徳田 虎雄(、1938年2月17日 - )は、日本の医師、政治家。鹿児島県徳之島町名誉町民。鹿児島県天城町名誉町民。
医療法人徳洲会理事長、衆議院議員(4期)、沖縄開発政務次官、日本体操協会会長、自由連合代表、特定医療法人沖縄徳洲会理事長、社会医療法人木下会理事長、医療法人静仁会理事長、埼玉医療生活協同組合理事長、札幌医療生活協同組合理事長、公益財団法人徳洲会国際奨学財団理事長などを歴任した。
日本で最大規模の病院・医療事業グループを築くとともに、衆議院議員として政治にも関わった。2002年頃に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し政界から引退したが、その後も病床から徳洲会に指示を出し続けた。
衆議院議員
徳州会の全国展開を進める一方で医療制度の改革には政治改革が必要との認識に至り政治家を志す。
1983年(昭和58年)と1986年(昭和61年)の衆議院総選挙に鹿児島県奄美群島選挙区から立候補し、保岡興治の前に落選。
このときの選挙戦は選挙違反による逮捕者が続出するなど島を二分する激しい対決となり、「保徳戦争」と呼ばれた。
1990年(平成2年)の衆議院総選挙に無所属で初当選し自由連合を結成するが、この時点での自由連合は保守系無所属議員の寄り集まりであった。
1993年(平成5年)の衆議院総選挙では、選挙直前自民党に入党し、再選。しかし、日本医師会の意向でわずか3日で追放された。
その後、1994年(平成6年)に自由連合を政党化し、代表として活躍。村山改造内閣では与党入りして沖縄開発政務次官を務めた。1996年(平成8年)の衆議院総選挙で落選したが、2000年(平成12年)の衆議院総選挙で復活を果たし、2003年(平成15年)の衆議院総選挙でも再選された。
そのほか、日本体操協会会長、アジア体操連盟会長も歴任している。
病気療養
2002年(平成14年)4月1日、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の発病に気付いた。
2004年(平成16年)2月ごろから病状が悪化し、そのため国会に出席できず、療養していた。
しかし、この時点では病名は公にしなかった。2005年(平成17年)8月8日の衆議院解散をうけ、体調回復が十分でないとして政界を引退すると発表した。
後継として2005年(平成17年)9月11日の衆議院総選挙に次男の徳田毅が立候補、当選。
自由連合代表に就任した。その選挙の折、虎雄と交流のある川井宏之の元を訪れ相談したとされている。
しかし毅は2006年(平成18年)11月2日に自民党入りを表明。虎雄の現役当時とは違い、自民党入党への抵抗も薄れていたと見られる。自由連合の去就は再び虎雄の手に委ねられることとなった。だが、毅は11月29日、自民党への「入党願」を出した後で、「地方議員はいるので、自由連合を今後どうするかは父の判断だ。しかし、参院選に候補者を立てるのは難しいのではないか」と記者に語った。
同日、虎雄は日本ALS協会設立20周年記念式典に一患者として出席し、闘病中であることを初めて公にした。
協会から登壇を促されたが、人工呼吸器装着のため話すことができず、用意した文章を代読して貰った[9]。そのメッセージにおいて徳田は「これからが人生の勝負です」と語り、日本国内及び世界中に病院を設立する計画を明らかにした。
普天間基地移設問題に絡み、有力な移設先候補である徳之島に多大な影響力を持っている徳田に対し、2010年(平成22年)4月28日に内閣総理大臣鳩山由紀夫が面会。毅の立会う中、協力を要請したが徳田は拒否した。同年夏、自由連合は解散届を総務大臣に提出して正式に解散した。
2012年(平成24年)現在、2010年に新築された神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院最上階15階にある、電子錠付の富士山を望む特別室で治療を受けながら、文字盤を使ったコミュニケーションにより徳洲会を経営し最高決定権を掌握していた。2011年の青木理とのインタビューでは「私はいつ死ぬか分からない状態です」と語る一方、今後の徳洲会については「あと5年は私が体制を作る必要がある」と運営への執念を見せた。
2012年(平成24年)10月下旬、徳之島町から名誉町民を授与される。伊仙町政施行50周年記念式典に出席するため、9年ぶりに故郷である徳之島に帰郷した。
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徳田氏がALSで引退し二男が地盤を継ぐころには、職員たちは「何で選挙運動をしなきゃいけないのか」と強く思ったでしょう。そして公職選挙法違反など一連の徳洲会事件が発火する。
ALSを患ってから一族の介入が始まる
──当初は公私のけじめを説いていたのに、組織巨大化の過程で集金装置としての関連会社を次々作り、要職に親族をすえる。一方で彼に尽くした右腕たちを切っていった。
自ら招聘したナンバー2の医師に対し、いつか自分に取って代わり、俺は徳洲会から完全に切り離されるんじゃないかという猜疑心の塊になる。ALSを患ってからは一族の介入が始まり、その絡みで事務方の最側近も追放する。多くの人から聞きました、徳田氏が病気になって徳洲会は変貌してしまったと。ある人が「ALSは非常につらい病気だけれど、ここらでもう一度医療に立ち返れ、という神様のおぼしめしだったのかもしれません」と言っていました。