甲賀市教委が18日、紫香楽宮(しがらきのみや)(742~45年)があったとされる滋賀県甲賀市の宮町遺跡から、宮殿の門を出入りする官人をチェックする「門籍(もんじゃく)木簡」が出土したと発表した。今回の調査地は「朝堂地区」から約150m東北方向の場所。
門籍とは宮殿の警備を定めた奈良時代の宮衛令(くえいりょう)に定められた制度で、官人それぞれに出入りできる門が決まっており、官位と姓名を書いた札を門で照らし合わせ、合致すれば通行できる仕組みだったとされる。
出土した門籍木簡は長さ17.7cm、幅2.5cm、厚さ5mm。表側に「申外西門籍 □ 多治比□」、裏側に「道道道□□□曽□」(□は解読不能)と墨書されている。縦に2つに割れており、片方の下部は焼けている。
「申」は方向を示すため後に書き加えられ、「外西門」が門の名称、宮中の南西の方角に門があったと想定され、これまでに見つかっている朝堂前殿などの主要な建物を囲み、複数の門を備えた塀があった可能性が出てきたとする。紫香楽宮より古い藤原宮や平城宮は三重の門や塀で仕切られ、門籍制があったことが分かっている。宮町遺跡では朝堂跡などは見つかっているが内裏跡は確認されておらず、今回の木簡の出土場所周辺が内裏だった可能性があるという。
多治比□は人名と考えられる。裏面は筆跡がまったく違っており、表面の文字との関連は不明という。
出土したのは、94年にも聖武天皇や光明皇后とかかわる「御炊殿(みかしきどの)」と書かれた木簡や、「御厨(みくりや)」と書かれた墨書土器などが見つかっており、天皇皇后の食事を調理した部署と考えられている場所で、門籍木簡以外にも、「止己呂(ところ)」(ヤマイモの一種)や「梨」、「栗」、「家伊毛(いえついも)」(サトイモの別称)、「心太(ところてん)二古」といった食材名などが書かれた木簡12本が出土した。
門籍木簡はこれまで平城京と藤原京の9例以外に出土例がなく、離宮のイメージが強い紫香楽宮が、都市として機能していたことがはっきりしたとしてする。
出土木簡は19~22日の午前9時半から午後4時半まで、同市信楽町宮町の宮町遺跡調査事務所で一般公開される。
[参考:産経新聞、共同通信、京都新聞、毎日新聞、甲賀市HP→「史跡紫香楽宮跡(宮町遺跡)出土木簡の発表」 ]
「紫香楽宮」は本格的な都城か…「門籍」示す木簡が出土(読売新聞) - goo ニュース
コメント
木簡に書かれている「止己呂」(ところ)は山芋(ヤマイモ)、「家伊毛」とは家芋(イエツイモ)とも呼ばれる里芋(サトイモ)のことか。
万葉集 巻7-1133に
皇祖神之 神宮人 冬薯蕷葛 弥常敷尓 吾反将見 (作者不明)
すめろきの、神の宮人(みやひと)、ところづら、いや常敷(とこしく)に、我れかへり見む
(意:皇祖の神に仕える宮人たる私は冬薯蕷(ところ)の蔓(つる)のように末長くくり返して吉野を見て賛美しよう。)
注:冬薯蕷(ところ)は山芋で冬に採食。
万葉集 巻9-1809に菟原処女が墓を見る歌一首 (作者 高橋虫麻呂)でも、
冬蔚蕷都良(ところづら) (注:蔚の寸は刃) が使われている。
万葉集 巻16-3826に
荷葉(はちすば)を詠める歌
蓮葉者 如是許曽有物 意吉麻呂之 家在物者 宇毛乃葉尓有之 (作者不明)
蓮葉(はちすば)は かくこそあるもの 意吉麿(おきまろ)が 家なるものは 芋(うも)の葉にあらし
(意:蓮の葉とはこのようにこそあるもの。意吉麿の家にある蓮の葉は芋の葉のようです。)
注:「芋」は里芋か。葉はやや蓮の葉に似ている。
[原文、和訳、意、注は『万葉集』中西進編(講談社文庫)を参照]
門籍とは宮殿の警備を定めた奈良時代の宮衛令(くえいりょう)に定められた制度で、官人それぞれに出入りできる門が決まっており、官位と姓名を書いた札を門で照らし合わせ、合致すれば通行できる仕組みだったとされる。
出土した門籍木簡は長さ17.7cm、幅2.5cm、厚さ5mm。表側に「申外西門籍 □ 多治比□」、裏側に「道道道□□□曽□」(□は解読不能)と墨書されている。縦に2つに割れており、片方の下部は焼けている。
「申」は方向を示すため後に書き加えられ、「外西門」が門の名称、宮中の南西の方角に門があったと想定され、これまでに見つかっている朝堂前殿などの主要な建物を囲み、複数の門を備えた塀があった可能性が出てきたとする。紫香楽宮より古い藤原宮や平城宮は三重の門や塀で仕切られ、門籍制があったことが分かっている。宮町遺跡では朝堂跡などは見つかっているが内裏跡は確認されておらず、今回の木簡の出土場所周辺が内裏だった可能性があるという。
多治比□は人名と考えられる。裏面は筆跡がまったく違っており、表面の文字との関連は不明という。
出土したのは、94年にも聖武天皇や光明皇后とかかわる「御炊殿(みかしきどの)」と書かれた木簡や、「御厨(みくりや)」と書かれた墨書土器などが見つかっており、天皇皇后の食事を調理した部署と考えられている場所で、門籍木簡以外にも、「止己呂(ところ)」(ヤマイモの一種)や「梨」、「栗」、「家伊毛(いえついも)」(サトイモの別称)、「心太(ところてん)二古」といった食材名などが書かれた木簡12本が出土した。
門籍木簡はこれまで平城京と藤原京の9例以外に出土例がなく、離宮のイメージが強い紫香楽宮が、都市として機能していたことがはっきりしたとしてする。
出土木簡は19~22日の午前9時半から午後4時半まで、同市信楽町宮町の宮町遺跡調査事務所で一般公開される。
[参考:産経新聞、共同通信、京都新聞、毎日新聞、甲賀市HP→「史跡紫香楽宮跡(宮町遺跡)出土木簡の発表」 ]
「紫香楽宮」は本格的な都城か…「門籍」示す木簡が出土(読売新聞) - goo ニュース
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木簡に書かれている「止己呂」(ところ)は山芋(ヤマイモ)、「家伊毛」とは家芋(イエツイモ)とも呼ばれる里芋(サトイモ)のことか。
万葉集 巻7-1133に
皇祖神之 神宮人 冬薯蕷葛 弥常敷尓 吾反将見 (作者不明)
すめろきの、神の宮人(みやひと)、ところづら、いや常敷(とこしく)に、我れかへり見む
(意:皇祖の神に仕える宮人たる私は冬薯蕷(ところ)の蔓(つる)のように末長くくり返して吉野を見て賛美しよう。)
注:冬薯蕷(ところ)は山芋で冬に採食。
万葉集 巻9-1809に菟原処女が墓を見る歌一首 (作者 高橋虫麻呂)でも、
冬蔚蕷都良(ところづら) (注:蔚の寸は刃) が使われている。
万葉集 巻16-3826に
荷葉(はちすば)を詠める歌
蓮葉者 如是許曽有物 意吉麻呂之 家在物者 宇毛乃葉尓有之 (作者不明)
蓮葉(はちすば)は かくこそあるもの 意吉麿(おきまろ)が 家なるものは 芋(うも)の葉にあらし
(意:蓮の葉とはこのようにこそあるもの。意吉麿の家にある蓮の葉は芋の葉のようです。)
注:「芋」は里芋か。葉はやや蓮の葉に似ている。
[原文、和訳、意、注は『万葉集』中西進編(講談社文庫)を参照]
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