震災 祈りのコンサート取手

2019年03月30日 18時20分56秒 | 社会・文化・政治・経済

毎日新聞を読んで、祈りのコンサートへ行く。

会場へ着くと、藤井信吾取手市長の挨拶が行われるところであった。

市長は一時期、取手市内の住民が減ったこととを告げるとともに、現在、取手市にで働いている人が増えていると報告した。

また、西口のロータリーが拡張される計画や高層のマンションが建設される予定であることなどを明らかにした。

挨拶する藤井信吾取手市長

赤ベコの唄を熱唱する歌手の鈴木ミチさん

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祈りのコンサート 東北出身の歌手グループ、あす取手で 地元合唱団も出演 

毎日新聞2019年3月29日 

 東北出身の歌手らによる「祈りと感謝のコンサート 和魂歌」が30日、取手市新町2の取手ウェルネスプラザで開催される。東日本大震災の犠牲者を追悼し被災者支援に感謝するため、市内の作曲家で歌手の鈴木ミチさん(44)が企画。来場を呼びかけると共に、運営費を賄うため福島の民芸品にちなんだ「絆ベコ」を販売中だ。

 当日は、福島県会津若松市出身の鈴木さん▽同県南相馬市の福島はじめさん▽宮城県石巻市の大内あゆみさんら歌手のほか、この日のために特別編成した地元の「ひだまり合唱団」も出演する予定。

 コンサートは今年で4回目。
鈴木さんと東北出身の歌手でつくる復興支援グループ「東北を繋(つな)ぐ架け橋プロジェクト ひだまり」が主催。鈴木さんは「震災以降も各地で地震や水害が相次ぎ、みんながボランティア精神で手を取り合い、助け合っている。お互いの絆を大切にしていきたい」と話す。合唱団のメンバーで、土浦市の自営業、一水(いちみず)志穂さん(49)は「心に響く優しい歌を歌います」と張り切っている。

 絆ベコは会津若松市の民芸品「赤べこ」と同形だが、華やかに着色。鈴木さんが同市内の民芸品製作所に依頼した特注品だ。毎年そろえて自宅に飾る人もいるという。大小の2サイズ。小(15センチ、2000円)は銀とピンク、緑の3色。大(30センチ、1万円)は銀色。メッセージを書いて会場に並べ、終了後に持ち帰る。希望者には出演歌手がサインする。

 入場無料。当日は正午から整理券を配り、午後1時開演。問い合わせは鈴木さん(080・5473・1279)。

 

 


「我慢できない人だから」

2019年03月30日 10時00分33秒 | 日記・断片

昨日は、2カ月に1回の高安医院の診察を受ける。
何時もは、5時ころに行くが、この日は、午後3時過ぎに。
友人の丸田さんの裏の道を通ると新道沿いのコースより近く感じた。
直線の新道より1本裏道の旧水戸街道はなぜか近道と想われる。
医院の玄関でスリッパを取り出している時に高齢のご婦人とすれ違う。
以前、院内で見かけたことがある人だった。
待合室には2人が座イスに座っているのみ。
何時もは8人~10人は待っていた。
5分ほどして、一人が診察を終えて会計をすませてかえったので、待合室は二人となる。
そこへ中学生くらいの男の子と母親がやってきた。
自宅から雑誌を持っていったが読まずに、テレビで高校野球を見る。
筑豊学院と山梨学院の試合だった。
呼ばれて診察を受ける。
血圧の測定。
2度計ったが「150、高いですね」と医師が言う。
次いで上半身裸となりレントゲン撮影。
診察室に戻り、ベッドに腰をかけて血液検査のため注射で血液を採る。
前回の血液検査の数値を見て「肝炎ウイルスに感染したことは?」と問われる。
「ないですね」
「輸血は」
「大腸がんの手術で、輸血はしました」
「肝機能が悪いですね」
「お酒を飲んでますか」
「日本酒を」
「どれくらいですか」
「2合くらい、毎日」
「1日、1合までですね。休肝日、週に1、2日は必要です」
沈黙するほかない。
前回、前々回は、120台~130台の血圧が、150とは。
調剤薬局で「薬、毎日飲んでますか」と薬剤師に問われる。
月に4、5日は薬飲み忘れいるのが現実。
だから、3月15日ころに診療を受ける日程がずれてしまった。
薬剤師は前回の処方の日をパソコンの記録で把握していた。
「1日1回2錠朝食の後に服用となっていますが、昼でも、夜でもいいですから、忘れないように服用してください」と念を押された。
帰りにコンビニで酒を買うつもりでいたが、気持ちを押さえた。
「我慢できない人だから」と大学の後輩に言われた若いころのことが思い出された。
当時、競馬にはまっていて、「先輩、そんなに競馬って面白いですか。もっと健全な遊びしましょう」と坂上君から諭された。
「また、府中競馬ですか。我慢できない人だから・・・」と呆れる。
「ついでに、府中図書館に勤めている棟方に会うつもりだ」と当方は言いわけをする。
彼は版画家の棟方さんの親戚の同窓生だった。
彼も版画をしていて、年賀状には自作の版画があった。
彼の父親も画家であり、個展に行ったことがある。
彼は学生時代には、府中競馬でアルバイトをしていた。
坂上君や棟方君はどうしているだろうか?


“世界幸福度ランキング”後退の日本

2019年03月30日 03時33分24秒 | 社会・文化・政治・経済

日本に足りないのは寛容さ?「みんな自分のことしか考えていない」

2019.03.22

国連は20日、2019年版の「世界幸福度ランキング」を発表した。
日本は58位で、去年の54位から後退した。

156の国と地域で各3000人を対象に行われ、「1人当たりの国内総生産(GDP)」「健康寿命」「社会的支援の充実」「自由度」「腐敗度」「寛容さ」の6項目から分析されている同調査。トップはフィンランドで、デンマーク、ノルウェー、アイスランドと北欧諸国が続く。日本は過去最低の58位で、健康寿命は2位、GDPは24位と上位だったものの、自由度は64位、寛容さは92位と足を引っ張った。
実際に日本の寛容さは低いのか。AbemaTV『けやきヒルズ』は「寛容さが足りない瞬間」について渋谷で声を聞いてみた。

「外国人の方から声をかけられてもスルーしている人がいる」

「SNSでつぶやくのって自由だから、そんなに周りが反応しなくてもいいのかなと。炎上させてナンボっていう人もいる」

「(通勤通学)ラッシュの時に、みんな自分のことしか考えていないのか体当たりとか多いし、線路に財布を落としちゃったことがある。日常の公共の場でのルールが緩くなっているのかなと思う」

「ちょっと(肩が)当たっただけで睨みつけられたり」

寛容さが欠けた社会について「変えていこうと思っている」と話す仲岡しゅん弁護士。「コンビニとか飲食店とかすぐクレームをつける人がいるが、私はそういうのが大嫌い。逆に『ありがとう』『ごちそうさま』を言うようにしていて、すると店員さんに覚えてもらえたりして『仲岡さんだ』とサービスしてくれたりする。回り回って自分に戻ってくる」と実体験から語った。

(AbemaTV/『けやきヒルズ』より)

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 ・世界幸福度ランキング2018

第1位: フィンランド

第2位: ノルウェー
第3位: デンマーク
第4位: アイスランド
第5位: スイス
第6位: オランダ
第7位: カナダ
第8位: ニュージーランド
第9位: スウェーデン
第10位: オーストラリア
第11位: イスラエル
第12位: オーストリア
第13位: コスタリカ
第14位: アイルランド
第15位: ドイツ
第16位: ベルギー
第17位: ルクセンブルク
第18位: アメリカ合衆国
第19位: イギリス
第20位: アラブ首長国連邦
第21位: チェコ
第22位: マルタ共和国
第23位: フランス
第24位: メキシコ
第25位: チリ
第26位: 台湾
第27位: パナマ
第28位: ブラジル
第29位: アルゼンチン
第30位: グアテマラ
第31位: ウルグアイ
第32位: カタール
第33位: サウジアラビア
第34位: シンガポール
第35位: マレーシア
第36位: スペイン
第37位: コロンビア
第38位: トリニダード・トバゴ
第39位: スロバキア
第40位: エルサルバドル
第41位: ニカラグア
第42位: ポーランド
第43位: バーレーン
第44位: ウズベキスタン
第45位: クウェート
第46位: タイ
第47位: イタリア
第48位: エクアドル
第49位: ベリーズ
第50位: リトアニア

 残念ながら日本は50位以内に入賞ならず、昨年より3つ順位を落とし「54位」であった。ちなみに韓国は57位、ロシアは59位、中国は86位、最下位はアフリカの「ブルンジ共和国」で、ポイント的には1位のフィンランドの半分以下という結果になった。

このランキングは「所得」「健康と寿命」「社会支援」「自由」「信頼」「寛容さ」などの要素を基準にランク付けされたもの。


お産事故で赤ちゃんに脳性まひ

2019年03月30日 03時26分07秒 | 医科・歯科・介護

3割で陣痛促進剤を使用

3/29(金) 19:26配信

2013年までの5年間にお産の事故で脳性まひになった赤ちゃんのうち、約3割に陣痛促進剤(子宮収縮薬)が使われ、最もよく使われる薬剤だと、半数以上のケースで、学会指針が強く勧める適切な使用量が守られていなかった。

日本医療機能評価機構が29日、発表した。

自然に陣痛が始まらなかったり陣痛が弱かったりした場合、点滴やのみ薬の陣痛促進剤が使われる。

効き具合の個人差が大きく、まれに子宮の筋肉の一部が裂ける子宮破裂などが起こり、母子が危険な状態になることがある。

日本産科婦人科学会などのガイドラインは、胎児の心拍数や陣痛の強さを連続的に調べながら、基準量の範囲内で促進剤を使うことを強く勧めている。

医療機能評価機構も、医療者向けの文書でガイドラインなどを守るよう呼びかけてきた。

朝日新聞社


中高年ひきこもり61万人以上

2019年03月30日 03時15分34秒 | 社会・文化・政治・経済

「ネット、ゲームやらない」初調査でわかった“イメージ”と異なる実態

3/29(金)
内閣府は29日、中高年で“ひきこもり状態”にいる人が全国で61万人を超えるとの調査結果を発表した。

 若年層を対象にした過去の調査でひきこもりの長期化が確認されたことから、政府は中高年を対象にした調査を初めて実施。

この結果、全国の40~64歳の男女で、推計で61万3000人が“ひきこもり状態”にあるという。

15~39歳が対象の2015年調査に比べ、中高年の方が7万人以上多く、男女比は4分の3以上(76.6%)で男性が多かった。

中高年ひきこもり61万人以上 「ネット、ゲームやらない」初調査でわかった“イメージ”と異なる実態
全国推計で61万3000人
 「ひきこもり」の定義は、自分の部屋からほぼ出ない、外出は趣味の用事や近所のコンビニへ行く程度などの状態が、6カ月以上継続した人のことを指す(仕事をしている人は除く)。

 ひきこもりの期間は、「3年以内」が27.7%で「3~5年」が21.3%、「10年以上」が17%で「30年以上」も6.4%いるとされる。
きっかけは、「退職」が36.2%で、「人間関係」「病気」がともに21.3%、「職場になじめず」が19.1%など。
若年層は「学校」がきっかけとなりやすいのに対し、中高年は「職場」が多い。

中高年ひきこもり61万人以上 「ネット、ゲームやらない」初調査でわかった“イメージ”と異なる実態
「ネット閲覧」「SNS書き込み」する人の割合は低い
 また、普段利用しているものについて、「携帯電話での通話」はひきこもりが53.3%でそれ以外が84.4%、「携帯電話でのメール」はひきこもりが36.2%でそれ以外が66.6%、「ウェブサイトの閲覧・書き込み」はひきこもりが14.9%でそれ以外が22.6%、「SNSの閲覧・書き込み」が10.6%でそれ以外が13.3%と、ひきこもり状態の人の割合のほうが低かった。

 ドラマなどで描かれがちな、「暗い部屋でパソコン画面に向かう」といったひきこもりのイメージ。BuzzFeed Japan記者の神庭亮介氏は「社会と繋がれていない、繋がる相手がいないからこそ孤立して、SNSに書き込みをしたりネットを閲覧したりする人が少ない」として、「(ひきこもりに)抱いているイメージを変えなければならない」と指摘する。
さらに深刻化しているのが、高齢の親(80歳)がひきこもりの子ども(50歳)の面倒をみる「8050問題」。
神庭氏は「今回の調査で問題の根深さが浮き彫りになった。今のひきこもりの支援は“就労支援”が主だが、20~30年と長期に渡ってひきこもり状態の人にいきなり『外に出て働け』と言うわけにもいかない。
就労支援以前の、ワンクッション挟んだ支援が必要なのではないか」との見方を示した。

 中高年ひきこもりのきっかけとなっている「退職」。神庭氏は、クビや派遣切りにあった人も含まれているのではないかと指摘。「一度退場を余儀なくされてしまった人が、再チャレンジできるような仕組みづくりが必要」とも述べた。
(AbemaTV/『けやきヒルズ』より)

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日本のがん患者なぜ減らない

2019年03月30日 03時08分10秒 | 医科・歯科・介護

 米国は減少、検診に差 

2019/3/12 日本経済新聞
検診の質にも課題があるようです。
がん検診に詳しい青森県立中央病院の斎藤博・医療顧問は「海外では検診による死亡率の低下など効果を検証する体制が整っているが、日本では企業が実施する検診では受診率のデータすらとれておらず、効果のあがらない要因となっている」と話しています。

斎藤氏は「検診の質を上げたうえで効果を検証できる仕組みを整えるべきだ」と訴えています。がん対策のキーが喫煙と検診にあることを、海外のデータは物語っています。

■中川恵一・東京大学医学部付属病院放射線治療部門長「保健の教育の充実に期待」

日本のがん対策にはどのような改善点があるでしょうか。東京大学医学部付属病院の中川恵一・放射線治療部門長に聞きました。

――日本のがん患者の増加は、高齢化が原因と言われています。

「がんは一種の細胞の老化なので高齢者が多くなれば増える傾向にあるが、日本のがんの増加は高齢化だけでは説明できない。例えば大腸がんの年間の死亡者数は日本のほうが米国より多い。日本が大腸がんの早期発見をできていないことが主因だ。米国では内視鏡が普及しており、深刻化する前に発見して取り除いている効果が大きい。日本は検便で大腸がんを調べているが、受診率は低く、内視鏡による精密検査を受ける人も少ない」

――日本は医療技術が進んでいるのに、どうして死亡者数が多くなるような事態が生じるのですか。

「根本的には、保健の教育がおろそかだったことが問題だと考えている。例えば、医者から言われたことを理解するのが難しいと考えている人の割合を調べると、日本は44%に達する。欧州連合(EU)の8カ国の平均は15%だ。検診の重要性をはじめ、保健への理解度を示すヘルスリテラシーで、日本は調査対象国のうちで最低に位置する。学校教育の現場で体育が重視される一方、保健にはほとんど目を向けてこなかったことが影響している」

――どうしたらいいでしょう。

「文部科学省は次期学習指導要領にがん教育を盛り込んだ。これから日本で始まるがん教育は、早期発見や予防の重要性を強調しており、世界でもトップレベルの水準になるだろう。こうした取り組みにより、将来は欧米並みにがん死亡率が下がっていくのではないかと考えている」

――現在、がんに苦しむ人を減らすには何が必要でしょうか。

「キーとなるのは多くの人が属する企業だと思う。自治体が主催するがんセミナーで何年か続けて講演したことがあるが、参加する市民の顔ぶれはいつも同じだ。自分はがんにかからないと思い込んでいるような人に検診に来てもらうには、強制力が必要だ。検診に向かう強制力を発揮できるのは企業だろう。厚生労働省はがん対策推進企業アクションと呼ばれるキャンペーンをしているが、もっと強力に進めるべきだ」

(高橋元気)


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がんの痛みも「面白がる」樹木希林の言葉とは?

2019年03月30日 02時57分31秒 | 社会・文化・政治・経済

3/29(金) 配信 NIKKEI STYLE

樹木希林は活字の中でたびたび「面白がる」という言葉を口にしてきた
2018年9月15日、女優・樹木希林が永眠した。
本書『一切なりゆき 樹木希林のことば』は、樹木が雑誌記事で語ってきた言葉の中から154の言葉を文春新書の編集部が厳選し、編まれたものである。

■「ヌードになるより恥ずかしい」
樹木は普段から特別、役作りというのはしないのだという。現場で扮装(ふんそう)をしたら勝手にその役の気持ちに入り込んでしまう。「私の場合、女優業ってそれくらいのこと」と彼女は語っている。

人は誰しもそれぞれ自分や家族の中に重たいものを抱えている。しかし、どんな役でも同じ人間という体をしている以上は共通する部分が必ずある。

たとえ殺人犯の役であっても、何かその人が生きるだけの道理がある。それを上から目線でかわいそうな人だとか残酷な人だとか思って演じるのではなく、自分に重ねるように、すっと役に入っていく。

第71回カンヌ国際映画祭において最高賞であるパルムドールを獲得した映画『万引き家族』(監督・是枝裕和)では入れ歯を外し、「髪の毛もだらぁと長くして、気味悪いおばあさん」を演じた。是枝監督の作品に出るのもこれが最後だと思ったため「ヌードになるより恥ずかしい」その姿で出演することを自ら提案したそうだ。「人間が老いていく、壊れていく姿というのも見せたかった」のである。

■「とにかく、やってみましょうか」
樹木の葬儀。喪主代理の挨拶において、娘の内田也哉子は「いつか言われた母の言葉」として次の言葉を紹介した。

「おごらず、他人と比べず、面白がって、平気に生きればいい」

樹木は活字の中でたびたび「面白がる」という言葉を口にしている。がんの放射線治療の後遺症で肩がゴキンと鳴り「ウアッ」と思っても、「痛い」ではなくて「ああ気持ちいい」と言い換えて状況を面白がるのだ。

口の周りに何かが付いていても気付かないことがある。それでも「よく気が付かないもんだなあ、面白いなあ」と感心する。「昔はよかった」と嘆くよりも、「へえ、こんなこともできなくなるんだ!」と自分の変化を楽しんだ方が得だと考える。

「取るに足らないように思える人生も、面白がってみると、そこに幸せが見つけられるような気がする」

本書のタイトルは、樹木が生前、色紙に書いていた言葉「私の役者魂はね 一切なりゆき」から取られたものだ。

どんなときでも「とにかく、やってみましょうか」と、あるがままを受け入れて演じてきた樹木を体現する言葉である。

人間を、いかにして自分の身体を通して表現するか。それが役者の仕事である。「存在そのものが、人が見た時にはっと息を飲むような人間になりたい」と語っていた樹木。

その願いは、完全にかなえられたように思う。
(「ひらめきブックレビュー」 山田周平 情報工場エディター)

NIKKEI STYLE


「犯罪癖は治らない」は本当か? 

2019年03月30日 02時31分33秒 | 社会・文化・政治・経済

茨城女子大生殺人の容疑者も再犯だった
社会2019年2月22日掲載

廣瀬晃一容疑者
2度の検挙歴のある廣瀬晃一容疑者

茨城県神栖市の空き地で女子大生の遺体が見つかった事件で逮捕された廣瀬晃一容疑者(35)。実は廣瀬容疑者には性犯罪などで2度の検挙歴があり、一昨年4月に逮捕された児童買春・児童ポルノ禁止法違反容疑では有罪判決を受けているという。
 事件マニアの間では、無責任に激論が交わされている犯罪界の「再犯」事情。この世で罪を犯した者は、法廷で裁かれ刑に服す。
そこでの生活ぶりはここでは省くが、いずれにしても刑務所とは二度と戻りたくない場所のはず。ところが、再び愚行に手を染めてしまう輩が何とも多い。
すなわちそれは「癖(へき)」であり、「病」だから治らない…というわけだ。
 全国70余の刑務所から、年間にして概ね2万人以上の受刑者が出て来ている。例えば2017年は、「満期」プラス「仮釈放」で、都合21,636人が塀のこちらの世界に返り咲き。一方で11,325人の前科者が獄にリターンしている。
半数以上が、「再入者」として塀の向こうに舞い戻っているのだ。
 ちなみに、「強制わいせつ・同致死傷」、「強制性交等・同致死傷」2種の受刑者計144人の「マエ(前科)」を辿ってみると、実に51人が同種の罪を過去に犯していたのだった。すなわち35%がまったく同じ過ちを犯している(ちなみに10年前の統計では209人に対し79人=38%)。
 さらに「殺人」を見てみると、26人が「再入所」、少なくともそのうち4人が「再殺人」での出戻りだ。
 1999年9月の全く同じ日に、こうした再犯者たち3人に死刑が執行され、絞首となっている。1度目の犯罪で無期懲役、仮出獄で娑婆に出たものの、再び凶行に手を染めた彼らには、もはや「満期」は訪れなかった。以下、13件の凶悪殺人を扱ったノンフィクション『殺人者はそこにいる』を基に概要を記す。

視線はその刹那、あなたに向けられる…。酸鼻極まる現場から人間の仮面の下に隠された姿が見える。

日常に潜む「隣人」の恐怖。『殺人者はそこにいる』新潮社

 
殺人者はそこにいる―逃げ切れない狂気、非情の13事件 (新潮文庫) 文庫 

K・T(同61)…67年、福島県内でクリーニング店の元同僚女性を絞殺、1万9千円を奪う。→入所。22年後、仮出獄→90年、焼き鳥店の女将を鉄工用ハンマーで撲殺。2万5千円入りの財布を奪う。(仙台拘置支所収監)
T・M(同69)…62年、別れ話の末、妻に重傷を負わせ、義母を刺殺。→入所。14年後、仮出獄→暴力沙汰を起こし刑務所に逆戻り→6年後、仮出獄→85年、前妻の居場所を聞き出そうとして断られ、前妻の叔母と養女を刺殺。2人合わせて76カ所の刺し傷。(福岡拘置支所収監)
 事件の詳細は同書に譲るが、「再犯」の実態が突きつけられるのではないか。
 さらにこんなデータも。2017年に殺人で入所した受刑者が、過去に何度入所経験があるかを示した数字(入所受刑者の入所度数別人員)を見てみると、総数176人に対し、2度10人、3度4人、4度3人、5度以上10人となっている。
 要するに、この年、殺人で入所している176人のうち27人が、必ずしも理由が殺人とは限らないものの、少なくとも初めてのムショ暮らしではなかったのである。
 2016年に再犯の防止等の推進に関する法律が施行されるなど、「再犯防止」は国としても大きな課題となっている。しかし、過去の例を鑑みると、再犯とは「病」どころか「宿痾」、あるいは人が生きるための「よすが」なのかもしれない。
デイリー新潮編集部


犯人直撃「1988名古屋アベック殺人」

2019年03月30日 02時20分10秒 | 社会・文化・政治・経済
[中尾 幸司]の犯人直撃「1988名古屋アベック殺人」少年少女たちのそれから―新潮45eBooklet 事件編10
 

少年少女たちのそれから―新潮45eBooklet 事件編10Kindle版

 
 「名古屋アベック殺人事件」とよばれた衝撃の犯罪。若いアベックを嬲り殺しにした犯人たちは、ほとんどが17‐19歳の未成年者であった。1988年当時の少年法に護られ、出所した犯人たち。
被害者遺族が貧困のなかで孤独死をむかえる一方で、犯人たちは「子を持つ親」となって人生をそれなりに楽しんでいる――。「更生」の現実がみせつける、この胸のわだかまりはどうしたことなのか。新潮45が真実にせまる、犯人直撃レポート!

デート中の男女を暴行、強姦…「名古屋アベック殺人」無期懲役少年が語る“社会復帰”
社会新潮45 2016年9月号掲載
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デート中だった男女を暴行、女性を強姦、その後2人を絞殺した(※イメージ)(他の写真を見る)


 1988年に起きた「名古屋アベック殺人事件」は、戦後の犯罪史に刻まれる残虐事件のひとつである。愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園の駐車場で、デート中だった男性(当時19)と女性(同20)を暴行し、現金2万円を奪った上、女性を強姦。その後、ロープで数十分かけて2人を絞殺し、三重県内の山林に死体を遺棄――加害者は20歳から17歳までの6人の男女だった。
「新潮45」9月号に掲載の『「名古屋アベック殺人事件」無期懲役少年のいま』では、共同通信記者の佐藤大介氏が岡山刑務所を訪れ、主犯格の男に接触、その現状を取材している。
■社会復帰という目標
 裁判では、犯行に及んだ加害者に無期懲役や懲役13年、5年以上10年以下の不定期刑が下された。今回、佐藤氏の面会に応じた中川政和(仮名)は、一審で死刑判決が言い渡されるも、控訴審で無期懲役となっている。
 佐藤氏と中川とは、約3年ぶりの対面となる。その姿について〈今夏48となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年でほとんど変化がない〉と佐藤氏は綴る。※〈〉は本文より引用、以下同

「名古屋アベック殺人事件」とよばれた衝撃の犯罪。新潮45が真実にせまる、犯人直撃レポート!
『犯人直撃「1988名古屋アベック殺人」少年少女たちのそれから(新潮45 eBooklet 事件編10)』中尾幸司[著]新潮社
ネット書店で購入する
〈噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう(略)服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。

それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか〉
 中川は“模範囚”として刑務所生活を送るというが、なぜ、絶望することなく日々を生きることができるのか。佐藤氏の問いに中川は、〈「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた〉。

そして昨年8月にくも膜下出血で入院していた、と明かす。
〈「それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」〉

■「無期懲役」の現状

 佐藤氏は、中川が口にした“社会復帰”の可能性についても触れる。無期懲役と聞けば、字面とは裏腹に10数年ほどで出所できるイメージがあり、実際、刑法上では10年を過ぎれば仮釈放の資格が与えられることになっている。

 しかし実際は、14年末現在で収容されている無期懲役囚1842人のうち、〈27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている〉。05年から14年の間に54人が仮釈放されるも、〈平均収容期間は27年2カ月(05年)から31年4カ月(14年)と長期化〉、そして同期間の獄中死は154人に上る。

「新潮45」本誌ではさらに詳しく解説しているが、佐藤氏が取材した元刑務官は、無期懲役刑を〈「実質的に終身刑」〉と語っている。

■「必ず出られる日が…」

こうした事情は、中川自身も理解している。

〈中川は、仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚なのだ。

だが、その困難さを知らないわけではない。そのことを中川は、こう話した。

「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います(略)状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」〉

 仮釈放が刑法で定められた権利でもある一方で、罪の重さ、被害者遺族の感情を鑑みれば、これを認めるべきではないとの意見もある。犯罪者の“贖罪”“更生”をいかに考えるべきか、佐藤氏の寄稿は問いかける。

デイリー新潮編集部


 

 
 

 
 
 
 
 

 

 

『殺人犯はそこにいる』

2019年03月30日 02時07分09秒 | 社会・文化・政治・経済

「横山ゆかりちゃん誘拐事件」は「連続殺人事件」のひとつなのか 犯人へのメッセージを父親が綴った
社会新潮45 2016年8月号掲載

半径10キロ圏内で「5人の少女」が姿を消している

【隠蔽された幼女誘拐殺人事件】半径10キロ圏内で「5人の少女」が姿を消している――
 群馬県太田市で当時4歳だった横山ゆかりちゃんが行方不明になった事件から、20年が経つ。

長年、この未解決事件を取材してきた日本テレビ報道局の清水潔氏が、「新潮45」に「犯人よ、聞いてくれ」を寄せている。
 ***
 事件の現場となったのは、家族で訪れたパチンコ店『P』。パチンコに興じる両親を店内で待っていたゆかりちゃんは、母親の耳元で「優しいおじちゃんがいる……」とささやいたのを最後に、姿が見えなくなった。
 この時、店内の音でよく聞き取れなかった母親は「ついていっちゃ、いけないよ」と注意し、ゆかりちゃんは店内の長イスの方へ向かって行ったという。

その10分後にゆかりちゃんはいなくなり、長イスには母親から与えられたおにぎりの食べかけなどが残っていた。
 店の防犯カメラには“サングラス、野球帽、ダブダブのズボンを穿いた男”が、ゆかりちゃんと話す様子が映っており、表に出た男を追うようにして、ゆかりちゃんは外に出て行った。
■「北関東連続幼女誘拐殺人事件」
 10年前に取材を始めた清水氏がまず取り組んだのは、このカメラ映像の検証だった。

午後1時27分に入店した男は、パチンコ台には目もくれず、店に入ったわずか3分後に長イスでゆかりちゃんと話をしている。〈最初から誘拐目的で入店したのではないか〉と考えた清水氏は〈一旦外に出てあの特異な服装に着替え“変装”して店に戻ったのでは〉と推測する。※〈〉は本文より引用、以下同
 また、ゆかりちゃん事件の1996年以前より、女児を狙った殺人事件が近隣で連続して起きていた。79年の「福島万弥ちゃん事件」、84年の「長谷部有美ちゃん事件」、87年の「大沢朋子ちゃん事件」、そして90年の「松田真実ちゃん事件」である。これを受け、清水氏はこう仮説を立てた。
〈つまり79年~96年の17年間に、半径10キロ圏というサークル内で5件もの類似手口の事件が起きていたのだ(中略)これは同一犯による、連続事件ではないのか――。私に言わせれば「北関東連続幼女誘拐殺人事件」だ〉

半径10キロ圏というサークル内で5件もの類似手口の事件が起きていた
 だが当時、この視点で一連の事件が注目されることはなかった。ゆかりちゃん事件より前に起きた「松田真実ちゃん事件」が“解決”していたからだ。しかし、これは後に誤認逮捕であることが判明(「足利事件」)。つまり清水氏の“連続事件”説が正しければ、まだ真犯人は野に放たれたまま、ということになる。

 
 

殺人犯はそこにいる (新潮文庫) 
 
商品の説明

内容紹介

飛び込むのだ。現場へ。

5人の少女が姿を消した。冤罪「足利事件」の背後に潜む司法の闇。「調査報道のバイブル」と絶賛された事件ノンフィクション。

5人の少女が姿を消した。群馬と栃木の県境、半径10キロという狭いエリアで。同一犯による連続事件ではないのか?
なぜ「足利事件」だけが“解決済み"なのか?
執念の取材は前代未聞の「冤罪事件」と野放しの「真犯人」、そして司法の闇を炙り出す――。新潮ドキュメント賞、日本推理作家協会賞受賞。日本中に衝撃を与え、「調査報道のバイブル」と絶賛された事件ノンフィクション。

内容(「BOOK」データベースより)

5人の少女が姿を消した。群馬と栃木の県境、半径10キロという狭いエリアで。同一犯による連続事件ではないのか?なぜ「足利事件」だけが“解決済み”なのか?執念の取材は前代未聞の「冤罪事件」と野放しの「真犯人」、そして司法の闇を炙り出す―。新潮ドキュメント賞、日本推理作家協会賞受賞。日本中に衝撃を与え、「調査報道のバイブル」と絶賛された事件ノンフィクション。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

清水/潔
1958(昭和33)年、東京都生れ。ジャーナリスト。新潮社「FOCUS」編集部を経て、日本テレビ報道局記者・解説委員。2014(平成26)年、『殺人犯はそこにいる』で新潮ドキュメント賞、日本推理作家協会賞(評論その他の部門)を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


■真犯人とDNAが一致する男
「足利事件」の冤罪取材にも尽力した清水氏は、その仮定で「横山ゆかりちゃん事件」をふくめた連続事件の“真犯人”の可能性が高い男を特定、接触している。真実ちゃんもゆかりちゃんのケースと同様、パチンコ店から姿を消しているが、
〈男は私の取材に対し「足利事件」当日にパチンコ店『R』で被害者の真実ちゃんと会話をしたことを認めた。そしてシャツに遺されていた真犯人のDNA(※遺体のシャツから精液が発見されている)と、この男の型は、筑波大学法医学教室・本田克也教授の最新方法での鑑定により100兆人に1人の確率で一致したのである〉
 詳しくは、清水氏の著書『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』(新潮文庫)を参照されたい。「新潮45」本誌では、この男がゆかりちゃん事件と無関係ではないと考える“新事実”にも言及している。
■20年の歳月
 ゆかりちゃんが姿を消してから20年、その家族の年月を清水氏はこう書く。
〈パチンコ店に子供なんかを連れていくからだ! 当時も今も両親はそんな言葉を浴びせられてきた。それこそが娘が消えた20年の日々だったといえる〉
「新潮45」記事では、ゆかりちゃんの父・保雄さんが犯人に宛てた〈ゆかりはどんな風に生きていますか――〉とのメッセージも掲載した。
デイリー新潮編集部


【平成最凶の事件簿

2019年03月30日 01時40分14秒 | 社会・文化・政治・経済

 池袋通り魔殺人、8人を死傷させた「造田博」のどす黒い殺意

3/29(金) デイリー新潮

平成時代には様々な凶悪事件が起こった。

中でも、特定の人物や集団を狙うのではなく、繁華街などの屋外で標的が無差別という防ぎようのない「通り魔殺人」は、平成時代に8つも発生している。

死亡者が多いのは平成20年6月の「秋葉原」の7人、次いで11年9月の「下関」の5人だが、それらの犯人にも影響を与えたと言われる「平成通り魔」の嚆矢が、「池袋通り魔殺人」である。

小渕恵三第2次改造内閣が誕生するひと月前の惨劇だった。

 犯人・造田博は当時23歳。東京都足立区に住む新聞配達員だった。岡山県倉敷市で生まれ育った造田は、両親がギャンブルで4千万円もの借金を抱え身をくらました後、高校を中退。

借金取りが脅しに訪れる家を捨て、弁当販売店のアルバイト、パチンコ店店員、造船所の塗装工、住宅美装会社など、判明しているだけでも14回の転職を繰り返した。

 黒いデイパックひとつ、携帯用CDプレーヤーとわずかな着替えしか所持していなかった造田は、事件当時、陽の射し込まない木造一軒家2階の一間に間借りしていた。午前3時出勤、午後8時半に仕事を終える。このあたりの境遇は中上健次の『十九歳の地図』の主人公と類似しており、造田が同書を愛読していたという報道もあった。

 11年9月4日午前3時を最後に、造田はこの部屋に戻ることはなかった。

同事件を始め9つの殺人をルポした『殺ったのはおまえだ』によると、部屋には次のような造田自筆の張り紙、そして走り書きが残されていたという。

「アホ全部殺すけえのお」

〈わし以外のまともな人がボケナスのアホ殺しとるけえのお。わしもボケナスのアホ全部殺すけえのお〉
〈努力しない人間は生きていてもしょうがない〉

 造田はそれ以前、外務省、国会、裁判所、警視庁などの公機関に100を超える手紙を送りつけてもいる。いずれも自らの住所や氏名も偽らずに記し、理解しがたい内容だが、不穏な「憎悪」は感じ取れるだろう。キーワードは「小汚い者達」だ。

〈日本の人口のほとんどが小汚い者達です〉
〈この小汚い者達は60年後、2057年にはすべて存在しなくなります〉
〈この小汚い者達から存在、物質、生物、動物が有する根本の権利、そして基本的人権を剥奪(はくだつ)する。これは存在するものでもなく、物でもなく、生物でもなく、動物でもなく、人間でもなく、何をやってもいい、何も許さないという意味だ〉

 平成11年9月8日、午前11時35分。都心の気温は30度を超え、空は薄曇りだった。造田はサンシャインシティへ続く地下通路からエスカレーターで地上へ。東急ハンズ正面入口に出ると、黒いデイパックから、4日前に同店で購入した包丁と金づちを取り出した。右手に包丁を、左手に金づちを握ったその姿は、水曜日の昼の繁華街にはさぞ異様だったろう。

「むかついた。ぶっ殺す」

 そう唸(うな)りながら、エスカレーターで上がって来た老夫婦に突進していったのである。1人目の被害者は、電気製品を買いに来た66歳の女性だった。

〈(女性の)左後方から近づき、「ぶっ殺す」と口走りながら、その左胸部に、右手に握った包丁を突き出した。(刺された女性は)前のめりになってよろめき、その場に、左半身から崩れ落ちるようにうずくまり、まもなく仰向けに倒れた〉

 東急ハンズ入口前の白いタイルに鮮血が広がる。ほぼ即死だった。

 続いて71歳の夫の頭部に金づちを何度も振り下ろし、右手に包丁を突き刺している。このとき、包丁の刃先が折れ、男性の右前腕部にめり込んだ。間髪入れず造田は、異変に気が付き騒然とし始めた群衆に向けて走り出す。

 2人目の犠牲者は、夫(34)と連れ立ってサンシャインシティ内の「パスポートセンター」に向かっていた29歳の女性だった。帰りには館内の水族館に寄ることも話し合っていたという。正面から向かってくる造田の姿を確認すると、女性は身体(からだ)を右側に捻(ひね)るようにして逃げようとした。その左腰部に造田の持つ、切っ先が欠けた包丁が突き刺さった。

〈駆けつけたパチンコ店の店員が慄(おのの)いたように「背中切れてますよ」と言った。夫が女性の黒いカットソーの裂け目をめくると、相当深い傷口が見え、そこからは骨が覗(のぞ)いていた。妻の身に起こった事態のすべてにようやく想到し、全身の血の毛がひいた〉

 司法解剖の結果、わかったことだが、傷は16センチの深さに達していた。

〈(出血はほとんど見られなかったが)肝臓や腎臓(じんぞう)が刺し貫かれていた。そこからの出血は、あまり表皮へ流れることがなく、女性の体内にめぐるように酷(むご)いほどの速さで充満していた〉

女性に背を向けた造田は、喚(わめ)き散らし包丁を袈裟懸けに振り回しながら、池袋駅方面に駆けて行った。2学期の始業式を終えたばかりの高校1年生の4人組に背後から斬りつけ、さらに歩行者数人を襲った後、通行人たちに取り押さえられた。14年1月、東京地裁で死刑判決。控訴、上告したものの、19年4月には最高裁で死刑が確定。

 搬送先の病院で29歳の女性の死亡が確認されたのは、午後4時20分だった。輸血された血液は1万3千cc。全身の血液が3回入れ替わる量に相当する。

 不条理極まりない惨劇だった。前掲の『殺ったのはおまえだ』で、女性の夫は苦しい胸の内を吐露している。

〈なぜ、あの日あのとき、あの場所にいてしまったのか。人を殺(あや)めると決めながら、4日間も逡巡(しゅんじゅん)していた男の前に、どうして、あの瞬間に遭遇しなければならなかったのか……〉

デイリー新潮編集部



楠木 繁夫 昭和期の流行歌の歌手

2019年03月30日 01時04分56秒 | 社会・文化・政治・経済

実に古い話であるが、子どものころに、「楠木 繁夫さんが自殺したと聞いたので、家まで見に行った」とカラオケ仲間の一人が言うのだ。

歌謡好きであるが、その歌手のことは全くしらない。

村田英雄の前に「人生劇場」を歌った人であるが・・・

1904年(明治37年)、高知県佐川に、父は医師である名門の四男として生まれた。音楽好きの母親の影響で、県立中学時代に音楽家を志し、後継を希望した父の反対を押し切って上京。

1924年(大正13年)、東京音楽学校(現:東京芸術大学)師範科に入学。本科の声楽部に進み、「城ヶ島の雨」の作曲家・梁田貞に師事した。

学生時代は、同級の高木東六(作曲家、代表作:「空の神兵」「水色のワルツ」)らと行動を共にしていたが、1928年(昭和3年)、学生運動で校則などに抗議したメンバーに入っていたため、高木らとともに除籍処分となった。

退学となった楠木は、1929年(昭和4年)、本名の黒田進で、名古屋にあったツルレコードに「五月音頭」を吹き込みレコード歌手としての活動を始める。彼のツルレコード時代は『ツルレコード昭和流行歌物語』(菊池清麿・著/人間社/樹林舎)詳細に記されている。

同社の専属歌手とならず、コロムビアでの「紅蝙蝠」「カフェー小唄」など、30以上のレーベルで、秋田登、藤村一郎など、50を超える相当数の変名を使いこなして各社でレコーディングしていたが、1934年(昭和9年)に、作曲家・古賀政男を重役として迎えて間もないテイチクの専属になる。

この時に、自らの名前が似ていることから、楠木正成(戦前は大楠公と呼ばれた)に傾倒していた当時のテイチク社長・南口重太郎によって、楠木繁夫という芸名が付けられるのであった。1935年(昭和10年)には、古賀政男とのコンビで、「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「男のまごころ」「緑の地平線」と大ヒットが続き、一躍大ヒット歌手となる。

その後も、「女の階級」「のばせばのびる」「啄木の歌」「人生劇場」とヒットを続けるが、昭和13年、古賀政男がテイチク上層部との対立から退社すると、楠木もビクターに移籍。「馬と兵隊」「東京ラグタイム」など、曲には恵まれたが、ヒットに結びつく作品は少なかった。
1939年(昭和14年)頃からは、スクリーンにも活躍の場を広げ、特に日活作品に数多く出演。

マキノ正博の監督による「弥次喜多道中記」ではディック・ミネとコンビで弥次喜多を演じ、大映映画「歌う狸御殿」では、狸の国の総理大臣を演じた。テイチク時代に、同じ会社のヒット歌手・美ち奴との浮名を流し、周囲からは二人は結婚するものと噂が高かったが、1942年(昭和17年)に、再び古賀政男の誘いでコロムビアに移籍した後に撮影した「歌う狸御殿」で共演した歌手・三原純子と、翌年の年末に結婚。

戦時中ながら、おしどり夫婦の歌手として、工場慰問などに活躍した。
第二次世界大戦後、自らの作曲作品「思い出の喫茶店」などをレコーディングする一方で、夫婦揃って出演した大映映画「春爛漫狸御殿」をはじめ、「蛇姫道中」「江の島エレジー」などスクリーンにも活躍するが、折から流行していたヒロポンと呼ばれる覚せい剤の影響で、往年の光彩を失っていった。

1949年(昭和24年)、古巣のテイチクに移籍し、「紅燃ゆる地平線」「ハルピン恋し」などのヒットを出し、NHK紅白歌合戦にも出演している。

純子との夫婦揃ってのステージや巡業に活躍していたが、かねてからのヒロポン中毒のため、1953年(昭和28年)の「湯の香恋しや」を最後にレコーディングから遠ざかった。

さらに、脳溢血のため、音程が狂うという歌手にとっての致命的なダメージと、愛妻・純子の肺結核の悪化が重なり、1956年(昭和31年)の春に夫婦揃ってのステージを名古屋で務めた後、二人は二度と生きて会うことはなかった。

将来を悲観した楠木は、宝くじの当選で新築したばかりという東京・新大久保の自宅で、1956年(昭和31年)12月14日、女中を映画見物に出かけさせた後、ひとり物置小屋で首を吊って自殺

52歳没。高木東六、松平晃ら生前に親しかった友人たちは「緑の地平線」を合唱して、楠木の棺を見送った。

故郷・飛騨高山で転地療養していた妻の純子も、後を追うように1959年(昭和34年)に38歳で死去している。