覚せい剤をはじめ、違法な薬物の事件報道が時おり世間を騒がせる一方で、薬物依存症は治療が必要な病気でもある。
それはギャンブル依存症などでも変わらない。
では、依存症はどんな病気で、どんな人がなりやすく、どうやって治すのだろうか。
日本における薬物依存症の治療と研究のパイオニアである松本俊彦先生の研究室に行ってみた!(文=川端裕人)
覚せい剤依存の治療について、従来とは視点を変えた取り組みが必要かもしれないと分かった。
なら、まず、「依存」についてもう少し知っておこう。
依存、という言葉をぼくたちは、日常的な場面でよく使う。
この仕事は、あの人のスキルに依存している。某家の家計は、だれそれの稼ぎに依存している。あの人は依存体質だ。いつまでも親に依存するのはよくない……等々。
これらは日常の言葉だ。
一方で、依存症というと、医学の対象で治療が必要なものということになる。
依存症の「依存」と、日常的に使われる「依存」は同じものなのだろうか、違うものなのだろうか。違うとしたらどこが違うのだろうか。
国立精神・神経医療研究センターの松本俊彦・薬物依存研究部長は、穏やかでありつつも、内からほとばしる力を感じさせる口調で、ゆっくりと説き起こしてくれた。
「もちろん日常的な言葉と、医学の言葉は違うんですけれど、全く違うとも言えないところがあって。そもそも、この『依存症』って名前が適切なのかどうかという議論もあります。依存はいけないと言われるけれども、でも、どんな人でも何かしら、今、依存しているじゃないですか。人はひとりぼっちじゃ生きていけないわけですから。依存性のある物質、アルコールとか薬物とかでも、依存すること自体が絶対におかしいとも言えないんですよ」
日常使われる「依存」とは違うのだろうか。
かならずしも依存が絶対におかしいというわけでもない。
それでも、やはりアルコールや薬物に依存するのは行くところまでいくと「病的」で、しばしば「病気」だ。
体を壊すだけでなく、社会的な存在としての人を破壊する。
特に覚せい剤依存には、怖いイメージがつきまとい強烈な忌避の対象になる。
にもかかわらず、何かに依存するのは、ぼくたちにとって普通のことだ。
「医学的に言うなら、2つの依存があるんです。
『身体依存』、つまり、体の依存と、『精神依存』、心の依存です」
体の依存と、心の依存。ここまでは、結構分かりやすい。そういうものがあるのだろうと、すんなり理解できる。
「身体依存というのは、我々もお酒を毎日飲んでいるとちょっとずつ強くなって、以前は少ない量でボーッとしちゃってたのが、同じ量では足りなくなりますよね。これ、お酒に慣れて依存が生じたということなんです。
我々の中枢神経は外界から異物がくると、何とか恒常性を保とうとします。アルコールは脳の活動を抑制するものです。それで、いつも摂取していると、抑制されたところが基準になるようにリセットされるんです。
そのまま進むと、お酒を飲んでいない時に神経が過剰な興奮状態になって、手が震えたり禁断症状が生じたりします。こういう身体依存は、医療機関で処方される血圧の薬にしても、普通の睡眠薬にしても、痛み止めにしても、長く使っているうちに起きる可能性があります」
身体依存は体の挙動が変わってしまう。これには、目に見える「病気」の要素があるように思う。しかし、松本さんは、すぐに続けた。
「でも、依存症の本質は何かっていうと、精神依存の方なんですよね」と。
身体に直接影響が見える、身体依存よりも、精神依存の方が「依存症」の本質?
それはどういう意味だろう。
「我々も小さいときに、たまたま勉強やスポーツをほめられたのがうれしくて、ある人は勉強したり、ある人はスポーツをがんばったりしますよね。実はそのとき、頭の中ではドーパミンがいっぱい出て気持ちいいんです。
精神依存をもたらす薬物は、それと同じでドーパミンがドバーッと出る感じを与えてくれるんです。ほめられた子が一生懸命、勉強や運動するのと同じように、一生懸命薬を使うようになる。
すると、自分の中の大切なものの順位が変わってしまいます。昔は将来の夢とか、財産とか、健康とか、あるいは恋人や家族が大事だったのに、例えば薬を使うことを許してくれる友達や恋人が大事になるし、将来の夢に向かって努力するよりも、薬を買うためにさっと儲かるような仕事がほしくなる。
自分の価値のヒエラルキーが総取っ替えされる中で、本来持っていた自分らしさとはまったく違う場所に行き着いてしまうのが、依存症の一番の怖さです」
ぼくは、松本さんのこの説明に、経験と実感が凝縮されたものを感じ取り、慄然とした。
ほめられ、認められた体験で、人が頑張るのと同じメカニズムで、人は薬物に対して懸命になったりもする。
この場合、「ほめてくれる」「認めてくれる」のは人ではなく薬物だ。
松本さんの説明の中で、さらに恐ろしいと感じたのは、「価値観の総取っ替えが起こる」という部分だ。
「ぼく」という人格は、価値観のセットをベースにできている。
なら、「価値観の総取っ替え」は、自分が自分でなくなるということでもあり、家族にとっては、親や、配偶者や、子や、きょうだいが、違う人になってしまうことだ。
ふいに頭に浮かんだフレーズは、「覚せい剤やめますか? それとも人間やめますか?」
1980年代のテレビで放送されていた啓蒙広告だ。民放連が制作し、かなり頻繁に流されていたと思う。
「ああ、それが問題なんです」と松本さん。
「薬物の予防教育としては有効だったのでしょうが、同時に悲劇も生みました。だって、この国で依存症になるということは、ものすごいマイノリティになって、人間じゃないとされてしまうわけですよね。
私は15年前から少年院に定期的に行って、いわゆる非行少年たちの診察とかをしているんですけど、その中で覚せい剤の使用で入ってきた10代の子に『中学校とかで薬物乱用防止教育とか受けた?』って聞くと、『覚せい剤やめますか、人間やめますかとかなんか、警察の人が来て言ってました』って言うんですね」
ここでぼくは混乱する。
これだけ恐ろしい薬物なのだから、中学生に乱用防止を呼びかけるのは意味のあることだろう。しかし、松本さんの口調は明らかにネガティヴだ。
「それで『どう思った』って聞くと、『実はそのときに、父親は覚せい剤で捕まって刑務所にいたんです』と。
『おれの父親、人間じゃないんだ』と思って、『人間じゃないやつの子だから、きっと、おれも人間じゃねえよな』って自暴自棄になって、自分から悪いグループに入り覚せい剤を使うようになったというんです。予防教育もいきすぎると、リスクの高い子たちのリスクをより高くする。そういう弊害もあるんです」
予防教育が、リスクの高い子のリスクをむしろ高くする? 人の心がかかわる問題だけに一筋縄ではいかない。あの頃のキャンペーンは、効果を最適化するという発想がなかったのかもしれない。
これは、もちろん予防教育の問題だけではない。
松本さんの体験では、薬物依存に陥った人たちが社会的に猛烈に排斥されるがゆえに、治療のきっかけすらつかめないということが極めて頻繁に起きているという。
これはやっぱり悲劇と言うのに相応しい。大多数の人を薬物から遠ざけることに成功しつつ、ごく一部の人をむしろ、薬物に近づけてしまう仕組みで、我々の社会の薬物にまつわる秩序がかろうじて保たれているということでもあるのだから。
松本俊彦(まつもと としひこ)
1967年、神奈川県生まれ。医学博士。国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部部長。1993年、佐賀医科大学医学部卒業。
国立横浜病院精神科、神奈川県立精神医療センター、横浜市立大学医学部などを経て、2004年、国立精神・神経センター精神保健研究所に入所。
2015年より現職。『自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント』(講談社)『自傷・自殺する子どもたち』(合同出版)『アルコールとうつ・自殺』(岩波書店)などの著書や、『SMARPP-24 物質使用障害治療プログラム』『よくわかるSMARPP あなたにもできる薬物依存者支援』(金剛出版)『大学生のためのメンタルヘルスガイド 悩む人、助けたい人、知りたい人へ』(大月書店)『中高生のためのメンタル系サバイバルガイド』(日本評論社)などの共編著書多数。
川端裕人(かわばた ひろと)
1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。
文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、『雲の王』(集英社文庫)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)など。近著は、ロケット発射場のある島で一年を過ごす小学校6年生の少年が、島の豊かな自然を体験しつつ、どこまでも遠くに行く宇宙機を打ち上げる『青い海の宇宙港 春夏篇・秋冬篇』(早川書房)。また、『動物園にできること』(第3版)がBCCKSにより待望の復刊を果たした。
本連載からは、「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめたノンフィクション『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)がスピンアウトしている。
ブログ「カワバタヒロトのブログ」。ツイッターアカウント@Rsider。有料メルマガ「秘密基地からハッシン!」を配信中。