歴歩

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福岡市・那珂遺跡群 奴国の拠点から巴形銅器鋳型が出土 全国3例目

2009年08月15日 | Weblog
 福岡市教委は、奴国の拠点と言われる那珂遺跡群(博多区竹下5丁目)第125次調査で、弥生時代後期(紀元前後-200年ごろ)のものと推定される巴形銅器鋳型(石英長石斑岩製)が出土したと発表した。吉野ケ里遺跡(佐賀県)、九州大春日キャンパス内遺跡に次いで、全国3例目。
 出土したのは巴形銅器鋳型の一部で、大小二つの石片。 7月に見つかり、大きい石片の最大幅が10.8cmで、鋳型全体を復元すれば、8脚で、縦18.5cm、横17cm以上、厚さ6.5cmと推定される。青銅を流し込む溝に、綾杉文と呼ばれる羽状の文様が掘られていることや、製造されたヒトデ形の銅器が、直径15cm前後の大型だったとみられる点が特徴。綾杉文や大きさが、伊都国王墓の一つと考えられる井原鑓溝遺跡(前原市)から江戸時代に出土した資料が残る巴形銅器の記録と非常に似ていることから、奴国で製造された銅器が、伊都国王墓に副葬された可能性が高く貴重な発見としている。
 今回出土した巴形銅器鋳型を14-30日、市埋蔵文化財センター(博多区井相田2丁目1-94)で速報展示する。
  開館時間 9時~17時、休館日 毎週月曜日
[参考:西日本新聞、福岡市HP]

奴国の拠点・那珂遺跡群 巴形銅器の鋳型出土 伊都国王墓副葬品に類似(西日本新聞) - goo ニュース
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韓国統一新羅時代「昌寧火旺山城蓮池出土木簡」から、祈雨祭祭物木簡を確認

2009年08月15日 | Weblog
 慶南文化財研究院は14日、去る2005年、昌寧火旺山城池(창녕 화왕산성 연못지)で出土した木簡7点を分析した結果、このうち2点の木簡は祈雨祭(기우제)で人の代わりに龍王に捧げたとみられることを明らかにした。
 1点は、長さ49.1㎝、直径10.6㎝の円筒形木簡で、丸い頭の部分と胴の部分からなる人形状の木簡。墨書で、前面の頭の部分には顔の輪郭線を描いた後、眉毛と目、鼻、口、首を表現しており、胴体の部分は服を着ている姿を現わしている。裏面には「~龍王」という文字が確かに記されている。この木簡の頭上と胴の部分に金属製クギがささったまま出土して、他にも首と脚の部分にクギで刺した跡があり、人の代わりに捧げた木製人形の役割をしたとみられる。
 もう1点は、長さ28.8㎝、幅6.1㎝の四角形で、片面に文字が書かれてクギが刺さっており、これまた祈雨祭のお供えに捧げられたとみられる。
 慶南文化財研究院パク学芸研究室長は「三国史記に、人形木簡が、統一新羅時代に祈雨祭を執り行った際、人の代りに龍王に捧げた記録があることからしても、この木簡は祭物に使われたとみられる」と話している。
[参考:聯合ニュース]
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奈良市・海龍王寺 五重小塔(国宝)に辰砂を原料とした希少な朱顔料を使用

2009年08月13日 | Weblog
 東京文化財研究所保存修復科学センターの調査で12日、海龍王寺(同市華寺町)の「五重小塔」(国宝、奈良時代)の柱に、水銀を含む辰砂を原料とした希少な朱顔料が使われていたことが分かった。
 創建当初は鮮やかな朱色に彩られていたとみられる。朱は古代から宮殿や寺院に施されているが、多くは鮮やかさの落ちるベンガラを使用している。朱顔料が古代の木造建造物で確認された例は少なく、最古級で、重要な成果となりそうだ。
 同寺は平城宮跡の東北隅付近に位置し、奈良時代に開かれたとされる。西金堂内に安置されている五重小塔は高さ約4mで、精巧な造りとなっており、天平期の建立という。元興寺文化財研究所(同市)の「研究報告2008」によると、小塔は後世に修理され、さまざまな顔料が塗装されていたが、塔の最下部分の柱の当初材からは下地の上に朱顔料が検出されたとする。
 朱顔料は、ベンガラに比べ鮮やかだが希少なため部分的に使ったと考えられ、確認例は平等院鳳凰堂(宇治市)や唐招提寺金堂(奈良市)などわずかという。
[参考:産経新聞]

<備考>
海龍王寺(かいりゅうおうじ)
 奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。藤原不比等邸の北東隅に建てられたことから隅寺(すみでら)の別称がある。
 飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平3年(731)に光明皇后により海龍王寺としてあらためて創建された。
 嵐の中唐より無事に帰国を果たした玄が初代住持となったことから遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に、平城京内道場の役割を果たすことにもなり、玄が唐より持ち帰った経典の書写(写経)も盛んに行われた。[参考:海龍王寺HP]
 続日本紀・天平神護2年(766)10月20日壬寅に「奉請隅寺毘沙門像所現舍利於法華寺」と記されるが、正倉院文書では、天平9年(737)に「隅寺」の存在が確認できる

五重小塔 (国宝)
 高さ4.01mの小塔で、創建当時から西金堂内に安置されており、様式が薬師寺の三重塔に類似している。
 細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られている。
 限られた敷地の中に大寺院の伽藍の形式を持ち込まなければならないという困難な状況にあったため、「東西両塔」を備えた伽藍の形式を持ち込むべく五重小塔を造立し、東金堂(明治初年に喪失)と西金堂の両金堂の中にそれぞれ納めたのではないかと考えられている。[参考:海龍王寺HP]

會津八一の歌碑
 奈良県内には15基の會津八一自筆歌碑が建立されているという。
 海龍王寺にも、その一つの歌碑が立つ。歌は大正19年(1921)に詠まれた。
(原文) しぐれのあめ いたくなふりそ こんだうの はしらのまそほ かべにながれむ
(読み) 時雨の雨 いたくな降りそ 金堂の 柱の真赭 壁に流れむ
(訳) 時雨よ、あまりひどく降ってくれるな。この金堂の柱の真赭(まそお・朱の顔料)がとけて、壁に流れてしまうから。
 海龍王寺は、隅院(角寺)とも称せられている。光明皇后の立願にて建立。光明皇后が僧玄隈の入唐求法の安全を祈り、ここで《海龍王経》を読んだのに起因すると伝えられる。八一が歌を詠んだ明治から大正にかけて、海龍王寺は無住寺で、当時の奈良を偲ばせる。
[参考:新潟市會津八一記念館HP]
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木津川市・馬場南遺跡 奈良時代の湧水施設が出土

2009年08月11日 | Weblog
 市教委は11日、奈良時代の古代寺院・神雄寺跡とみられる馬場南遺跡で、新たに奈良時代中期~末期の湧水施設が見つかったと発表した。大規模な燃燈供養を行う礼堂(らいどう)前広場を清めるために引かれた人工河川や池の水源とつながっていたとみられる。
 今年の1月13日の市教委の発表では、「仏堂南側の谷では、約100mにわたり川を堰き止めた池跡が見つかった。池のほとりでは仏堂前に造成されたテラス状の平地(東西最大30m、南北25m)に掘っ立て柱の建物跡があった。中軸線や向きが仏堂と一致し、東西8・1m、南北4・2mの礼堂跡とみられる。」としており、湧水施設が神雄寺の創建当初から廃絶まで機能し、同寺創建の背景に、水に由来する特別な信仰があったと推察。燃燈供養とは別に、水を崇める祭祀が日常的に行われていたとみている。自然崇拝と仏教が結びつく奈良時代の神仏習合の特徴がよく表れているとする。
 湧水施設は、本堂や礼堂跡の北約60mの谷から一部が出土。水源に続くとみられる川の跡(幅約5m、深さ約1m)約60m分と、川の西側の平場から尾根に続く人工的な階段状のテラス(幅約2m、高さ約1m)2段分が確認された。
 付近では、仏事や祭祀に用いられたとみられる500~600枚の灯明皿や、鉢なども出土。土器の特徴は奈良時代中期~後期の範囲に及んでいた。
 現地説明会が16日午前10時と午後1時から行われる。
[参考:産経新聞]

過去のニュース・情報
 2009.1.19木津川市・馬場南遺跡現地説明会
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奈良市・新薬師寺 金堂前から奈良時代の八角形の柱が出土

2009年08月09日 | Weblog
 奈良教育大が7日、構内にある新薬師寺旧境内の金堂跡の前から、奈良時代8世紀の橋脚とみられる八角形の掘っ立て柱2本が見つかったと発表した。
 柱は金堂跡の南約60mから出土。直径約30cmのヒノキ製で、金堂の中軸線をまたぎ、東西に約3mの間隔で並んでいた。高さは東側が約80cm分、西側が約20cm分残っていた。東側は刃物で削った形跡があった。
 柱穴は一辺約90cmの方形で、柱を支える直径15~30cm大の石が底に詰め込まれていた。
 穴の形が平城京内の寺院建築などで一般的だった方形であることや、柱の直径、穴の大きさ、柱間の距離がいずれも奈良時代に使われていた尺(約30cm)の単位で割り切れることから、時代を判断した。
 奈良時代の寺院では例のない園庭があったことも考えられるとしている。
[参考:共同通信]

過去のニュース・情報
 新薬師寺
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米子市・目久美遺跡 弥生後期の大型水路跡が出土 9日現地説明会

2009年08月08日 | Weblog
 市教育文化事業財団埋蔵文化財調査室が、目久美遺跡(同市目久美町)で弥生時代後期(約1900年前)の大型水路跡と木製護岸施設跡が発掘されたと発表した。
 水田跡の脇から見つかった水路は幅5~7m、深さ1.5mで、延長は1km以上とみられ、周辺の遺跡で見つかっている7カ所の水路跡と同一の水田用水路とみられる。
 護岸施設跡は、水路跡の片側に広葉樹の杭36本を打ち込んだもので、杭列は長さ約7mあった。
 山陰では最大規模で、当時の土木技術の水準を知る上で貴重な資料という。
 9日午後1時から現地説明会が行われる。
[参考:毎日新聞]
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桜井市・桜井茶臼山古墳 発掘再開へ

2009年08月08日 | Weblog
 今年6月12日、桜井茶臼山古墳(前方後円墳、全長約200m、3世紀末~4世紀初め)の「方形壇」と呼ばれる祭壇遺構の周囲から丸太をすき間なく並べた「丸太垣」跡が見つかったと発表されたが、県立橿原考古学研究所(橿考研)は8月後半に発掘を再開し、石室内を改めて調査する。丸太垣が完全に石室上部を取り囲んでいたかを確認するとともに、60年前に石室内で確認したコウヤマキ製の木棺を取り出す計画という。
 石室内の全体が見えるようになった段階で、現地説明会を行う予定にしている。
[参考:毎日新聞]

過去のニュース・情報
 2009.6.14 桜井市・桜井茶臼山古墳 木棺はコウヤマキ製と特定
 2009.6.12 桜井市・桜井茶臼山古墳 石室上部「方形壇」を囲む巨大な「丸太垣」の痕跡見つかる 
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奈良市・平城宮跡 東方官衙地区から檜扇12個が出土

2009年08月08日 | Weblog
 奈良市の平城宮跡の「東方官衙地区」から、ヒノキの薄い板を重ねた奈良時代の「檜扇(ひおうぎ)」12個が見つかった。
調査した奈良文化財研究所によると、檜扇が宮内でまとまって出土するのは初めてで、過去に出土したものより状態が良く、具体的な形が分かる貴重な発見という。「鈴守」木簡が出土したのと同じ遺構で見つかった。
 檜扇は厚さ0・3cm、長さ約10~30cmの板が3~7枚、木のくぎや細い糸で結んで束ねられ、字の練習をしたとみられる跡や人名のメモの跡が残っていた。
 現場からは、兵士に関連する施設「衛府(えふ)」に関係する木簡が大量に出土。平安時代の儀式書「西宮記」(10世紀)には、「衛府から檜扇が天皇に献上される」と書かれており、奈良時代から衛府で扇が作られていた可能性があるという。
 檜扇は奈良時代ごろに登場し、平安時代には現在のような紙張りの扇に変わっていく。
[参考:朝日新聞、毎日新聞]

過去のニュース・情報
 2009.8.5奈良市・平城宮跡 東方官衙地区から駅鈴の鈴守に関する木簡が初出土
 2009.1.14平城宮跡 ごみ捨て穴から過去最多、数万点の木簡が出土

その後の関連記事
2011.2.20
 前述の、平城宮跡・東方官衙地区から出土した檜扇を奈良文化財研究所が復元した。
 平城宮跡資料館(奈良市佐紀町)で開催中の発掘速報展で展示している。
[参考:奈良新聞]
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向日市・南条3号墳 木棺直葬を確認 10日に現地説明会

2009年08月07日 | Weblog
 向日市物集女町南条にある南条3号墳(円墳、5世紀中頃)は「木棺直葬」だったことが、市教委の7月1日からの発掘調査で分かった。
 南条3号墳は1970年代以降の調査で、直径23・5m、高さ3・5mの円墳で葺石や埴輪を伴っていることが分かったが、埋葬施設は見つかっていなかった。今回の調査の結果、古墳中央部に木が腐食したとみられる土が長さ2・2m、幅1・4mの長方形に分布し、木棺を直接納めたことが分かった。すでに盗掘されており、埋め戻された土から、5世紀中頃の円筒形埴輪や須恵器、鉄刀などが見つかった。
 木棺直葬は多くの古墳でみられる一般的な埋葬法だが、古墳規模などを踏まえ、向日市域の首長の階層を明らかにする基礎資料になるという。
 現地説明会が10日午前11時から行われる。



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近江八幡市・長命寺塔頭「穀屋寺」 最古の熊野観心十界曼荼羅が見つかる

2009年08月06日 | Weblog
 近江八幡市は6日、西国三十三カ所の1つ、同市長命寺町にある長命寺の塔頭「穀屋寺」から熊野観心十界曼荼羅(くまのかんしんじつかいまんだら)2点と長命寺参詣曼荼羅3点が見つかったと発表した。十界曼荼羅のうち1点は戦国時代末期(16世紀末、安土桃山時代)の作とみられ、全国最古級という。
 十界曼荼羅は縦約141cm、横約110~113cm。同じ絵柄で、上部に誕生から死までの人間の姿が描かれ、中下部に地獄や餓鬼、菩薩や仏など仏教の世界観を表す「十界」を表現している。中央上部には十界のうち「仏界」の阿弥陀、薬師、釈迦の三仏が描いている点が特徴。人物の服装や髪形から戦国時代末期と江戸時代後期の作とみられ、戦国時代末期のものは、全国で確認された十界曼荼羅約60点の中で最古級という。
 参詣曼荼羅は縦約154~約161cm、横約159~約180cm。長命寺の境内を上から眺めた視点で描いている。3点はそれぞれ戦国時代末期、江戸時代中期、同後期の作と推定した。
 長命寺は永正13年(1516)の兵火で焼失。寺の再興のため、16世紀半ば頃から尼僧が全国を歩きながら十界曼荼羅を用いて布教し、浄財を集めた。穀屋寺は、長命寺再建のため全国に寄付を募った僧や尼僧が拠点にした。
 同市立資料館と栗東歴史民俗博物館が4月から調査し、木箱に入った曼荼羅5点と古文書約千点を確認した。持ち歩くために折りたたんだ本来の状態で伝来しているのはほとんど例がないという。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞]
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長岡京市・伊賀寺遺跡 縄文後期の玉の製作拠点を確認

2009年08月06日 | Weblog
 市教委と市埋蔵文化財センターは6日、発掘調査を行っている伊賀寺遺跡(同市下海印寺)で縄文後期の土層から碧玉製の玉の未製品9点(0.5-1cm)や碧玉の石くずが出土し、装身具の玉作りの場だったことがわかったと発表した。縄文後期の玉の製作拠点が確認されたのは近畿初という。原料の碧玉は但馬産とみられる。
 土層からは石鏃、石棒などの石器類も大量に出土し、黒曜石やサヌカイト、結晶片石、讃岐石など長野県周辺から和歌山県や香川県にかけての石材が使われたことが確認された。
 伊賀寺遺跡では、遠方から石材を入手し玉作りを行うシステムを確立していたことを裏付ける画期的な資料とする。
[参考:京都新聞]

過去のニュース・情報
 2008.9.19長岡京・伊賀寺遺跡 縄文期に多人数火葬
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佐賀市・三重津海軍所跡 新たに2つの炉跡が見つかる 8日に現地説明会

2009年08月06日 | Weblog
 世界遺産登録を目指す九州山口近代化産業遺産群入りに向けて発掘調査が行われている幕末の三重津海軍所跡から、新たに2つの「炉」の跡が見つかった。このうち、3mほどの溝が3本掘られた炉跡の中から木炭や石炭、溶けた金属が見つかった。これらの遺構は出土した磁器から1820~60年代のものとみられ、海軍所の時期と合致する。
 以前の調査で、既に確認されていた炉跡の詳しい構造もわかってきた。石組みの内側に粘土の層が塗り固められており、金属を溶かす際の熱効率を高める目的があったと考えられる。このほか、一帯は砂と粘土を交互に重ねてかなり大規模な造成が行われていたことも新たにわかった。しかし、海軍所の建物跡とみられる遺構はまだ見つかっていない。
 三重津海軍所跡の発掘は今月一杯行われる。
 現地説明会が8月8日(土)9:30~、10:30~、11:30~(各30分程度)に行われる。(雨天中止)場所は佐野記念公園内
[参考:サガテレビ、毎日新聞、佐賀市HP]

過去のニュース・情報
 20009.6.26 三重津海軍所跡 世界遺産暫定リスト入り実現を目指し追加調査
 2009.5.29 三重津海軍所の痕跡証明に地下探査
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向日市・長岡京 脇殿跡を初確認

2009年08月06日 | Weblog
 向日市埋蔵文化財センターは5日、長岡宮内裏跡(同市鶏冠井町東井戸)から、脇殿と見られる遺構が初めて見つかったと発表した。
 今年6月から実施された長岡宮第二次内裏南東部における宮跡第472次調査で、内裏内郭築地回廊雨落ち溝と大型建物が見つかった。その配置や間隔などから、東西21m、南北6mの大型建物があったとみられる。桓武天皇が執務した内裏正殿跡から南東約20mに位置し、長岡宮内裏の遺構では正殿に次ぐ大きさという。
 平安宮や、平安京への遷都直前に桓武天皇が住んだ仮内裏「東院」では、脇殿は正殿の左右に各2棟あったとされ、長岡宮も計4棟あった可能性が高い。また、他の宮の脇殿は南北棟で、今回のような東西棟は例がないという。
 桓武天皇は長岡京時代、執務の場所を朝堂院北側の大極殿から、内裏正殿へ移したとされ、脇殿は従来の朝堂院の機能を持っていたのではないかという。
 現地説明会は8日午前11時から、現場近くの大極殿公園南側広場・大極殿院閤門跡で開かれる。
[参考:京都新聞、向日市埋蔵文化財センターHP]



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奈良市・平城宮跡 東方官衙地区から駅鈴の鈴守に関する木簡が初出土

2009年08月05日 | Weblog
 奈良文化財研究所が5日、奈良時代の平城宮跡・東方官衙地区(奈良市)のごみ捨て穴から、天皇の権力の象徴だった「駅鈴(えきれい)」を守った「鈴守」について記述した木簡が初めて出土したと明らかにした。
 駅鈴は駅馬利用を許可する鈴で、「天皇御璽(ぎょじ)」の印とともに争奪の対象ともなった。木簡は2時間交代だった担当兵士の名を記した名簿とみられ、厳重な警備の様子が伝わる貴重な資料という。
 木簡には、「鈴守」と記された下に「神浄成」「大伴総道」などの人名が記載。人名は2人一組で書かれ、そばには「戌」(午後8時ごろ)「亥」(同10時ごろ)「子」(午前0時ごろ)といった時刻が記され、2時間交代で駅鈴の警備に当たっていたことがうかがえる。
 鈴守の木簡は、平城宮を守った軍組織「衛府(えふ)」について記したらしい木簡群のうちの1点。縦約35cm、幅約5.4cm、厚さ0・6cmで、表裏に文字が記載され、年号が記された他の木簡から奈良時代末の宝亀年間ごろのものとみられるという。
 駅鈴は、緊急連絡に使われた古代の交通網の駅馬を使用する際の許可を示す鈴で、天皇から賜ることになっていた。
 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の際には争奪騒ぎも起きた。
[参考:共同通信、産経新聞]
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東京都北区・中里峽上遺跡 平安時代の竪穴住居跡から扉が国内初出土

2009年08月05日 | Weblog
 北区教委が4日、6月に発掘調査した同区中里の中里峽上遺跡(はけうえいせき)で、9世紀中頃の竪穴住居跡から、閂(かんぬき)金具の付いた扉とみられる板材2枚が出土したと発表した。竪穴住居跡の扉出土は国内初という。
 出土した扉は焼けており、残りのいいものは長方形の一枚板(残存部分長さ約145cm、幅約50cm)で、閂金具が付いている。もう1枚は焼失破片の状態だったが、板目が同じだったため、対になった観音扉に閂をかけて利用していたとみられる。
 竪穴住居跡は7m×6mで、北側に堅固なカマドと棚があり、内部から鉄滓が見つかった。住居内には屋根を支える4つの柱穴があり、外周に壁跡がある。鍛冶の工房などの可能性もある。
[参考:産経新聞、読売新聞]
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