境涯とは、命そのものの状態を示すものです。
我々は、生きている中で色々な状況や環境に遭遇し、又縁するさまざまな物事を見聞き、体感することで、多かれ少なかれその
影響を心(命)に受けながら生きています。
心がダイレクトに感応することにより、その時の命の状態(境涯)によって、自身の心か
ら生じてくる反応(想い・言動等)は様様です。
全ては、自分自身の心の状態に依って、受ける事柄は同じであっても、心の反応の仕方は様々だということになります。
仏法では【十界論】を説きますが、この十界がまさに命(心)の境涯を説き顕したものです。
下の境涯から、〖地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞(しょうもん)・縁覚(えんかく)・菩薩・仏(界)〗が十界ですが、最下
部の「地獄・餓鬼・畜生」を『三悪道』といい、上の「修羅(界)」を合わせて『四悪趣(しあくしゅ)』、そしてさらに上の「人・天」を
合わせて『六道(輪廻)』といいます。
人が凡夫たるゆえの「煩悩」とは、この『六道」の境涯を常に行ったり来たりしている命の状態を示しています。事あるごとに悦び、
事あるごとに悲しみ、そして事あるごとに憎み、嫌う。また、願いが叶ったり、嬉しいことがあれば天界の境涯に酔いしれます。
そのように常に不安定に流動する命の状態を以てして「煩悩」というのですね。
境涯の高低とは、その人が持っている境涯(命の状態)の「重き(中心)」が何処に在るかということでもあります。
要するに、三悪道の命(境涯)が強い人と、上部位の境涯が強い人とでは、その人の「人格形成」に大きく影響します。
無論、
だからと言って、下部の境涯を強く宿す人でも、平等に差別なく上位部の境涯もしっかりと具えていますし、又その逆も同様であ
り、如何に人格者と称される方の命の中にも憎悪や貪欲の境涯(三悪道)は厳然として具わっています。
自分の思い通りにならない、自分のいうことを聞かないと言って、直ぐに怒りに任せて他を蔑み、罵倒したり、又暴力を持って制圧
しようとする命は、三悪道の命そのものです。
また、如何なる試練や困難に遭遇しても、冷静に客観的に洞察し、他に当り散らしたり、責任転嫁をして誤魔化し、逃げるようなことをせずに、自身が乗り越えるべき試練として果敢に受け止め、切磋琢磨する心は、上位の境涯と言えるでしょう。
究極は、菩薩界を経て最高位である「仏界」に到達することでありますが、これは自分の命が「仏界」そのものに成るということは
、まず不可能です。それが出来れば、その人は既に凡夫に非ず、「仏様」そのものであるからです。
仏教では、『煩悩即菩提』、又『即身成仏』を説きます。要するに、煩悩そのまま持ったままの姿(心)で、成仏の境涯を得る
ことを示しているものです。人を忌み嫌ったり、憎んだり、止まることを知らない貪欲の心を少しずつ緩和し、余計な邪念や我見、表面的な欲得等、即ち「煩悩の鎧」を脱ぎ捨て、全ての命に対する感謝、そして全ての命に対する慈悲心を養っていくことにより、煩悩をもったままにして「成仏の境涯」を知る事が出来ます。
「知る」と「なる」ということは、全く別次元ではありますが、「なっていく」と信じ、行じ、そして実生活に反映しながら信仰を保ち続ける事が信仰の姿でもあり、只一つの真理でもあります。