10/21(水) 13:11配信
東洋経済オンライン
小泉今日子さんの『なんてったってアイドル』などを手がけた作曲家・筒美京平さんが亡くなられました。筒美京平さんの功績、その大きさと重さを考察します。 小泉今日子 1986年(写真:時事通信)
作曲家・筒美京平が10月7日、誤えん性肺炎で死去した。80歳だった。
音楽評論家として、氏の巨大な功績を追い続けてきた私だが、そんな私の予想を超えた大きさで、筒美京平の死は、取り扱われた。
しかし、一定の年齢以下の層や、意識的な音楽ファン以外の層にとって、筒美京平の功績は、非常にわかりにくいのではないだろうか。当の筒美京平自身が、徹底的に裏方に徹し、メディア露出や積極的な発言を好まなかったから、なおさらである。
そこで今回は「月間エンタメ大賞」の特別編として、筒美京平の功績、その大きさと重さを、私なりに捉えてみたいと思う。
■小室哲哉をしのぐシングル売り上げ枚数
筒美京平の功績を一言で言えば「ヒットシングルを量産し続けたこと」に尽きる。
生涯で3000曲弱の作曲を手がけ、売りも売ったり、作曲家としての売り上げ枚数は7560万枚に上るという(オリコン調べ)。筒美京平に続くのは、作曲家・小室哲哉で7184万枚。筒美京平と僅差なのだが、筒美京平と小室哲哉では活躍した時代が異なる。小室哲哉が最盛期を迎えた90年代は、いわゆる「CDバブル」で、音楽ソフト市場が爆発した年だった。
日本レコード協会によれば、音楽ソフトの生産金額がピークを迎えたのは1998年で6075億円。その前年1997年に、作曲家・小室哲哉の最高売り上げとなった安室奈美恵『CAN YOU CELEBRATE?』が230万枚を売り切っている。逆に、作曲家・筒美京平としての最高売り上げ枚数(124万枚)となったジュディ・オング『魅せられて』がリリースされた1979年は、1998年の半分以下、2626億円にとどまる市場規模だった。
つまり小室哲哉の時代に比べて、まだまだ市場が小さかった時代において、小室を超えるヒットシングルを、ロングテールに積み重ねたということが、筒美京平のすごみなのである。
では筒美京平は、どのような方法論でヒットシングルを生み出し続けたのか。
方法論の本質は、その時代その時代における最新の音楽潮流を、筒美京平一流の鋭いアンテナでキャッチし続け、日本の「お茶の間」になじむように加工することだった。
ロック時代に合わせた強いエイトビートをバックに、まるで小唄のような和風の歌い方を乗せて大ヒットした、いしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』(1968年)。フォーク/ニューミュージック的なサウンドと、これまでの歌謡界には見られなかった型破りな歌詞が見事にマリアージュした、太田裕美『木綿のハンカチーフ』(1975年)。
当時、世界的に大流行し始めていたディスコサウンドを、抜群の歌唱力を持つ女性新人歌手の歌に導入して大ヒットとなった、岩崎宏美『ロマンス』(1975年)。エキゾティック・ブームを先取りした大胆なメロディーとアレンジで、作曲家・筒美京平の最高売り上げとなったジュディ・オング『魅せられて』(1979年)。
と、どの曲も、当時最新の音楽動向を捉えつつ、それを見事に「お茶の間化」することで、大ヒットとなったのだ。筒美京平の才能の根幹は、この「お茶の間化力」だったと、つくづく思う。
■作詞家との柔軟なコラボで市場変化に立ち向かった
さらには、その時々の有能な作詞家と刺激的にコラボレーションすることでエネルギーを得ながら、音楽市場の変化と戦い続けたことも、ヒットシングル量産の大きな要因と思う。
先のいしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』を作詞したのは橋本淳。筒美京平を作曲の世界に導いたキーパーソンであり、筒美とコラボした楽曲数は500曲を超えるという。橋本×筒美が生んだ、高度経済成長期に合うバタ臭い音楽性は、初期・筒美京平のブレイクに大きく寄与した。
筒美京平の「第1期黄金時代」とも言える1971年に日本レコード大賞を獲得した尾崎紀世彦『また逢う日まで』や、岩崎宏美『ロマンス』でコラボした作詞家は阿久悠。高度経済成長から、オイルショック、低成長時代へと移っていく中で、厳しい時代を生き抜く、自立した女性のイメージが残る作品群が印象的である。
70年代後半からの、主にフォーク/ニューミュージックの市場を攻略する局面でのパートナーが、伝説のロックバンド=はっぴいえんど出身の作詞家、松本隆だった。都会的で個性的な筆致を武器に、太田裕美『木綿のハンカチーフ』から、桑名正博『哀愁トゥナイト』(1977年)を経て、近藤真彦『スニーカーぶる~す』(1980年)前後の「第2期黄金時代」を、筒美と共創することとなる。
80年代になって、筒美京平のそばに現れるのが秋元康。コラボした曲は案外多く約100曲にのぼるという。稲垣潤一『ドラマティック・レイン』(1982年)がコラボの端緒となり、80年代特有の軽薄短小な気分に合わせて、アイドルがアイドルを対象化する小泉今日子『なんてったってアイドル』(1985年)も、このコンビの作品だった。
以上に見られるように、その時代その時代で、最も勢いのある作詞家と果敢にタッグを組み続けた、逆に言えば、旬の作詞家とコラボし続けられる柔軟性を持っていたことも、筒美京平がヒットシングルを量産し続けられた大きな要因だと考えるのだ。
少しばかり教科書的に、筒美京平の功績をひもといてみたが、ここまでを読んでも、作曲家・筒美京平の真の功績や価値は、十分に伝わらないのではないかと懸念する。とくに80年代、『スニーカーぶる~す』以降、筒美京平が名実ともに「王道」となった中で、幼少時代を過ごした40代の人々にとっては。
逆に90年代以降の、主に「渋谷系」ムーヴメントにおいて、小沢健二やピチカート・ファイヴとのコラボに象徴される「筒美京平リスペクト」の気運を知っている30代の方々には、もろもろが違和感なく伝わっているのかもしれないのだが。
私は80年代に青春時代を過ごした口だが、70年代の筒美京平作品も、子どもながらにリアルタイムで聴いていた世代でもある(54歳)。その世代感覚から思うのは、1979年=『魅せられて』までの作品群のほうに、ひきつけられる度合いが強いということだ。言い換えれば、1979年と1980年の間、『魅せられて』と『スニーカーぶる~す』の間あたりに「筒美京平フォッサマグナ」があるということ。
確かに80年代以降にも、好きな筒美京平作品は山ほどある(小泉今日子『夜明けのMEW』など)。ただ、筒美京平作品が、音楽シーンの中で、明らかに斬新だった、まだまだ異端だったのは、筒美が40代になる前に生み出した1979年までの作品群だったと思うのだ。
このあたりは意見が分かれるところかもしれないが、まだ未聴の方がいるならば、まずは本稿で述べた60~70年代の筒美京平作品に耳を澄ませ、「お茶の間化力」を駆使しながら、キレッキレの作詞家との刺激的なコラボの中で、斬新でハイカラなヒット曲を量産し続けた筒美の本領を感じてほしいと思う。
■今後現れることのない無二の作曲家
ビーチ・ボーイズに『ペット・サウンズ』(1966年)という独創的な傑作アルバムがある。山下達郎は、そのライナーノーツにこう書いている。
『ペット・サウンズ』のような響きを持ったアルバムは、あらゆる意味でたった1枚きりであり、このような響きは今後も決して現れることはない。それゆえにこのアルバムは異端であり、ゆえに悲しい程美しい。
筒美京平を強くリスペクトする山下達郎のこの文章になぞらえながら、筒美に対する私の思いを記して、本稿を終わりたい。
――筒美京平作品のような響きを生み出せる作曲家は、あらゆる意味でたった1人きりであり、あのような響きは今後も決して現れることはない。それゆえに筒美京平作品は、一見王道に見えて、でも、だからこそ異端であり、ゆえに悲しい程美しい。
スージー鈴木 :評論家