木津川市教育委員会が16日、奈良時代に河川港の「泉津(いずみのつ)」として栄えた上津(こうづ)遺跡(同市木津宮ノ裏)で、建物跡から、奈良時代後期(8世紀後半)の漆が付着した壺や甕の土器片が出土したと発表した。
当時、漆は税物の「調」の一つで国家に納められていた。地方から港に集められた漆を荷揚げし、甕に移すなどして管理・配分していたとみられ、市教委は「平城京にあった大蔵省の出先機能を持つコンテナターミナルだった可能性が高い」としている。
市教委によると、発掘は、御霊神社北側の木津川堤防べり約100㎡で、8月から行った。直径15~30cmほどの掘立柱跡が約50見つかり、配置から、2棟以上の倉庫があったとみられる。今回新たに見つかった倉庫群とみられる掘っ立て柱建物跡から、内側に漆の付いた須恵器の長頸壺(ちょうけいこ)約20個分、甕(高さ、幅各40~50cm)3個分を確認した。製塩土器の破片や税物だった水銀朱が付いた須恵器もあった。人名の一部とみられる「足」と記された墨書土器もあった。
長頸壺は高さ22~30cm、胴の直径が18cm前後で、最大約2ℓの容量があった。いずれも頸部が切り落とされ、胴部が割れていた。
壺の形状は数タイプあり、北陸や山陰などさまざまな産地から漆が運ばれてきたこともうかがわせた。
市教委は、当時の役人が漆を検査後、この建物で一部を貯蔵用の甕に移し替えて管理。ほかの役所にも配分し、仏像制作などに利用したとみている。
現地説明会は20日午前10時と午後1時から行われる。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞、読売新聞]
当時、漆は税物の「調」の一つで国家に納められていた。地方から港に集められた漆を荷揚げし、甕に移すなどして管理・配分していたとみられ、市教委は「平城京にあった大蔵省の出先機能を持つコンテナターミナルだった可能性が高い」としている。
市教委によると、発掘は、御霊神社北側の木津川堤防べり約100㎡で、8月から行った。直径15~30cmほどの掘立柱跡が約50見つかり、配置から、2棟以上の倉庫があったとみられる。今回新たに見つかった倉庫群とみられる掘っ立て柱建物跡から、内側に漆の付いた須恵器の長頸壺(ちょうけいこ)約20個分、甕(高さ、幅各40~50cm)3個分を確認した。製塩土器の破片や税物だった水銀朱が付いた須恵器もあった。人名の一部とみられる「足」と記された墨書土器もあった。
長頸壺は高さ22~30cm、胴の直径が18cm前後で、最大約2ℓの容量があった。いずれも頸部が切り落とされ、胴部が割れていた。
壺の形状は数タイプあり、北陸や山陰などさまざまな産地から漆が運ばれてきたこともうかがわせた。
市教委は、当時の役人が漆を検査後、この建物で一部を貯蔵用の甕に移し替えて管理。ほかの役所にも配分し、仏像制作などに利用したとみている。
現地説明会は20日午前10時と午後1時から行われる。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞、読売新聞]
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