濊貊(매장)文化財研究院が発掘調査中である江原道華川郡下南面の原川里遺跡(화천 원천리 유적)は、今年3月から4月20日まで試掘調査を実施し、5月26日から現在まで発掘調査中の大規模集落遺跡である。
同研究院は3日、同遺跡に対する発掘調査を継続した結果、青銅器時代の住居跡23基、石棺墓1基と3-4世紀頃漢城百済期の家跡120基と竪穴遺構120基など、大規模の村遺跡を確認したと発表した。
百済時代住居跡から鐙 2点と轡をはじめとする馬具類と槍、鏃、甲(鎧)片などの武器類が多数出土した。これら馬具類と甲類は北方系に属する可能性が大きいとみられ、鏃の中で遠距離用の大型鏃は人馬殺傷用とみられる。漢城百済期住居跡から、このような確実な馬具類が多数出土することは初めてだという。
漢城百済期には華川一帯は、北あるいは西北側の楽浪、高句麗、靺鞨との境界地域であり、百済の西北方地域進出のための橋頭堡(きょうとうほ)であり、軍事前哨基地であった可能性があるとしている。
住居跡は空中から見下ろすと、平面形状が概ね凸字形、呂字形、あるいは六角形であることが確認された。百済時代の住居跡構造をうかがうことができる資料も多数確保され、一部住居跡では建築部材が火に焼けてそっくり落ちたまま発見された。
さらにこれら住居跡では打捺文土器と黒色磨研土器などの百済時代土器類が大挙発掘された。土器類は硬質無文土器よりは各種打捺文土器が圧倒的に確認され、百済色が明確に感じられる土器類が多量に出土した点からみて、百済時代初期の東側境界が少なくともここまで達していたことが分かるとしている。 さらに、風納土城で代表される百済中央で流行した中央様式の土器が、地方に広がる過程もよくわかるとしている。
この他にも、各種金属遺物、ガラス製品や、U字型シャベルの刃と鍬、鎌などの各種鉄製農機具、そして穀物の小豆も収集された。
調査団は「今回出土した馬具類などの一部出土遺物に対して、考古学界一部では5世紀くらいに見る見解もありえるが、今回の調査結果で現れた家跡の構造と出土遺物などを総合すると、3~4世紀と判断される。」と話している。
[参考:聨合ニュース]
過去の関連ニュース・情報
2010.9.15 華川・原川里遺跡 200年代の大規模百済の村遺跡を発掘
同研究院は3日、同遺跡に対する発掘調査を継続した結果、青銅器時代の住居跡23基、石棺墓1基と3-4世紀頃漢城百済期の家跡120基と竪穴遺構120基など、大規模の村遺跡を確認したと発表した。
百済時代住居跡から鐙 2点と轡をはじめとする馬具類と槍、鏃、甲(鎧)片などの武器類が多数出土した。これら馬具類と甲類は北方系に属する可能性が大きいとみられ、鏃の中で遠距離用の大型鏃は人馬殺傷用とみられる。漢城百済期住居跡から、このような確実な馬具類が多数出土することは初めてだという。
漢城百済期には華川一帯は、北あるいは西北側の楽浪、高句麗、靺鞨との境界地域であり、百済の西北方地域進出のための橋頭堡(きょうとうほ)であり、軍事前哨基地であった可能性があるとしている。
住居跡は空中から見下ろすと、平面形状が概ね凸字形、呂字形、あるいは六角形であることが確認された。百済時代の住居跡構造をうかがうことができる資料も多数確保され、一部住居跡では建築部材が火に焼けてそっくり落ちたまま発見された。
さらにこれら住居跡では打捺文土器と黒色磨研土器などの百済時代土器類が大挙発掘された。土器類は硬質無文土器よりは各種打捺文土器が圧倒的に確認され、百済色が明確に感じられる土器類が多量に出土した点からみて、百済時代初期の東側境界が少なくともここまで達していたことが分かるとしている。 さらに、風納土城で代表される百済中央で流行した中央様式の土器が、地方に広がる過程もよくわかるとしている。
この他にも、各種金属遺物、ガラス製品や、U字型シャベルの刃と鍬、鎌などの各種鉄製農機具、そして穀物の小豆も収集された。
調査団は「今回出土した馬具類などの一部出土遺物に対して、考古学界一部では5世紀くらいに見る見解もありえるが、今回の調査結果で現れた家跡の構造と出土遺物などを総合すると、3~4世紀と判断される。」と話している。
[参考:聨合ニュース]
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