10/2(金) 12:27配信
婦人公論.jp
古賀政男(左/昭和34年12月頃)と古関裕而(写真提供:古関裕而の長男・古関正裕さん)
NHK連続テレビ小説『エール』で、窪田正孝さんが演じる主人公・古山裕一のモデルは、名作曲家・古関裕而(こせきゆうじ)だ。ドラマでは、世相は戦争一色に。戦時歌謡でヒットを飛ばした古山に対し、数々の名曲を生み出してきた作曲家・木枯正人(モデルは古賀政男。RADWIMPS・野田洋次郎が演じる)は世の中の空気に合わせられなくなっていってーー。遺族にも取材して古関の評伝を書いた刑部芳則さん(日本大学准教授)によると、実際に古関と古賀は戦時下で評価が一変したという。
【当時の写真多数!】昭和8年、離婚騒動で体調を崩した頃の古賀政男
※本稿は、評伝『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』(刑部芳則・著/中公新書)の一部を、再編集したものです
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◆古関裕而と古賀政男の出会い
古関裕而が古賀政男と最初に会ったときは、まだ専属の作曲家ではなく、コロムビアの社員であった。レコード吹き込みのタイムキーパーを担当し、古関の作品にも立ち会っている。
古関は、「時折、うす暗い地下食堂でお茶を飲みながら互いに励まし合い、将来を夢みたものだった。彼は社員としてのかたわら盛んに作曲もやっていた」と、昔を振り返る。お互いに作曲家として売れることを夢見ていたのである。
明治37年(1904)11月18日に福岡県三潴郡田口村(現在の大川市)で生まれた古賀は、幼少期に父を失い、少年期に長兄の商店を手伝うため朝鮮半島に渡るなど、古関とは対照的に貧しく辛い生活を送ってきた。音楽学校への進学を夢見たが、明治大学商学部へ行くこととなった。しかし、天性の音楽センスは、古賀が創設した明治大学マンドリン楽部でも発揮された。昭和4年3月の卒業後に、コロムビアから声がかかり社員となった。流行歌の作曲家のノルマは、いかにヒット曲を生み出すかである。天才的な感性を持つ古賀は、コロムビアの重役たちが驚くほどの活躍を見せる。
当時はオリコンのようなシステムはなく、流行歌の正確な売り上げ数はわからない。どの曲がヒットしたのかがはっきりわかるのは、内務省が昭和13年2月に取り調べた「売上実数ヨリ見タル流行歌「レコード」ノ変遷」という史料である。そこには昭和3年9月から昭和13年1月までの間に10万枚以上売れた流行歌が記されている。
これを見ると、古賀は約2年間のうちに8曲で71万枚という好成績を残していることがわかる。そのほかにも、10万枚には至らなかったため売り上げ実数はわからないが、昭和6年6月の藤山一郎(柿澤勇人演じる山藤太郎のモデル)の「キヤムプ小唄」や同8年3月の松平晃「サーカスの唄」など、後年の懐メロ番組で取り上げられる名曲を生み出した。
表)古賀政男のコロムビアヒット曲
古賀の悲しく廃頽的なメロディーは、あっという間に国民の心をつかんだ。当時は、昭和恐慌と呼ばれる慢性的な不況下にあり、とくに地方農村部では生活に困窮する家庭も少なくなかった。古賀の楽曲は、そうした暗い世相のなかで歓迎された。その心地よいメロディーは、古賀メロディーと呼ばれ、後年には流行歌の生みの親とまでいわれるようになる。
◆レコードも発売前に内務省の検閲を受けることに
流行歌の王者である古賀政男は、昭和9年にコロムビアからテイチクへと移籍していった。レコード会社は変わっても、大ヒットを連発していた。ヒットに恵まれなかった古関とは対照的である。
表)古賀政男のテイチクヒット曲
治安や思想を監視する内務省は、流行歌がたくさん作られるようになると、その内容や影響力に注意するようになった。レコードの取締りは、昭和8年10月に治安警察法第16条の「安寧秩序ヲ紊(みだ)シ、若(もしく)ハ風俗ヲ害スルノ虞(おそれ)アリト認ムルトキハ、警察官ニ於テ禁止ヲ命スル」という基準で全国的に行われた。翌9年8月1日施行の改正出版法により、レコードも出版物と同じように、発売前に内務省の検閲を受けることを余儀なくされた。
そして、昭和11年12月に発売された古賀作曲の「あゝそれなのに」(作詞・星野貞志)は、ちょっとした騒動となる。
家の留守を預かる妻が会社勤めの夫を気遣っているにもかかわらず、帰宅が遅いものだから、外で浮気でもしているのではないか、と怒るものである。何が問題になったかといえば、歌詞のなかにある妻が夫に向かって「ねぇ」と語りかける対話調であった。
そこにレコードの内容を検閲審査する内務省警保局が目をつけた。「あゝそれなのに」は発売禁止や改訂盤を出すことは免れたが、販売促進を目的とした宣伝中止を余儀なくされた。
流行作曲家の使命は、とにかくヒット曲を生まなければならない。古関は「巷には、エロ・グロ・ナンセンスなどの言葉が流行し、またそれらを題材とした流行歌が氾濫した。若い私にはこの種の世界が馴染めず、作曲もやりにくかった。ディレクターから「もっと社会見学をしなくては」と、しきりに言われたが気も進まず、自分の手がけられる範囲のものだけをコツコツと作曲していた」と述べている。古関の音楽センスからして、売れ筋とはいえ廃頽的な「ねぇ小唄」は書きたくなかったのである。
◆戦時下の古賀政男との違い
ヒットに恵まれない古関裕而と、ヒットメーカーとして名高い古賀政男。そのライバル関係は、戦時下に一変する。
米英との関係が悪化すると、両国を仮想敵国と見なし、日本国内の情報が漏れないように注意すべきだという危機意識も持つ必要性が生じるようになる。昭和16年4月に読売新聞社は、国民に防諜を喚起する国民総意の歌「そうだその意気」と、「海の進軍」の歌詞募集を行った。古関は、海老沼正男が作詞した「海の進軍」に曲をつけることとなった。歌は伊藤久男(山崎育三郎演じる佐藤久志のモデル)、藤山一郎、二葉あき子が吹き込んだ。
この作曲について古関は、「曲は短調だが、多分にグランド・マーチ風の四分の四拍子で、堂々たる艦船を表現したつもりである。私としては、終わりの四小節のメロディーが気に入っていた」という。曲調は短調だから暗いメロディーだが、「多分にグランド・マーチ風の四拍子」を用いているため、全体的に勇ましく「堂々たる艦船を表現」することに成功している。
この裏面になった「そうだその意気」は、「国民総意の歌」というとおり、一億国民の意識を戦時体制下で一つにする目的があった。歌詞は6000篇が集まったものの、優秀なものがなく、作詞は西条八十、作曲は古賀政男と流行歌の王者に依頼することとなった。「そうだその意気」は、霧島昇、松原操、李香蘭が吹き込んだ。
この企画を立てた陸軍省防衛課中佐大坪義勢は、西条の歌詞に注文をつけるくらい入れ込んでいた。吹き込みには、軍関係者、コロムビアの重役、部長、西条八十、新聞記者が並んだ。古賀政男のピアノ伴奏が終わると、軍関係者は「軟弱だ。戦意を高めるどころか、なんだか悲しくなるじゃないか」とケチをつけた。これに対して古賀は「私は、心を打ちこんで作曲したつもりですが、この詞にはこの曲しか作れません。気に入らなければ、他の人に頼んでください」と反論した。「そうだその意気」は、昭和16年5月に書き換えることなくそのまま発売された。
◆流行歌づくりの天才と、流行歌づくりの苦労人
古賀の最大の魅力である悲しく廃頽的なメロディーが、戦時歌謡には仇となったのである。日中戦争下では、昭和12年に古賀が作曲した「軍国の母」(歌・美ち奴)や「銃後の赤誠」(作詞・島田磬也、歌・奥田英子)のような、暗く廃頽的なメロディーの戦時歌謡が生まれた。だが、戦争が長期化して軍部が国民の戦意高揚を目的とした強く勇ましい楽曲を要求するようになると、作曲家はその要求に応えなければならなかった。
古賀は、日中戦争下においても、昭和15年に「春よいづこ」(作詞・西条八十、歌・藤山一郎、二葉あき子)、「蛇姫絵巻」(作詞・西条八十、歌・志村道夫、奥山彩子)、「新妻鏡」(作詞・佐藤惣之助、歌・霧島昇、二葉あき子)など、戦争とは無関係な映画主題歌などでヒットを飛ばしていた。
だが、翌16年12月にアジア・太平洋戦争に突入し、そうした作品が生み出しにくくなると、古賀の活躍の場は少なくなる。一方で古関は、数多くの戦時歌謡を作曲している。アジア・太平洋戦争は、流行歌づくりの天才と、流行歌づくりの苦労人との明暗を逆転させたのである。
刑部芳則