歴歩

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益田市・医光寺 釈迦如来坐像が、前身の寺が創建された頃の制作であることを確認

2011年04月21日 | Weblog
釈迦如来坐像(伝・崇観寺本尊)の内部から墨書の銘文を発見
 雪舟(1420-1506)ゆかりの医光寺が所蔵し開山堂に安置している釈迦如来坐像(木造、高さ約70cm)が、前身の寺・崇観寺(すうかんじ)が創建された頃の制作であることが、県立石見美術館(同市有明町)の調査で確認された。
 釈迦如来坐像は医光寺の前身・崇観寺の本尊だったとされている像で、背中部分の内側に銘文が墨で書き付けられていた。
 応安4年(1371年)に、大仏師法橋広成が制作。 由来や、この地を治めた施主(第11代益田家当主・益田兼見)の名前があった。材料は、檜か針葉樹とみられる。
 鎌倉時代から南北朝時代の仏像、薬師如来像ほか、釈迦如来座像、弘法大師座像を展示した特別展「速報 医光寺の仏像」が、同美術館で4月20日から始まった。6月20日まで。
[参考:読売新聞、山陰中央新報、益田市HP、島根県芸術文化センター「グラントワ」HP]



臨済宗東福寺派 瀧蔵山 医光寺 (島根県益田市染羽町4-29)
 現・医光寺の西方に、貞治2年(1363) 斎藤長者妻直山妙超を開基、龍門士源を開山(注1)として創建された天台宗崇観寺の塔頭を前身とすると伝わる。
(注1) 龍門士源は東福寺一世・聖一国師(1202-1280)の法孫士顔の嫡子と云われるが不明。
 益田市のHPでは、第7代住職が雪舟(1420-1506)としている。
 17代益田宗兼(?-1544)によって医光寺を現在地に建立した。 その後、崇観寺は衰退し、さらに寺堂の消失によって医光寺と合併した。
 本尊は薬師如来像。 安阿弥(快慶の号)の作と伝えられる。

 写真の一番前に建つのは、医光寺総門。そばに立つ説明板には、下記のように記されている。(2002年12月撮影)
医光寺総門
                           指定 昭和三十四年九月一日
 医光寺総門は高麗門の形式で屋根は切妻造り、本瓦葺き、正面の屋根は中央部を高くし、両側を一段低くした段違いの屋根となっている。高麗門は扉筋(とびらすじ)の二本の本柱と背後の二本の控柱(ひかえばしら)からなるが、他に門のごとく本柱、控柱でひとつの屋根を支えるのではなく、本柱通りに妻破風(つまはふ)屋根を架、それと直角に控柱通りに一段低い切妻屋根を載せた門で、屋根の平面はΠ形になり近世の城郭の門に用いられた。
 この門は、益田市の拠城七尾城の大手門を移築したものと伝えられている。十七世紀後半に屋根を改めたといわれ、冠木(かぶらき)に据えた蟇股(かえるまた)や妻飾(つまかざり)の板蟇股に近世の技法がみられる。また、昭和40年にも修理が行われている。
 構造、意匠と簡素であるが、本柱、冠木ともに太く、その豪壮な構えは威容であり、戦国末期の高麗門の姿を今にとどめている。
                           益田市教育委員会


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