自ら被災者になりながら、目の前の一人の被災者に、<励ましの言葉>、<希望の光>を送りを続ける。
自分より、<もっと大変な思い>をしたり、<深い悲しみ>に沈んでいる人がいると、激励に歩く。
現実は、それぞれが言うに言われぬ苦悩と向き合っている。
<苦難に負けない姿>そのものが希望となる。
今いる場所で<一歩前進>を。
最愛の家族を亡くし、<自分を責めている人>に寄り添う人の体験談を聞く。
教育の使命・役割とは。
民衆を聡明にすること。
民衆を蘇らせ、現代社会を、根底から変えようとこと。
生涯求道とは
真理や宗教的な悟りを求めて修行すること。
現代的には、充実の人生を模索すること。
生涯戦い・生涯前進とは
自他共の幸福の追求、社会変革、平和のために貢献すること。
自らの使命に目覚め、使命を果たすこと。
人間はさまざまな縁によって、生命が揺れ動いてしまう。
典型なのが<いじめ>
特に若者は、悪い縁に引きずり込まれる。
糸の切れた凧になる若者も。
生命尊厳の世紀である。
若者には深い使命がある。
使命を果たし尽くしてから、人は生命を全うしたいものだ。
「慈悲」「寛容」の精神に近いハワイ・アロハの精神
「アロハ」といえば、挨拶ですが深い意味があります。
アロハとは、全てを受け入れる「心」や「精神」であり
「思いやり」・「尊敬」・「愛」をもって
人に接する事を意味します。
頭文字をとるとALOHAとなります
Akahai 思いやり
Lokahi 協調性
Olu’olu 喜び
Ha’a Ha’a 謙虚・素直な心
Ahonui 忍耐
「思いやりと素直な心をもって
他者に感謝し、慈悲と愛情を与え
幸福を分かち合う」
これほどまでに素晴らしい意味を詰め込んだ言葉は
他にあるでしょうか。
毎日をアロハの精神で迎えることができるといいですね。
いじめの本質は「何をしてもいい人」を選ぶことにある
つまり、反撃されない、という思惑や計算?
いじめとは何か?それは攻撃してもいい人を選ぶことだ。
何をしてもいい人
いじめられている人に対してはどのような無礼も許される。
無視をしても、何かを投げつけても、お金を要求しても、どんなに間違ったことをしても許される。いじめた人間に復讐
いじめ加害者が復讐されるのは自業自得?
被害者が加害者になる復讐
けれど、いじめを題材にしたマンガや映画のなかには、被害者が加害者への復讐に走る内容がある。
私はそれらを読むたびに、複雑な気持ちになってしまう。
いじめられた側に対し、やられたらやり返せなどという大人もいるが、実際にやり返してしまい、長く刑務所(もしくは少年院)に行くことにでもなったら、その後の人生の楽しみまでもを奪われてしまいかねない。
果たしてそれは真の復讐と言えるだろうか。
真の意味の復讐とは
<幸せになること!>
「何があっても負けない」たくましくなるこ
「くやしいことがあっても、前を向いて生きて行く」勇気
「温かい励ましに触れて育つ教育環境が不可欠」励ましの人
いまどきのいじめは、相手を徹底的に追い詰める。
相手が転校するまで、もしくは目の前から消えるまで……。
マイナスのパワーはマイナスのパワーを生む。
だからなのか、いじめられた側が復讐をする話を、マンガでも映画でも、そして現実世界でも見かける。
それ以外の解決方法はないのだろうかと私はずっと考えている。
いじめの本質は「何をしてもいい人」を選ぶことにある
つまり、反撃されない、という思惑や計算?
いじめとは何か?それは攻撃してもいい人を選ぶことだ。
何をしてもいい人
いじめられている人に対してはどのような無礼も許される。
無視をしても、何かを投げつけても、お金を要求しても、どんなに間違ったことをしても許される。いじめた人間に復讐
いじめ加害者が復讐されるのは自業自得?
被害者が加害者になる復讐
けれど、いじめを題材にしたマンガや映画のなかには、被害者が加害者への復讐に走る内容がある。
私はそれらを読むたびに、複雑な気持ちになってしまう。
いじめられた側に対し、やられたらやり返せなどという大人もいるが、実際にやり返してしまい、長く刑務所(もしくは少年院)に行くことにでもなったら、その後の人生の楽しみまでもを奪われてしまいかねない。
果たしてそれは真の復讐と言えるだろうか。
真の意味の復讐とは
<幸せになること!>
「何があっても負けない」たくましくなるこ
「くやしいことがあっても、前を向いて生きて行く」勇気
「温かい励ましに触れて育つ教育環境が不可欠」励ましの人
いまどきのいじめは、相手を徹底的に追い詰める。
相手が転校するまで、もしくは目の前から消えるまで……。
マイナスのパワーはマイナスのパワーを生む。
だからなのか、いじめられた側が復讐をする話を、マンガでも映画でも、そして現実世界でも見かける。
それ以外の解決方法はないのだろうかと私はずっと考えている。
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本物の笑いは優しい
人間の真実を描いてこそ
私が思う本当の喜劇は、笑いの後に必ず涙があるもの。
かつてテレビ番組で伊東四朗さんがやっていたのも、それでした。
5分間の芝居でも泣かせることはできるものです。
ニコニコ笑って明るく振る舞ってる人が、胸には深い悲しみを秘めていることもある。
人間のそういう真実を描くのが喜劇です。
心の深さや厚みが客席と共有できた時、本当に良いものが生まれるのではないでしょうか。
それには優しだとか信頼、共感が不可欠。
「喜ぶ劇」「喜ばせる劇」と書くんですから。(小松 政夫さん)
内容紹介
生来の「ひょうげもん=ひょうきん者」の笑い話
「ひょうげもん」は博多で「ひょうきん者」のこと。博多生まれの著者は子どもの頃から、
根っからの「ひょうげもん」で人気もの。本書は、昭和・平成の面白話、凄い人、抱腹絶倒
の芸、ギッシリ! 独自の芸で笑わせ続けるコメディアンの一代記。子どもの頃から苦労も笑い
にしてきた小松政夫の生き方は昭和平成人に強い共感がある。読めば懐かしさと元気をもらえる!
内容(「BOOK」データベースより)
生まれながらの「ひょうげもん(ひょうきん者)」!!人生、笑って、泣いて、笑って生きるに限る!!昭和平成の面白話、凄い人、抱腹絶倒の芸、ギッシリ!!
著者について
小松 政夫(こまつ・まさお)
1942年、福岡県博多に生まれる。19歳のとき、役者を目指して上京、俳優座を受験、試験に
受かったものの、数千円の入学金が払えず断念する。その後、転職を重ね、横浜トヨペット
でトップセールスマンになるが、1964年にクレージーキャッツの植木等の付き人兼運転手の
募集に応募、600人の中から選ばれる。
その後、コメディアンとして、日本テレビの「シャボン玉ホリデー」でテレビデビュー、
初舞台はクレージーキャッツの日劇公演。以降、数えきれないほど、テレビ、映画、舞台に
出演。大ヒットした芸には「淀川長治」「電線音頭」「しらけ鳥」「タコフン音頭」「小松
の親分さん」など多数あり、伊東四朗とのコンビ芸も大受け。2011年に社団法人日本喜劇人
協会10代目会長に選出される。
著書には『のぼせもんやんけん」(竹書房)、『昭和と師弟愛 植木等と歩いた43年』(KADOKAWA)
などがある。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
小松/政夫
1942年、福岡県博多に生まれる。一九歳のとき、役者を目指して上京、俳優座を受験、試験に受かったものの、数千円の入学金が払えず断念する。その後、横浜トヨペットでトップセールスマンとなるが、1964年にクレージーキャッツの植木等の付き人兼運転手の募集に応募、六〇〇人の中から選ばれる。その後、コメディアンとして、日本テレビの「シャボン玉ホリデー」でテレビデビュー、初舞台はクレージーキャッツの日劇公演。以降、数え切れないほど、テレビ、映画、舞台に出演。2011年に社団法人日本喜劇人協会10代目会長に選出される。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
第91回アカデミー作品賞「グリーンブック」
【製作・脚本・監督】
ピーター・ファレリー監督の言葉
「僕自身も一人の人間として成長したいと考えていて、このような作品をいつか作りたいと思っていた。偶然、この実話を聞いた時に、<絶対につくらなければ>と感じた。人種差別を乗り越えた優しい物語にほれ込んでしまったのです」
多くの人々から支持されている理由は?
「主人公の二人は、真逆の性格です。だけど、旅の中で互いの共通点を見だし、生涯にわたる友情を築くことができた。そうした希望を感じさせる部分が評価されたのではないでしょうか」
「私の住むアメリカでのそうでけど、世界中で人種問題が起こっている。だけど、いつの時代だってお互いを知ることで希望は生まれると信じています。そがこの作品のメッセージです」
世界的に有名なナイトクラブ・コパカバーナの用心棒として働きました。
常連客にはフランク・シナトラなど、アメリカのエンターテイメントの大物もいました。
このクラブにちなんだ楽曲が創られるなどの、アメリカ、特にニューヨークの文化の発信地でもありました。
トニーはこの時の知識・経験・人脈をもとに後に、『ゴッド・ファーザー』や『グッド・フェローズ』などに出演しました。
本作は、実際にあった出来事を基につくられた映画。
物語は、1962年のディープサウスツアーで出会った二人の友情を見つめ、その証は、その後50年以上変わりませんでした。
ドクターの年齢はトニーより4歳年上でしたが、奇しく2人は、同じ2013年に亡くなっています。
(C)2018 UNIVERSAL STUDIOS AND STORYTELLER DISTRIBUTION CO., LLC. All Rights Reserved.
映画『グリーンブック』に登場したドクターこと、ドクター・ドナルド・シャーリー(本名はウォルブリッジ・シャーリー)。
1927年に生まれ、2歳からピアノに触れた早熟の天才です。
音楽・心理学・典礼芸術の3つの分野で博士号をもつことから、“ドクター”と呼ばれるようになります。
1964年に公民権法が制定され、人種差別が撤廃される前からピアニストとして高い地位を持ち、ケネディ大統領の前でも演奏した経験を持ちます。また、彼は同性愛者でもありました。
映画『グリーンブック』は、2019年3月1日(金)より、TOHOシネマズ 日比谷ほか全国ロードショー。
ぜひ、お見逃しなく!
あらすじネタバレと感想。
実話の友情物語に監督ピーター・ファレリーが初の非コメディ作品に挑む!!
1960年代初頭、ガサツなイタリア系移民のクラブの用心棒と、孤高の天才黒人ピアニストが差別意識の強い南部(ディープサウス)へ危険なツアーに出かけたという実話もとにしたロードムービー。
「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズのヴィゴ・モーテンセンと、『ムーンライト』『アリータ:バトル・エンジェル』のマハーシャラ・アリが絶妙の掛け合いを見せて多幸感のあふれた映画になっています。
『ルーム』『ラ・ラ・ランド』『スリー・ビルボード』など、近年アカデミー賞を賑わしている作品を輩出しているトロント映画祭で最高賞の観客賞を受賞しました。
監督はこれまで『ジム・キャリーはMr.ダマー』や『メリーに首ったけ』のコメディ映画で知られるピーター・ファレリー監督。
本作で初の非コメディ映画に挑んでいます。
トニー・リップ・バレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン)
ナイトクラブ・コルトカバーナの用心棒。
無教養でガサツだが機転が利く。
ドクター・ドナルド・シャーリー(マハーシャラ・アリ)
孤高の黒人天才ピアニスト。
差別意識の強いディープサウスツアーに挑む。
ドロレス・バレロンガ(リンダ・カーデリーニ)
トニーの愛妻。トニーと二人の息子を育てる。
気性の荒いトニーも頭が上がらない。
トニーの愛妻。トニーと二人の息子を育てる。
気性の荒いトニーも頭が上がらない。
そしてツアーは始まります。
ツアー旅行初日。ドクターはトニーに黒人用の旅行ガイドブック『グリーンブック』を手渡します。
この本には黒人が泊まれるホテルやモーテル、立ち寄れるBARやレストランが記されていました。
移民の街ニューヨークで暮らしていたトニーは、思わぬ黒人への差別意識に驚きを隠せません。
リップことトニー・バレロンガは、1930年にニューヨーク・ブロンクスで生まれたイタリア系アメリカ人。
彼を招き入れるのは、“寛容さをアピールする南部の富裕層”たち。
ドクターには表面的には好意的に接しますが、食事の場では多くの黒人が給仕しています。
ドクターのピアノの腕と知性溢れる人物に惹かれ始めるトニー。
そして、そんなドクターに対する理不尽な対応に、トニーも怒りを募らせていきます。
しかし、ドクターはそういう相手にこそ、さらに冷静に対応するべきだとトニーに語ります。
ぎこちなかった二人はいつしか笑いが絶えない旅となりました。
クリスマスギリギリに帰ってきたトニーに礼を言って別れるドクター。
ドクターは独りカーネギーホールのアパートに帰っていきます。
独りでいることに慣れていたドクターでしたが、ふと思い立ってトニーの家を訪ねます。
トニーは驚いた顔を見せますが、笑顔で彼を受け入れるのでした。
毎日新聞「人生相談」
相談者は37歳女性、ライター。
人生後半の生きる指針が見えずにうつうつとしています。
独身で大切な人もいます。
いつ死んでも別にかまわないと。
だましだまし日々を続けていくしかないのでしょうか。
回答は渡辺えりさん(劇作家・女優)
戯曲を書いてみませんか?
ご自分の考えるあれやこれやをさまざまな人物に投影して語らせてみてはどうでしょうか?
あなたの考えを語り、それとは真逆の考えの人物も登場させる。
その二人の会話にまた新たな考えの人物を追加してみる。
「だましだまし生きていくほかないのか?」と37歳のライターがあなたの大切なパートナーに相談するところから書き始めてください。
障害を持っておられる妹さんがあなたの隣のベッドに横たわっています。
そこは窓の一室。
春の日差しがオレンジ色の薄いカーテンを通して差し込み、妹さんの頬を染めています。
東日本競輪発祥70周年!競輪の生みの親
「倉茂氏」をたたえた記念開催!
東日本競輪発祥の地である大宮競輪では、「競輪の生みの親」である倉茂氏の功績を末永くたたえ、今後の競輪界の発展を図るため、平成14年1月の53周年記念競輪から「倉茂記念杯」と銘打って開催しています!
昭和12年10月 退役(陸軍騎兵大尉)
昭和23年11月 自転車振興会連合会常務理事
昭和22年9月、倉茂貞助氏は、海老澤清文氏とともに設立した「国際スポーツ株式会社」において"報償制度併用による自転車競走"という企画を立てた。
この企画を実現するためには法制化が必要であることがわかり、昭和22年10月に「自転車競技法期成連盟」を結成した。
その中で、制場に倣った"車券付き自転車競技"への方向転換がなされるとともに、倉茂氏は「自転車競技法」の原案を作成し、GHQをはじめ国会に積極的に働きかけ、自転車競技法成立の大きな原動力となった。
同法が昭和23年7月に成立すると、関連諸規則の成案、実施機関の設立などの法律施行に努めた。
その後、倉茂氏は「自転車振興会連合会(現:(公財)JKA)」の設立に力を注ぎ、自ら常務理事として、小倉、住之江、大宮に始まる全国各地での競輪場の開設、選手の養成や運営体制の整備に尽力した。
昭和32年10月に日本自転車振興会の参与に就任してからは、競輪に従事する競技会職員や選手に対する講演活動を行うとともに、一般の人々にもPR活動を行った。
昭和58年11月、競輪界への多年にわたる功績を高く評価され、業界初の通商産業大臣賞を受賞した。
また、倉茂氏は"賭けの研究家"としても知られ、百科事典への賭け事関連の執筆のほか、主な著書として「世界の賭け事(東洋経済新報社/1957年)」、「賭:サイコロからトトカルチョまで(荒地出版社/1959年)」、「わが国の賭けごと史(日本自転車振興会/1974年)」、「競輪誕生の思い出<自転車競技法成立までの秘録>(週間レース社/1979年)」などがある。
~小倉から、世界のKEIRINへ~
小倉が競輪発祥の地となったのは、昭和 23 年、第3回国体が福岡県で開催されることになった際、当時全国的な人気競技だった高校野球の開催地獲得に乗り出した小倉市が、施設建設などに莫大な費用がかかるため引き受け自治体がなかった「自転車競技」とセットで引き受けることで獲得に成功したのだそうです。
小倉市は前年に旧制小倉中学校が第29回中等学校優勝野球大会で優勝しており、同年10月に福岡で開催される第3回国民体育大会で、人気種目の野球を実施するため、不人気の自転車競技を抱き合わせで引き受けたのである。
ちなみに、同年8月の全国高等学校野球選手権で新制小倉高校は連覇を達成している。
国体のために、走路を作る。
だが金も材料もなく、役所が必死にセメントや資材を集めた。
国体は10月、第1回の競輪開催は11月20日。
3、4か月で市議会を説得し、施設を造り、競技運営組織を形成。
選手を集め、ルールを決めた。
昭和23年11月20日、全国の地方自治体が注目するなか、競輪は初開催の運びとなった。
バックの荒地から木の柵越しにレースを見ていたファンの中には、頭にキャップライトをつけた小倉炭鉱の炭鉱夫の姿も多数。
スタート地点の選手は、ランニングに半袖白シャツで運動靴や地下足袋を履く。
コーナーの審判を務めたのは市内の自転車屋さん。
中折帽やハンチンでゴム長や地下足袋姿。
穴場では発売締め切り合図をするために、手下げの鐘を鳴らした。
だが、チリンチリの音が聞こえなかったりで、離れた販売所へ締め切りの合図をするために、梯子をかけて屋根に上がって手動のサイレンを鳴らした。
4日間の開催で、競馬を参考に入場者は2000人、600万円の売上を想定していた。
実際は約5万5000人が入場、1973万円の売上となった。
予想はずれの大記録を目の当たりにして、全国の自治体が動き、短期間で63の競輪場ができ、登録選手125名(出走は104名)が、またたくまに6000人を越えたという。
新設した競輪場を国体の後は「ギャンブル競輪場」として市財政に寄与させるというアイデアだったそうです。
以後は多くの自治体が小倉市のまねをしたため、競輪が全国に広まり、日本が自転車競技王国になったというエピソード。
オリンピックの公式種目であり、世界的な人気を誇るスポーツ・競輪。「K・E・I・R・I・N」とローマ字表記され、今や世界共通語となった日本発祥の競技です。その歴史は、ここ北九州市小倉の地から始まりました。
北九州市小倉北区三萩野。銀色に輝くドーム型競輪場「北九州メディアドーム」の傍らに建てられた「競輪発祥の地」の石碑には、このように記されています。
「旧小倉市長 浜田良祐氏の功績により 昭和23年11月20日10時30分 全国初の競輪開催がスタートした」
終戦後、日本各地に空襲の爪跡が残る中、政府は戦災復興の財源確保のために、宝くじの販売を始めました。さらに、同年8月には、自治体の戦後復興費用の調達と自転車産業の発展を目的とした「自転車競技法」が公布され、競輪開催への機運が高まります。
しかし、収益の見込みもない前例のない事業。また、競技場建設に莫大な費用がかかるため、ほとんどの都市が尻込みをしていました。そこに名乗りをあげたのは、旧小倉市の浜田市長でした。
工業都市であり、造兵廠や小倉師団の司令部もあったため、戦時中の被害が大きかった小倉。復興財源となるばかりか、労働者の娯楽の場にもなると、いち早く競輪の開催を決意したのです。
競輪場の建設は、福岡県で開かれる国民体育大会の自転車競技を小倉が引き受けることで実現しました。この時、人気種目である野球の小倉開催を条件に誘致したことで、市民は大喜びしたと言われています。
こうして完成した小倉競輪場で、わが国初の競輪「第1回小倉市営小倉競輪」は開催されました。小倉での成功を受け、競輪は健全な大衆レジャーとして定着し、全国に多くの競輪場が造られました。昭和25年には、門司競輪場も開設され、北九州工業地帯と筑豊炭田を背景に、北九州における競輪人気は不動のものとなりました。
毎年11月、競輪発祥を記念して、ここ小倉で競輪祭が開催されます。文字通り、競輪の一大フェスティバルで、世界自転車選手権で10連覇を果たした中野浩一氏や、北九州市小倉南区出身で圧倒的なスピードと持久力で競輪の頂点を極めた吉岡稔真氏など、数多くのスター選手がこの舞台から飛び出していきました。
小倉で始まった競輪は、“世界のKEIRIN”へと飛躍し、これからも多くのファンを魅了し続けるでしょう。
NEWS
2019年03月06日 JST
東京新聞の望月衣塑子記者を支援する署名をネットで集めた中2、誹謗中傷に「子どもが何か意見しちゃいけないんだと感じた」
母親とともに改めてハフポストの取材に応じた
官房長官会見での質問をめぐり、首相官邸側から問題視されている東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者を支援しようとインターネット上で署名活動をした東京都の中学2年の女子生徒(14)が、Twitterなどで誹謗中傷される事態になっている。
「生徒は実在するのか」という意見までみられた。
中学生は3月4日、母親とともに改めてハフポストの直接取材に応じ、「(私は)ちゃんといます。信じてくれない人がたくさんいて悲しいです。子どもが何か意見しちゃいけないんだという偏見が(日本には)すごくあると感じました」と語った。
一方で、こうした状況を見かねた弁護士らから支援の動きも広がっている。
女子生徒は、菅義偉官房長官の記者会見で望月記者が質問中、首相官邸報道室長が数秒おきに「簡潔にお願いします」と言うなど、妨害とも受け取れる行為を繰り返す様子をテレビやネットで見て心を痛めた。
女子生徒は望月記者に対する官邸側の行為が「いじめ」と感じ、署名集めを決意。ネット上の署名活動サイト「Change.org」で、「特定の記者の質問を制限する言論統制をしないで下さい」などとするキャンペーンを2月5日、仮名で始めた。
活動を終えた2月末までに、1万7000人超の賛同者を集めた。
一方、女子生徒の活動をハフポストが報じたところ、その直後から、生徒のTwitterアカ
ウントなどに対し、女子生徒の存在や母親によるなりすましを疑ったり、誹謗中傷したりするような発言が殺到、「炎上」状態となっている。
こうした状況について、ハフポストは生徒と母親に心境を聞いた。2人とのやり取りは以下の通り。
──署名活動をめぐり、Twitterなどでは批判的なコメントが相次いでいます。
生徒 ネットでひどいことを言われて悔しいです。根拠がないネットの言葉を信じ込んでしまう人が多いんだな、と思いました。
母親 驚いています。何も悪いことをしてないないのに。ネットでの攻撃はまるで「黙れ」と言われているようです。
──あなたが実は存在しないとか、お母さんがなりすましているなど、疑う人も多いです。
生徒 ちゃんといます。信じてくれない人がたくさんいて悲しいです。子どもが何か意見しちゃいけないんだという偏見が(日本には)すごくあると感じました。
母親 私が娘になりすましているとか、娘にやらせているとかの見方もありますが、まったく違います。いったいなんの根拠があるんでしょうか。あくまで娘が自主的にやったことを影ながら応援した、というだけです。
──署名を集めたサイトChange.orgの規約には「利用年齢は16歳以上」と書かれており、これに違反しているとの声も上がっています。
母親 規約には同時に、16歳未満の子どもはアカウントの作成を親に頼むことを薦めます、と書いてあります。
だから私が手伝いましたし、Change.org側にはアカウント設定時、年齢が「14歳」であることを申告しています。
その後、Change.org側からは規約違反だと警告は頂いていませんし、成功という形で署名集めを終えることもできました。
──お母さんが娘さんを「操って署名集めをやらせた」と疑う人もいます。
母親 実は娘は今回、誹謗中傷が寄せられたことであまり話したくないようです。これ以上は無理をさせたくないので私が話します。
繰り返しになりますが、私がやらせたわけではなく、あくまで娘が自分でやろうと決めました。
確かにアカウント作成やページの構築は手伝いました。それは娘が繰り返しになりますが、私がやらせたわけではなく、あくまで娘が自分でやろうと決めました。
確かにアカウント作成やページの構築は手伝いました。それは娘が未成年であり、ネット上で攻撃されないよう、こうした形で関与するのは親として当たり前です。
子どもが政治的なことに関心を持つわけがない、と疑う人もいますよね。それは違います。
あの官房長官会見を子どもはネットやテレビのニュースで見て、自ら「おかしい」と感じたんです。
うちの娘だけではありません。学校の子ども同士でも「なんか変だよね」「怖いね」「大人って平気でいじめるんだ」と話題になっているようです。
──望月記者の質問の仕方にそもそも問題がある、という声もあります。
母親 確かに望月さんにも未熟な面があったかもしれないけど、それでも国政の代表者である官房長官は一般人とは違います。丁寧に説明すべきではないでしょうか。
まして排除したり、自分の都合のいい質問にしか答えないというスタンスは違うと思います。
それに、権力という大きな存在が一記者である望月さんに対してあたかも圧力をかけているような状態なのに、「望月さんの方が悪いんだ」というのは、娘が感じてる通り、いじめの論理に似ている気がします。
いじめられている方に原因があって悪いんだ、と。娘は小学校のころ、いじめられている子をかばっていじめられた経験があります。
いじめはよくないと言ったらいじめられる。娘が望月さんと自分を重ねたのはよくわかります。「いじめはよくない」と言えない社会は怖いです。
──「不勉強な子どもが主張するな」などと批判する投稿もありました。
母親 子どもと言えども、社会に対して意見を表明する自由はあります。日本も批准している「子どもの権利条約」でも認められています。
子どもが世の中の出来事について「おかしい」と思い、今回のように何らかの行動に移すことに問題はなく、批判は的外れです。
──集めた署名は内閣記者会にも提出するとのことですが、報道機関に対して思うところはありますか。
母親 頑張って欲しいです。官邸の行為はある意味、記者間の対立をあおっているような気もします。
それに負けて受け入れてしまっては、ジャーナリズムの自由がせばめられます。
ジャーナリストが自由な質問を制限されるようでは、やがて一般の人に対しても言論統制される世の中になっていくのではないでしょうか。
──お母様にうかがいます。娘さんの今回の行動についてどう思いますか。
母親 中学生としてできることは最大限、頑張ったと思います。
署名集めが終わったので、中学生として勉強したりする日常に戻ります。そして、私は母親として子どもを守っていきます。
子どもが頑張る段階は終わり、今度は大人たちが頑張る番です。
確かにネットでの攻撃が凄まじいですが、一方で支援の声もいただいています。
攻撃的なアカウントは「相手にしない方がいい」とか、「子どもの目に触れさせない方がいい」などの一般的なアドバイスだけでなく、弁護士さんたちからも法的な助言をもらっています。心強いです。
子どもも相当参っていて、Twitterのアカウント消そうか、鍵をかけようか迷っているようです。
でも、そんなことしたらいわれなき攻撃に屈したことになるんじゃないかとも思います。この後、子どもと相談したいと思います。
「法的措置を検討」
中学生は取材後の3月4日深夜、Twitterのダイレクトメッセージで筆者に対し、こう述べた。
「なんだか上手いこと言えなかったんですが、今の気持ちをツイしました。アカウントも消さず、発信していきます。イジメはアカン。イジメはアカンという人をいじめるのは、もっとアカンと思います」
2人は悪質な誹謗中傷をするTwitterのユーザーらや一部のサイトに対し、法的措置を検討しているという。
東
3/12(火) 17:29配信 産経新聞
交際相手の娘など幼い女児4人にわいせつ行為を繰り返し、動画を撮影したとして、強制性交未遂や児童買春・ポルノ禁止法違反(製造)などの罪に問われた、山形市清住町、会社役員、阿部譲被告(35)に、山形地裁は12日、懲役11年(求刑懲役15年)の判決を言い渡した。
地裁は、被害者2人への強制性交未遂などの罪について、被告の供述などから、1件を除き強制わいせつ罪にとどまると判断。判決理由で児島光夫裁判長は「被害者の健全な成長への悪影響が強く懸念される。犯行は世話を任されていた間に行われた。交際相手の信頼に乗じ、悪質だ」と述べた。
判決によると、平成26年6月~30年3月、自宅やホテルなどで、当時4~9歳の女児に、計14回のわいせつ行為をし、スマートフォンなどで撮影した。
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犯行の詳細
「母子家庭の力になりたい」。
そう言って、シングルマザーに近づき、犯行に及んでいた。
FNNの取材に、「女性の心を利用して、こういった犯罪に及んだということが、とてもわたしたちは悪質で許せない。阿部譲(被告)は、ひきょうでこうかつで根っからの悪人だと思う。シングルマザーの子どもを狙った犯罪ですので…」と怒りをあらわにしたのは、被害に遭った女の子の母親。
相手の人物は、女児4人に乱暴するなどし、強制性交の罪などに問われている山形市の広告代理店社長・阿部譲被告(35)。
12日、懲役11年の実刑判決が言い渡された。
2014年6月から2018年3月にかけて、当時、4歳から9歳までの女児4人に対し、乱暴やわいせつな行為をしたとされる阿部被告。
犯行時、裸の画像をスマートフォンで撮影するなどしていた。
阿部被告は当時、複数の女性と交際し、相手の娘を預かるなどして、会社の事務所などで犯行に及んだとされている。
「母子家庭の力になりたい」と優しい言葉をかけて、親身になって接し、その目的が女児を乱暴すること…
とても、心が痛む犯行です。
阿部被告のプロフィール
名前:阿部譲(あべ・ゆずる)
年齢:35歳
職業:広告代理店 元社長
住所:山形県山形市
阿部被告の顔画像
阿部譲被告(35)。
阿部被告は当時、複数の女性と交際し、相手の娘を預かるなどして、会社の事務所などで犯行に及んだとされている。
FNNの取材に、「女性の心を利用して、こういった犯罪に及んだということが、とてもわたしたちは悪質で許せない。阿部譲(被告)は、ひきょうでこうかつで根っからの悪人だと思う。シングルマザーの子どもを狙った犯罪ですので...」と怒りをあらわにしたのは、被害に遭った女の子の母親。
以前、阿部被告に離婚の相談をしていたという別の被害女児の母親は、「自分の都合で離婚して、子どもにも寂しい思いをさせているというのはすごくあったので、(阿部被告から)『自分なら助けてあげられるよ』というようなことを言われると、1人で頑張らなくてもいいんだなと思ってしまって、そこにうまくつけ込まれたのかなと」と話した。
そして、阿部被告は母親に対し、「彼から(娘を)『預かるよ』というような発言が何度もあったような記憶がある。“この日忙しいんだ”ということを話題にすると『じゃあ預かろうか?』、『この時間1人にさせてあげるよ』というようなことは、口癖のように言っていた」と話した。母子家庭を狙い、力になりたいと接近してきたという阿部被告。
12日の判決公判で、山形地裁は一部乱暴する意思を認めなかった一方で、「ゆがんだ性的欲求から14回にわたって、わいせつな行為を繰り返した」として、懲役11年の判決を言い渡した。
この判決に被害女児の母親は、「(懲役11年は)短いと思う。わたしたちの娘が小さいころに受けた被害、そのあと11年男が刑務所に入っていたとしても、ちょうど(出所が)恋愛する時期なんです。その時期にきっと苦しむと思う」と話した。
(さくらんぼテレビ)
FNN