松下幸之助が、1979年(昭和54年)に設立した政治塾である。国会議員・地方首長・地方議員などの政治家を中心に、経営者・大学教員・マスコミ関係者など、各界に人材を輩出している。
概要
実業家として成功を収めたパナソニック創業者松下幸之助が、晩年に次代の国家指導者を育成するべく私費70億円を投じて神奈川県茅ヶ崎市に設立した公益財団法人である。
幕末に多くの指導者を輩出した私塾・松下村塾を連想させる名前であるが、松下幸之助に因んだもので松下村塾と関連性はない。
過去248人が学び、総理以下38人の国会議員を生んだ松下政経塾。錚々たる実績ではあるが、「今や堕落した」との指摘がある。作家の山藤章一郎氏がレポートする。
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――参議院議員・江口克彦氏は国会質問で、野田どじょう総理にきびしく迫った。
「松下幸之助さんの薫陶を忘れたか」「国より国民被災者より、党内融和を優先するとはなにごとだ」
松下幸之助の側近を23年間務め、〈政経塾〉で10期まで教えていた江口氏は、現総理・野田佳彦氏の面接官だった。
「私が合格させた頃や、塾生の時分は、野田くんも良かったですよ。907名の受験者から、厳選、厳選で残った23名ですから。この子は政治家になるだろうな、普通の政治家としてはやっていけるだろうなあと思いましたよ。
ところが幸之助さんがいなくなった途端、コロッと変わった。出世争いだけしか頭にない。出世に比例して松下イズムを忘れる反比例。大臣やりたい、総理になりたい。入塾の頃は棒だったけど、だんだんとヤワなビニール紐だ。ただし、面接で採ったのは私だ。私にも責任がある」
江口氏のいう松下イズムとは、〈いずれ日本はとんでもないことになる。いまから、次のみっつを用意しよう〉と生前の松下幸之助が考えた理念である。
ひとつ――国民自身が政治を良くしていく国民運動を興そう。
ふたつ――いまでいえばシンクタンク、政治研究所を設立しよう。
みっつ――政治家養成塾の開設。
江口氏の憤激は深い。
「ところがなんたることか、野田くんも前原くんも、日本と世界の繁栄・平和・幸福を実現するこの志、松下イズムなどどっかに忘れた。〈株式会社民主党〉という大企業に入って、志をポロポロ剥がし、いまじゃ取るに足りない政治家です。後に続く者も、学ぶよりブランド欲しさで入塾して、泉下の松下幸之助さんは泣いておられますよ。使命は終わった。もう、休塾、廃塾したらどうですか。
幸之助さんの理念をどう思うかと訊かれて『いやあ、私深く調べたことがないんだ』と、こういう卒塾生がたくさんおる。
松下政経塾というんだから、松下幸之助の思想を学ぶところでしょ。彼が亡くなって32年。堕落しました。みんなギラギラ、政治家になりたい一辺倒です」
※週刊ポスト2011年10月28日号
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松下政経塾という失敗
松下政経塾出身者の政治家は何で無能なんですか? 松下政経塾は、優れた大学院みたいなものだとは思います。
優秀な卒業生も無能な卒業生もいるのも解ります。
でも、今をときめく政治家の中で、松下政経塾出身者の占める割合以上に、その存在感が目立ちます。
しかも、従来の高位官僚出身者や世襲議員出身や地方議員叩き上げの議員と比べても、非常に無能に感じるのはなぜですか?
民主党だから?
たまたま本人の資質が低い?
松下政経塾の多くは新卒で入塾して、そのまま選挙に出て社会経験が少ないから?
ブランドだけで、教育の中身が薄い?
吉田松陰が開いた松下村塾はわずか7ヶ月間。この期間で松蔭は塾生に公に尽くす為のスイッチを入れた。
その塾生たちが明治維新の起爆剤となり、明治政府樹立、政権運営を成し遂げた。
松下政経塾出身者の政治家は何で無能なんですか? 松下政経塾は、優れた大学院みたいなものだとは思います。
優秀な卒業生も無能な卒業生もいるのも解ります。
昭和55年に松下幸之助が70億円もの私財を投じて作った松下政経塾だが、塾生たちが松下幸之助の「人間観」を理解したわけでも身に着けたわけでもないように見える。
松下幸之助をよく知る江口克彦が松下政経塾1期生の野田佳彦について「松下さんについて何も学んでいない」と語っていると書いている。
松下幸之助のこの政経塾に関する失敗の原因は幾つも考えられるが、第一は、松下幸之助の人間観はその人生経験から獲得したものであるということだ。
それを政経塾というところで人生経験の不足の、しかも食住付きで給料まで出るという環境の中で「言って聞かせ」ても身につくはずなどないのである。
「言って聞かせ、やって見せ、やらせてみて、褒めてやらねば人は育たじ」との山本五十六の言葉が本物だということだ。
野田佳彦だけではない、私はさして多くの人を知らないが横浜在住の時知った中田宏など、愚かというより“ワル”との印象を受けたし、仙台の秋葉賢也に至っては“未熟者”の印象を持っている。
およそ国会議員になどしてはならない連中に見えるのだ。
苦労人の人間観、政治家要件に対する考えなど、苦労知らずのものになど伝わるわけがないのである。そして政経塾に入りたいものにはそれを志向する理由があるのである。
私は政治屋業が目的のように思う。政治家に本当に必要なのは人生における苦労体験ではないだろうか。それのない現政権が、使えもしないアベノマスク2枚を配布し、回収しているのを見れば、苦労知らずがいかに国民レベルを理解していないかが分かろうというものだ。
松下幸之助は国と国民を思う政治家を養成したかったのかもしれないが、政経塾に寄ってきたものは「生計塾」と認識していたのではないか。そこに松下幸之助の能力的限界があったのだろう。
むしろ、苦労知らず、基礎知識も基礎学力もないものを政治家にしない方法に力を注ぐべきだったのではないか。竹中半兵衛も諸葛孔明も自ら売り込むような人間ではなかった。九拝してようやく得られるような人物こそ国家のリーダーとして必要なのではないか。生計―政経―成蹊…発音が似ているが…
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松下政経塾の功績
松下政経塾の功績として最初に挙げられるのは地盤 (支持勢力)・看板(知名度)・カバン(選挙資金)を持たない有為の若者に対して政治家への道を開いたことだろう。開塾した頃は政党による議員の公募制度はなく、公募制が始まるのは1992 年の日本新党によるそれを待たねばならない。この日本新党には山田宏氏や長浜博行氏はじめ政経塾卒塾生が十五名ほど参加しており、その公募制自体松下政経塾関係者の影響と言っても過言ではない。
また、若い政治家が増えたことも功績と言えよう。 現在、卒塾生286名のうち、国会議員は33人、県知事2人、市区町長11名、地方議会議員24名であるが、塾自体が設立42年であるため、皆現在67歳以下である。野田内閣では、組閣時に最高齢が野田 佳彦首相54歳、玄葉光一郎 外相47歳、松原仁国家公安委員長55歳が閣僚を務め、前原誠司、原口一博などの後継者とみられた人物もいた。
政経塾出身者が国政に大量当選したのは、彼らが細川護熙を首班とする日本新党として出馬した時が初めてとなる。この時には設立14年目にして計15人が国政に進出したが、日本新党として当選した議員や日本新党を支えたスタッフに政経塾出身者が多かったことから、いきなり政権与党に参画することになった。日本新党の躍進とその後を見れば、自民党を結党以来初めて野党に転落させた、すなわち55年体制を崩壊させたことも「功績」と捉える人もいよう。
政策面においては、小さな政府、構造改革、地方分権をはじめとする議論を展開、リードしてきた側面がある。但し、その実行度合いに関しては賛否あるだろう。
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新聞を読む会
2021年3月12日 10:21
罪過として挙げられることは、設立10数年にして日本新党から多数の国会議員を輩出するばかりか政権与党にまでなったため、塾運営が松下幸之助の思想を涵養し、国家百年の大計を持ち国家を指導していく人物を育成するという本来の目的から外れ、過度に選挙を意識するようになっていることである。
すなわち、政治家として何をやるかではなく、政治家になることが目的化してきているのである。選考において何らの権力をも持たず社会経験の少ない若者を選んでいるため、「しがらみがなく、斬新な発想と行動力がある」と評されることもあるが、いざ政界に進出すると根回しなどを行わないまま考えを実行しようとすることが目立つ。
その結果、政経塾出身者には「軽い」「利己的」「口先だけ」「責任をとらない」「目立ちたがり」などの負のイメージが付きまとうことになる。
また、政経塾が権力を持たない者が成り上がるための装置に過ぎなくなったことは、政経塾出身者の間の連繋の希薄さにもつながっている。
さいごに
以上、松下政経塾の経緯とその功罪を概観した。本来なら松下幸之助の新党構想や、55年体制を崩壊させた日本新党と政経塾出身者の関係およびそれが塾の運営に与えた影響についても論じる予定であったが、時間的制約により今回は省略させていただく。