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大和郡山市、天理市・八条北遺跡 古代の幹線道路「下ツ道」が183mにわたって出土

2011年12月14日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が13日、同県大和郡山、天理両市にまたがる八条北遺跡の西名阪自動車道郡山インターの南西側で、藤原京と平城京を結ぶ古代の幹線道路「下ツ道(しもつみち)」の東西の側溝が西側183m(幅1.2~1.8m、深さ20~50cm)、東側120m(幅7~11m、深さ1.4~2m)にわたって見つかったと発表した。 検出例としては過去最長。
 下ツ道は奈良盆地中央を南北に貫き、藤原京西側と平城京北側を結ぶ約23kmで、日本書紀や過去の調査から7世紀に整備されたとされる。 側溝はこれまで数十カ所確認されており、溝は8世紀ごろ掘削され、都が京都に移った9世紀以降は自然に埋没し水田になったとしている。
 東西の溝の中心から測定すると調査地での下ツ道の路面幅は約19mと判明した。
 また、東側溝は平城京造営時に資材を運ぶ運河として使われたとみられ、祭祀用の銅鈴1点や土馬(いば)10点などのほかに8世紀に捨てられたとみられるウマやウシの骨約120点を含む遺物数千点も出土した。
 現地説明会は18日(日)午前10時から開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞]

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2007.8.2 奈良市・平城京跡 古代の幹線道路「下ツ道」は7世紀初頭に整備か
 奈良県立橿原考古学研究所は1日、奈良市三条大路3丁目で藤原京と平城京を結んだ古代の幹線道路「下ツ道」の側溝跡(長さ6m、幅2m、深さ1m)が見つかったと発表した。出土した須恵器から7世紀初めに造られたとみられ、推古天皇(在位592~628年)の時代だった可能性のあることが分かったとしている。
 東の側溝跡の底に密着した状態で須恵器の杯蓋(つきぶた、直径13cm)が出土した。周辺に7世紀初めの遺構がないことなどから、他の場所から混入した可能性は低いとみられる。
 下ツ道は、並行する中ツ道、上ツ道とともに、平城京付近と藤原京付近を南北に結んだ約23kmの直線道路(道幅は23.4m)で7世紀中ごろの斉明朝に飛鳥から北に向かって整備されたとする説が有力だったが、それより30~40年前の推古朝に、直線の計画道路が奈良盆地全体を南北に貫いていた可能性が高くなった。
 下ツ道は、日本書紀の壬申の乱(672年)の記述の中で「上中下道」として初めて登場。 「上ツ道」「中ツ道」とともに、古代国家によって計画的に整備されたとみられ、日本書紀の「難波より京に至るまでに大道を置く」(613年)や「処々の大道を修治(おさ)む」(653年)などの記事から成立年代が推定されてきた。 年代特定に結びつく考古遺物が出土したのは初めて。 しかし、出土したのは1点のみであるため、疑問視する意見も出ている。 
[参考:共同通信、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞]
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