戦国武将・松永久秀(1510-1577)が16世紀後半に山城とした鹿背山(かせやま)城跡(木津川市鹿背山)の発掘調査で、主要な建物があった山頂付近の主郭から、敵の攻撃に備えて岩盤の斜面をほぼ垂直に削り取った「切岸(きりぎし)」(高低差3~5m)の遺構3箇所が見つかったと木津川市教委が発表した。
鹿背山城は南山城地域最大の山城で、木津川に面した標高約136mの山頂に築かれ、3つの主郭を持つ。「多聞院日記」などの文献で、15世紀後半の文明年間に興福寺(奈良市)の出城であったことも知られ、16世紀後期に大和を支配した戦国武将、松永久秀が再整備した。
その後、16世紀後期の永禄年間(1558-1570)に、大和を拠点にした久秀が北方防御のために改修したとされる。
近くからは15世紀の平瓦や焼けた壁土も出土し、興福寺関連施設の遺物とみられる。
[参考:毎日新聞]
過去のニュース・情報
2010.2.25 鹿背山城跡 「薬医門」跡が見つかる、興福寺時代から存在か
鹿背山城は南山城地域最大の山城で、木津川に面した標高約136mの山頂に築かれ、3つの主郭を持つ。「多聞院日記」などの文献で、15世紀後半の文明年間に興福寺(奈良市)の出城であったことも知られ、16世紀後期に大和を支配した戦国武将、松永久秀が再整備した。
その後、16世紀後期の永禄年間(1558-1570)に、大和を拠点にした久秀が北方防御のために改修したとされる。
近くからは15世紀の平瓦や焼けた壁土も出土し、興福寺関連施設の遺物とみられる。
[参考:毎日新聞]
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