歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

伊賀市・浅子谷古墳群 2号墳から大型の横穴式石室と、新たに古墳5基を確認

2009年09月10日 | Weblog
 三重県埋蔵文化財センターが9日、伊賀市三田の「浅子谷古墳群」で、未調査だった2号墳(直径14m、高さ5m)から、大型の横穴式石室(長さ4・2m、幅2・2m、高さ2・7m)が見つかったこと、また新たに古墳5基が確認されたことを発表した。
 昨年度は、3号墳を発掘調査し、新たに2基(4、5号墳)を確認していた。今回新たに5基を確認したことにより、合わせて10基の古墳群となった。見つかった土器などから6世紀後半から7世紀中ごろに作られたとみられる。
 1号墳(円墳、直径12m)は羨道のある石室と山側に周溝が確認された。耳環、須恵器杯身、杯蓋、小型壺、平瓶(ひらか)などが見つかった。
 2号墳(円墳、直径14m)の石室は1m余りもある大きな石を積み上げており、床には石敷が残る。石室の規模や大きさから、この古墳群の中では最初に造られたと考えられる。須恵器高杯・有蓋壷の蓋、土師器が出土している。
 小型墳である6~7号墳からは、竪穴系小石室が確認された。(9、10号墳は未調査。)須恵器杯・平瓶・耳環・鉄鏃などが出土した。
現地説明会が、12日(土)午後1時30分から行われる。
[参考:毎日新聞、三重県文化財センターHP]

過去のニュース・情報
 2009.1.20 伊賀市・浅子谷古墳 3号墳と新たに4,5号墳を確認
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長浜市・横山城 2期にわたり築造確認 土塁は秀吉が改修補強か

2009年09月09日 | Weblog
 長浜市東部の中世の山城・横山城遺跡(同市石田町など)を調査している長浜市教委は9日、遺跡南側の主郭跡で確認されていた土塁が戦国時代に2度にわたって築造されていたことが分かったと発表した。
曲輪内から掘立柱建物の柱穴が初めて出土した。掘立柱建物の柱穴は、調査地東部の平たん部で15個見つかった。直径30~50cm。兵士が駐屯した簡素な小屋とは異なるため、城番の武将がいた建物とみられる。
 土塁は防御施設として設けられ、まず岩盤を削って幅約2m、高さ0・5m(現存部分)規模で築造。2層目は、そこに土を盛って幅約4m、高さ0・7mに改修。土塁内から16世紀初め以降の土師器などが出土した。
 横山城は、文献の記録から「信長が小谷城攻め(1573年)の前線基地として造った後、豊臣秀吉が賤ケ岳の戦い(1583年)に備えて改修補強した可能性があるとしている。
 現地説明会は12日午前10時から行われる。
[参考:京都新聞、びわ湖放送、共同通信]

 横山城は長浜市の東側、横山丘陵・臥竜山(標高312m)を中心に三方の尾根に配置配されている。
 築造時期不明 京極氏の支城として築かれたといわれる。
 永禄4年(1561) 浅井長政は、南近江守護の六角義賢と戦い佐和山城を落とした。浅井氏の近江南進の要として、横山城を築いて、浅井井演を城代とした。
 元亀元年(1570) 織田信長に反旗を翻した浅井長政は、信長との姉川の合戦に敗れる。信長は、横山城へ木下秀吉を城代として送る。
 天正元年(1573) 浅井氏滅亡によりこの城の役目も終わり、長浜築城を期に廃城となった。
[これまでの主な出土遺物]
 11世紀平安時代ごろの北宋銭「治平元寶(じへいげんぽう)」が16世紀の土師器とともに出土
 16世紀半ばの鎧具足の一部である小札(こざね)が出土
 16世紀後半のものと見られる刀の鞘の先端部にはめる金具「鐺(こじり)」が県内で初めて出土

過去のニュース・情報
2008.11.21 長浜市・横山城遺跡 戦国時代の痕跡出土
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つくば市・多気城 土塁は16世紀後半に佐竹氏が築いた可能性大

2009年09月09日 | Weblog
 同市教育委員会は8日、発掘調査している「多気(たけ)城」(同市北条)の城の堀や土塁は、16世紀後半に戦国大名の佐竹氏が築いた可能性が高いと発表した。
 多気城自体は、鎌倉時代に作られたとの記録もあるが、土塁などの建設は戦国時代とみられ、築いたのは佐竹氏でなく小田氏との説もある。
 堀などと同じ地層から出土した土鍋などを分析すると、年代は16世紀後半だった。佐竹氏は1569年に小田氏を放逐しており、土鍋などは佐竹氏のものとみられたという。調査では幅2~6mのV字形の堀や、両側に盛り土をした土塁、それらに囲まれた平らな曲輪4カ所も確認された。
 市教委は13日10時半~12時と、13時半~15時の2回現地説明会を行う。
[参考:毎日新聞、つくば市HP]

関連ニュースおよび情報
 2008.12.4つくば市・小田城跡 格子状の障子堀が県内初出土



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伊勢崎市・今井学校遺跡 古墳時代の豪族居館跡と判明

2009年09月08日 | Weblog
 伊勢崎市赤堀今井町の住宅開発に伴い実施した「今井学校遺跡」の発掘調査がこのほど終了した。調査にあたった新潟大考古学研究室(橋本博文教授)によると、同遺跡は南北約500m、東西約150mの豪族居館跡と判明。周囲に、当時の館としては珍しい、外塀の添柱付き柵列跡を発掘した。
 発掘は3年継続で、計13地点で行われた。各地点とも柵列の柱穴(深さ123cm)が94cm間隔で直線に並んでいた。柵列の柱穴四つごとに添柱跡(深さ60cm)も見つかっており、柵列を補強していたらしい。なぜ、強固な柵が必要だったのか、多く出土した土器類や、周辺の遺跡などとの関係も含め、今後の研究課題という。
 発掘した遺跡は、埋め戻した。
[参考:毎日新聞]

備考:時代については毎日新聞では触れていないが、古墳時代のものであるようだ。
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韓国・忠北曽坪・二城山城 百済漢城期の通行路と水門の両機能を持つ城門構造を確認

2009年09月08日 | Weblog
 中原文化財研究院発掘調査団は7日、忠北曽坪郡道安面老岩里・二城山城(이성산성、忠北記念物138号)一帯約3千㎡の発掘調査を行い、二城山城南門跡で通行路と水門の両機能を持つ漢城期百済土城の特異な城門構造が発見されたと発表した。
城内で最も低いところにある渓谷部中央に位置した南門跡は、別の排水施設を作らないで城門を通して,城内の流水が抜けるように門口部石垣施設と石列施設を作った。
 通路および水門の長さは14m,下段部幅は2.2m,残存上段部幅は4.4mであった。
 このような構造は今まで百済の土築山城では初めて発見されたという。
 また城壁の築造方法は南門跡を中心に西側は版築工法で,東側は基盤岩上に木柵くぼみを設けた後,周辺を盛土して,城壁を築造するなど二種類の形式が使われたことが確認された。
 南門跡石垣内部土層などでは4-5世紀漢城期百済時代の遺物の軟質無紋土器などと小さい刃物状の石器などが出土し,この山城が百済により、漢城期にだけ築造されて経営されたものと推定される。
[参考:聯合ニュース]
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沼津市・辻畑古墳(前方後方墳) 土器などの分析から日本最古級230年前後の築造か

2009年09月07日 | Weblog
 市教育委員会は7日、愛知県埋蔵文化財センターが調査を指導する沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)・高尾山穂見神社・熊野神社旧境内地の辻畑古墳(つじばたけこふん、前方後方墳、南北約62m、東西推定35m)が、日本最古級の可能性があることが分かったと発表した。
 周濠の底からは、祭事に使われたとみられる高坏1点が割れた状態で見つかった。破片もほぼ全部分あり、高さ20cm、直径25cmの杯状の器に円錐形の脚部(底面の直径約12cm)がある。脚部の上の方に、櫛で引いたような横じまが入るなど「廻間(はさま)Ⅱ式」と呼ばれる特徴があるという。調査指導する愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎調査課長は、形状などから高坏は230年前後の製造と指摘。土器片が一カ所でまとまって見つかったことなどから古墳完成後の祭事に使われ、土器の製造と同じころに古墳があったと考えられると話す。
 二つの墳丘のうち、北側の後方部が一回り大きく、高さ4.5mで墳頂の1m下に副葬品を伴う木棺跡が検出された。銅鏡や鉄鏃、壺等の副葬品の組み合わせや土器を調べたところ、3世紀中頃から後半のものという。
 3世紀半ば~後半の築造とされる弘法山古墳(長野県松本市)で似た形の鉄鏃が出土している。鏡は「破鏡」であり、壺の中には軽石を含む材質の「大廓(おおくるわ)式土器」に分類できるものがあった。それらは、3世紀代の特徴で、古墳も同時期の築造と言うことができる。
 名古屋大と共同して科学的に分析し、築造時期の特定作業を進めている。
 市教委は今年秋に発掘調査を終える予定。
 現地説明会が、13日午前10時、午後1時半の2回行われる。
[参考:中日新聞、東京新聞、毎日新聞、共同通信]



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島根県浜田市・最古の国分寺本尊か 8世紀作の可能性

2009年09月07日 | Weblog
 県立石見美術館が7日、浜田市の寺にあった仏像の頭部が奈良時代に建てられ消失した「石見国分寺」の本尊、薬師如来座像だったとみられることが分かり発表した。
 頭部は高さ69cm、幅26cmで、全体が黒く焦げており火災で焼け残ったものらしい。復元すると120cmになるとみられる。
 科学的な年代測定は行われていないが、制作時期は、一本の木を彫り抜いた土台に粘土などで肉付けする「木心塑像」であり、目鼻立ちがはっきりしていない特徴から、8世紀後半とみられるという。確認されれば全国各地にあった国分寺の本尊としては最古という。
  江戸時代の文献によると、仏像は荒廃した国分寺から農民の手に渡り、同時代に別の寺に移されていたが、仏像があった建物が火災に遭ったという。
 2005年に国分寺の跡地近くの寺に保管されているのが見つかり、同美術館が学術調査を進めていた。
 仏像は18日から11月16日まで同美術館で展示される。
[参考:共同通信、読売新聞]

石見国分寺跡
 石見国分寺跡は現在の浄土真宗金蔵寺(こんぞうじ)境内にあたり、塔跡と礎石が一部残っているのみで、全体像は明らかになっていない。
 昭和60年(1985)に塔跡が一部発掘調査され、調査の結果、塔跡の縁に並んだ磚列(せんれつ)が確認された。12~14mの基壇の上に約8m四方の塔が建っていたと考えられている。
 その後も周辺が発掘調査が行われ、真北方向に延びる溝状遺構が見つかり、炭化物、火を受けた銅造誕生釈迦仏立像(市指定)が出土した。国分寺が平安時代後半に火災にあった可能性も考えられている。
 石見国分寺は瓦・土器などから当初からこの地に造られており、国府地区が古代石見国の中心であったことを示している。
[参考:浜田市HP]
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韓国浦項市北区興海邑中城里・浦項中城里新羅碑 最古の新羅碑石と確認

2009年09月07日 | Weblog
 今年5月に浦項市北区興海邑中城里で発見された、新羅時代の碑石が最古の新羅碑と確認された。

[発見からこれまでの経緯]
 2009.05.上旬 興海邑学城里(학성리)の道路開設工事現場の端に残された扁平な石を住民(金憲道氏)が見つけ、数日間も石がそのまま放置されていたので、家に移して使おうと洗浄しているうちに文字が現れた。(11日)
 2009.05.13 金氏が浦項市に申告することによって、この碑が知られることになった。以降、文化財庁に報告して、文化財庁ではこの碑の安全な管理と保存処理などのために国立慶州文化財研究所関係者を現場に派遣して、実態調査した後、研究所で保管するように措置した。
 2009.05.15 聯合ニュースなどが報じる。この碑は、不定形の花崗岩(最大長104㎝、最大幅49㎝、厚さ12~13㎝、重さ115kg)の片面にだけ印刻され、碑の下段部に約20㎝程度余白があるだけで、上段部まで字がいっぱい刻んでいる。全12行、約200文字が確認され、当初「浦項学城里碑」(仮称)と呼ばれた。
 碑文には、「阿干支」(新羅第17官中6官など)の「干支」等の字が確認され、特に最初に書かれている「辛巳」は、この碑が建設された時期を示すもので、碑の内容からみると6世紀(辛巳年は501年、561年)ものと推定されるとしていた。 ただし、561年に建設された「昌寧真興王拓境碑」等に「阿尺干」、「沙尺干」等で表記されている官等名がこの碑では「阿干支」、「沙干支」等と現れることから、501年である可能性が高いとみられた。
 碑が発見された地点は、1989年に発見された「迎日冷水里碑」(国宝第264号、503年と推定)が発見された地点から東に約8km離れたところにある。
 2009.09.01 朝鮮日報が、「現存最古の新羅碑は財産紛争と関連した判決内容を書いた」という調査結果を報道。
 2009.09.02 国立慶州博物館で一般公開される。
 2009.09.03 国立慶州文化財研究所が慶州普門団地内ドリームセンターで、この碑石の発見記念学術大会を開催した。

[これまでに、わかったこと]
 片面に203字の漢字が陰刻で彫られている。
 この碑石は発見当時には「学城里」と報告されたが、発見地点が学城里でなく中城理(중성리)と確認され、名称が「浦項中城里新羅碑」と変更された。中城里は1989年冷水里新羅碑が発見された地点から東に約8.7km程度離れた所にある。
 碑文では王の教示を意味する「教」とか新羅6部の一つの沙喙部、村落の名前である「古利村」、官職の中の一つの「道使」とか「使人」、新羅17官のうち6番目の阿干支など「干支」が確認される。
 特に書かれた「辛巳」年から、作られた時期は501年または441年と推定され、碑文の内容が「迎日冷水里碑」と同様な財産と関連した訴訟の判決文と確認されたことから501年(智証王2年)の可能性が高いとみられている。現地人などに、後世に警告を示す内容を記載して建てたとみられる。
 碑文は「辛巳□□中折盧'□...」と記されている。解読文は全文が国立慶州博物館ホームページで公開されている。
[参考:聯合ニュース、朝鮮日報]
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兵庫県豊岡市・入佐山3号墳 過去に出土の砂鉄は「浜砂鉄」 4世紀後半に製鉄が行われた可能性も

2009年09月04日 | Weblog
 県立考古博物館は19日、同市出石町の4世紀後半(古墳時代前期)の入佐山(いるさやま)3号墳から1988年の発掘調査で出土した砂鉄が、日本海の海岸で採取されたものとしては国内最古の「浜砂鉄」と分かったと発表した。
 入佐山3号墳は4世紀後半の築造とされる大型の方墳で、砂鉄は、1988年の発掘調査で、木棺の被葬者の頭部付近で約150gが壺に入れられて見つかっていた。副葬品として発見されるのは唯一の例という。製鉄に使われていたとすれば、6世紀後半とされる国内の製鉄開始時期から200年近くさかのぼることになるため「古代日本の製鉄事情を解明するうえで貴重な資料」としている。
 今回分析した京都国立博物館は、砂鉄は不純物が極めて少ない磁鉄鉱材(マグネタイト)で、チタンが約6%含まれており、粒径0・23mm程度で角がとれ丸みを帯びていることから、浜砂鉄の可能性が高い。採取地は特定できないが、山陰から北陸地域にかけての日本海沿岸地域が有力としている。
 製鉄遺跡以外の遺跡からの砂鉄の出土例は、ほかにも9カ所(注1)あるが、こうした分析は行われていない。考古博は、今後ほかの遺跡で分析が進めば、砂鉄の用途などが解明できるかもしれないと期待する。
 (注1)長野県・円光坊遺跡(縄文時代晩期)、徳島県・矢野遺跡(古墳時代前期初頭)、千葉県・一本桜南遺跡(古墳時代前期初頭)、滋賀県・雪野山古墳(古墳時代前期)など
 この砂鉄が製鉄に使われた証拠はないが、砂鉄以外にも鉄剣、鉄鏃、鉄斧など多くの鉄製品が副葬されており、さらに伝説の王子アメノヒボコに象徴される渡来人集団との関係が注目されるため、被葬者と製鉄・鉄器生産のつながりも議論になる。
 砂鉄の分析結果などは8月22日、豊岡市日高農村環境改善センターでの講座「アメノヒボコ 遺跡と伝承」で説明された。
[参考:2009.8.19神戸新聞、2009.8.20毎日新聞、産経新聞、2009.9.3朝日新聞、兵庫県立教育研修所HP]
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広島県庄原市・佐田峠(さただお)墳墓群 方形貼石墓と方形周溝墓を確認

2009年09月03日 | Weblog
 広島大考古研と庄原市教委は2日、同市宮内町の「佐田峠墳墓群」4、5号墓がそれぞれ、弥生時代中期(紀元前1世紀)築造とみられる「方形貼石墓」と「方形周溝墓」と確認したと発表した。同墳墓群では昨年8月に「四隅突出型墳丘墓」が見つかっており、3種類の墳丘墓が同じ場所で見つかるのは例がなく、変遷を示す貴重な遺跡という。
 四隅突出型の南東20mで確認した方形貼石墓は1辺約4.5m、高さ約0.5mで、溝に沿い四角に加工された石を並べた列石1列と貼石2列が確認された。さらに南東20mの周溝墓は墓穴とみられる跡(縦2m、横1・1m)があった。それぞれで土器片なども出土した。
 方形周溝墓は近畿、中国地方などで、方形貼石墓は丹後半島や山陰地方などで、四隅突出型墳丘墓は中国地方から北陸地方に分布する。
 現地説明会は6日午前10時から行われる。
[参考:中国新聞、読売新聞]

過去のニュース
 2008.8.29 佐田峠3号墓 弥生時代・約2000年前に築造の四隅突出型墳丘墓を確認

弥生期の2墳墓確認 庄原(中国新聞) - goo ニュース
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宮城県大崎市・北小松遺跡 約2500年前縄文時代晩期の人骨が出土

2009年09月03日 | Weblog
 県教育庁文化財保護課は3日、北小松遺跡(同市田尻)で、約2500年前の縄文時代晩期の遺構と遺物が発見されたと発表した。この中には人骨がほぼそのままの状態で残っている墓や木製品、骨角器など通常は腐って残らない遺物、また土偶も出土しており、当時の人々の暮らしぶりや埋葬方法を知るうえで非常に価値が高いとしている。
 北小松遺跡は大崎平野北辺の丘陵の縁にある沼辺に位置する縄文時代晩期を中心とした遺跡。以前から縄文土器や石器、骨格器などの遺物が多量に出土することで知られており、特に昭和30年代の開田工事の際には人骨が出土し注目された。今回の調査では、遺跡の中でも特に遺物量が多い中心部付近を発掘した。
 調査の結果、縄文晩期(約2,500年前)の遺物包含層から遺構と多くの遺物が発見された。
 遺構には掘っ立て柱の穴、土坑(穴)墓、集石遺構などがあり、中でも丘陵突端の斜面から、墓が16基と10体以上の人骨が残っていた。人骨がほぼそのまま残っているものもあった。
 墓は2形態あり、一つは両手を胸に、両ひざを折り曲げあおむけに屈葬した隅丸長方形の「屈葬墓」が8基。うち1基で30~40歳のほぼ完全な状態の人骨が見つかった。
 もう一つは円形の穴に埋め、浅鉢ないし深鉢をかぶせた直径50cm前後の「円形墓」で8基。屈葬墓は成人のみとみられるが、円形墓は子供も葬られているという。
 土偶は「遮光器土偶」のほかさまざまな形のものがあるが、完形品はなかった。
 遺物には、亀岡式土器はか多くの縄文土器や、石器(石鏃・石斧など)、土製品(土偶・耳かざりなど)、石製品(石棒・石刀・石皿など)があった。さらに、低湿地であるため、通常は腐って残らない竹を編んだかごに漆を塗って固めた籃胎(らんたい)漆器、骨角器、シカやサケなど鳥獣魚骨、貝類、木の枝なども見つかった。
 一般向けの現地説明会は5日午前10時半から開かれる。

[参考:2009.9.3朝日新聞、2009.9.4毎日新聞、宮城県教育庁文化財保護課HP]


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名古屋市守山区・中社古墳 円筒埴輪が並んだ状態で出土

2009年09月03日 | Weblog
 市教育委員会は2日、守山区上志段味の中社古墳の円部分の頂点部分から5本の円筒埴輪が並んだ状態で出土したと発表した。
 円筒埴輪は直径30~40cm、高さ約70cmで、側面にある三角の穴などから4世紀後半頃のものと推定され、県内で最古級と考えられるという。
 筒に付けられた突帯が等間隔であることや縦横の長さの比率など近畿地方の埴輪との共通点が多いので、畿内にあったとされるヤマト政権との関係が強かったと推測されると。
 現場は保全のため、今週末に埋め戻し、出土した円筒埴輪の一般公開はしないという。
[参考:読売新聞]

過去の情報・ニュース
2008.7.11 東大久手古墳 円筒埴輪が列を成して見つかる

2008.6.21 東谷山山頂 尾張戸神社古墳ほか 古墳の形・築造時期を確認
 市教委文化財保護室が今月中旬に初調査して、志段味古墳群のうち東谷山山頂にある 尾張戸神社古墳など古墳三基が古代の豪族「尾張氏」の墓である可能性が高まったとする。さらに、曖昧であった古墳の形と築造時期を確認した。
 尾張戸神社古墳は、直径30mの円墳。築造は四世紀半ば。
 中社と南社の両古墳は、長さ55-60mの前方後円墳。築造は四世紀後半。
 中社からは祭礼に使う円筒埴輪の破片も多数、見つかった。築造時期は埴輪の有無や、格式を高めるために積まれる葺石の形などから決めた。
 尾張戸と中社からは、ヤマト王権があった近畿地方で、主として四世紀だけに古墳の装飾に使われた硅石(けいせき)を発掘した。硅石は東谷山のすそ野にある白鳥塚 古墳からも見つかっているが、この地方の古墳では他に使われていない。
 尾張戸神社古墳上に今も立つ尾張戸神社は、尾張氏の祖先を祭神とし、日本書紀や古事記には尾張氏がヤマト王権に王妃を嫁がせたと記されている。
[参考:中日新聞]

<備考>
■志段味古墳群
 名古屋市の北東端・守山区上志段味に集中する前期~後期の大古墳群。
■白鳥塚古墳
 全長109mの前方後円墳。埴輪が見つかっていないことなどから4世紀後半の築造と考えられる。かつて墳丘斜面は葺石で覆われており、特に後円部の頂上部の葺石には白色珪石が使用されていたことから白鳥塚と名づけられるようになったと伝えられる。
■尾張戸神社
 東谷山山頂にあり、成務天皇5年、宮簀媛命による勧請と伝わる古社。尾張国造尾張氏の祖先を祀る。
ご祭神 天火明命(あめのほあかりのみこと)天香語山命(あめのかぐやまのみこと)建稲種命(たけいなだねのみこと) 
延喜式に「山田郡 尾張戸神社」とあり、また国内神名帳に「従二位尾張戸天神」の名が見られ、かつては熱田神宮に次ぐ大社であったという。
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