市三宅町の国指定史跡「三宅御土居(おどい)跡」で19日、発掘調査の説明会があった。
中世の盛り土造成跡が新たに見つかり、建物跡などの遺構を発見できる可能性が高まった。
三宅御土居跡は中世に益田市一帯を支配した豪族益田氏の屋敷があったとされる。市教委が9月から7カ所の調査地点(計140㎡)を発掘し、遺構を探している。
[参考:中国新聞]
遺構発見可能性高まる 益田(中国新聞) - goo ニュース
三宅御土居跡
平成2年度からの調査によって、館跡全体が明らかになってきている。
館の1町(約109m)四方といわれる通常の館の倍の規模を持ち、周囲は堀や川によって囲まれ、東西に高い土塁を築いた館である。
平安時代末期の12世紀から三宅御土居が廃絶する16世紀末にかけての土師質土器(かわらけ)、瓦質土器、備前焼、常滑焼、唐津焼や中国製の白磁、青磁、染付、朝鮮製の陶磁器などが多量に出土した。13世紀の木組井戸跡、16世紀の礎石建物の鍛冶場跡や石積井戸跡が発見されている。
益田氏
右大臣・藤原内麻呂(756-812)を祖とし、11代後の大納言・国兼が石見国司のまま残り御神本を名乗る。源平の乱にあたり、平氏ながら、源氏方として戦い勲功をあげた。これにより、石見国内の多くの所領として与えられた。国兼の3代後兼高(平安末期―鎌倉初期)より益田を名乗る。
永久年中(1113~1117) 御神本国兼、石見国司として赴任する
文治元(1185) 御神本兼高、源平の戦いに源氏方として軍功をあげる
建久3(1192)頃 御神本兼高、益田に移り益田氏と改める 益田氏、大谷居館を築く
貞応元(1222) 承久の変後、新補地頭赴任しはじめる
弘安3(1280) 益田兼時、多根兼政に命じて益田川を改修する 益田兼時、石見海岸に十八砦を築く
暦応3(1340) 益田兼見、豊田城を落とす
暦応4(1341) 益田兼見、稲積城、高津城を落とす
応安3年(1370) 益田兼見、三宅に益田別館を築く
永正2年(1506) 益田宗兼、大内政弘に従軍する
元亀元(1570) 益田藤兼(1529- 1597)、吉川元春と和す。三隅城を落とす
慶長5(1600) 益田元祥(1558-1640)出陣、戦後益田を去り長門国須佐へ移る。
中世の盛り土造成跡が新たに見つかり、建物跡などの遺構を発見できる可能性が高まった。
三宅御土居跡は中世に益田市一帯を支配した豪族益田氏の屋敷があったとされる。市教委が9月から7カ所の調査地点(計140㎡)を発掘し、遺構を探している。
[参考:中国新聞]
遺構発見可能性高まる 益田(中国新聞) - goo ニュース
三宅御土居跡
平成2年度からの調査によって、館跡全体が明らかになってきている。
館の1町(約109m)四方といわれる通常の館の倍の規模を持ち、周囲は堀や川によって囲まれ、東西に高い土塁を築いた館である。
平安時代末期の12世紀から三宅御土居が廃絶する16世紀末にかけての土師質土器(かわらけ)、瓦質土器、備前焼、常滑焼、唐津焼や中国製の白磁、青磁、染付、朝鮮製の陶磁器などが多量に出土した。13世紀の木組井戸跡、16世紀の礎石建物の鍛冶場跡や石積井戸跡が発見されている。
益田氏
右大臣・藤原内麻呂(756-812)を祖とし、11代後の大納言・国兼が石見国司のまま残り御神本を名乗る。源平の乱にあたり、平氏ながら、源氏方として戦い勲功をあげた。これにより、石見国内の多くの所領として与えられた。国兼の3代後兼高(平安末期―鎌倉初期)より益田を名乗る。
永久年中(1113~1117) 御神本国兼、石見国司として赴任する
文治元(1185) 御神本兼高、源平の戦いに源氏方として軍功をあげる
建久3(1192)頃 御神本兼高、益田に移り益田氏と改める 益田氏、大谷居館を築く
貞応元(1222) 承久の変後、新補地頭赴任しはじめる
弘安3(1280) 益田兼時、多根兼政に命じて益田川を改修する 益田兼時、石見海岸に十八砦を築く
暦応3(1340) 益田兼見、豊田城を落とす
暦応4(1341) 益田兼見、稲積城、高津城を落とす
応安3年(1370) 益田兼見、三宅に益田別館を築く
永正2年(1506) 益田宗兼、大内政弘に従軍する
元亀元(1570) 益田藤兼(1529- 1597)、吉川元春と和す。三隅城を落とす
慶長5(1600) 益田元祥(1558-1640)出陣、戦後益田を去り長門国須佐へ移る。
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