創作 福子の愛と別離 14)

2024年07月29日 15時18分03秒 | 創作欄

晃は、教え子である野々村ゆかりに対して、改めて危ういものを感じることなる。

あくまでも、教師の立場を堅持する必要があると思ったのである。

そして、ゆかりを少しでも理解する必要があると思い、太宰の作品を読んでみた。

その一つが「女生徒」だった。

この作品は、太宰がある女子学生のファンから受け取った手紙と日記によるリライト作品である。

太宰もまた女生徒と同じように永遠の思春期の中に、親族(兄たち)の反発や世間への反発は、きわめて太宰にとっては少女の心情や感覚に近しいかったのではないかと思われた。

また、太宰は5回以上の自殺企図を繰り返し、最後には、1948年6月13日に愛人の山崎富栄とともに玉川上水に入水し、亡くなった。

だが、これは太宰のしたたかまでの計算に基づくものと指摘する文芸評論家や作家仲間が存在したことも否めないのである。

その根底には、裕福な家庭に育ったことと、肉親の愛情が欠如していたことや人との信頼関係の希薄さや反発、彼字自身の甘えの構造とともに、したたかまでの<計算づく>があったのだとも晃には、皮肉に思われた。

ちなみに、晃の大学院でのテーマは、「志賀直哉と白樺派」であった。

参考

志賀直哉や有島武郎、武者小路実篤といった文豪たちを中心.とする文学の潮流、「白樺派」。

その成り立ちや理念、そして「白樺派」に属する作家たちの代表的な作品。
そもそも「白樺派」という名前は、1910年に刊行された同人誌「白樺」に由来しています。

学習院中等科で親しかった武者小路実篤と志賀直哉が中心となり、有島武郎や里見弴とん、柳宗悦むねよしといった学習院出身者らを集めてスタートした「白樺」は、関東大震災の影響によって1923年に廃刊となるまで全160号が発刊されました。

現在では、この「白樺」で作品を発表していた作家や、「白樺」の理念や作風を共有していた作家たちを主に「白樺派」と呼んでいます。

「白樺」には大正デモクラシーの影響を受けた自由かつ個人主義的な空気があり、掲載される作品の多くもそのような空気を色濃く反映したものでした。

特に白樺派の中心人物であった武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎は、私有財産を否定し非暴力主義を貫いたロシアの小説家・トルストイの文学に傾倒し、その思想の影響を強く受けていました。

武者小路実篤自身が「白樺」に所属するメンバーを“食うに困らなかった”と形容したこともあるように、「白樺」に見られる自由主義・理想主義は時として“楽観的”、“社会意識の欠如”と受け取られることもありました。

「白樺」は学習院の中では“遊惰の徒”(仕事もせずにぶらぶらと遊んでいる人)が作った雑誌として禁書になるという憂き目にも遭ったものの、多くの偉大な文学者を排出したとともに、芸術雑誌としてロダンやセザンヌ、ゴッホといった画家を日本に広く紹介する役割も果たしたのです。

「白樺」は、太宰文学とは対局にあっただろうか?・・・

 

 

 

 


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