トクヴィル 現代へのまなざし

2019年03月25日 22時17分25秒 | 社会・文化・政治・経済
トクヴィル 現代へのまなざし(岩波新書 新赤版)

著者富永 茂樹 (著)

 

「自分たちの課題を自分たちで処理していかない限り、およそ民主主義は砂上の楼閣である」

フランスの思想家トクヴィル

商品説明

フランスの思想家アレクシス・ド・トクヴィル。デモクラシーのもとで生じる社会と政治の変容に透徹したまなざしを向ける彼は、人間の未来をどう考えていたのか。

生涯いだいていた憂鬱な感情を手がかりに、その思想を読み解く。【「TRC MARC」の商品解説】

 著者紹介

富永 茂樹

略歴
〈富永茂樹〉1950年滋賀県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。同大学人文科学研究所教授。京都芸術センター館長。専攻は知識社会学。著書に「ミュージアムと出会う」「理性の使用」など。

アレクシ=シャルル=アンリ・クレレル・ド・トクヴィル(仏: Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville、1805年7月29日 - 1859年4月16日)は、フランス人の政治思想家・法律家・政治家。裁判官からキャリアをスタートさせ、国会議員から外務大臣まで務め、3つの国権(司法・行政・立法)全てに携わった。
ノルマンディー地方コタンタン出身。生家は古貴族にして軍人・大地主という由緒ある家柄だったものの、フランス革命の際に主な家族や親戚の多くが処刑されたことから、リベラル思想について研究を行っていた。
その後ジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、諸地方を見聞しては自由・平等を追求する新たな価値観をもとに生きる人々の様子を克明に記述した(後の『アメリカのデモクラシー』)。
30歳の時、家族の反対を押し切り、英国人で平民階級の3歳年上の女性メアリー・モトレーと結婚。
1848年の二月革命の際には革命政府の議員となり、更に翌年にはバロー内閣の外相として対外問題の解決に尽力した。
彼の政治的手腕はなかなか鮮やかなものであったが、1851年、ルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)のクーデターに巻き込まれて逮捕され、政界を退くことになる。
その後は著述及び研究に没頭する日々を送り、二月革命期を描いた『回想録』と『旧体制と大革命』を残し、1859年に母国フランスで肺結核のため54歳の生涯を終えた。
フランスが誇る歴史家・知識人である。


フランスの思想家トクヴィル



ネットワークの力

2019年03月25日 22時06分21秒 | 社会・文化・政治・経済

地方議員に求められる資質は―。

それはまず、現場主義に徹して、「地域の御用聞き」として、地域の方々からさまざまな声を聞く力です。
しかし、ただ聞くだけでは政策は実現できません。
地方政策で実現できるものと、国政で解決すべきるものと仕分け、ネットワークの力を駆使して適切な政策として実現していくことが求められます。
国際治療福祉大学教授 川上和久さん


ドクターヘリの運航茨城県

2019年03月25日 21時50分30秒 | 投稿欄

7月から防災ヘリの活用へ

広域連携の拡大も検討

防災ヘリがドクターヘリの重複要請を補完 茨城
2019.2.14 産経新聞

茨城県は14日、ドクターヘリが出動できない際、代わりに防災ヘリが医師と看護師を乗せて救急現場へ向かう「補完的運航」に関し、県内3病院と協定を締結した。
 締結した3病院は、土浦市の土浦協同病院と、いずれもつくば市の筑波大付属病院と筑波メディカルセンター病院。協定には補完的運航の際、3病院いずれかの医師と看護師が1人ずつ防災ヘリに搭乗することなどが明記されている。
 補完的運航により、ドクターヘリの出動要請が重複した場合でも、医師と看護師を乗せた防災ヘリを出動させ、重篤な救急患者の救命率向上などが期待される。

14日に茨城県庁で行われた締結式には、大井川和彦知事と3病院の院長らが出席し、書類に署名した。
 大井川知事は「ドクターヘリの要請件数は年々増加している。
防災ヘリを有効活用して、医療提供体制の充実を図っていきたい」と話し、筑波大付属病院の原晃院長は「重複要請を緩和し、県内のどこでも安心して暮らせる環境づくりにつながる」と語った。
 茨城県は7月から補完的運航を導入する予定。1月には同県ひたちなか市内で訓練を実施するなど準備を進めている。


千葉県八千代市へ

2019年03月25日 20時53分00秒 | 日記・断片

午前9時30分に、佐々田さんとミスターマックスの前の通りで待ち合わせをして、千葉県八千代市へ向かう。

16号が渋滞していると予想されるので、小堀(おおほり)沿いの利根川の道を経て行く。

千葉県全体の地図があれば、方向性は理解できたと思う。
だが、佐々田さんは、方向が分かっていなかったようだ。
成田市内、佐倉市内を経て八千代市に向かう。
16号を経て行けば最短距離。
そこで、気持ちを切り替えた。
急ぐことでもない。
遠回りは「ドライブ」と思い車からの景色を楽しんだ。
今まで通ったことがない道、地域、景色。
「いいですね。長閑ですね。日本の原風景が残っているようですね」
「すごい、竹藪ですね。竹の子がたくさん取れるでしょうですね」
「里山が連なっていますね」
「棚田もありますね」
「こ辺りは沼、小川が多いですね」
「紅梅ですかね。桜でしょうかね」
「あれは、枝垂れ桜ですね」
「河津桜の並木道ですね」
「まだ、桜が咲いていなせんが、蕾が膨らんでますね。満開になったら見たい光景です」
「シャチ鋒のある家が見えますよ」
など、車窓の光景を見ながらつぶやいた。
八千代市に入ったら、午前11時20分になっていた。
それでも、当初の予定通りに約30軒を訪問できた。
勝田台、大和田、八千代台の道程だった。
帰途、我孫子の6号沿いの店で、うどんを食べた。
午後3時30分帰宅。

 

 

 


虐待死の撲滅を目指す

2019年03月25日 05時46分33秒 | 社会・文化・政治・経済

子ども虐待による死亡事例については、確認されている事例だけで毎年50件程度発生している。

子ども一人ひとりの命の重さを深甚に受け止め、子ども虐待死の撲滅を目指し、その原因や課題などについて明らかにした上で、未然防止策を講じることは社会としての責務である。
1)対象事例
平成16年1月1日から同年12月31日の間に子ども虐待による死亡事例として厚生労働省が把握した53例(58人)

死亡事例の概要

○対象とした事例は53例で、その内きょうだい2人が死亡した事例が5例あったため死亡した子どもの数は58人であった。
性別は、男子が26人(44.8%)、女子が32人(55.2%)であった。
○死亡した子どもの年齢は、0歳が24人(41.4%)、1歳が7人(12.1%)、2歳が8人(13.8%)、3歳が6人(10.3%)であり、3歳までが45人で全体の77.6%を占めており、第一次報告での80.0%とほぼ同様の割合であった。
○さらに、0歳児24人を月齢別にみると、1ヶ月未満が8人(33.3%)、1ヶ月が4人(16.7%)、2ヶ月が1人(4.2%)、3ヶ月が3人(12.5%)と4ヶ月未満が0歳児の約70%を占めており、第一次報告での36.4%より大幅に増加していた。
2)死亡に関連した状況について
○直接死因は、「身体的虐待」が49人(84.5%)、「ネグレクト」が7人(12.1%)であった。
身体的虐待の内訳は、「頭部外傷」が21人(36.2%)と最も多く、次いで「頚部絞厄」が12人(20.7%)であった。
また、ネグレクトでは、「車中放置」が4人(6.9%)、「分娩後放置」が3人(5.2%)あった。
○主たる加害者は、「実母」が31人(53.4%)、「実父」が13人(22.4%)、「実母の交際相手(同居男)」が4人(6.9%)であり、第一次報告での実母50.1%、実父30.0%とほぼ同様の割
合であった。
○死亡原因となった虐待の発生場所は、「自宅」が39人(67.2%)、「自宅外」が8人(13.8%)であった。


児童虐待は親権の乱用

2019年03月25日 05時36分10秒 | 社会・文化・政治・経済

野田市小学校4年女児の虐待死事件

必死に助けを求める子どもの声
「先生、どにかできませんか」

2000年12月、愛知県武豊町で、3歳女児が段ボール箱に閉じ込められて餓死した。
体重は5㌔しかなかった。
2006年5月、福島県泉崎村でも3歳男児が餓死。
兄妹も低栄養状態で、空腹時にドッグフードを食べていた。
2010年には京都府長岡京市でも、軟禁状態の3歳男児が餓死。
半年前には6歳の姉が保護されたばかりなのに、住民の通報にも行政は動かなかった。
2008年11月には、川崎市で3歳女児が重いペットボトルを手に持ったままガムテープで固定され死亡。
大坂市西区では2010年7月、母親が夜遊びで1か月帰宅せず、3歳と1歳の姉弟が餓死した。
福岡県久留米市でも2010年8月、5歳の保育園児が7㌔のペットボトルを首にかけられ殺害された。
2012年、千葉県で2歳児が餓死した事件では、
ひもじかったのだろう、胃から紙切れやプラスチック片が見つかっている。
ウサギ小屋のケージに監禁、寒風のベランダに放置。
子どもの虐待死は毎年50件前後。
その8割は3歳以下。
惨劇はおさまらない。
そのたびに、行政の甘さ、関係機関との連携の欠如、無責任対応や不作為が指摘されてきた。
今やなすべきは明白である。
児童虐待は凶悪犯罪であると位置づけることだ。
虐待情報を児童相談所が抱え込まない。
暴行・傷害事件であり、殺人に至る可能性が強いのだから、警察は積極的に捜査すべきだ。
東京都は保護者の体罰を禁止する条例を議会に提出する。
ジャーナリスト 柳瀬光一さん


岡本太郎の見た日本

2019年03月25日 02時43分53秒 | 投稿欄
 
赤坂 憲雄  (著)

商品の説明

受賞歴

第17回(2007年) Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞

内容(「BOOK」データベースより)

没後、あらためて再評価が巻き起こりつつある岡本太郎。

その芸術家の枠に収まりきらない多様な活動のうち、民族学的側面にわたる仕事、すなわち有名な「縄文土器の発見」から東北、沖縄へと展開されていった独自の日本文化再発見の道行きを、気鋭の民俗学者が鮮やかに読み解く。

パリ留学時代にはパリ大学に民族学を学び、バタイユらとも親交を深めた太郎が、その類まれな感性で発見していた「ほんとうの日本」とは何だったのか?

画期的岡本太郎論。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

赤坂/憲雄
1953年東京都に生まれる。東京大学文学部卒業。

東北芸術工科大学大学院長、同東北文化研究センター所長。

専門は日本思想史・東北文化論(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



東北の文学 源流への旅

2019年03月25日 02時38分54秒 | 社会・文化・政治・経済
 
成田 健  (著)

商品の説明

内容紹介

東北出身の作家にゆかりの地を訪ね、その作品や人となりに迫る、珠玉の文学エッセイ。
「文人たちの十和田湖」の著者による第2弾。

【目次】

青森県
二つの碑 信頼の文学 太宰治生誕百年 林古渓の十和田湖詠 湖畔の乙女像 
岩手県
晩秋の高村山荘 宿命の歌人 下山清 啄木忌 宮沢賢治を歩く 「雨ニモマケズ」のその後 
宮城県
原阿佐緒 人と歌 晩翠忌 
秋田県
明治秋田俳壇の側面 宮沢賢治と秋田 ユリノキとの出合い 斎藤茂吉と秋田 太宰治「女生徒」と秋田 石川達三の文学 伊藤永之介の道 石川啄木に詠まれた松岡蕗堂 石川啄木と鹿角 
山形県
「逆白波」の歌 『赤光』の地をめぐる 
福島県
高村光太郎「樹下の二人」 智恵子記念館

内容(「BOOK」データベースより)

東北の作家にゆかりのある土地を訪ね、作品や人となりの真髄に触れる。

著者について

成田 健(なりた たけし)
昭和8年生まれ。
昭和31年秋田大学学芸学部卒業。
平成6年3月まで教職に就く。
著書
『国語科指導法の探求』よねしろ書房
『文人たちの十和田湖』無明舎出版
『東北の文学 源流への旅』無明舎出版
『折にふれて』無明舎出版

 


詩は東北、批評は関西

2019年03月25日 02時35分55秒 | 社会・文化・政治・経済

「東日本はすぐれた文化を持っていた」

以下は引用文です。
東北は日本人の精神的原点である1万年に渡る縄文資質を最も色濃く残せてきた地域です。私達の中にもその資質は当然組み込まれているのですが、市場化、欧米化によって失われつつある日本人の資質を今一度、東北の地から学び取らなければなりません。
東北人はあまり多くを語りません。
教科書の日本史は天皇家の歴史です。
地域で言うと奈良、京都中心、せいぜい神奈川、江戸までです。
その中で東北の歴史は一地方史として、表舞台にほとんど出てきませんでした。
むしろ意識的に消されてきた可能性もあります。
しかし日本の歴史を紐解けば縄文時代は東北、中部、関東で育まれ、その後、東北は畿内渡来文化の影響を受ける事無く、おそらくは明治時代に入るまでその地方的特性、縄文的資質は脈々と流れ続けていたものと思います。
縄文文化は日本各地に広がったけれども、東日本の方が西日本よりはるかに優れた文化をもっていた。
特に縄文中期における諏訪湖沿岸地方の土器文化、およびそれからやや後の新潟県、富山県などのいわゆる越の国の土器文化は、当時最高の文化であったように思われる。
縄文後期から晩期にいたると、文化の中心は東北に移行している。
特に青森県を中心とした晩期縄文文化は、まことに素晴らしい。それは力に満ちてはいるが、どこか繊細なのである。中期の諏訪地方の燃え上がるような神秘主義はやや姿を消すが、しかし縄文文化としてもっとも完成した、もっとも発展した姿がそこにあるように思われる。
縄文晩期、つまりいまから3千年前から2千年前くらいまで、東北、特に津軽の地には日本最高の狩猟採集文化があったと言える。
とすれば、東北地方、特に津軽は昔から文化果つるところではなかったのである。
かつては千数百年のあいだ日本最高の文化を誇った場所なのである。
この輝かしい文化はいったいどこへ消えてしまったのか?
千年や二千年の時間で、あの輝かしい文化がなくなるはずがない。
たしかに水稲稲作農業の渡来は、日本の政治地図、文化地図を一変させてしまった。
いままで文化果つるところであった西日本が文化の中心になり、そして今まで文化の中心地であった東日本、特に東北地方は文化果つるところになってしまった。

二千年という時間はたしかに長い時間であり、この二千年という時間における、東北にとってまことに過酷な歴史はかつての輝かしい文化の跡をとどめぬほどに東北を荒廃させてしまったけれども、まだその残影は残っているように思われる。
例えば詩の世界において東北はいまでも日本の王者なのである。

詩には二つの種類があろう。
ひとつはいわゆる文芸としての詩歌である。
もうひとつは民衆の歌う歌謡である。
明治以降の詩人
石川啄木、宮沢賢治、土井晩翠、斉藤茂吉・・・・すべて東北人である。
また島崎藤村、高村光太郎は東北と深い関係を持っている詩人である。
東北は詩人を生み、育てたのである。
桑原武夫先生は私にしょっちゅう言う「詩は東北、批評は近畿だ」と。
また、必ずしも詩人とは言えないが、太宰治や棟方志功もやはり東北の出身である。

なぜ東北に詩人が多いのか。
なぜ東北のみが優れた詩人を生むのか。
東北には二千年前に優れた文化を生み出したという無意識の記憶があり、その記憶が現在の没落の意識と結びつくと、そこにおのずから素晴らしい詩を生み出すのであろう。
いわゆる文学的な詩歌ばかりではない。
日本の民謡の中で優れているのはほとんどが東北か九州のものである。
なかんずく東北のいたるところに素晴らしい民謡がある。
そして日本の現役の歌手も東北や九州の出身の者が多い。
また、東北の名物はなんといっても祭りである。
私は日本の祭りは世界においてもはなはだ優れているものだと思っている。
おそらく多神論とつながっているのだろう。日本には八百万の神も八百万のしかたでもって祀られる必要があるのであろう。
それは日本の民衆が生んだ素晴らしい芸術である。
しかし祭りといえばやはり東北である。青森のねぶた、弘前のねぶた、秋田の竿燈、男鹿のなまはげ、山形の花笠祭、八戸のえんぶり、岩手一帯の鬼剣舞、鹿踊り、仙台の七夕、相馬の馬追いなど、特に有名なのを数えるだけでも、いかに東北の祭が素晴らしいかがわかる。この素晴らしい祭は、やはりどこかで東北地方にかつて栄えた素晴らしい文化を、こだまさせているものではないであろうか。

このように見ると、東北はけっして文化果つるところではないのである。むしろその内面にかつての輝かしい文化の記憶をもち、それを語るに語れない焦燥に悩むところなのである。東北人のあの沈黙と羞恥と、そして誇り、それはおそらく東北人の心の中にひそんでいる、過去の高い文化の無意識なる記憶が原因なのではないだろうか。

千年前から東北に憧れた西行から始まり、実朝、芭蕉を経て、東北の深層である縄文の荒ぶる魂(こころ)を伝える賢治など、短詩系の文学者にとって東北(みちのく)は宝の山であった!

詩歌に宿るまつろわぬ東北(みちのく)の魂(こころ)!
東北に魅了された260名による短歌・俳句・詩などを収録。


英国作家イザベラ・バード

2019年03月25日 01時55分59秒 | 投稿欄

 

日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)
日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)
イザベラ バードIsabella L. Bird 

英国の著名な女性旅行作家であり、慈善家であるバードは、1878 年(明治 11 年)に日本に来訪する。

その後 7 ヶ月間に渡り日本を旅し、日本人の生活や風習、調度品から民家、都市に至るまで、様々な記述

を”Unbeaten Tracks in Japan”という本にまとめた。

1. 当時の日本における都市や町の概観、種々の建築の外観から内部に至るまでの観察、建築の構造など、網羅的に収集する。
2. 「日本的である」や「純日本的」などの記述。
3. 「妖精」や「おとぎの国」などといった表現。
「家が小さくて低い上に、素晴らしい畳が敷かれ、実に清潔で、度が過ぎるほどにきちんとし、軽やかで華奢なので、まるで人形の町通りである。」

「小さくて可愛らしい町…古風な趣のある全てのものと調和して一つになっている。…妖精が造ったような部屋…」
道中に見る「日本」は、ジャポニズムではないが、今日の人が思う「日本らしさ」である。
奢侈なジャポニズム的日本ではなく、裕福でなくとも素朴で精神的な豊かさを享受していた道中の人たちの情景こそ、今の「日本」と言えるのではないだろうか。
山形を訪れ、その農村風景に感嘆して<アジアのアルカディア>(理想境)と評した。

1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉を供とし、東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した。
多くの行程は伊藤と2人での旅だったが、所々で現地ガイドなどを伴うこともあった。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。
これらの体験を、1880年(明治13年)、"Unbeaten Tracks in Japan" 2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。

イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird, 1831年(天保2年)10月15日 - 1904年(明治37年)10月7日)は、19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家、写真家、ナチュラリスト。
ファニー・ジェーン・バトラー(英語版)と共同で、インドのジャンムー・カシミール州シュリーナガルにジョン・ビショップ記念病院を設立した。
バードは女性として最初に英国地理学会特別会員に選出された[6]。1881年(明治14年)に妹の侍医であったジョン·ビショップと結婚し、イザベラ・バード・ビショップ(Isabella Bird Bishop)、ビショップ夫人とも称された。


 

天保11年の三方領地替え

2019年03月25日 01時31分59秒 | 社会・文化・政治・経済

天保11年(1840)11月1日、幕府は川越藩、庄内藩および長岡藩の3藩に対し三方領地替えを命じた。
江戸時代に三方領地替えは11回あり、また四方領地替えも複数回あるので、幕府の大名統治政策として珍しいことではない。
ところが天保11年の三方領地替えが、数ある領地替えの中で飛びぬけてよく知られているのは、いったん発令した幕府の命令が、前代未聞の御沙汰止みになり、幕府の権威を著しく低下させたことにある。
この当時、財政破綻状態にあった川越藩は、藩主松平斉典(なりつね)が11代将軍・徳川家斉(いえなり)の25男斉省(なりさだ)を養子に迎え、裕福な庄内への転封を狙っていた。

幕閣は無論のこと、将軍の親戚ということで大奥まで巻き込んで領地替えを画策したのである。

そして強引に三方領地替えを進める中心となる人物が、浜松藩主の老中水野忠邦である。
19歳で唐津藩主になった忠邦は、幕閣での出世を夢見て、それまでの藩主では例を見ない行動に出た。

それはかって徳川家康の居城であり、当時も幕閣への登竜門である浜松藩への国替えを申し出たのである。
文化14年(1817)、板倉藩、唐津藩および浜松藩の 三方領地替えで、唐津から念願の浜松に移った忠邦は、とんとん拍子で出世し、ついには筆頭老中に上り詰め、天保の改革を進めたのである。
今回の川越藩の願いをかなえるには、自らが夢を実現させた三方領地替えの妙案が、脳裏に浮かんだのも、あながち不思議なことではない。
幕府の命により、忠実な譜代大名である庄内藩主・酒井忠器(ただたか)は長岡へ、そして長岡藩主・牧野忠精(ただきよ)もまた川越へ移る準備を始めた。
ところが庄内の領民が、三方領地替えに異をとなえたことで、これは幕府が注目する事件へと発展した。

川越藩は表高15万石であるが実高は4~5万石で、借財も23万両と藩財政は破綻の状態にある。

一方の庄内藩は表高14万石実高は19万石で、商人の本間家に藩の実質経営を委託し、年間黒字3~4万両の豊かな藩である。
庄内領民は転封後に起こるであろう過酷な年貢を予期し、各地で集会を持ちはじめた。

あるものは国境に出て隣国に愁訴し、あるものは江戸にでて命がけで幕閣の要人に直訴を始めた
「雖為百姓、不仕二君」(百姓といへども二君に仕へず)を旗印に、もはや一発即発の一揆に近い状態であった。

結城秀康を祖とする、親藩の名門である川越藩主松平斉典のとんでもないおねだりと、老中水野忠邦の改革に名を借りた、強引な政治に嫌気がさしていた幕閣の要人は、直訴にきた庄内の領民を、幕府の裁きに突き出すのではなく、彼らの行いを褒め称えて庄内藩に渡した。
国を思う気持ちからの行動は、現代の中国にも通じていそうだが、本来はご法度の直訴にもかかわらず、庄内藩もまた直訴した領民を厳しく罰してはいない。

ここに二人の人物が登場する。一人は庄内藩出身の江戸の公事師(くじし)で財政家の佐藤藤佐(とうすけ)で、もう一人は江戸南町奉行の矢部定謙(さだのり)である。
庄内の領民は江戸で佐藤に相談し、やがて佐藤からの訴えは、南町奉行が取り調べることになる。

月番の江戸町奉行所は、北町奉行が遠山金四郎で知られる遠山景元、南町奉行が矢部定謙で、共に名奉行と誉が高い。
佐藤藤佐の吟味は矢部が担当し、正式な訴えとした公式書面「佐藤藤佐口書」に残された。

命がけで矢部はこの口述書を、老中堀田備中守および老中真田信濃守を経由し、筆頭老中水野忠邦に上申した。
天保12年(1841)閏1月、 大御所政治を続けていた家斉は亡くなり、また川越藩が養子縁組で迎えた松平斉省も、同年5月に相い次いで亡くなっていた。
水野忠邦から南町奉行所の調べを聞いた第12代将軍・徳川家慶(いえよし)は、父親の大御所政治が終わっていたこともあり、三方領地替えの取り下げを命じた。
ここから水野忠邦の矢部に対する反撃が始まった。

腹心の鳥居耀蔵(ようぞう)を使い、諌言により矢部を追い落とした。

矢部家はお取りつぶしとなり、桑名藩預かりとなった矢部は、桑名城の座敷牢で食を絶ち、正座のまま息を引き取ったという。
なおこの桑名藩も名君松平定信の時代に、三方領地替えにより白河から桑名に戻っていた。

桑名→高田→白河→桑名と転封を重ね、念願の旧領地に戻ったのである。
三方領地替の駒に使われた長岡藩も、水野の最後の毒牙を食らうことになる。

それは天保14年(1843)に、水野忠邦がお庭番川村修就(ながたか:清兵衛)を暗躍させ、長岡藩領新潟港の上知を実現させた。
さて三方領地替えはここまでであるが、事件の関係者のその後を見てみよう。
川越藩、庄内藩、長岡藩はそのまま幕末を迎えた。

いや厳密に言えば川越藩松平越前家(松平大和守家)は、慶応3年(1867)川越藩領前橋に移り前橋藩を興した。

そして翌年に明治維新を迎えた。

川越藩には松平松井家が入った。喜多院にある霊廟は、越前家のものである。
一方、水野忠邦は強引な改革の反発と三方領地替えの失策で一旦は失脚し、再び筆頭老中に帰り咲くも、かっての力はなく隠居を言い渡され、懲罰的な意味を持つ浜松から酒田へ転封となった。
鳥居耀蔵は矢部を追い落とした功績により、矢部の後釜の南町奉行に破格の出世をした。

しかし水野が老中に帰り咲くと、自分を裏切った鳥居を許さず、罪人として丸亀藩預けとなり幕末を迎えた。
新潟港上知のお庭番(隠密)の川村修就は、上知直後の新潟奉行から奈良奉行、大阪町奉行、そして長崎奉行などの要職に転進する。
最後は矢部家であるが、水野と鳥居が失脚すると、定謙の無実がわかり、子供にお家の再興が認められた。

庄内では定謙は国を救った恩人と、崇め奉られているという。

(参考資料)
義民が駆ける(藤沢周平)、気骨の幕臣矢部定謙(中村彰彦)、
下級武士の米日記(加藤淳子)

 


「小さなことに過ぎない」

2019年03月25日 01時27分08秒 | 社会・文化・政治・経済

「引退の場に立てた<瞬間>が、28年間で最も印象深い」イチロー選手の1時間以上に及んだ深夜の引退会見。
まさに、イチロー語録は<超一流>の珠玉の言葉であった。
日本で9年、米大リーグで19年間、プレーし、大リーグ最多記録のシーズン262安打、10年連続の200安打。
数々の記録を打ち立てたが、それを「小さなことに過ぎない」とイチロー選手は言い切った。
1日1日、一試合一試合に、執念を燃やし、地道な努力を続けた野球人の信念がにじみ出た会見だった。
彼は高校野球のスパースター選手ではなかった。
ドラフト4位で入団した選手である、ことに今更、驚かせる。


体験に勝るものはない

2019年03月25日 01時06分22秒 | 社会・文化・政治・経済

人は、人と触れ合うから元気になり、励まし合うから前進できる。
仕事の場以外にも、日常的に人と対話できる場がある。
そして、前向きな生き方になれる。
生活の悩みを克服した人の体験などを聞く。
感動して、自分も頑張ろうと決意する。
体験に勝るものはない。
努力を続けている人に触発される。


仕事と心の流儀

2019年03月25日 00時39分25秒 | 社会・文化・政治・経済
 

人間の能力はそれほど変わらない。
<努力の差>ということです。
アインシュタインやエジソンも小さい頃はいろんな問題もあった。
欠点を直すことよりも、好きなことで努力をさせたので、偉業を成し遂げた。
だから、絶対に努力はやめちゃいけない。
努力し、続けていれば、どんな苦境でも、<人間の力を超える何か>が働いたとしか思えないような現象が起きて、乗り越えていけます。

 商品の説明

内容紹介

「問題が多いことを喜べ。それは懸命に生きている証だ」「能力や適性に大差はない。

開花するかは『どれだけ努力したか』の違いだけだ」「空気は読んでも顔色は読むな」「情熱が人を動かし、金も動かす」「誰にだってチャンスはある。でも勉強しないとチャンスはつかめない」。

幾多のビジネスの修羅場を乗り越えてきた大先輩から懸命に仕事するすべてのビジネスパーソンに贈るエール。

日々、ビジネスの現場で懸命に奮闘するすべての人へ。
幾多の修羅場を乗り越えてきた著者が贈る珠玉のメッセージ!

「勝者と敗者を分けるのは、心の強さと平常心」
「悲観的に考えて、楽観的に行動する」
「問題が多いことを喜べ。それは懸命に生きている証だ」
「金銭的報酬を追いかけて仕事をする人は、サラリーマンのプロになれない」
「能力や適性には差はない。開花するかどうかは『どれだけ努力をしたかの違い』だけだ」
「情熱が人を動かし、お金も動かす」
「部下の大半にやる気がないのは上司の責任」
「嫌な上司は反面教師にせよ」
「空気は読んでも顔色を読むな」
「人は三年権力を握ればバカになる」
「誰にだってチャンスはある。でも勉強しないとチャンスはつかめない」

人はなんのために仕事をするのか?
仕事の真の報酬とは何か?

新入社員から経営者まで共通する
働くことの本質をすべて語り尽くす。

内容(「BOOK」データベースより)

つらい仕事ほど、人を成長させる―日々奮闘する、すべての人に贈る「働くこと」の本質を語った珠玉のメッセージ。

丹羽/宇一郎
元伊藤忠商事株式会社会長、元中華人民共和国特命全権大使。1939年、愛知県生まれ。

名古屋大学法学部を卒業後、伊藤忠商事に入社。1998年、社長に就任。1999年、約4000億円の不良資産を一括処理し、翌年度の決算で同社史上最高益(当時)を記録。

2004年、会長に就任。内閣府経済財政諮問会議議員、内閣府地方分権改革推進委員会委員長、日本郵政取締役、国際連合世界食糧計画(WFP)協会会長などを歴任し、2010年、民間出身では初の駐中国大使に就任。

現在、公益社団法人日本中国友好協会会長、早稲田大学特命教授、福井県立大学客員教授、伊藤忠商事名誉理事。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)