市教委は18日、古代「牡鹿柵」とされる赤井遺跡で、奈良時代の高床式倉庫とみられる建物跡を新たに10棟以上発掘したと発表した。これまでに高床式倉庫跡が一棟見つかっているが、今回の建物跡は隣接する北西の場所。
7世紀に建てられたとみられる県内最大級の竪穴住居跡(約10m四方)も見つかった。
竪穴住居跡は、7世紀中期~末(飛鳥時代)の赤井遺跡集落の中心的居住地域と見られ、関東地方の特徴を持つ土器が多く出土。市教委は、牡鹿柵が築かれる前に関東地方から集団で移住。その集落跡に役所施設が造営されたと見ている。
また、溝(深さ60―80cm)と木塀で二重に囲まれた建物跡(南北約8m、東西約12m)からは、大型の柱材(直径約55cm、高さ約40cm)を発掘。柱材は屋根を支える側柱(そくばしら)とみられ、重要物を納めた頑丈な倉庫か、重要な事務棟と考えられるという。
同遺跡は、8世紀の史実を記す「続日本紀」に登場する「牡鹿柵」と推定されており、遺跡の全体像を知る手がかりになるとみている。周囲からは高床構造の建物跡が多数確認されており、同区域は役所内の「正倉」地区と推定する。
溝などからは多賀城創建前の多数の平瓦片、円面硯の一部なども見つかっていることから、近辺に役所の中心的な建物「政庁」か「寺院」がある可能性が高いとみている。
市教委はさらに西側を調査し、政庁跡を発見したいとし、また、牡鹿柵の特定と豪族・道嶋氏の実像解明に近づきつつあると話している。国指定の史跡に向けて、赤井遺跡で生活していた人々の墓所とされる矢本横穴墓群と関連して、律令国家の古代東北解明を目指す。
市教委は22日午後1時―午後3時半、遺跡の見学会を開く。(雨天の場合は22日に延期)。
[参考:読売新聞、河北新報、毎日新聞]
道嶋氏
代表的な、道嶋宿祢嶋足は本姓が丸子で、牡鹿連、次に牡鹿宿祢、更に道嶋宿祢とつぎつぎに賜姓していき、遂には中央の顕官まで昇叙して正四位上近衛中将になる。
神護景雲元年(767)には陸奥大国造になる。嶋足は下総や播磨等の守を経て、延暦二年(783)に死去した。
東松島市の赤井遺跡(古代には牡鹿郡に含まれた)からは「舎人」「大舎人」と墨書された須恵器が発見され、豪族道嶋一族の居館と関連づけて考えられている。
7世紀に建てられたとみられる県内最大級の竪穴住居跡(約10m四方)も見つかった。
竪穴住居跡は、7世紀中期~末(飛鳥時代)の赤井遺跡集落の中心的居住地域と見られ、関東地方の特徴を持つ土器が多く出土。市教委は、牡鹿柵が築かれる前に関東地方から集団で移住。その集落跡に役所施設が造営されたと見ている。
また、溝(深さ60―80cm)と木塀で二重に囲まれた建物跡(南北約8m、東西約12m)からは、大型の柱材(直径約55cm、高さ約40cm)を発掘。柱材は屋根を支える側柱(そくばしら)とみられ、重要物を納めた頑丈な倉庫か、重要な事務棟と考えられるという。
同遺跡は、8世紀の史実を記す「続日本紀」に登場する「牡鹿柵」と推定されており、遺跡の全体像を知る手がかりになるとみている。周囲からは高床構造の建物跡が多数確認されており、同区域は役所内の「正倉」地区と推定する。
溝などからは多賀城創建前の多数の平瓦片、円面硯の一部なども見つかっていることから、近辺に役所の中心的な建物「政庁」か「寺院」がある可能性が高いとみている。
市教委はさらに西側を調査し、政庁跡を発見したいとし、また、牡鹿柵の特定と豪族・道嶋氏の実像解明に近づきつつあると話している。国指定の史跡に向けて、赤井遺跡で生活していた人々の墓所とされる矢本横穴墓群と関連して、律令国家の古代東北解明を目指す。
市教委は22日午後1時―午後3時半、遺跡の見学会を開く。(雨天の場合は22日に延期)。
[参考:読売新聞、河北新報、毎日新聞]
道嶋氏
代表的な、道嶋宿祢嶋足は本姓が丸子で、牡鹿連、次に牡鹿宿祢、更に道嶋宿祢とつぎつぎに賜姓していき、遂には中央の顕官まで昇叙して正四位上近衛中将になる。
神護景雲元年(767)には陸奥大国造になる。嶋足は下総や播磨等の守を経て、延暦二年(783)に死去した。
東松島市の赤井遺跡(古代には牡鹿郡に含まれた)からは「舎人」「大舎人」と墨書された須恵器が発見され、豪族道嶋一族の居館と関連づけて考えられている。
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