旅行ケースを下げながら露露に手を降る女性が彼女の姉であった。
「あの人が、お姉ですね。とても美しいので、胸がドギマギします」彼は率直な気持ちを吐露した。
「センセイ おねいさん 誘惑しないください」露露が意外なことを口走った。
<美しい人に惹かれる>
それは、彼の少年時代の記憶によるものだ。
「あんな、お母さんだったらいいな」
小学校1年生の初の授業参観に来た学友の母親を一目見た時の<憧れの思い>であった。
幼児から母から虐待を受けて彼は、母親を憎んでいたのだ。
「私の大切な人だから 誘惑しないでね」と彼が崇拝する女性経営者から釘を刺されたことがあった。
その人は彼女の秘書であり、後継者であったのだ。
露露の姉の名は、黄(コウ)若晴(ルォチン)だった。
若晴が「先生(シィェンシォン)、ロウロウがお世話になります」と挨拶するので、彼は日本語が通じるのだと安堵した。
モノレールの車内では、二人が中国で話すので内容は分からなかったが、彼女らの表情からは楽しい話題ではなかったようだ。
露露は北京の大学で学んだ後に、私費留学生の立場で来日していたのであるが、
一方、姉の若晴(ルォチン)は、国費留学生とし4年前に日本に留学していた。
児玉徹は、浜松駅で「さよなら」をするつもりでいた。
「センセイ、中野アパート来てください」と露露が誘うと姉のルォチンも「遠慮しないでください」と微笑む。
徹は心がドギマギしながら「荷物を持ちましょう」と告げてルォチンの旅行ケースを持つことにした。
露露は長いグレーのロングスカート姿でローヒールであるが、対照的にルォチンは赤のミニスカートで赤のハイヒールだった。
山手線の車内でも二人はしゃべり続けていた。
二人とも耳障りの良い甘美な声であったが、何故か深刻そうな内容のように想われたのだ。
「わたし、北京に帰ります。センセイ北京に電話ください」
「何時ですか?」
「お正月です。2月になってから」
「そうですか」何故か露露は再来日することがないように想われた。
中野区中央の露露が住むアパートへ行くのも<これが最後になるか>徹は駅からの道筋を感懐深く記憶に留めた。
露露は姉のルォチンと徹を部屋に残して買い物に出た。
「児玉さんのことは、ロウロウからの手紙で知りました。センセイが結婚していたので、とても残念がってました。一途な性格ですから。過去にロウロウは愛した人に裏切られたことがあり、自殺未遂してます。首に刃物の傷残ってます」美しいルォチンの眼が潤んだ。
露露の不幸な過去に、徹は黙ってうなずくことしかできなかった。
「ロウロウは、民主化の日本にとても憧れています。一途なことことが、とても心配です」ルォチンの大きな瞳は陰る。
この年に、懸念していた露露の消息が途絶えたのだ。
「センセイ 北京に電話ください」と言われたのに、徹は一度も電話をしなかった。
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1989年(昭和64年)1月7日昭和天皇が亡くなり昭和が終焉し、日本は社会全体自粛ムードのなかで、競馬、競輪などの中止された。
参考
日本の電化製品のものづくり技術や卓越した品質、日本社会の整然とした様子などが、訪日見聞のような形で新聞に紹介され、日本の科学研究開発、省エネやリサイクル、環境の保護などの情報も紹介された。
日本製家電は誇るべき高い知名度を持っており、その中の有名なブランドが松下、東芝、日立、ソニーなどである。
1980 年代、日本を中国の見本と捉えた「日本に学ぼう」というスローガンが広く宠伝
された。
特に、1985 年「阿信」おしんが放映され、日本戦後以来の奮闘精神が中国まで伝わり、一般人を感動させたと同時に、日本の良いイメージとしても伝わることとなった。
「燃えろ!アタック」、「薔薇海峡」、「北の国から」、「赤い」シリーズの「赤い運命」、「赤い絆」、「赤い死線」などが中国に輸入、放映された。
改革開放によって、人間の自立性、自由性が重視されるようになり、人間に思想的自由が与えられるようになると、一時的に文学ブーム、哲学ブームが起こった。
日本ドラマが多く受け入れられたのはちょうどその時代で、人間性を思耂するヒントを模索していた当時の中国人たちに支持され、中国に大きな反響をおこすこととなった。
『赤いシリーズ』は、TBSが大映テレビと共同で1974年から1980年にかけて製作・放送した作品群のシリーズ名。
山口百恵と宇津井健がシリーズの顔であり、最終作『赤い死線』は山口の芸能界引退作品となった。
ドラマが放映されて、人気が上がるとともに、ドラマの歌や俳優の服装もタレントと一
緒に流行るようになった。
当時、山口百惠の髪型は「日本髪型」として全国に広がり、新聞に山口百恵を報道する記事も取り上げられるようになった。
ドラマの楽曲も一緒に流行するようになった。
80 年代の私費留学生たちが日本において様々な助けを受けたことが中国国内に伝わる。
だが、中国において 1989 年に起こった天安門事件の後、政府は海外から流れ込むようになった「自由化思想」に警戒して、情報の統制に力を入れるようになり、それとともに、市場経済に向いていた改革のペースは緩められた。
「自由化思想」を抑制するために、一時期に増加したマスメデイアに対してさまざまな制限をかけはじめたことによって、政治宠伝用マスメデイアと市場向けのマスメデイアが分化し始めた。
政治宠伝用のマスメデイアは社会为義のイデオロギーに影響する可能性のある内容を選別し、理想とする方向へと世論を誘導しようとするもので、
場向けのマスメデイアは消費者の関心を集めることにより、経済的な利益を实現させることを目的としていた。
中国では、1980 年代改革開放から市場経済の導入が始まり、従来の計画経済システムが一変して、中国社会が大きな転換期を迎えることになった。
計画経済システムにおいては、一人一人が画一的な教育や就職の機会を得ていたが、市場経済システムが導入されると、個人が自分の希望通りに進路などを決めることができるようになり、国内移動や国際移動が頻発するようになった。
特に、私費留学は中国が市場経済システムを導入してから現れたものであり、私費留学の隆盛によって、留学仲介サービスが一般商品となって、私費留学生の留学紹介や渡航後の指導などを行うようになった。
留学仲介は市場経済システムの産物であるだけでなく、中国と外国を結びつける役目を担っている。
改革開放政策が進むにつれて、留学生の派遣数も増加し、また、1980 年代半ばごろから公的派遣から私費留学へ急激な転換が起こった。
公的派遣された留学生の滞在不帰が発生したことで、公的派遣が一時的に控えめになってきたことに対して、私費留学生の割合は年々増加し、1984 年には公的な派遣を超え、1980 年代末頃まで年々右肩上がりで増加し、現在留学生の全人数の 90%以上を占めようになった。
1980年代の中国で改革開放路線を推進する胡耀邦や趙紫陽らが改革派と称された。
六四天安門事件は、1989年6月4日に中華人民共和国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力行使する。