の東方の政庁中軸線上では八脚門と推定される建物跡、その直ぐ東側で積土遺構、さらに東で材木列・丸太列など、外郭東辺部で積土遺構が検出されており、これらは門の東側にほぼ一直線に並んでいる。今回は、この西側延長線上の調査を目的とする。
 ② 政庁南西地区では整地層の南側を東西に延びる材木塀跡2条の西側の状況とその性格の解明を目的とする。
調査期間: 2009年5月12日から ①は8月28日まで(終了)。 ②は11月13日終了予定。
調査成果
 ①-1 区画施設の存在が推定される杭材を敷き並べた筏地業とその上に積み上げた盛土とからなる基礎地業を発見した。このことにより、門を中心として東側だけでなく西側にも区画施設が一直線上に並ぶ可能性が高くなった。時期については特定できないが、多賀城第Ⅰ期と考えられる。
 ①-2 古い基礎地業の高まりを利用して構築された盛土遺構とそれに伴う土留め施設が3時期検出された。これらは池沼の護岸施設で、8世紀後半頃から9世紀末頃まで機能したとみられる。中でも1時期目の盛土遺構は葺石や敷石を伴い、苑地の池部分である可能性がある。
 ② 材木塀跡、石敷遺構、整地層、柱穴、溝跡、土壙などがあり、東部には平場に伴う整地層が残存しており、溝跡や土壙、柱穴が検出されている。また、これらの遺構の下で材木塀跡の存在を確認した。
 ②-1 南側の材木塀跡が調査区東部で途切れることを確認。この場所を西端とみると、東端の門跡からの長さは約56m、門跡東側の塀跡も含めた長さは約84.5mとなり政庁の南側を画することになる。北側の塀は検出されていない。
 ②-2 東西約16m・南北17m以上の範囲を造成し、その上面に径5~15cmの礫と瓦片を敷き詰めた石敷遺構を発見した。多賀城第Ⅱ期以降、灰白色火山灰降灰以前のもので、詳細な年代や性格については不明だが、政庁南西に当たるこの場所は広範囲の石敷を伴う特別な場所として利用されていたことが明らかとなった。__

現地説明会
 平成21年11月7日(土)午前10時30分より 会場:多賀城市市川字城前地内 多賀城跡第81次発掘調査現場
 第81次調査は、鴻ノ池地区と政庁南西地区の2カ所で行っている。鴻ノ池地区は調査が終了しているため、写真パネルでの成果説明となる。
[参考:宮城県多賀城跡調査研究所HP]

■多賀城跡・鴻ノ池地区 奈良・平安時代の精巧な護岸施設を確認
 県多賀城跡調査研究所は5日、かつては池や沼だったと伝えられてきた湿地帯「鴻ノ池地区」で木材や石を使った奈良・平安時代の精巧な護岸施設を確認したと発表した。周辺の地形などから、周囲約400mの巨大な池を有する庭園跡とみられる。中央の都以外の地方の役所(国府)で巨大な池跡が見つかるのは珍しいという。
 多賀城の正門と政庁を結ぶ「南門間道路」西側の調査で発掘された。盛り土部分に木材を数本寝かせ、打ち込み杭で固定。上部の岸面には人の頭程度の扁平な石が張り付けられていた。
 今回の確認で池は人為的に造られた可能性が強まり、最長部分で東西約130m、南北約100mに及ぶ巨大な池だったとみられる。
 庭園は地層や出土遺物から8世紀後半から9世紀末まで機能していたとみられ、多賀城が、蝦夷との抗争などを経て勢力を拡大し、威容を誇っていた時期と重なる
[参考: 2009.11.5毎日新聞]

■多賀城・政庁南西地区 創建時の木の柵
 宮城県多賀城跡調査研究所が今年8月から政庁の南西部を発掘したところ、政庁を取り囲むように太さ約15cmの丸太の柱を並べた柵列の跡が出土した。724年頃の創建時に中心部分を囲んでいたとみられる。
 これまでに盛り土による囲いの跡は見つかっていたが、創建当初は木の柵で囲まれていた可能性が高くなった。
 柵列は、南北に延びる遺跡の中心線から西側に約56mの長さと推定され、古代の一町(約108m)に対応して設計されたことがうかがえるという。今夏には、政庁の中心の南約250mでも、この柵と平行して東西に延びる柵状の遺構が出土しており、二重の柵だった可能性もある。多賀城以前の陸奥国府とみられている仙台市の郡山遺跡でも、中心部分を木の柵で囲んだ遺構が見つかっている。
 多賀城は、盛り土でできた築地によって二重に囲まれていたことが分かっている。だが、続日本紀では、天平9年(737)4月14日の条に「多賀柵」と書かれ、木の柵で囲まれていた可能性が指摘されていた。
[参考: 2009.11.4読売新聞]

過去の関連ニュース
 多賀城跡



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴鹿市・長者屋敷遺跡 伊勢国府跡政庁前の道路は幅24mの大路

2009年11月06日 | Weblog
 鈴鹿市考古博物館は4日、同市広瀬町長塚の国史跡・伊勢国府跡(奈良時代)から、国内最大幅となる24mの道路跡が出土したと発表した。
 長者屋敷は国府跡政庁から「金藪(かなやぶ)」と呼ばれている山林に向かって真北に200mの地点にあり、幅1.5m、延長80mに及ぶ南北溝が見つかった。さらに、この溝から西側に24m離れて、平行する2条の溝が見つかり、幅24mの大路であったことがわかった。これまで同国府跡から見つかった道路の最大幅は12mだった。
 同博物館では「国府のメーンストリートと考えられる。広い道路は、人などの通行だけでなく、儀式や祭祀などに使われたのでは」と話している。
 陸奥国府跡(多賀城市)でも同じ幅員が出土しており、2例目となる。
 14日(土)午後2時から現地説明会が開かれる。
[参考:京都新聞、鈴鹿市公庫博物館HP]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大津市・若王寺 本尊の木造大日如来座像胎内から1080年作を示す墨書銘

2009年11月06日 | Weblog
 大津市歴史博物館は、若王寺(にゃくおうじ、同市大石中3)の本尊内部から、仏像が造られた年代を示す平安時代後期の墨書銘が見つかったと発表した。
 本尊は木造大日如来座像。高さ92・3cm、ヒノキ製、一木割り矧(は)ぎ造り。
 楽浪(ささなみ)文化財修理所(大津市)で修復中に背面材内部を赤外線カメラで撮影し、1080(承暦4年)に造立されたことを示す「承暦肆年庚申歳(じょうりゃくよねんかのえさるのとし)十一月二日」の銘を確認した。他に「奉造立□金色大日如来」「為平癒」「奉安置」とあり、当初は仏像の表面に金箔が張られていた可能性があり、病が治ることを願って奉納された経緯がうかがえる。
 両腕と脚の部材は後に取り換えられ、手の形は、現在の金剛界ではなく、造立当初は胎蔵界の印を結んでいた可能性を指摘する。
 市内では園城寺(三井寺)の木造不動明王(1014年、重文)に次ぐといい、滋賀県内では5番目である。
 若王子は奈良時代の創建と伝わり、現在は浄土宗の寺院。木造如来立像(重文、琵琶湖文化館寄託)や木造四天王像など、平安期の仏像が伝わる。
 8日から23日まで同博物館で観覧できる。有料。
[参考:京都新聞]

若王子
 浄土宗年表、旧栗太郡史によれば、西暦767年(天平神護年代)、宗純の開基、1506年に宗頓が中興して浄土宗の寺となる。10世紀末の作と推測される如来形像(寺伝、弥勒菩薩像)は、重要文化財。 [滋賀県観光情報HPより]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする