歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市・大安寺 奈良期の錦幡を新調し再現

2009年11月11日 | Weblog
 南都七大寺の一つ大安寺(注)は9日、法要で使う錦幡(にしきばん)を新調し、京都市中京区で報道関係者に披露した。
 正倉院の宝物などを基に、奈良時代にも使われていた華やかな錦幡を再現した。
 錦幡は中国から伝わり、仏や説法の場を飾る荘厳具の一つで、境内に立てた竿の先やお堂の柱に掛けられる。
 来年が平城京遷都1300年と、大安寺で暮らしたインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)の1250年大遠忌の年であることを記念して新調した。
 完成した錦幡は高さ約3・4m、幅約45cm。正倉院に残る錦幡の形を再現、大安寺の楊柳観音立像と広目天王像の首飾りなどを参考に、唐花文(からはなもん)や暈繝錦(うんげんにしき)の文様を龍村美術織物(中京区)が1年がかりで織り上げた。来年4月の法要から掲げる。
 (注)大安寺は聖徳太子が建立し、平城京遷都で現在地へ移った。
[参考:京都新聞、毎日新聞]

過去のニュース・情報
■龍村美術織物・錦幡関係製作履歴
1976 薬師寺金堂落慶に際し、錦幡「鴛鴦」「鳳凰」を制作
1981 薬師寺西塔落慶に際し、錦幡「四神文」を制作
2003 薬師寺大講堂落慶に際し須弥壇「大錦幡」・議論台「小錦幡」を制作
[参考:株式会社 龍村美術織物HP]

写真は、高島屋で展示された龍村美術織物製作「犀連珠円文錦」 2007.9.21撮影

■ 2007.9.18 正倉院「犀連珠円文錦(さいれんじゅえんもんにしき)」を復元
 西陣織の老舗、龍村美術織物(京都市中京区)は18日、遣唐使が持ち帰ったとみられる奈良・正倉院宝物の織物「犀連珠文錦」を復元し上京区の事務所で報道陣に公開した。
 犀連珠文錦は7世紀後半の唐で制作されたとみられる。これまでの研究で、線書きの図柄の復元はあるが、全体像は不明だった。正倉院にはその断片が残されており、公開されている写真など資料をもとに断片を張り合わせ、可能な限り忠実に復元した。
 同社初代龍村平蔵が、昭和13年に復元した「四騎獅子狩文錦」(法隆寺蔵、国宝)を参考に、失われた文様や色彩を推定した。
 錦は幅1.76m、長さ2.23mの綾織。図柄は、大きな円の内側を小さな円が縁取る「連珠」と呼ばれる文様の1つで、中央には花樹、その下に翼と角を持つ霊獣・犀、獅子がそれぞれ対で配され、西域で発掘されたペルシア錦に見られる様式という。
 同社は伝統的な織物技術の保存、研究のために赤、白、緑など6色の糸を使って3年がかりで制作。オリジナルの染料調査などが進めば、さらに元に近い色合いで復元できる可能性があるという。
 東京都の日本橋高島屋(注)で19~24日、京都市の京都高島屋で26~10月2日、一般公開される。
(注)日本橋高島屋8F催し物会場・四代目龍村平蔵襲名記念「織の世界展」にて展示
[参考:京都新聞、読売新聞、産経新聞]
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桜井市・纒向遺跡 3世紀前半の国内最大の建物跡が見つかる

2009年11月10日 | Weblog
 桜井市教育委員会は10日、調査中の纒向遺跡の中心部で3世紀前半の大型建物跡を見つけたと発表した。
 直径約32cmの柱跡が南北19.2mに5点、東西6.2mに3点、それぞれ4.8mと3.1mの間隔で整然と並んでいる。南北方向の柱の間には床を支える細い束柱の穴があり、高床式の建物だったらしい。過去の周辺の調査で見つかった複数の建物跡や柵列と共に、東西方向の同一直線上で南北対称となるよう計画的に配置されている。同一直線上で南北対称となる建物配置は、同時期までには例がない。飛鳥時代(7世紀)の宮殿と共通する特徴で、当時の王権中枢の一角であった可能性が高く、卑弥呼の「宮室」(宮殿)跡の想像が浮かぶ。一緒に出土した土器などから時期を判断した。
 78年に柵と建物跡が確認された調査地点を、今年2月から区域を広げて再度調査。東西に計画的に並ぶ三つの建物群や柵を確認。大型建物跡は、その東側の区域で新たに見つかった。後世に柱穴が削られた西側も含め、東西幅は倍の12.4m、推定床面積は約238㎡あったとみられ、弥生時代最大規模の環濠集落とされる吉野ケ里遺跡(佐賀県)で最も大きい「主祭殿」(2~3世紀)の約1.5倍になる。現場は小高い台地を大規模に造成しており、南北約100m、東西約150mの区画があったとみられる。
 現地説明会は14、15日の午前10時~午後3時に開かれる。(雨天中止)
[参考:時事通信、共同通信、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞]

参考
 卑弥呼の宮殿か、奈良・纒向遺跡 3世紀前半で最大の建物跡(共同通信) - goo ニュース
 3世紀前半、最大規模の建物跡=邪馬台国畿内説に弾み-卑弥呼の居館?-奈良(時事通信) - goo ニュース

過去のニュース
  2009.8.23 纒向遺跡 新たな柱穴発見、棟持ち柱の可能性
  2009.3.20 纒向遺跡 卑弥呼時代の建物群と柵が出土
  2009.1.31「邪馬台国」解明へ 纒向遺跡を本格調査へ

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かつらぎ町・中飯降遺跡 新たに1棟の大型建物跡が見つかる

2009年11月07日 | Weblog
 和歌山県文化財センターが縄文時代後期(約4000年前)の中飯降(なかいぶり)遺跡(かつらぎ町中飯降)で、新たに1棟の大型の竪穴建物跡が見つかったと発表した。計4棟の大型建物跡(注1)が確認されたことになり、集落内で大型の建物が建て替えられながら長期間使用されていたとみられる。
 同センターは2008年5月から同遺跡の発掘調査を実施し、これまでに計3棟の竪穴建物の跡を発見している。今年9月からは、遺跡にかかる町道の地下を調査し、直径約10mと推測される4つ目の竪穴建物跡を見つけた。
 4棟の竪穴建物の大きさは、いずれも西日本で最大で、柱を固定するために約20cmの石が多数用いられている。おおむね東西に並んでおり、発見された鉢などの縄文土器から、最も古い建物と新しい建物との間には、使用された時期に約200年の差があるという。
 建物跡の全体が発掘できた2棟では、中心部には炉があったことなどから、住居か祭事場だったかは不明だが、集落の中心的施設だったとみている。
 7日午前10時半から、公開シンポジウム「紀ノ川流域の縄文文化」がかつらぎ総合文化会館(同町大字丁ノ町)で開かれる。同遺跡の発掘調査について報告などがある。
 8日午後1時半から現地を公開する。
[参考:読売新聞]

過去のニュース
 2009.1.10中飯降遺跡 新たに縄文後期の西日本最大級の2つの竪穴式建物跡

(注1) これまでに、
 2008.7 直径14m 円形
 2009.1 長軸16m 短軸14m 楕円形、および同等の建物跡
計3棟の大型竪穴建物跡が発見されていた。
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太宰府市・大宰府条坊跡 新羅・佐波理製の匙が出土

2009年11月06日 | Weblog
 太宰府市教委は5日、政庁から南に延びる「朱雀大路」の東側(同市朱雀3の西鉄二日市操車場跡地)で、新羅で作られたとみられる佐波理(さはり)製の匙(さじ)と容器の破片が出土したと発表した。南東約90mの地点では大規模な建物跡も出土しており、市教委は重要な区域だったことを示す新たな手がかりになるとみて分析を進めている。
 佐波理は銅と錫の合金で、7~8世紀に朝鮮半島で作られた食器などに使われた。出土した匙は全長7・6cmで、匙面や柄は大半が欠けていた。本来は全長24~26cmとみられる。奈良の正倉院所蔵の匙と似ていることなどから、8世紀に新羅から伝わり、使われていたとみられる。
 容器破片は鋺などの食器の底部分とみられ、長さ4・9cm、幅2・6cm。厚さは0・35~0・43mmしかなく、轆轤(ろくろ)を使った跡も確認された。県内で佐波理製の匙が見つかったのは、福岡市南区の三宅廃寺跡に次いで2例目という。
 佐波理製の食器は当時、高級品とされていたことから、都から派遣された役人が使っていた可能性もあり、建物跡が役所などの公的施設だったことを示す重要な手がかりになるとしている。
 現地説明会が7日午後1時半から開かれる。14~23日には市文化ふれあい館で出土品を展示する。
[参考:読売新聞、西日本新聞]

過去の関連ニュース
 2009.2.19 大宰府条坊から、大きな建物跡2棟が出土
 2008.10.9 大宰府市都府楼南5丁目条坊跡 古代道 馬と人の通行区分跡か
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多賀城市・多賀城跡 苑地跡とみられる護岸施設や創建時の木の柵を確認 現地説明会11/7開催

2009年11月06日 | Weblog
 11月3日の読売新聞朝刊で比較的大きく、「多賀城 創建時ぐるり木の柵」と記事を採り上げていた。その2日後に毎日新聞では「護岸施設を確認」と報じた。
 宮城県多賀城跡調査研究所のサイトで現地説明会開催のお知らせ、そして宮城県教育庁のサイトでは記者発表資料として詳細が出ていたので、簡単にまとめてみた。

■多賀城跡第81次発掘調査
調査箇所: 多賀城市市川字城前地内
 ① 政庁跡南の鴻ノ池地区(政庁の南方250m、政庁中軸線から西へ約50m)
  これまでに、調査区の東方の政庁中軸線上では八脚門と推定される建物跡、その直ぐ東側で積土遺構、さらに東で材木列・丸太列など、外郭東辺部で積土遺構が検出されており、これらは門の東側にほぼ一直線に並んでいる。今回は、この西側延長線上の調査を目的とする。
 ② 政庁南西地区では整地層の南側を東西に延びる材木塀跡2条の西側の状況とその性格の解明を目的とする。
調査期間: 2009年5月12日から ①は8月28日まで(終了)。 ②は11月13日終了予定。
調査成果
 ①-1 区画施設の存在が推定される杭材を敷き並べた筏地業とその上に積み上げた盛土とからなる基礎地業を発見した。このことにより、門を中心として東側だけでなく西側にも区画施設が一直線上に並ぶ可能性が高くなった。時期については特定できないが、多賀城第Ⅰ期と考えられる。
 ①-2 古い基礎地業の高まりを利用して構築された盛土遺構とそれに伴う土留め施設が3時期検出された。これらは池沼の護岸施設で、8世紀後半頃から9世紀末頃まで機能したとみられる。中でも1時期目の盛土遺構は葺石や敷石を伴い、苑地の池部分である可能性がある。
 ② 材木塀跡、石敷遺構、整地層、柱穴、溝跡、土壙などがあり、東部には平場に伴う整地層が残存しており、溝跡や土壙、柱穴が検出されている。また、これらの遺構の下で材木塀跡の存在を確認した。
 ②-1 南側の材木塀跡が調査区東部で途切れることを確認。この場所を西端とみると、東端の門跡からの長さは約56m、門跡東側の塀跡も含めた長さは約84.5mとなり政庁の南側を画することになる。北側の塀は検出されていない。
 ②-2 東西約16m・南北17m以上の範囲を造成し、その上面に径5~15cmの礫と瓦片を敷き詰めた石敷遺構を発見した。多賀城第Ⅱ期以降、灰白色火山灰降灰以前のもので、詳細な年代や性格については不明だが、政庁南西に当たるこの場所は広範囲の石敷を伴う特別な場所として利用されていたことが明らかとなった。__

現地説明会
 平成21年11月7日(土)午前10時30分より 会場:多賀城市市川字城前地内 多賀城跡第81次発掘調査現場
 第81次調査は、鴻ノ池地区と政庁南西地区の2カ所で行っている。鴻ノ池地区は調査が終了しているため、写真パネルでの成果説明となる。
[参考:宮城県多賀城跡調査研究所HP]

■多賀城跡・鴻ノ池地区 奈良・平安時代の精巧な護岸施設を確認
 県多賀城跡調査研究所は5日、かつては池や沼だったと伝えられてきた湿地帯「鴻ノ池地区」で木材や石を使った奈良・平安時代の精巧な護岸施設を確認したと発表した。周辺の地形などから、周囲約400mの巨大な池を有する庭園跡とみられる。中央の都以外の地方の役所(国府)で巨大な池跡が見つかるのは珍しいという。
 多賀城の正門と政庁を結ぶ「南門間道路」西側の調査で発掘された。盛り土部分に木材を数本寝かせ、打ち込み杭で固定。上部の岸面には人の頭程度の扁平な石が張り付けられていた。
 今回の確認で池は人為的に造られた可能性が強まり、最長部分で東西約130m、南北約100mに及ぶ巨大な池だったとみられる。
 庭園は地層や出土遺物から8世紀後半から9世紀末まで機能していたとみられ、多賀城が、蝦夷との抗争などを経て勢力を拡大し、威容を誇っていた時期と重なる
[参考: 2009.11.5毎日新聞]

■多賀城・政庁南西地区 創建時の木の柵
 宮城県多賀城跡調査研究所が今年8月から政庁の南西部を発掘したところ、政庁を取り囲むように太さ約15cmの丸太の柱を並べた柵列の跡が出土した。724年頃の創建時に中心部分を囲んでいたとみられる。
 これまでに盛り土による囲いの跡は見つかっていたが、創建当初は木の柵で囲まれていた可能性が高くなった。
 柵列は、南北に延びる遺跡の中心線から西側に約56mの長さと推定され、古代の一町(約108m)に対応して設計されたことがうかがえるという。今夏には、政庁の中心の南約250mでも、この柵と平行して東西に延びる柵状の遺構が出土しており、二重の柵だった可能性もある。多賀城以前の陸奥国府とみられている仙台市の郡山遺跡でも、中心部分を木の柵で囲んだ遺構が見つかっている。
 多賀城は、盛り土でできた築地によって二重に囲まれていたことが分かっている。だが、続日本紀では、天平9年(737)4月14日の条に「多賀柵」と書かれ、木の柵で囲まれていた可能性が指摘されていた。
[参考: 2009.11.4読売新聞]

過去の関連ニュース
 多賀城跡



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鈴鹿市・長者屋敷遺跡 伊勢国府跡政庁前の道路は幅24mの大路

2009年11月06日 | Weblog
 鈴鹿市考古博物館は4日、同市広瀬町長塚の国史跡・伊勢国府跡(奈良時代)から、国内最大幅となる24mの道路跡が出土したと発表した。
 長者屋敷は国府跡政庁から「金藪(かなやぶ)」と呼ばれている山林に向かって真北に200mの地点にあり、幅1.5m、延長80mに及ぶ南北溝が見つかった。さらに、この溝から西側に24m離れて、平行する2条の溝が見つかり、幅24mの大路であったことがわかった。これまで同国府跡から見つかった道路の最大幅は12mだった。
 同博物館では「国府のメーンストリートと考えられる。広い道路は、人などの通行だけでなく、儀式や祭祀などに使われたのでは」と話している。
 陸奥国府跡(多賀城市)でも同じ幅員が出土しており、2例目となる。
 14日(土)午後2時から現地説明会が開かれる。
[参考:京都新聞、鈴鹿市公庫博物館HP]



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大津市・若王寺 本尊の木造大日如来座像胎内から1080年作を示す墨書銘

2009年11月06日 | Weblog
 大津市歴史博物館は、若王寺(にゃくおうじ、同市大石中3)の本尊内部から、仏像が造られた年代を示す平安時代後期の墨書銘が見つかったと発表した。
 本尊は木造大日如来座像。高さ92・3cm、ヒノキ製、一木割り矧(は)ぎ造り。
 楽浪(ささなみ)文化財修理所(大津市)で修復中に背面材内部を赤外線カメラで撮影し、1080(承暦4年)に造立されたことを示す「承暦肆年庚申歳(じょうりゃくよねんかのえさるのとし)十一月二日」の銘を確認した。他に「奉造立□金色大日如来」「為平癒」「奉安置」とあり、当初は仏像の表面に金箔が張られていた可能性があり、病が治ることを願って奉納された経緯がうかがえる。
 両腕と脚の部材は後に取り換えられ、手の形は、現在の金剛界ではなく、造立当初は胎蔵界の印を結んでいた可能性を指摘する。
 市内では園城寺(三井寺)の木造不動明王(1014年、重文)に次ぐといい、滋賀県内では5番目である。
 若王子は奈良時代の創建と伝わり、現在は浄土宗の寺院。木造如来立像(重文、琵琶湖文化館寄託)や木造四天王像など、平安期の仏像が伝わる。
 8日から23日まで同博物館で観覧できる。有料。
[参考:京都新聞]

若王子
 浄土宗年表、旧栗太郡史によれば、西暦767年(天平神護年代)、宗純の開基、1506年に宗頓が中興して浄土宗の寺となる。10世紀末の作と推測される如来形像(寺伝、弥勒菩薩像)は、重要文化財。 [滋賀県観光情報HPより]



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韓国・泰安馬島沖 1208年に沈没した高麗船から竹簡、木簡、陶磁器など1400点以上の遺物を引き揚げ

2009年11月05日 | Weblog
 国立海洋文化財研究所は今年6月、忠南泰安郡近興面馬島(태안 마도)海域で水中発掘調査を実施した結果、昔の2隻の沈没船を発見して、「馬島1号船」(長さ10.8m、中央幅3.7m)と命名された高麗船舶から、積載された色々な種類の穀物、陶磁器、竹製品など1,400点以上の遺物を引き揚げたと4日発表した。
 今回の調査では船舶の船積み、出港日時、発信地、受信者そして貨物の種類と数量などを記録した木簡と竹簡64点を収集した。 このうち竹に文を書いた高麗時代の竹簡が初めて発見された。
 これらの遺物と木簡、竹簡内容を総合してみると、現在引き揚げ中である沈没船舶は1207年冬以後1208年初めにかけて海南・羅州・長興一帯で穀物類、塩辛類、陶磁器などを積載した後、開京にいる官職者に送り届けるため航海中に、今の馬島近隣海域で座礁したと判断された。
 木簡と竹簡には、貨物の船積み日と見える丁卯10月および12月28日、戊辰正月および2月19日などの干支の日付が確認され、したがって船舶は戊辰年2月19日以後出港した模様であるとした。また、貨物の発信地は竹山県海南、会津県羅州、遂寧県長興などの名が現れた。
 これら荷物の受信者名簿には「大将軍」のような官職とともに、氏名が具体的に現れた。
 また、これら木簡・竹簡には地方から開京に送られた各種貨物の名前も確認された。稲(租、白米)、粟、蕎麦、豆、末醤(麹)のような穀物類をはじめとして鯖、蟹などの塩辛類が確認され、この他にもキビ、魚骨、イワシ塩辛、竹の板、石炭なども含まれた。
 これら各貨物には「石、斗、缸(壺)」などの単位と、「壹ㆍ貳ㆍ參ㆍ肆ㆍ伍・拾・廿」などの旧漢字の数量で表示されていた。
 竹簡では、「大将軍金純永宅上田出租壱石」(大将軍金純永宅に田から出た租(稲)1石を差し上げる)と文書が書かれたものが注目される。金純永は高麗史(注1)と高麗史概要によれば1199年将軍に昇進し,1242年製作された金仲亀墓誌銘でも神宗(1144-1204、在位1198-1203)時代に「将軍」を過ごした事実が確認される。さらに、今回の竹簡資料を見ると、金純永は当時執権者の崔忠獻 (최충헌、1149-1219)の下で、1199年以後大将軍に昇進したと推定される。
これまで金純永の行跡を考慮すると、竹簡や木簡に見える丁卯あるいは戊辰年は各々1207年と1208年に該当する。したがって研究所は、今回の「馬島1号船」は1208年に出港したと判断した。
 一方、今回の調査で引き揚げた高麗青磁中には宝物級と評価される「青磁象嵌瓢形酒煎子」(청자 상감 표주박 모양 주전자、注2)が含まれている。この青磁は承盤(台皿)および2個の透刻座台と一緒に発見された。
[参考:聯合ニュース]

(注1) 高麗史概要 神宗靖孝大王 己未二年(1199) 八月の条に、「崔忠獻殺黃州牧守金俊琚、(略)俊琚妻父將金純永告忠獻 忠獻、(略)」と出てくる。
(注2)「青磁象嵌瓢形酒煎子」と書いたが、酒煎子は水注と表記されるかもしれない。もちろん、1208年以前の作品である。頸と注口が海底から海水中に覗いていたため、茶色っぽくなってしまっている。胴から把手にかけては、そのままに近い色が残っている。注口が少し欠けている。大きさについては記されていないので不明だが、30数cmと推定される。3本の紐を撚り合わせた形の把手が非常に印象的である。この形状の把手は12世紀中ごろの作品とみられる青磁象嵌葡陶童子文銅彩注子(청자상감포도동자문동채주)の把手とよく似ている。胴には大きな円の中に、1つの折枝牡丹文(あるいは花が小さいので草花文かもしれない)が白黒の象嵌で描かれている。とても素晴らしい作品である。
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東村山市・正福寺地蔵堂 地蔵まつり

2009年11月03日 | Weblog
 10月31日付け産経新聞ニュースの“国宝「正福寺(注1)地蔵堂」3日に開帳”を見て、今日行ってきました。
 東京都唯一の国宝建造物に指定されている地蔵堂は「国寶千軆地蔵堂」と書かれた額が掲げられています。今日は開帳の日にあたり堂内への立ち入りが許され、これに合わせて「地蔵まつり」が開催されました。晴天のおかげで、たくさんの人が集まりました。隣の八坂神社仮社(注2)では、雅楽「浦安の舞」(昭和四十四年三月に東村山市指定文化財)が演じられ奉納されました。

(注1)金剛山正福寺。臨済宗建長寺派の末寺である。正福寺に伝わる縁起では、弘安元年(1278)、南宋の径山興聖万寿禅寺(きんざんこうしょうまんじゅぜんじ)の石渓心月(しっけいしんがつ、仏海禅師)を開山とし、当時の鎌倉幕府執権・北条時宗により開創されたとする。しかし、文献により開基を時宗あるいは時頼、時政にあてたりしている。地蔵堂の建立者は不明であるが、尾垂木尻持送(おだるきじりもちおくり)から応永14年(1407)の墨書銘が発見され、考察の結果建立時のものと結論付けられた。(「正福寺展―国宝・地蔵堂建立600周年記念―」 2008東村山ふるさと歴史館編集・発行参考)
(注2)八坂神社本社は同市栄町3-35-1にあり、江戸期以前は「牛頭天王社」といわれていた。江戸期には正福寺が別当寺として管理していた。(「東村山文化財案内」2005東村山ふるさと歴史館編集・発行参考)



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奈良県斑鳩町・法隆寺 百万塔 奈良時代767年製作を示す文字を確認

2009年11月03日 | Weblog
 称徳天皇が国家安泰を願って作らせ、法隆寺に安置していた木製の小塔「法隆寺百万塔」(高さ約21cm、底の直径約10cm)が、奈良時代のものと確認され、所有する奈良女子大が2日、発表した。
 明治時代に、同大学の前身・奈良女子高等師範学校が購入したもので、底から767年の製作を示す「三年三月廿七日 珎池守」の文字が見つかった。
 7日まで同大学記念館で公開される。
[参考:読売新聞、奈良新聞]
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源氏物語 多様な姿を現す 標準本と異なる展開を映す「大沢本」 外伝「巣守帖」の断簡を発見

2009年11月02日 | Weblog
■源氏物語「大沢本」 標準的な写本「青表紙本」との違い2000字、異なる展開も
 源氏物語の写本の一つで、昨年約70年ぶりに全54帖の存在が確認された「大沢本」(鎌倉-室町時代)に、標準的な写本「青表紙本」の本文と大きく異なる展開の内容が含まれていることが、大阪大名誉教授・国文学研究資料館(東京都立川市)伊井春樹館長の研究で分かった。異なる部分は約2千字分。
 藤原定家が編纂した青表紙本の本文と大きく違う部分が見つかったのは、主人公光源氏の死後の物語「宇治十帖」の中の「蜻蛉巻」(かげろうのまき)。 薫と匂宮という2人の男性との三角関係に悩んでいた美女・浮舟が宇治で行方不明になってしまった後のくだりだ。
 青表紙本では、匂宮に命じられた従者の時方が夕方都を出て、雨が上がったころ宇治に着く。やがて時方が帰った後に、浮舟の母君が葬儀を行うという展開。だが大沢本では、先に雨の中で母君が宇治に着き、葬儀を計画。小降りになったころに時方が着くという展開に変わっている。
 大沢本は主に、鎌倉―南北朝時代に作られたとされるが、蜻蛉巻は室町時代に補充して作られたとされる。
 作者の紫式部による自筆本は現存していない。代わりに書写され、少しずつ内容が変化した様々な写本が伝承。鎌倉時代、藤原定家はそれらを整理、以後、研究が途切れることなく続いてきた。
 大沢本はこのほか、前半の「花宴巻」の巻末にも源氏の心境をつづった部分があるなど、標準本と違う部分が数多く見つかっている。
[共同通信、朝日新聞]

■源氏物語 外伝「巣守」か 断簡を発見
 現代に伝えられる「源氏物語」54帖には存在せず、古い注釈書などに巻名だけが残る「巣守巻」とみられる写本の一部が見つかった。これは源氏物語の後半「宇治十帖」の続編を紫式部の死後に別人が書いたとされてきたもの。これまで実態がわからなかった幻の写本で、源氏物語の変遷を探る貴重な資料となりそうだ。
 源氏物語研究で知られる池田和臣・中央大教授(中古文学)が古書店から入手した15・5cm四方の古写本の断簡2枚が、筆跡や紙質の鑑定により鎌倉末期から南北朝時代のものと判明した。源氏物語には現在知られている54帖のほかに、平安末期の故実書「白造紙」(はくぞうし)に「巣守」「桜人(さくひと)」「狭蓆(さむしろ)」などと巻名目録に記されており、人物紹介などを記した「源氏物語古系図」にも「巣守」の名前が挙げられている。
 池田教授が1葉目を入手したのは、15年ほど前。屏風に張られた多くの断簡の中から見つけた。さらに昨年、古美術品市場に出た手鑑(てかがみ)(断簡を集めたアルバム)から、もう1葉を発見。筆跡や紙の特徴により、同じ写本から切られた断簡だと判断した。
 さまざまな資料を総合すると、「巣守帖」は、薫の誠実さにひかれた「巣守の君」(光源氏の甥・源三位の娘で中君の姉)が若君を産み、求愛する匂宮の執着から逃れようと山中に隠れてひっそりと暮らす内容。
 見つかった断簡には、山に沈む月を見ながら隠とん生活を送る「巣守の君」の心情を思わせる、現存の資料には見られない和歌が記されていた。
  「うき世をも かけはなれなは いる月は 山こそついの すみかなるらめ」
 執筆年代や人物の関係などから、散逸した写本にほぼ間違いないと結論づけた。
 この写本については、21日に東京・実践女子大で開かれるシンポジウムで発表される。
[参考:朝日新聞、毎日新聞、読売新聞]

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奥州市・長者ヶ原廃寺跡 第12次調査の成果を発表、11月3日に現地説明会

2009年11月02日 | Weblog
 奥州市世界遺産登録推進室は31日、国史跡「長者ヶ原廃寺跡」(同市衣川区田中西)の本年度の発掘成果で、遺跡西側(衣川に近い場所)から寺院建設以前とみられる溝跡を発見したと発表した。
 遺跡を囲む土の塀「築地塀」の建設のために、溝は人為的に埋められたと考えられる。奥州藤原氏の祖先、安倍氏が約千年前に建てたとみられる寺院以前に、何らかの施設が同じ場所にあった痕跡となる。
 遺跡東側では一部で土色の異なる(初めは黄色っぽい土、後から黒っぽい土の)築地塀を確認した。地震などによって倒壊した塀を造り替えた跡とみられる。塀が補修されながら一定期間使用されていたことを示す。
 遺跡内に確認されている本堂跡と西建物跡以外に、東側に建物跡がある可能性もあったが、調査の結果、礎石も掘立柱建物跡の痕跡も確認することはできなかった。束稲山(たばしねやま)の眺望を確保するための狙いだったとのことを裏付ける結果につながっている。
 遺跡北門の外側でも、現時点で建物の痕跡は発見されていない。
 現地説明会が11月3日(火・祝)午後1時から行われ、今年度の発掘調査の成果などが報告される。
[参考:岩手新聞、岩手日日新聞、奥州市世界遺産登録推進室HP]

写真は、復元された紫波城址築地塀。(参考)

過去のニュース・情報
 2008.9.26 奥州市 長者ヶ原廃寺に北門跡確認
 長者ヶ原廃寺跡



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